こんにちは【ともす想いたくす灯火】プロジェクトの鹿嶋静です阪神淡路大震災から26年が経ちました。辛い想いをされている方々に少しでも和らぐ時間が訪れますように願っています。・・・・・当時、私は中学生。今でも覚えてます。正直なことを言えば、とても遠い場所でのできごとでした。テレビから流れる映像も、知らない場所。・・・・・私は高校卒業後、大阪芸術大学に入学しました。その時、知り合った友人達に阪神淡路大震災の話を聞いたことがあります。それはとても胸が痛む話でした。しかし正直、私はその話に対してなんて答えたか覚えていません。・・・・・大阪芸大に入学してから、満月の夕という、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット SOUL FLOWER UNION の曲に出会いました。私が知り合った関西出身の方々は、その曲は傷ついた心を包み、共に復興に向かう前向きな歌だと教えてくれました。関西の催し物の様々な場所で、その歌に会い、私は何度も何度も演奏しました。その後、私はSOUL FLOWER UNIONにも出会い、人生で初めて、プロのレコーディングに参加することになります。・・・それから16年後に東日本大震災がおこりました。私はその数ヶ月後、阪神淡路大震災のことを聞いた友人たちの話を思い出しました。私に被災の話をしてくれた友達へ、私はどんな言葉でどう返事をして会話をしたか覚えていません。もしかしたら、ものすごく傷つけている。その時に初めて、阪神淡路大震災は本当に人ごとじゃなかったし、私はなんて大変なことをしてしまったんだろうと思いました。それが、二つ前に書いた活動報告の、「大丈夫?って聞かれることの葛藤」で触れた【そのあとの自分にも返ってくること】でした。・・・経験しないと分からないことはたくさんあります。でも、だからといって、無知ゆえにたくさん人を傷つけていいわけではない。私はその後、傾聴や話の受け入れ方を学ぶようになりました。鹿嶋静
こんにちは【ともす想いたくす灯火】プロジェクトの鹿嶋静です私が小さい頃に通っていた保育園が被災して、最初は近所の建物で仮で保育して後に仮設での保育になった頃、演奏をしに何度か訪れました。園長先生や保育士さんと話してると震災による子ども達の影響はとても大きいと感じました。1日じゅう不安で保育士さんにしがみついて離れない子、お母さんが亡くなってしまってお迎えの時間になると泣いてしまう子、余震がくると思い出して泣いてしまう子、それでも避難はしなきゃいけなくて泣く子を外に連れて避難所へ行くつらさ園長先生は「大丈夫だよってしか言えない。」とおっしゃってました。そして、その子ども達をケアしている保育士さんも被災していること。辛くてやめてしまう方もいる。・・・私と母は会社をやっていますが、会社は宮城にあります。母も従業員さんも、被災者です。震災で会社がなくなった方、親御さんが亡くなった方、お子さんが亡くなった方、冬が近づくと思い出したりして辛くなる方も。それぞれに様々な背景があり、母はその方達の話も聞きます。母も従業員さんも心は疲れていきます。・・・私は、被災者が被災者をケアしている現状がこのままではみんな心が回復しにくいんじゃないかと思いました。少しでも、心を軽くしたい少しでも、辛いことがその人を責める時間を減らしたいそう思うようになりました。全員にはできないけど、身近な人から、1人ずつ少しでも少しでも、そんな思いで、保育園にも通い、演奏したり、地元のお祭りで演奏したり東京の友達や大阪芸術大学時代の友人たちと保育園のイベント制作したりしてきました。・・・本当は今回もリアルライブをやりたかったです。でも、新型コロナウィルスの影響を考えると、オンラインでやらざるを得ないと思いました。鹿嶋静
こんにちは【ともす想いたくす灯火】プロジェクトの鹿嶋静です被災地の範囲ってどこからどこなんだろうと思います。地震があったのは東北だけじゃないし、津波もそう。放射能のこともそうです。それでも津波が来たところや原発の近くにいなくてもそこに家族がいたり、友達がいたり、親戚がいたり、旅行で訪れたことがあったり、仕事で行ったことがあったり、好きな物語の舞台になったとか、それぞれ、様々な思い入れがある人もたくさんいると思います。そして、そこにいないからこそ声があげずらかったり。まだ母とも連絡が取れていなくて、テレビで気仙沼の様子を見ていた深夜。なかなか東松島の情報が出てこなくて、寝ずにネットの情報を検索していました。すると関西や九州の友達からたくさんのメールがありました。実家、大丈夫?って。その時、正直、普段連絡取らない人には苛立ってしまったんですよね。大丈夫だと思うのか?って。でもその時はそうは返しませんでした。・・・その年の五月に、大学時代の同期の結婚式が関西でありました。彼らも様々に悩んで、私の気持ちを確かめてくれていました。私は行くことにしました。その時も、仲の良い人にこっそり実家のことを聞かれるのは大丈夫だったんですがそんな仲良くない、久しぶりに会った人に大勢の前で「実家、大丈夫なんですか?」って聞かれたんですよね。その時に、私は溢れてしまったんです。「大丈夫だと思うの?大丈夫じゃなかったらどうすんの?そうやって質問して、大丈夫じゃなかったら、私の話、聞いてくれんの?友達や親戚や近所の人が亡くなって、今もまだ元に戻れてない地元の景色とか、遺体安置所の話とか全部聞く覚悟があるの?」本音でした。でも後から思えば、まあ、その人は悪くないし友達にも「聞かれてきついだろうけど、その人に静の状況や心情は分からないよ」と言われて、そうだよな、と思いました。私を通して、その場所に思い入れもある人もいるんだなって思いました。友達の実家っていうのも思い入れのひとつ。被災地にはいないけど被災地に思い入れがある人々はたくさんいる。これは今回の私の心の中でのテーマでもあります。そしてこれは、そのあとの自分にも返ってくることでした。鹿嶋静
こんにちは【ともす想いたくす灯火】プロジェクトの鹿嶋静です震災後は毎月一回、東松島市に1週間ほど滞在し家の手伝いをしたりしていました。地元の友達ともしょっちゅう会いました。みんな、それぞれに当日にあったことを話してくれます。友達も、その親御さんも、ご近所さんも。会えば、その時どうしていたか、どんな状況だったか、しばらくどこにいて、それから、、、と話が尽きませんでした。途中で私は思いました。私は、東京から行ってるから、みんな話しやすいのかも、私自身、ゆっくり相手の話が聞くことができるのも、地元に住んでないからかもしれない。離れているからこそできることってあるのかもしれない、と感じました。そんな中で、友達が言いました。「被災があったところの人をね、勝手にいい人みたいにしないで、本当にあったことをしらせて伝えて広げてほしい」私はハッとしました。変な言い方かもしれないけど、被災しても日常はあって恋愛もするし、犯罪も起きるし、喧嘩もするし、面白い話もするし、親父ギャグも下ネタも言う人間模様は変わらずにあるんだよなと。ある幼馴染の家は、津波が来て残ったのは水着だけで爆笑したりとか近所のおばあさんが津波で亡くなって霊柩車がなくて普通の車に乗せてみんな沿道で手を合わせてたけど、その頃ガソリンが足りなくてガス欠になっていつまでも車が去らないから、みんなどうしていいか分からない感じになって笑っちゃったとか、物資が少なくて、でも亡くなった方は多いから、お香典の代わりに今喜ばれるのは缶ジュースだ、いやレトルトだ、いやインスタントコーヒーだ、いやタバコだ、と揉めたりしたこととか、友達の親御さんが癌で亡くなってお線香あげに行った帰り道、津波で街灯がなくて、真っっっっっっ暗な外に、星がめちゃくちゃ綺麗だったこととか。他にもたくさんありました。なるべく毎月帰って、ちゃんと肌で感じようと思いました。一年半くらい、毎月帰りました。鹿嶋
こんにちは【ともす想いたくす灯火】プロジェクトの鹿嶋静です震災の時私は都内に住んでいました震災後、1週間、宮城県東松島市にいる母とは連絡がとれませんでした連絡がとれた時、母のところにはあまり情報が入っていませんでしたそして、私が手伝いに行くよというと母はこう言いました「いま静がきてもできることはない。まずは自分の家族を守って。」私は車の免許がありません。なのでいま東松島に行っても、水も運べないと言われました。シドニーに住む兄が急遽、帰国して、実家の手伝いをしました。私は一ヶ月後の4月に行きましたが、その時もまだ水道は通ってなくて歩いて水を汲みに行きました。でも、何度も何度もはできなかったです。母は、震災後、しばらくすると「今は静に来て欲しい」と言いました役割があって、手伝える時期がくるまでは何もできないけど待つことも、大事な役割だと知りました。鹿嶋