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一冊の本が世界を変革することがある。小さな出版革命はやがて大地に広がっていく。

「誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる」この小さな革命を生起させんとする「草の葉ライブラリー」が放つ第三弾。時代に沈みかけた下町をよみがえらせた山崎範子の「谷根千ワンダーランド」と高尾五郎「クリスマスの贈り物」の登場。

現在の支援総額

140,800

140%

目標金額は100,000円

支援者数

61

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/06/13に募集を開始し、 61人の支援により 140,800円の資金を集め、 2021/07/15に募集を終了しました

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現在の支援総額

140,800

140%達成

終了

目標金額100,000

支援者数61

このプロジェクトは、2021/06/13に募集を開始し、 61人の支援により 140,800円の資金を集め、 2021/07/15に募集を終了しました

「誰でも本が作れる、誰でも本が発行できる、誰でも出版社が作れる」この小さな革命を生起させんとする「草の葉ライブラリー」が放つ第三弾。時代に沈みかけた下町をよみがえらせた山崎範子の「谷根千ワンダーランド」と高尾五郎「クリスマスの贈り物」の登場。

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言葉の誠実さに涙が止まらない  須藤朱美 村上春樹やよしもとばななの小説を漫画のようだと評する人がいます。パラパラとめくるだけでざっと読め、それでいて切なさや皮肉があり洒落ています。モチーフの捉え方が現代的で若者の心をつかむ文章。一瞬で映像が、風景が、表情が喚起される文体。だから午後のお茶の時間に合う、寝る前のベッ ドが似合う、電車の中でも、たいくつな授業中の内職にも、時と場所を選ばず読者を物語の世界へ引き込む圧倒的な力があります。これがエンターテイメントだといわんばかりのマスな力があります。それと対極にあるのが吉田健一訳『海からの贈物』です。どういった観点で対極にあるかというと、読者を選ぶ文章という点です。 スノッブな人間でなくてはわからない、文学的素養がない人間には読めないという意味ではありません。また、駄文を重ねた翻訳書のように文章として成り立っていないために、翻訳物を読みなれた読者にしか解読できないという意味でもありません。読者の置かれている状況を選ぶ文章という意味です。『海からの贈物』は島で過ごした2週間の思索を書き綴ったエッセイです。原著は極めて平易で、英語らしい英語で書かれています。難解な文構造は用いられず、論旨は簡潔できわめて論理的です。ところがこういった英語らしい英語ほど翻訳者泣かせの素材はありません。並程度の力量しかない翻訳者が訳すと、一字一句忠実な訳語を当てはめただけの稚拙な和文になるか、あるいはそれを恐れて日本語に引き寄せて訳しすぎたがために意識がコマ切れになったり、最悪は論旨が破綻していたりする擬似創作文になります。前者は意味が通らないし、後者は読み手をイライラさせます。易しい英文は論理性という持ち味が前面に押し出されているがゆえ情緒的な日本語に馴染みにくく、翻訳した場合、美文のまま論旨を保つことが困難なのです。 吉田健一訳『海からの贈物』の文体における最大の特徴は丁寧に読むことはできても、飛ばし読みができないという点です。意識の流れを遮断されないため論理的な文章であっても味わいながら読めるのですが、その論理性の精度が現時点で日本語の持つ包括力を凌駕しているため、ペラペラと読み飛ばすような読書には適していないのです。なので読者は自然と落ち着いた姿勢で本に向かうようになります。周りがうるさくて集中できないとか、今すぐやらなくてはいけないことがあって焦っているとか、そういったなんらかの事情で平静な心持ちになれない場合には、文字を追うことさえ苦痛になります。この点において吉田健一訳『海からの贈物』の読者は『TUGUMI』や『ノルウェイの森』とはちがった本の読み方を強いられます。作家の力量によって創りあげられた空飛ぶ絨毯に乗って物語の世界に連れて行かれるのではなく、読者自身の歩み寄りによってリンドバーグ夫人の心理状態に近づいていかなくてはなりません。この過程こそが『海からの贈物』を読む醍醐味です。そしてその効果を生み出しているのが吉田健一の文体に他ならないのです。 レビューや批評に目を通していて、吉田訳が直訳的で読みにくいという少数意見に遭遇しました。何をもって良しとするかは人それぞれ千差万別なので、そこに意見するつもりはないのですが、読みやすさイコール文章の巧さだと考える向きはいささか読書体力の欠如とも感じられます。たとえば自力で歩いて登らなければ見ることのできない景色があるように、一言一言かみしめるように読んでいかなければ到達できないメッセージというものも存在すると思うのです。疲れきっ た体と心を癒そうと、海からのメッセージを書き留めたリンドバーグ夫人の作品には、むしろそうした地に足のついた文章が似合います。ジェットコースターのような文章では読者に考える余地を与えません。文字を追いながら自分の生き方を見つめ直すことを提案する本が、ジェットコースターのような文体を採用するのは間違いだし、自己啓発なるものは本来読みやすくあろうはずがないのです。 吉田訳は日本語が消化しきれていない高度な論理性ゆえに読者の読む速度を遅らせます。そして上品で丁寧な文体が読者に考える余地を残して、ものを考えながら読むことを促します。そうやって書かれている内容を理解する心境に達して、リンドバーグ夫人の伝えようとした『海からの贈物』というメッセージを受け取ることができるのです。抜粋すると効果が薄れてしまうので、すこし不本意なのですがあまりに誠実な文章なので、ぜひここでいくつかご紹介したいと思います。 上に挙げた二つの例に込められたメッセージは決して元気いっぱいのときに理解しようと思う類のものではありません。悩むところがあったり、生き方を振り返りたい気分だったり、気持が引き潮のときでなければ痛切に感じることのできない文章です。原文だと意味が理解できるのですらすらと読んでいけるのですが、不思議なことに吉田健一訳の方がそう簡単に先を急がせてはくれません。心の中が陽気すぎたり、殺伐としていたりすると文章が頭の中でうまくイメージ化されず、ただ文字を追うばかりになります。かといって文章が悪いのかといえば、やはり先ほど検討したように決してそういうことではないようなのです。まず不用意に勢いづいた気分をいったん静めなくてはなりません。謙虚さを忘れたままではメッセージを受け取れない力が働いています。その代わり、この文章を読む状況に心がはまったとき、静かな波が押し寄せるかのように『海からの贈物』は大きなメッセージをはらんで読者を包み込んでくれます。 様々な価値観に素手で触れては辻褄を合わせようと躍起になることがあります。落ち込んだり、背伸びをしたり、卑屈になったりしているうちに自分は何がしたかったのか、どうありたかったのかがわからなくなる毎日です。実を言うとわたしにとってこの本は何度か挑戦していながら、その度に挫折していた難攻不落の1冊でした。原文は読むことができても、どうしても吉田健一の訳文には足元をすくわれるような、とうせんぼされるような気がしていました。今回、年の終わりに駄目元で手にして、初めて最後のページを開くのを許されるという体験がありました。そうしたら言葉の誠実さに涙が止まらなくなりました。


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夏目漱石は日本語と英語を格闘させて彼の文学を創造していった しかし一歩外に出ると、ロンドン子たちの話す英語がまったくわからない。イギリス人はジョークが好きである。彼らの会話は必ずジョークにむかって突き進んでいく。そしてパンチライン、そのジョークの落ちが放たれると誰もがどっと笑う。しかし漱石にはそのジョークについていけない、パンチラインがまったくわからない。会話の輪がどっと笑うとき、漱石もまたその場にあわせて仕方なく笑う。彼はそんな自分を嫌悪したはずだ。おれの英語は、世間話の低俗なオヤジギャグ程度のジョークもわからないのか、おれの英語とは所詮御殿場の兎程度のものだったのか、と。 彼もまた今日の語学留学生たちのように、二年も留学すればそこそこの英会話ができるようになるだろうといった思いで英国に渡ったのかもしれない。イギリス人たちの会話の中に入って彼らの放つジョークをともに笑い、自分もまた諧謔あふれたパンチラインの二つや三つぐらい放つことができるようになるだろうと。しかし事態はそんな生易しいものではなかった。二年どころか三年四年、いや十年その地に踏みとどまっても御殿場の兎はどこまでいっても御殿場の兎なのだ。御殿場の兎は御殿場の兎に徹する以外にないと悟ったからこそ、漱石はさっさと引きこもってしまった。 こうしてみてくると、漱石はイギリス留学中に、いくつかの日本人最初の元祖的行動を引き起こした人物ということになる。引きこもりの元祖であり、語学留学挫折の元祖であり、日本人の英語とは御殿場の兎程度のものだということを悟った元祖だったという具合に。なにやら悪魔の書は、英語と格闘した明治の人間たちの戦いの表裏──成功と挫折、勝利と敗北を描くためにこの章の最後に漱石を登場させたかのようだ。 引きこもって格闘していた文学論にも挫折して、なにもかも不本意なみじめな英国留学であったが、日本に戻ってくると破格な地位を与えられる。第一高等学校の教授に栄転したばかりか、かの小泉八雲の後任として東京帝国大学講師の椅子を与えられるのである。さすがにその椅子を提示されたとき漱石は驚きあわてて、自分にはとうてい小泉先生のあとをついで講義する力量はないと辞退するものの聞き入れられず、こんなことならもっと英国でまじめに勉強してくればよかったと鏡子に漏らしている。鏡子はその頃の漱石のことをこう語っている。「さて四月の新学期から学校に出ましたが、大学が六時間、一校が二十時間、講義のノオトを作ったりして、ずいぶん勉強していたようです。けれども学校は、ねっから面白くないらしく、自分では外国で計画していた著述でもしたい様子でしたが、これまでの行きがかりもあり、ほかに生活費を得る道もないので、目をつぶって学校に出ていたようです。しかしいやだいやだと口ではいっても、根が義務観念の強い人ですから、滅多に休んだり遅刻したりするようなことはありませんでした。かてて加えて外国から持ってきたあたまの病気が少しもなおらないので、なおすべてのことが面白くない様子でした」 その頃から漱石は、自分の内部に横たわる油田を掘りはじめていたのである。そのとき漱石自身も気づいていなかったが、それは驚くべき大油田だった。いやでいやでしかたがない教授生活の合間にこつこつと掘り続けていると、ついに大油田を掘り当てたのか、そこから猛烈なる勢いで言葉が噴き上げてくるのだ。「吾輩は猫である」の誕生である。「猫」が引き金となって爆発的といっていいばかりに新生の日本語が、新生の文体が、新生の小説が誕生していく。漱石が「猫」を世に出したのは明治三十八年、三十九歳のときであった。そして明治の終末期を走るように駆け抜けて大正五年、五十歳のとき没している。わずか十年という月日で、あれだけの膨大な作品を生み出したのは、なにかそれまで彼の内部で蓄積されていた言葉のマグマが一挙に吹き上げてきたといった有様だった。 それは日本語の爆発だった。しかしそれは同時に彼が蓄えてきた英語の爆発でもあった。まるで英文を翻訳したかのような文体で書かれたような初期の作品だけでなく、朝日新聞の嘱託となってその紙上に次々に放った小説の森、「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「こころ」「道草」そして最後の大作「明暗」にいたるまで、彼の文体の背後に英語がある。彼は小説の書き方をあの「高慢と偏見」の作家ジェイン・オースティンに学んだのである。平凡な人々、平凡な人生、平凡な日常の会話のなかにこそ人生の深い真実があることを。小説だけではない。彼が書いたすべての日本語の背後に英語の骨格が、英語のリズムが、英語の触覚が、英語の空気が流れているのだ。 それはどういうことかというと、英語は漱石の言葉の地層のなかに濃厚に流れ込み染み込んでいたのである。その英語が彼の言葉の地層のなかで熟成され、発酵していった。爆発的に吹き上げていった彼の作品の文体は、濃厚に英語がブレンドされた日本語だったのである。だからこそそれまでの日本の文学の歴史にまったくなかった、かくも瑞々しい、かくも新生の息吹をたたえた新しい文学の森を誕生させることができたのだ。 漱石の英語はイギリスでは御殿場の兎であった。イギリス人の放つパンチラインがまったく理解できないどころか、彼らの会話の中にさえ入ることのできない英語であった。しかし英語は漱石の言葉の地層のなかに流れ込み、漱石の文体をつくりだしたもう一つの母国語だったのである。あるいはこうともいえる。すなわち、漱石は彼の言葉の地層で、日本語と英語を自由に交流させ格闘させ溶け合わせていくことのできた精神のバイリンガルだったと。


ゲルニカの旗  4
2021/06/22 17:32
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ゲルニカの旗   4         高尾五郎 私がざっくりとカッターで切り取られた教科書をもって、宮田先生の前に立ったのは、宮田先生の苦しみといったものが、私の胸に共鳴するからだった。私の苦しみと、宮田先生の苦しみは通じ合うのだ。だから荒廃を深めていくクラスを、一緒に立て直したいというメッセージをこめていたのだ。しかし私の報告をうけた宮田先生がとった行動は最悪だった。 先生はその教科書をもって教室に戻ると、「これを見ろ。倉田の教科書がざっくりと切り取られている。だれなんだ、こんなことをやったのは。カッターナイフを持ちこんだやつがやったんだ。そうに決まってる。いまから持ち物検査をする。机の上に持ち物を全部のせろ。いまから一人一人調べていくからな」 その検査で一時間がつぶれた。しかしカッターナイフなどどこからもでてこなかった。その日の授業が終わったとき、直美が私を呼びにきた。「ちょっと、体育館にこいって」「だれがこいって言うわけ」「いいから、こいよ。うちら、あんたに話しがあるんだから」 私はくるものがきたと思った。宮田先生のあのやり方は、当然こういう結末になると思った。このクラスには悪童六人組と名のる男子のグループが生まれていた。それに対抗するかのように、女子にも花の六人組というグループがつくられていたが、直美はそのグループの一人だった。私は彼女たちと戦おうと思った。彼女たちとここで決着をつけようと思った。 直美は私を体育館のうらに連れていった。そこに花の六人組が私を待っていた。そのグループの中心にいる真理が私に言った。「あんたの顔をみると、うちら、むかつくんだよ。いまでもクラス委員づらしてよ。宮田なんかにチクりやがって。宮田にチクれば犯人がわかると思ってたのかよ」 と真理は目を剥いて、ぞっとするような声で言った。クラスでみせたことのない顔と声だった。小学校五年生でも人を恐喝させる顔がつくれるのかと思った。きっと彼女たちもこの対決に必死だったと思う。私はクラスに立っているもう一つの柱だった。決して彼女たちに屈伏しない柱だった。だからすごく私の存在が邪魔だったのだ。その邪魔なものを倒すときがきたのだ。私は負けるものかと真理をにらみかえした。「宮田なんかにチクんねえで、うちらのところにきたら、ちゃんと教えてやったのによ。あんた、だれがやったか知りてえんだろう」「もうそれはいいよ。私にはわかってんだから」「なにがわかってんだよ。てめえ、本当にわかってんのかよ」「いいよ。あんたなんかに教えてもらいたくないから」「教えてやるって言ってるんだろうが。だれがやったか知りてえんだろう。洋子、教えてやんなよ」 洋子もその仲間だった。洋子は五年生になるとぐんぐんと変わり、すぐにめそめそと泣き出す子供ではなくなっていた。花の六人組のメンバーになったからだろうか。彼女もまた真理のように目にすごみをきかせ、ぞっとするような声で、「あたしがやったんだよ。わかるかよ。あたしがやったの」 それは思いもよらぬ言葉だった。洋子が私を抹殺しようとするいじめのネットワークに加わっているのは、花の六人組の一員になっているからだと思っていた。仲間はずれにされたくないから仕方なくそのネットワークに加わっているのだと。「あんたってさ、あたしをいつもかばってきたけどさ、ものすごく迷惑だったんだよ。クラス委員づらしてさ、人を見下してさ、あたしなんかと人間のできがちがうんだなんて面してさ。あたしをかばってさ、いじめをやめないとか言ってさ、あたしを助けたつもりなんだろうけど、あたしはすごく迷惑してたんだよ。あんたのおかげで、よけいにいじめられたし、よけいに自分がみじめなっていったしさ」 仲間の声が、鋭く洋子に飛んだ。「やれよ、洋子。佐織が憎いんだろう」「やれ、やれ、洋子。やっちまえよ」「ひっぱたけよ、そいつを」 洋子の平手が、いきなりに私の頬にとんできた。無防備だった私は、その平手をまともにくらい一瞬くらっとなり、意識を失うばかりだった。彼女はさらに足でけりつけてきた。洋子の激しい攻撃で足がもつれと尻もちをつくと、花の六人組が一斉に転がった私に蹴りこんできた。 そのとき私の受けたショックはとても大きかった。彼女たちの暴力も大きなショックだったが、一番大きな衝撃は、教科書を切り裂いたのは洋子であり、彼女はずうっと私を憎んでいたという告白だった。私はいつも洋子をかばってきた。いつも洋子の友達であろうとしてきた。しかしそれは彼女にとって、敵意と憎しみを深めていくことだったのか。彼女だけではない。クラスのすべの子供たちにとって、私という存在はそういう子供だったのか。クラスの一人一人に、敵意と憎しみを育てていく存在だった。だからみんなが、私を無視するのか。だから私を消し去ろうとするのか。そのころの私は、自分の存在にぐらぐらと揺れていたのだ。私は生きている意味などない存在ではないのかと。 私に対する攻撃はさらに続いた。その日、美術の授業を終えて、美術室から戻ってくると、私のランドセルがなくなっていた。私はみんなに訊いた。「私のランドセル、だれか知らない。ねえ、私のランドセル知らない」 しかしだれもがさあっと私から逃げ出す。私への無視は続いていたのだ。それでも私は一人一人にとりすがるように必死になってたずね歩いた。「ねえ、私のランドセル知らない。私のランドセル知らない」 そのとき窓側の席で、ひそひそとささやきあっている声が聞こえた。それはわざと、私に聞こえるように、ささやいているのだ。「プールに、変な物が、浮いてるらしいよ」「ヘえ、プールに」 プールに飛んでいくと、赤いランドセルがプールのなかほどに浮かんでいた。それは三年前に亡くなった祖母に買ってもらったランドセルだった。いまではおばあちゃんの形見にもなっていた。そのランドセルをだれかがプールに投げ込んだのだ。 私は悔しさと怒りと悲しみのないまじった涙をぱろぽろ流して、呆然と立ち尽くしていると、プールの向こう側に、小野君が現れた。小野君は黙ってそのカバンを見ていたが、やがてセーターを脱ぎ、上半身裸になった。もう十一月だった。水は冷たい。まさかと思ったが、彼はざぶんとプールに飛びこむと、ランドセルのところに泳いでいって、そのランドセルを引きながら私のところまで泳いできた。私の目はうるうると涙でくもり、ありがとうと言った。そして、濡れたズボンのことを言うと、小野君は明るく笑って、「いいから、いいから」 と言って走り去っていった。 それまで私は、小野君とほとんど言葉を交わしたことはなかった。クラスの私への無視は依然として続いていたのだ。しかし私と小野君は言葉をかわさなくても、なにか深い心の交流というものがあったのだ。私たちは互いに目で語り合っているようなところがあった。というのは小野君もまたいじめの標的にされ、それは私なんか比較にならないばかりにいじめられていたのだ。 そんな小野君とときおり目があう。そのとき私は小野君の視線に、いじめなんかに負けるなよ、おれもがんばるからといったそんなメッセージをいつも感じていたのだ。私が不登校にもならず学校にいけたのは、そんな彼の励ましがあったからでもあった。私よりも激しいいじめにあっている小野君ががんばっているのだ。私もまた負けてはならないのだと。 とうとう私のクラスが崩壊する日がやってきた。「先生、トイレにいってきていいですか」 と野中君が言った。これがその頃、悪童六人組が考案した授業を抜けだす策だった。授業に退屈すると六人組の一人が、トイレにいっていいですかと切り出す。もう漏れてしまうと訴える子に、先生は仕方なく許可を出す。すると、おれもぼくもと言って、六人組はぞろぞろと教室を抜け出していく。そして一度抜けだすと、授業が終わるまで戻ってこなかった。だからそのとき宮田先生は、もうその手にはのらないと、「授業が終わるまでがまんしろ」「がまんできねえよ。がまんできねえから、たのんでるんでしょう」「がまんできなくても、がまんしろ」「がまんできねえよなあ」 緊迫していく状況に宮田先生の顔面はもう蒼白だ。まるで対決の危機に踏み込むように、先生は、「がまんできなければ、そこでしろ」 と言った。すると遠藤君が、「えっ、ここでやってもいいんですか」 と驚いたように叫んだ。それはなんだか勝利の雄叫びのようだった。「やっていいぞ、やれるならばやってみろ」「いいんだって、ここでやっていいんだって。本当にやっていいんですか」「やりたければやってみろ」「おい、みんなやろうぜ。やってもいいんだってよ」 と野中君がみんなを煽った。すると悪童六人組が次々に立ち上がって、教室の背後にいくと、壁をむかってずらりと並んだ。「やろうぜ、いっせいに小便をしょうぜ」 と野中君がふざけて叫んだ。そのとき宮田先生の怒りが爆発したのだった。「ふざけんじゃねえぞ、なめるなよ、てめえら、おれをなめるなよ!」 と叫びながら、椅子をつかんで六人組のところに走っていくと、その椅子を投げつけたのだ。椅子は壁にあたり派手な音をたてて床にころがった。するとその椅子を、今度は田中君が持ち上げて、「だれもやってねえよ。こんなところで、小便なんかするわけねえだろう。やってねえのに、椅子なんか投げつけやがってよ!」 と叫んで、その椅子を先生に投げつけたのだ。田中君の身長はすでに百六十センチぐらいあり、中学生なみの体力をもっていた。その椅子が宮田先生を直撃したのだ。先生は悲鳴をあげて、その場にうずくまった。血がぱあっと飛び散っていた。クラスが完全に崩壊した一瞬だった。 宮田先生はその翌日学校を休んだ。その休日はずうっと続き、やがて私たちのクラスにはよその学校から新しい先生がやってきた。クラスの崩壊は、宮田先生の精神の崩壊でもあったのだ。宮田先生の打撃は深く、入退院を繰り返していたが、ついに学校に戻ることなく退職したということを、数年後に私たちは知った。 私の宮田先生の描き方は、暗い面だけを強調して、一面的だという気もする。もし別の子供が宮田先生の思い出を描いたら、まったく別の像があらわれていくのかもしれない。しかし宮田先生は、あのときやはり敗北したのだ。宮田先生がつくり上げてきた、あるいはつくり上げようとしてきた教育が。 十三年たったいま、その時代を振り返るとき、宮田先生を打ち倒す最初の矢を打ちこんだのは、私だったという思いがかけぬけていく。子供なりに宮田先生の核心をつかんでいた私は、四年生の社会科の時間に、いっぱい嫌いなものがあると一つ一つ例を挙げて、先生を批判した。あのとき私の放った矢は、先生に深く突き刺さってしまったのだ。だからこそあんなに執拗に、あんなに憎悪をこめて私を攻撃してきたのだ。私を攻撃することで、先生は自らを立て直そうとした。もう一度自信にあふれた先生になろうとした。しかしそのことが、先生の崩壊の速度をはやめていったのではないのだろうか。 私のなかでそんな風にあの頃が回想されて、なにか古い傷が疼くようにいまでも私を苦しめるのだ。宮田先生の心と体に非難の矢を打ち込み、先生の崩壊の端緒をつくりだしたのは私だったのだと。


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アメリカの歌が聞こえる さまざまな讃歌が聞こえる ウオルト・ホイットマン ホイットマンの詩に二者の日本語訳を載せるのは、それぞれが異なった音色を奏でているからである。原文と二つの日本語訳を、ピアノ、ヴァィオリン、チェロのピアノ三重奏として、あるいはヴァィオリン、ビオラ、チェロの弦楽三重奏にして味読するとき、豊饒なる言葉の音楽がそこに広がっていくはずである。To Old AgeI see in you the estuary that enlarges and spreads itselfgrandly as it pours in the great sea.老齢に私はあなたの中に大河口を見る、大海に注ぐ時に厳かに広がりゆく大河口を。(白鳥省吾訳)老年に寄せてわたしには見える、あなたのなかで大海めざしてそそぎこむ河口が壮大に広がり脹らんでいくさまが。(酒本雅之訳)The First DandelionSimple and fresh and fair from winter’s close emerging,As if no artifice of fashion, business, politics, had ever been,Forth from its sunny nook of shelter’d grass—innocent,golden, calm as the dawn,The spring’s first dandelion shows its trustful face.初咲きの蒲公英冬の終りに咲き出でて清純にして美しく、流行や事業や政治の技巧が今まで無かったように、茂れる草の日の照る隅から出て来て曙のごとあどけなく黄金色の静かさに春の初咲きの蒲公英はその誠実な顔を現わした。(白鳥省吾訳)初咲きのタンポポ簡素に、ういういしく、冬の幕切れとともに美しく立ち現われ、流行、実業、政治を産み出すすべての技巧が、まるで夢まぼろしででもあったかのように、陰深い草地のなかの日差し明るい一隅から現われ出て──夜明けのように無垢で、艶やかで、静謐な、春初咲きのタンポポが信頼しきったその顔を覗かせる。 (酒本雅之訳)I Hear America SingingI hear America singing, the varied carols I hear,Those of mechanics, each one singing his as it should be blithe and strong,The carpenter singing his as he measures his plank or beam,The mason singing his as he makes ready for work, or leaves off work,The boatman singing what belongs to him in his boat, the deckhand singing on the steamboat deck,The shoemaker singing as he sits on his bench, the hatter singing as he stands,The wood-cutter’s song, the ploughboy’s on his way in the morning, or noon intermission or at sundown,The delicious singing of the mother, or of the young wife at work, or of the girl sewing or washing,Each singing what belongs to him or her and to none else,The day what belongs to the day – at night the party of young fellows, robust, friendly,Singing with open mouths their strong melodious songs.私は亜米利加の歌うを聞く私は亜米利加の歌うを聞く、種々の頒歌を聞く、機械職工等は、各自その歌が快活で強くあるべきように自分の歌を歌う大工は板や梁を計るときに彼の歌を歌う石工は仕事の用意をする時、仕事を止める時彼の歌を歌う船人は船の中で彼に属する歌を歌う、水夫は汽船の甲板に歌う靴屋は彼の仕事台に腰かけて歌い、帽子製造人は起って歌う。晨の途上に昼休みに日没に、樵夫の歌、耕人の歌、母親や仕事せる新妻や裁縫と洗濯せる娘の楽しげな歌、各自は彼や彼女に属するもの、また誰のでもないものを歌う、昼は昼に属するものを──夜は壮健な睦まじい若者達の一団、大口で彼等の力強い佳調の歌を歌う。(白鳥省吾訳)アメリカの歌声が聞こえるアメリカの歌声が聞こえる、そのさまざまな賛歌が聞こえる、工場労働者たちの賛歌が、一人ひとりが自分の歌を思う存分力づよく陽気に歌い、大工が自分の歌を板や梁の寸法を測りつつ歌い、石工が自分の歌を仕事の準備にとりかかり、あるいは仕事をしまいつつ歌い、船頭が自分の世界を船のなかで歌い、水夫が蒸気船の甲板で歌い、靴屋が台に腰かけて歌い、帽子屋が立ったまま歌う声が、木樵の歌、朝に、昼の休みにそれとも夕暮れに、行き帰りする農夫の歌が、仕事に励む母親の、あるいは年若い妻の、あるいは縫い物や洗濯にいそしむ娘の甘美な歌声が、わたしには聞こえてくる、彼や彼女がそれぞれに自分独自の世界の歌を、昼が昼の世界を──夜には逞しく気のいい若者たちの一団が、口を大きくあけて力づよく美しい自分たちの歌を歌っている声が。(酒本雅之訳)


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変化を求めないこと、それがもっとも危険だ 私たち人間の最も素晴らしいところは、常に問題を解決して、前進し続けることです。起業家や発明家や開拓者などは、現状に満足することなく、好奇心と情熱をもって常に新しい問題に取り組みます。 アマゾンはときには激しく批判され攻撃されることがあります。しかしそのとき私たちはまず自身の姿を映す鏡を見つめ、その批判が正しいものであるならば、批判される問題の解決に全力を挙げて取り組ます。「批判されることはない」という経営は危険です。批判と創造は表裏一体なのです。画期的なことに取り組むとき、批判や攻撃を受け入れる覚悟がなければ、その事業をはじめないほうがいいのです。 人生の終わりに人がよく後悔するのは、失敗したことに対してではなく、挑戦しなかったことに後悔するのです。人生の意義を満たせなかったことに後悔するのです。それは仕事だけではありません。例えば好きな人に想いを伝えられなかったこと、勇気を出せなかったこと、行動に移せなかったこと、そんなことが私たちの人生を振り返ったとき、深く心に突き刺さってきます。 事業は厳しいものです。日々忙しく仕事に追われます。幸運なことに私には私を深く支えてくれる家族があります。この家族を思うとき、仕事と生活の調和ということを考えるのです。豊かな幸せな家庭生活を送っていたら、幸福感をもって仕事に励めます。そして仕事がうまくいけば、家に帰っても最高の気分です。仕事と生活は循環するものなんです。この循環が豊かに満たされているとき人は幸福感に包まれます。対話編──アマゾンの創業者、ジェフ・ベゾフのスピーチね。いま彼はビル・ゲイツを抜いて世界一の資産家になってる。──でも、最近、離婚したのよね、なんでも別れた奥さんに三兆九千億円を支払ったということだけど、私たちの活動に百分の一でもいいから分けてくれないかしら。──あなたね、百分の一っていくらだと思うの?──三千万円とか、四千万円のレベルじゃないわよね。──三百九十億円よ!──なんか全然スケールがちがう。──これって、よくある離婚の慰謝料といったものではなくて、なんでもこの奥さんとは学生時代に結婚していて、この奥さんもまたアマゾンの創業者だったからなのよ。──すごく聡明な人で、小説も書いてる人なのよね。アマゾンがこれほどまでに大きくなったのはこの奥さんの力もあったのよ。──あのフェイスブックの創業者、マーク・ザッカーバーグも中国系の素敵な奥さんがいるのよね。同じハーバードでて、教師をしているらしい。フェイスブックがこれほど巨大になったのは、やっぱり奥さんが背後からしっかりと支えていたからだと思うわ。──一代で世界的企業になっていくのは、そこに必ず聡明な奥さんがいるのよ。これは私、絶対に言っておくわ。──いまIT産業の巨大企業、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンのGAFAが世界を支配しているって大きな問題になっているけど、これはみんなアメリカから生まれているのよね。どうしてこういう企業がアメリカからいつも生まれていくんだろう?──開拓する精神じゃない。新世界の上陸した人々がまずしなければならなかったのは開拓することだった。そして広大なアメリカ大陸を西へ西へと開拓していった。その開拓する精神がいまでも脈々とアメリ人のなかに流れていると思うわ。──でもこういう成功の物語の背後には、無数の敗北と挫折の物語があるのよね。──その数は圧倒的じゃない。アメリカは夢を実現させる国であるけど、夢はこなごなに打ち砕く国でもあるのよ。──御殿のような大邸宅を建てる大富豪が生まれるけど、おびただしい数の人々が貧困で苦しんでいる。これもアメリカの現実ね。