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一冊の本が世界を変革することがある。小さな出版革命はやがて大地に広がっていく。

「誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる」この小さな革命を生起させんとする「草の葉ライブラリー」が放つ第三弾。時代に沈みかけた下町をよみがえらせた山崎範子の「谷根千ワンダーランド」と高尾五郎「クリスマスの贈り物」の登場。

現在の支援総額

140,800

140%

目標金額は100,000円

支援者数

61

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/06/13に募集を開始し、 61人の支援により 140,800円の資金を集め、 2021/07/15に募集を終了しました

一冊の本が世界を変革することがある。小さな出版革命はやがて大地に広がっていく。

現在の支援総額

140,800

140%達成

終了

目標金額100,000

支援者数61

このプロジェクトは、2021/06/13に募集を開始し、 61人の支援により 140,800円の資金を集め、 2021/07/15に募集を終了しました

「誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる」この小さな革命を生起させんとする「草の葉ライブラリー」が放つ第三弾。時代に沈みかけた下町をよみがえらせた山崎範子の「谷根千ワンダーランド」と高尾五郎「クリスマスの贈り物」の登場。

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ゲルニカの旗 1      高尾五郎 1 私はまた時計をみた。パリ行のエール・フランスに搭乗するまであと一時間あまりある。読むのでもなく、ただ開いているだけの文庫本を、膝の上に置いて、広いロビーを行き来する人の波を見回した。秀雄はやっぱりこないだろう。しかしやってくるかもしれない。北アルプスで、あわや遭難寸前の私を救い出しにきたときのように、彼はこの人の渦のなかからその姿を見せるはずなのだと、私はなおもすがるような思いでそう思った。  この旅はもともと秀雄とともに旅立つためのものだったのだ。長い裁判が終わった。なんと十二年にもおよぶ裁判が。それは私の解放の日だった。私は文字通り自らを解放するために、マドリードの芸術センターにあるゲルニカの絵の前に立ち、過去のしがらみをすべて脱ぎ捨てて、秀雄とともに新しくなるための旅になるはずだった。しかし一転して、この旅はその彼との別離の旅になるのかもしれなかった。彼は私がはじめて愛した人だった。私の心と体のなかに最初にはいってきた人なのだ。その彼をいま私は失おうとしている。私のなかに苦しくせつなく彼の姿が浮かび、彼が私の手に残していった、彼の書き込みが一杯にある、ヘンリー・D・ソローの「森の生活」に目を落した。 唐突にという言葉があるけど、まさに秀雄は唐突に私のなかに侵入してきた。その日、坂本教授のゼミを終え、研究室のある建物から外にでて、緑あふれる構内を並んで歩いていたその男が、いきなり私に告白したのだ。「倉田佐織という人に会いたかったんだ。一瞬にして恋に落ちたんだからな。そういう恋ってあると思わないか」 そのときの私もなんだかすごく変だった。大学の構内を抜け出し、町に出ると、裏通りをどんどん歩いていく。その彼のあとについていったのだ。 そのゼミがはじまる前に、坂本教授はもちろんその闖入者を私たちに紹介した。岡田秀雄君は四年生だが、卒論を書くために聴講したいというので特別に許可したと。講義は教授をぐるりと取り囲んで、さかんな討議のなかで行われるが、対面にすわったこの闖入者は、なにか燃えるような視線を私に向けているのだ。私はなんだかその時間は、くらくらとしていたという伏線があったのだが。「君に会いたくて潜り込んだけど、大学院の授業って、意外と幼椎なんだな」 その喫茶店は、松本城の一角からのびている裏通りに立っていた。テーブルが三つしかない小さな店だったが、コーヒーが松本一旨いと秀雄はいった。そのコーヒーがやってくると、彼はそれを一口すすり、自己紹介でもするように自分のことを話した。 彼の実家は会津の山奥で旅館を営んでいて、一家の期待は秀雄にその家業を継いでもらうことだった。しかし彼はそんな小さな世界に閉じ込められるのはたまらないと、高校を卒業するとアメリカに渡った。半年かけてアメリカ大陸を横断すると、目的地のニューヨークに住み着き、そこでほぼ三年、道を切り開こうと苦闘したが、世界の首都で自己を確立していくのは容易なことではなかった。そのとき彼のなかに現れてきたのは、あんなに嫌っていた山また山に囲まれた郷里だった。彼にとって新世界とはむしろあの山のなかにあるのではないのか。これからの時代の最先端の仕事は、あの鬱蒼と木立が繁る山のなかで生まれるのではないのか。「ニューヨークで、いやというほど自分に力がないということを知った。世界を切り開くための根本の力がね。それでこの大学に入った。ずいぶん遅れた大学生だけど、しかし学問するということの素晴らしさがよくわかったよ。もし人並みに大学生になっていたら、こんなに一生懸命勉強しなかっただろうな」 それから彼はザックから「信大論集」の最新号を取り出すと、私の小論が載っているぺージを開いた。「君のレイチェル・カーソン論にとても感心したんだ。文章が美しい。それに内容が実にシャープだ。ぼくはこの文章にたちまち惚れこんだってわけだよ。文章に恋したってわけかな。そういうことってあるもんだね」 一年に四号発行されるその学術誌の最後のページが、大学院の学生たちにあけられていた。そのページに私の四十枚ほどの小さな論が載ったのだ。それは新たに取り組んだ作品ではなく、大学時代に書いた卒論を下敷きにしたものだった。だから私の歴史を知っている人には、たぶんその小論は私の停滞と後退と、そして大学院での私の生活の敗北を告げる作品だとたちまち見破ったことだろう。とすると彼は、私の蹉跌の文章に恋をしたということになる。「大学の先生たちの書いた本って、よくわかんないんだよな。何度読んでもさっぱりわからない。読めば読むほどわからなくなっていく。おれってよっぽど頭が悪いんだなって思っていたけど、信大に入って彼らの本が理解できない理由がわかったよ」「どんな理由?」「大学の先生って、はるか高みにあって、彼らの書く文章は絶対的なものだと思っていたわけだよ。とろが実際は、彼らは正しい日本語を書ける人種ではなかったんだな。彼らの書く日本語そのものに欠陥があった。だから何度読んでもわからないのは当然なんだ」「ああ、それは言えてるわ」「そんななか、君の文章は本当に自分の言葉だけで書かれている。しっかりと描く対象がわかっている。それに文献からの引用がない。教授たちの文章っていつでも引用だ。アメリカやヨーロッパの学者たちの論文の。彼らの知的創造がこんがらがってくると、すぐに引用してくる。彼らの知的冒険が行き詰ると、また引用だ。要するに彼らは独創的な論文を書けない人種だったんだよ」「それは本当に正しい意見だと思う」 実に正確に、教授たちの論文の正体を見抜いているなと思った。私は大学院生だったが、なんだか彼の方が二年も三年も先輩のようにみえた。「おれの卒論、そんな論文にしたくないよな。引用に次ぐ引用、引用をたくみに繋ぎあわせたクソみたいな論文なんてさ」「何を卒論にとりあげたの?」「ヘンリー・ディビット・ソローとレイチェル・カーソン」「ああ、それでカーソンに興味があったわけね」「二人の戦いはよく似ている。ソローは文明のなかに紛れ込んだ現代人に、自然に帰れと叫んだのであり、カーソンは沈黙の春と戦った人だ。二人の生きた航跡は似ている。おれはそういう二人の戦いをクロスさせながら、文明と自然というテーマの論文に取り組んでいる」「とても雄大なテーマね」「そうなんだ。ものすごく大きなテーマだ。しかし山は高いほどいい。高い山ほど人間を強く大きくしていく。おれが登るべき北アルプスなんだな」「うん、それこそ信大魂だわ」「君の論文を読んだとき、倉田佐織という人に会いたいと思ったわけだよ。なんかさ、おれの書くべき言葉が、そこに書かれているわけだよ。おれが書かなければならない言葉が、もうそこに書かれているわけだよ。こいつ、おれの前を走っているな、こいつの顔をみたいってね」「実際に会ってみたら、がっかりしたというか、なあんだって思ったんじゃない」「教室に入ってさ、すぐに君が倉田佐織だってわかったよ。なんかさ、そのときこれって運命的な出会いじゃないのかって思ったんだよ。君とおれは運命の赤い糸でつながっているんじゃないかってさ」 それが秀雄と私の最初の出会いだった。私の書いた小さなカーソン論が私たちを引き合わせたということだった。私の書く言葉にそんな力があるなんて驚きだった。しかし私には、もともと文章を書くことに、ちょっとした自信があったのだ。言葉を紡ぎだし、その言葉に磨きをかけて、上質のタピストリのように仕上げていくことに。それはある体験があるからだった。


決闘  高尾五郎
2021/06/19 21:55
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決闘  1     高尾五郎   その日の朝、教室に入ると、コンタがこれが黙ってられるかといわんばかりに、「昨日さ、南小のやつらが城南公園で遊んでやがったからさ、やつらにけりいれてやったんだ」 ぼくは「うそ、けりかよ、まじに」と応じたのは、今野太一のその話を百パーセント信じられないからだった。だからすかさず訊いてみた。「コンタが、ひとりでやったわけ」「野口っぺと、サテツとでさ」 それならば百パーセント信じられる。野口佑太も佐藤哲也も相手が弱ければ図にのってそれぐらいのことはやりかねない。「南小は何人いたわけ?」「やっぱ三人だけど、おれたちのことガンづけやがってよ。むかつく野郎たちでさ。ここは、南小の遊び場じゃないんだぞって言ったんだ。そうしたらやつらは、じゃあ、ここは西小の遊びかよと言ったからさ。そうだぜ、ここはてめらがくるところじゃあねえんだぞって言ってさ」「それで、けりをいれたわけか」「おれなんか、どばどばけりいれてよ。そうしたら、そいつどばっとひっくりかえりやがってさ」「ほんとうかよ」「野口っぺも、サテツもけりこんでさ、野口っぺなんて、顔をばしばしびんたしてよ、そしたらそいつ、わあわあガキみてえに泣きやがってさ。おれたちはそいつらに言ったんだ。ここは南小のくるところじゃねえからな、二度とここで遊ぶなよって言ったからさ、もう南小のやつらはあの公園にはこないぜ。あそこはさ、もともとおれたちのシマなんだからさ。ぜったいに南小はいれないでおこうぜ」 とコンタは小鼻をふくらませて意気揚々と話した。 そんな話があってから、しばらくたってからだった。その日、その公園の前を通ると、コンタと野口っぺとサテツが遊んでいるのだ。ちょっとぐらい塾に遅れてもいいやと思い、ぼくもその仲間に入った。ちょうど四人になったから、ジャングルジムサッカーをはじめた。二組にわかれてジャングルジムにボールをけりこむという遊びだった。ぼくとサテツは快調に点をたたきこんで、七対二という圧倒的なスコアーにしたが、そこからコンタたちの追い込みがはげしく、ばたばた点をいれられてたちまち七対六と迫られた。塾にいかなければと思い、またババアがうるさくわめきたてると思ったが、緊迫したそのゲームから一人抜けだすわけにはいかなかった。 そのときだった。公園のコーナーにケヤキの大木がどんとそびえ立っていたが、その太い幹の両側から、まるで黒い風がさあっと吹き込んできたかのように、十二、三台の自転車がどどどどっとまわりこんで侵入してきたのだ。その黒い軍団はあっという間にぼくたちを取り囲んだ。 ぼくは一瞬なにが起こったのかわからなかった。しかしコンタはあっと声をあげて逃げ出そうとしたが、黒い軍団は猫一匹さえ逃がさないぞとばかりに、有刺鉄線のような恐怖の輪を縮めてくるのだ。野口っぺやサテツの顔もひきつり、コンタなどはもう真っ青だった。その子供たちは同じ小学生なのだろうが、レスラーみたいなでぶちんや、ひょろりと背の高い子がいたりして、なんだか中学生のように思えるほどだった。ぼくたちは恐怖で棒立ちになっていた。 黒い軍団のボスらしき子が、ぼくらに火のような視線を放ったまま、「お前をなぐったやつはこいつらだな」 とかたわらに立っている四年生ぐらいの子に訊いた。「うん」 と、その子はコンタたちをぐいとにらみつけて、うなづいた。「どいつだ?」「こいつと、こいつと、こいつ」 とその子は三人を次々に指さす。三人の顔はさらに恐怖で青ざめ、教室で南小のやつらにけりこんだと意気揚々としゃべっていたその姿は今はなく、あわれなばかりにおびえていた。 しかしそういうぼくだって恐怖で顔がひきつっているのだ。そしてこれはやばいことになった、やっぱりちゃんと塾にいけばよかったと思い、これからリンチというものがはじまる、いつもはババアと呼んでいるくせに、このときばかりはお母さんとなり、お母さん、助けて、なんて甘ったれたことをつぶやこうとしているのだ。「てめえらが、こいつにけりをいれたんだなあ!」「いああああの」 とコンタはギロチン寸前の猫のような意味のわからない声をあげた。「そうだろう。けりをいれただろう!」 とそのやられた四年生が叫んだ。「やっちまえ! やられただけ、けりをいれてやれ!」 とボスのような男の子が言うと、その子はコンタにけりをいれた。しかしその子は四年生ぐらいだから、まるで力がないのだ。そこでそのボスは、レスラーのようなでぶちんを指名した。そのでぶちんがどっとけりこむと、コンタはあおむけにひっくりかえって、なんだか蛙がお腹をみせてばたばたするようにもがいた。一番悲惨だったのは野口だった。ばしりばしりと顔面をなぐられ、それでもゆるさないとばかりにあちこちにけりをいれたりしている。木村などはもうなぐられる前から、はんべそをかいて頭をかかえてうずくまってしまった。「こいつは、どうなんだ」 とボスが言った。そのときぼくはあわてて手をひらひらと振って、「ぼ、ぼ、ぼくはしてないよ」 とちょっとどもりながら言った。「そうなのか?」 とボスは四年生に問うと、その子はうなずいてくれた。ぼくは助かったと思ったが、そのボスは、まだぼくを許したわけじゃないとでも言うように、「てめえの名前は、なんて言うんだ」「戸田です。戸田一郎です」 とぼくはふるえる声でこたえた。「おれは笹岡だ、てめえに言っておくけど、この公園は南小のシマだからな、これからは西小には使わさない。いいな、そう言っておけよ、西小の全員に。ここで遊んでいたらぶっとばすって、ちゃんと言っておけよ。これはお前の役だからな、ぜったいに守れよ」 その日、ぼくの心はつぶれるばかりだった。生れてはじめてリンチというものを目の当りにしたショックということもあったが、それ以上に心がずきずきと痛んだのは、ぼく一人だけがなぐられなかったということだった。ぼく一人が助かってしまった。ぼくは助かりたいために、ひらひらと手を振って、ヘらへらとお愛想笑いをして、ぼくはしてませんなどと言った。そんな屈辱的な態度をとった自分にすごく腹がたち、ぼくはこんな卑怯な人間だったのかという思いでいっぱいだった。こんな深い心の傷を受けるなら、いっそあのときなぐられればよかったと思った。 そんな痛みを抱いているのに、さらにぼくには重い役が課せられた。ぼくは本質的にまじめ人間だったから、笹岡の言ったことをどのように果たすべきなのかをしきりに考えるのだ。朝の集いのときとか、校内放送とかを使えば、たちまち全校に伝わる。しかしそういう手を使えるわけがなかった。先生にその話を伝える以外にないのかなとちらりと思う。先生ならすべてうまく解決してくれるかもしれない。 しかしその手もまた使えるわけがない。そんなことをちらりとも考えてはいけないことだった。しかしどうすればいいのだ。いったいどんな方法があるというのだ。そのことがぼくの頭を占領していて、その日は食事ものどに通らないほどだった。


日本の川下り
2021/06/15 14:30
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日本の川下り  高尾五郎 その川下りが父と母の離婚ツーリングだなんて、そのときは知るよしもなかった。私の一家はちょっとかわっていた。というのもときどき学校を休んで一家そろって川下りにでかけるのだ。ゴールデンウィークとか夏休みとかは問題がないのだが、川は呼んでいるとか、六月の川は素敵だとか、秋の紅葉は素晴らしいとか言って、長いときには一週間も学校を休んで川下りをするのだった。 そんなとき母は、いったいどんな手を使って学校を休ませるかというと、鹿児島にいるおばさんが危篤だとか、花巻にいる父の弟が重体だとか、旭川にいるいとこが交通事故にあって生死をさまよっているとか。もういったい何人の親戚の人を危篤におとしいれたかしれやしない。 でも母の名誉のためにちょっと説明しておくと、母も最初からそんな嘘をついたわけではないのだ。最初のうちは、先生たちにきちんとありのままを説明したらしい。一週間学校を休んでカヌーで川を下ることが、どんなに私と翔太に必要かを。多少勉強がおくれても、そんなものはすぐに取り戻せると思うし、それよりも四季おりおりに姿をかえていく自然のなかに連れ出すことが、どんなに大切かを。ところが学校の先生たちは、こういう理由をがんとして受けつけないのだ。そこで母といつも議論になって、お互い不愉快になってしまう。そういうことが何度か重なったものだから、そんなに面倒くさいことなら、一層のこと、だれかを危篤にしてしまったほうがずうっといいということになったのだ。 もう一つ、母のために弁護すると、その危篤におちいった親戚の人は、私たち一家あげてのお見舞でぐんぐんと元気になったという筋書きを書いているのだ。だから私も翔太もとてもいいことをしたという気分になって、胸をはって学校にもどってくるのだった。 どうしてこんなにまでして私たち一家がカヌーに熱中するようになったかというと、なんといってもその一番の原因は父にあった。大学時代カヌークラブに入っていた父の青春はカヌー一色だったらしい。おれの人生のなかで、あんなにきらきらと光っていた時代はなかった、あれはおれの祝祭日だったと父はよく言っていた。 母を口説いたのもやっぱりカヌーだった。ひそかにあこがれていた母を、川下りに連れだしてカヌーにのせ、母が沈するとすかさず救いだすというたくらみが見事にあたって、プロポーズに成功したらしいのだ。そんな父の影響で母もまたみるみるうちにカヌーの魅力にとりつかれて、父と母のデイトはいつもカヌーでのツーリングだった。結婚して私と翔太が生れると二人の川下りも遠のいたけど、私が幼稚園に入ったときからまるでそのときを待っていたかのように、父は私と翔太を川に連れだしたのだ。 そんなわけで私の一家は日本のあちこちの川にでかけた。日本一の清流といわれる四万十川とか、紀伊半島を流れる吉野川とか、とうとうと流れる釧路川にも遠征したことがある。そんななかで私たちがずうっといきたいと思っていたのが北アルプスから流れくだってくる高瀬川だった。高瀬川は犀川へと名をかえ、さらに信濃川へと流れ込んでいく日本最長の川の源流だった。 その川を下ることになったのが、私が六年生のときのことだった。ちょうど夏休みのときだったので、まただれか親戚の人を危篤にさせて、それを救いにいくという筋書きを書かなくてもよかった。 そのツーリングは久しぶりだった。あんなにしょっちゅう私たちをカヌーにひきずりだしたのに、だんだん父も会社人間になっていたし、母も友達とつくった小さな会社が成功して、朝から夜までばたばたといそがしそうにかけずりまわっていた。だから私と翔太が川下りにいこうと誘っても、「ああ、いこう。こんな生活はすりきれてしまうからな」と父は言い、「そうね、命の洗濯にいかなければね」 と母もこたえるのだが、いざそのときになるとつぶれてしまうのだった。 そのツーリングが近づいてくると、私も翔太も眠れないぐらいわくわくしてきた。ようやく翔太も私もカヌーの面白さがわかりかけていたのだ。それは私たちだけでなく、母もどこかうきうきしているみたいだったし、父も会社から早く帰ってきていろいろとその支度をするのだった。久しぶりの遠征でみんなが燃えてきて、それまではなればなれだった一家が、また団結するようになったことをそのときとても強く感じるのだった。 買物は私と翔太の役目だった。アスパラガスやシーチキンの缶詰、マヨネーズ、マスタード、ジャム、ビスケット、フランスパン、缶ジュース、缶ビール、インスタントラーメン等の食糧。それに秋葉原のスポーツ店にいって新しいパドル、ライフジャケット、ランタンの芯、ガスのポンベを買った。四WDのルーフに二台のカヤックをのせ、荷室にはファルトボートやテントや食糧や着替えを山ほど積み込んで松本に出発したのは昼下がりだった。 最初は父の運転だった。高速道路にのった車は、心地よい響きをたてて突っ走る。高井戸を抜けると車の数もへって、道路も広々としているからなのか、父はさかんに眠い眠いともらす。そこで八王子のインターチェンジで運転は母にかわった。父の運転は慎重でとてもスマートだ。それに反して母は大胆というか乱暴というか、ガクンと止まって私たちをつんのめさせたり、ガッとスピードをあげてのけぞらせたり。運転するときにその人の隠れた性格があらわれてくるというけど、ほんとうの父と母の姿はそんなものかなと思ってしまうのだった。 松本についたのは五時頃だった。長野県の最大の都市というけど、町のたたずまいはこじんまりとしていて、商店街のなかにあるそのスポーツ店は、よくこれで経営していけるなと思うほど小さくてきたない店だった。その店の前に四WDを止めると、私たちの到着をずっと待っていたのか、顔じゅう髭だらけの人がいっぱいの笑顔をつくってとびだしてきた。その人が大岡さんだった。 その夜は、松本のホテルにとまった。夕食のとき大岡さんもやってきて、広い地図を何枚も畳の上にひろげて、自分の庭のように知っている高瀬川のことを説明するのだった。 ここの瀬は七十センチ級の波が立っているとか、ここでテントを張るといいとか、このあたりの川の流れ複雑だとか、ここのテトラポットに引っかかるとちょっとやばいとか。そしてときどき変なジョークをいれて、一人でカカカカカと笑うのだった。そのジョークはだれにも受けない下手なジョークだったが、私は大岡さんのその笑い方が面白くてハハハハハと笑ってしまうのだった。 大岡さんは父の後輩だった。大岡さんもまた学生時代は明けても暮れてもカヌーだったらしいが、父とちがっているのは大学を卒業してからも、ずっとその生活をひきずっていることだった。いまでも小さなスポーツ店を経営するかたわら、日本はおろか世界各地の川に挑戦している。「大陸のばかでかい川は、眠くて、眠くて、ほんとうに眠くなるんだよ。眠りこんで、どぼんとひっくりかえって、危うくピラニアの餌になりかけたりしたがね。おおざっぱなんだな、万事が。その点、日本の川は繊細だ。女の肌のように、やわらかくて、すべすべしていて、きめこまやかで。わかるかな、翔太君、わからんだろうな」 とエッチなことを言って一人でカカカカと笑うのだった。そんな大岡さんも父や母にむかって何度もこう言った。「うらやましいな。一家で川下りなんて。こんな女性なら嫁さんにしてもいいと思うよ。こういう家庭をつくることが、おれの理想でもあるな。うん」


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二十年前に去っていった須賀敦子が投じた宿題だった あるとき、須賀敦子さんと対話しているときに、この「谷根千」の活動が話題になった。須賀さんと森まゆみさんとは深い交流があるらしく、森さんが新刊を出すたびにその本が送られてくる、彼女の本がもう山となって積み上げられていると、須賀さんはなにやら揶揄するように皮肉の笑みをつくって言った。そのとき私は、森さんの本の山で須賀邸の床が抜けるんじゃないんですかと悪意のジョークを放つと須賀さんは大きく笑った。そしてそのジョークになぜ悪意を含ませているかを須賀さんに話したのだ。「谷根千」にはもう一人、山崎範子という素晴らしい書き手がいる。ところが彼女の本は一冊も現れてこない。なんだか「谷根千」活動のうまみというか漁夫の利をすべて森さんがせしめているようで、一冊ぐらいは山崎範子に譲ったらどうなんですかねと。すると須賀さんは辛辣な言葉を放った。「友情にあふれていても、女の戦いはすさまじいものよ、絶対に譲れないものがあるんじゃないの、女の本質ってあんがい意地悪いものよ」そしてそのあと私たちは、何十冊、何百冊もの本を送り出しているベストセラー作家たちを猛烈に攻撃していったのだ。須賀さんはそのとき「クレシエ──cliehē」という言葉を使った。きまりきった陳腐なる表現という意味である。「日本語はもうクレシエだらけになっていく。いつも同じ言葉、いつも同じ言い回し、いつも同じ腐ったような比喩、日本語はおそろしいばかりにクレシエだらけになっていく。そして陳腐なるストーリー。そこに使い古された、踏み荒らされた、なんの想像力もない言葉で組みたてられていく。あるベストセラー作家は七十冊の本を書いたという、さらに上をいくベストセラー作家は百二十冊の本を出したと豪語する。だけど日本の大半のベストセラー作家たちの作品は、彼らがお亡くなりになると、その一か月後にはゴミとなって捨てられていくのよ。彼らは大量のゴミを吐き散らして去っていった人種ということになるのよね」 そして須賀さんはこう言ったのだ。「私の本もまたゴミみたいなものね」 須賀さんが「ミラノ霧の風景」という極上の本を投じて読書社会に登場したのは、六十歳になったときだった。それから須賀さんが六十九歳で没するまでに刊行された本はわずか五冊にすぎなかった。それらの本をゴミみたいなものよと須賀さんは言ったのだ。 アン・リンドバーグを描いたエッセイ「葦の中からの声」と、このサンテグジュペリを描いたエッセイ「星と地球のあいだ」を読んだ私は、須賀敦子に挑戦の矢の矢を放つのだ。「アン・リンドバーグが書かれ、サンテックス(サンテグジュペリ)が書かれた。するともう一章、須賀さんは、書かねばなりませんね。これは絶対に書くべきですよ」 それが挑戦の矢とも思えなかったのか、須賀さんは怪訝な顔をむけ、「どういうこと、もう一章って」「アンとサンテックスは熱烈なる恋に落ちたんです。そのことを書かなければ、この二つのエッセイは画竜点睛を欠くというか、なにやら二人の魂の核心といったものが書かれていないということになるんじゃないですかね。二人の背後に戦争という巨大な影が迫っていて、それぞれ苦境に立たされていた。二人が恋に落ちたその年に、ドイツはポーランドに侵攻し、フランスとイギリスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発する。そして四年後に、サンテックスの操縦する飛行機はドイツ軍の戦闘機に撃墜され、海の底に沈んでいったわけですからね」 私の放った矢はあきらかに須賀さんの内部に突き刺さったのだ。須賀さんの温顔がきりりととんがり挑むような厳しい視線を向けた。それは私にではなく、アンとサンテックスが熱烈なる恋に落ちたという事実に。須賀さんはそのことを知らなかったのだ。 それはアン・リンドバーグが「聴いて、風よ」という本を出版した。その本をフランスで発行する出版社が、その本を推挙する一ページほどの序文をしたためてくれないだろうかと、だめでもともとサンテックスに依頼するのだ。するとサンテックスは、一ページどころか九ページにわたる序文を書いてきた。彼はそのときアン・リンドバーグという女性飛行家に恋に落ちたのだ。 そしてその年に、サンテックスはアメリカの出版社から本を書くことに依頼されてニューヨークに滞在する。それを知ったアンは、勇気を奮って彼に電話を入れ自宅に招待するのだ。サンテックスはニューヨークから電車に乗って、デトロイト郊外に立つリンドバーク邸にやってくる。アンは完全に舞い上がってしまった。アンはサンテックスと出会ったそのときの心のどよめきを何ページにもわたって日記に記している。《‥‥‥私の思考は活性化された。それに、私の知覚、私の感情も。一週間近くのあいだ、世界は私にとって、ほとんど支えきれないような美しさをしめした。どちらを向いても、世界のざわめきが、聞こえる。ねじれた一本の枝が私の心を引き裂き、乾いた葡萄の蔓が悲壮な趣をみせる。夕立の狂おしいばかりの白さがわたしに翼を与え、夕暮れのまどろみのなかに孤立する樹木は、根を張り、空をめざして、神々のように立っている》(山崎庸一郎訳『戦争か平和か』みすず書房) そんなことを話し、その世紀の恋愛を、須賀さんは書くべきだと迫っているとき、私は余計なことを言ってしまった。この二人のことを三本の戯曲で描こうと思っているんですよ、と。すると須賀さんは、「わあ、それはすごい、その三部作はいつ完成するんですか」「才能が乏しいですからね、まあ、十年計画です」「いいわよ、十年なんて、あっという間よ。完成したら、真っ先に私に読まして下さいね」 須賀さんが雑誌に連載していたそのエッセイは、「遠い朝の本たち」というタイトルで刊行された。しかしそれは須賀さんが生命の鼓動をとじた二か月後だった。彼女はその本を手にしていない。その本のなかにアン・リンドバーグを描いた「芦の中の声」と、サンテックスを描いた「星と地球のあいだに」が編まれている。しかし私が須賀さんに挑戦したアンとサンテックスの世紀の恋愛のことは書かれていなかった。 なぜ須賀さんは書かなかったのだろうか。あのときたしかに須賀さんの内部にも火がともって、その恋愛の細部を知ろうと熱く問いかけてきたのだ。そのとき須賀さんは、その世紀の恋愛を書くに違いないと思ったものだ。しかしその本には載っていなかった。私はいま思うのだが、それは須賀さんが私に投じた宿題だったのかもしれないと。その世紀の恋はあなたが書くべきであって、その三部作が完成したら、真っ先に私に読ませてちょうだいと。須賀さんが去ってからもう二十年の月日がたってしまった。私の三部作はいまだ完成していない。その宿題を果たしていないわれとわが身のふがいなさを呪うばかりだ。 日本のベストセラー作家たちを猛烈に攻撃していたときに、須賀さんは、「私の本もゴミみたいなものね」といった。須賀さんの本を手にした者ならば、誰もが悲鳴を上げるようにその言葉を否定するだろう。しかし私はそのとき肯定し、賛同した。というのは、私はちょうどその頃、『理論社』を興し、二千冊近い本を刊行してきた小宮山量平さんに、やはり同じような挑戦の矢を放っていたのだ。小宮山さんは自著を何冊も刊行している。しかし私には小宮山量平という大きな魂を表現するのは、それらの短文、雑文といった小さな文章で編まれた本ではなく、この地上にそびえたつ大木を打ち立てるべきだと挑戦していたのだ。そのとき小宮山さんは八十歳を間近にしていたが、私の放つ挑戦の矢にその何倍もの矢を打ち返してくる。そんな戦いのなかから「千曲川」四部作という大伽藍が誕生していったのだ。 小宮山さんに挑んだことと同じことを須賀さんに挑んだのだった。須賀敦子の本質はいまだ半分もこの地上にあらわれていない。あなたの全存在をこの地上に打ち立てるときがきたのではないのですか。しかし、そんなことを私に指摘されるまでのことはなく、すでに須賀さんはそのことに立ち向かっていたのだ。生前に投じた最後の本が「ユルスナールの靴」であるが、この本はフランスの作家、マルグリッド・ユルスナールという作家を追いかけていったエッセイだが、須賀さんはこのユルスナールに出会って、打ちのめされるばかりの衝撃をうけるのだ。そしてこのユルスナールに対峙するような本を書かねばならぬと、彼女の全生命をかけて立ち向かっていたのだ。そんな大作に立ち向かっていたから、それまで投じたエッセイ集をゴミのようなものだといったのだ。それは彼女の決意の言葉だった。やがてユルスナールが投じた「ハドリアヌス帝の回想」や「黒の過程」に比肩するような大作をこの地上に打ち立ててみせると。 須賀さん没後、須賀敦子ブームが静かに沸き起こっていった。そして未発表の作品を編集した本が何冊も投じられ、やがて七巻にも及ぶ須賀敦子全集まで刊行された。しかし須賀さんがなした仕事はそれだけではなかった。彼女が膨大なエネルギーと時間を費やしたのは、日本の文学を上質のイタリア語に翻訳してイタリアの読書社会に投じ、逆にイタリアの文学を上質の日本語に翻訳して日本の読書社会に投じている。それらの仕事を加えると、須賀敦子全集は二倍にも三倍にもなるだろう。須賀さんはゴミの山を築いて去っていったのではなかった。


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大雪の日のゼームス坂   高尾五郎 R・シュトラウスに「四つの最後の歌」という作品がある。オーケストラをしたがえて、この歌を歌うのは、ソプラノ歌手にとってかぎりない憧れだった。しかしこの曲は、どんなに力量があっても若くては歌えない。二十代はむろん三十代にはいっても、この曲のもっている香りや艶はでないだろう。だからといって、年齢を重ねれば、歌えるといったものでもむろんない。私は何度か名高きソプラノ歌手たちが歌う「四つの最後の歌」を聴きにコンサートホールにでかけたが、なかなかこれといった歌に出会ったことはなかった。そんななかであざやかに印象に残っているのは、上海が生んだソプラノ歌手張暁霞のライブだった。若い人々にはいまや張暁霞というソプラノ歌手がいたことさえも知らないだろうが、その当時は彼女が登場するオペラは、そのチケットが発売されると同時に売り切れたという大変なスターだったのだ。それはニューヨークでも、パリでも、ベルリンでも、東京でもそうだった。彼女は世界の歌姫だった。 あれはたしか、日本の大動乱があってから二年後のことだから、もう三十五年も前のことになるのだろうか。私は三番目の長編小説を書きすすめるために、上海に二年ほど逗留したのだが、そのときかのクーゼンスキーが手兵のベルリン・フイルをひきいて上海にやってきた。そして上海芸術院ホールで、張暁霞がこのベルリン・フイルをバックにして、この「四つの最後の歌」を歌ったのだが、そのときの感動は実に異様なものだった。あれをまさしく魂がゆさぶられる感動というのだろうか。それはなにもかも後で知るのだが、彼女はそのとき癌におかされ、わが身の死期を知っていたのだ。歌姫として生を得た以上、最後の歌を歌わねばならなかった。彼女はその最後の歌に文字通りこの「四つの最後の歌」を選んだのだった。彼女の病状はだいぶ進行していた。しかし襲いかかった病魔をおしきり、死力をふりしぼって白鳥の歌を歌い上げたのである。彼女はその公演があった半年後に四十五歳の生命を閉じた。 要するにこの曲を歌いこなせるようになるには、さまざまな人生の苦節を知らねばならぬということなのだ。人生はけっして平坦な道ばかりではない。いくつもの障害がたちふさがり、いくつもの苦難を乗り切っていかなければならない。いわばそうした人生の宿題をこなした人間だけが、この歌を歌いきることができるのだ。それはシュトラウスが、八十四歳にして放ったシュトラウス自身の白鳥の歌でもあったのだ。 人は年とともに衰えていく。その人の仕事もまた年とともに衰えていく。それは芸術の世界でもそうであって、老人の画いた傑作などというものはほとんどない。先般百七歳で物故した日本画家にしても、百七歳まで描きつづけた旺盛な創作力をさかんにマスコミはほめたたえたが、しかし彼がうみだした真の傑作というものは七十歳あたりまでの作品であって、後の作品はただだらだらと描き続けた駄作といったもので、そんな作品をもありがたがるのは、ひとえに彼の名声がなすものであった。七十歳以降の作品はあらゆる意味で滅んでいるのだ。しかしこのシュトラウスの作品をみるとき、私は人間というものは八十四になっても、なお成熟できるのだという強い励ましを受けるのだ。この曲はまったくたるみというものがない。四つの歌の一曲一曲が絢爛たる色彩を放ち、引き締まっていて、シュトラウス芸術の精華をおもわせるばかりの傑作なのだ。 いま冬の重いコートを脱いで、ひかりあふれる季節がやってきた。その「春」をオーケストラが官能的なばかりの歌を奏でる。アカシアの枝から葉がひとひらまたひとひらと金色のしずくとなって散っていく「九月」。ものみな生命が沈みこんでいく憂愁のなかに響きわたるホルンはしみいるばかりだ。さらさらと心の綾を織り成すような「眠りにつこうとして」のヴァイオリンのソロ。この旋律の美しさはたとえようがない。そして最後の曲「夕映えの中で」二羽のひばりがつかず離れず飛んでいる。闇はこくこくと世界をつつんでいくなかを、二羽のひばりのさえずりもまた小さく小さく消えていくのだ。 この稿を起こすにあたって、私は久しぶりにこの曲を聞いたが、涙がはらはらと落ちて仕方がなかった。私はもちろんドイツ語はわからない。しかしそこでなにが歌われているか諳んじている。ヘルマン・へッセの詩をテキストにしていたシュトラウスは、この最後の曲にアイヒェンドルフの詩を使うのだ。 苦しいときも、うれしいときも 私たちは手に手をとりあって歩いてきた、 さすらいの足を止めて、いま私たちは のどかな田園がひろがる丘の上でやすらう 私たちの前に、谷々がおちこみ 空はしだいに暮れかかっている 二羽のひばりが、夕もやのなかを    高く、高く、飛翔していく こっちへおいで、さえずるひばりたちよ まもなく眠りの時間がやってくる こんなにさびしい景色のなかで、 私たちははぐれないようにしよう おお、このひろびろした静かな平和夕映えが深々と世界を染めていく 歩いてきた旅の疲労が、私たちに重くのしかかる もしかしたら、これが死なのだろうか     私の妻は意識が混濁したなかで、しきりに右手で何かを訴えるようにしていた。私はその手の動きがわからなかった。意味のわからぬままその手を握ると、彼女は深い安息につつまれるようにして逝ったのだ。あの謎はこういうことだったのだろうか。はぐれないように私の手を求めていたのだろうか。彼女がはぐれるのではない。彼女はいまわのきわのなかにありながら、なお私を案じていたのだ。彼女はまさしく私の分身のような存在であった。彼女に出会っていなければ、おそらく私は私とならなかっただろう。それと同じように、私は彼女にとってよい夫であったのだろうか。 ヘッセの詩にも生の輝きに織り成すように、落ち葉に、夕闇に、夏の終りに、夜に、眠りに死の影が濃厚に宿っている。その生と死のおののきを音楽がいっそう深く染め上げていく。シュトラウスは言葉と音楽を魔術的色彩のなかで融合させたのだ。「英雄の生涯」や「ツアラストラはかく語りき」などの交響詩、「薔薇の騎士」や「サロメ」などのオペラ群を創造してきたこの作曲家の創造力が最後に到達した、まるで沈みいく太陽が西の空をこの世のものとは思えないばかりの荘厳さで染めていく夕映えの揮きといった、まことに見事としか言い様がない作品なのだ。 私はこの曲に出会ってから長いこと心にひめていたことがあった。シュトラウスにならうわけではないが、私もまた八十という年を迎えたとき、最後の四つの小説というものを手がけてみようと思っていたのだ。作家たちはある年齢に達すると自分の人生といったものがひどく気になるのか、しきりに自伝めいたものを書きはじめていく。しかし私はそのことをきっぱりと拒んできた。作家の人生などというものは、実にとるにたらないつまらないものなのだ。日常の大半を机にむかってワープロを叩き込んでいるだけの人生だった。そんな人間の自伝が面白いわけがない。事実作家の自伝といったもので、これはと思ったものはほんの数えるほどしかない。作家にはもっと書かねばならないことがあるのだ。その思いはいまでも変わらないのだが、しかしこのシュトラウスの曲をおりにふれて聴くたびに、わが人生を主題にした最後の四つの小説というものを手がけたいという誘惑は、私のなかでずうっとくすぶっていたのだ。 八十年という人生を振り返ってみるとき、たしかに人には節目といったものが存在する。竹のようにくっきりとした輪郭というものがあるわけではないが、ある一つの出来事、ある一つの出会い、ある一つの体験がなるほど人生のなかに、あるときは奔流のように襲い、またあるときは微妙な波をつくりながら流れ込み、その人の一生を決定していく。そんな節目にも似た出来事のなかから、私は四つの主題を選び出してみるのだ。すなわち私の少年時代のこと、放浪を続けていた青年時代のこと、かろうじて私というものを打ち立てることができた四十代のこと、そしてふたたび闇のなかをさ迷っていた五十代での出来事を。そしてシュトラウスがなしたように短い物語のなかに私の最後の歌を託してみるのだ。 さて、その最初の歌である。それは私の小学六年生のときの話であるから、月日を限りなく引き戻さなければならない。二千三十年、二千二十年、二千十年……とプレイバックさせ、二十一世紀というラインをわずかに飛び越して、時は二十世がまさに終わらんとする一九九五年のことである。その頃、私の一家はゼームス坂近くに立つマンションにあり、その地域にある品川小学校に通っていたが、その時代の話なのだ。