2020/10/07 18:00

前回に続き「歌舞伎」への愛を徒然なるままに……。

私がいつ「歌舞伎」と出会ったか?

忘れもしません、1991(平成3)年6月16日、名古屋の中日劇場で観たスーパー歌舞伎『オグリ』です。

当時16歳、高校2年生でした。テレビでドキュメンタリーを観て興味を持っていたころ、たまたま切符が巡ってきて足を運んだのです。
ただ、その時、どんな感想を持ったのか全然覚えていないのです。
ただただ圧倒され、魅了された、そんな後からの「解釈」しか出来ないんです。
こういうのを運命の出会いというのでしょうか(笑)

その後、大学入学で上京してからは、歌舞伎座、新橋演舞場、国立劇場へと足繁く通うことになります。

映画学科監督コースに入学してるのにおかしいですよね。それは入学式後のガイダンスである先生から聞いたメッセージがきっかけです。

「みなさんは映画学科に入ったんだから当然映画は勉強するでしょう。でも、せっかく藝術学部にいるんだから、別のジャンルも一つ勉強してみるといい」と。

そこで浮かんだのが歌舞伎だったのです。

当時は、三代目市川猿之助(現・猿翁)さんの賞味期限ギリギリの全盛期(これはご本人の弁)。「市川猿之助七月大歌舞伎」と銘打たれる毎年7月の歌舞伎座公演なんて、毎週観に行っていました。

そんなお金をどうしていたかといいますと、毎月、祖母から「芸術手当」をもらっていたんです。両親には内緒で。私は初孫長男でして、とても愛されていました。

しかも、地芝居で育った祖母は、歌舞伎や映画などの芸事が好きなんですね。そして、「ひとたび上京したんだから、いちいち顔なんて見せなくていい。小遣いは振り込む」という合理主義者でもありました。

その後、大学院に行ってからは多少なりともアカデミックにも勉強したくなり、演劇学科のゼミを聴講させてもらっていました。

若き日の三代目猿之助さんと宙乗りを復活させ、その後、いわゆる「猿之助歌舞伎」のブレーンをされていた演出家・戸部銀作先生、三島由紀夫の弟分としても名高い演劇評論家の堂本正樹先生など、それはそれは豊かな時間をすごさせてもらいました。

ちょうど20世紀の最後、学生時代の私は、卒業制作の『夢二人形』(98)でカンヌ映画祭デビューを飾り、一方で歌舞伎沼にどっぷりはまっていたのです。

1999年 カンヌ国際映画祭にて

映画『宮城野』監督 山﨑達璽

監督が語る歌舞伎愛・其の一」へ