監督によるインターナショナル版ができるまで、「其の一」の続きです。
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通常の映像翻訳は、まず日本語の台詞を抜き出してリストにして、そこから翻訳字幕を作っていきます。しかし、映画『宮城野』は内容が内容だけに、もっと緻密な作業が必要だとの認識で、ボイド眞理子先生に依頼したという経緯でした。
まずボイド先生が、ト書きも含めて台本の全文を訳して、その「完訳台本」を作ります。それをベースに英語字幕を作るという作業工程です。
後者には、NYブルックリンで活躍する演出家・小川アヤ氏が担当することになりました。
翻訳字幕は「80%伝えられるか伝えられないか」という字数制限との闘いがあり、実際の制作現場で活動している人の方が適任だとの判断からです。
ボイド先生と小川氏は数年にわたって一緒に翻訳の仕事をされています。
このように圧倒的な手間暇が掛かりますが、やるならとことんというのが私の信念であり、この作品への執念です。
2月、プロジェクトの準備が整い、まずはボイド先生による完訳が始まりました。
その作業は「これはこれで売り物になる」と先生がおっしゃるように、とても緻密なものでした。
いろんな議論がありましたが、その一つをご紹介します。
たびたび登場する「ニセ絵」。
直感的には“fake”と訳してしまいそうなところですが、いろいろ話し合って“copy”と訳してもらいました。
原作では「似せ絵」と書かれているのですが、それは単に「肖像画」を意味するので、原作者との認識の違いと思われます。
私たちが脚本を書く際には、当初は「贋作」という字を当てようと思いましたが、結果、カタカナで「ニセ絵」としました。
矢太郎の描いた絵は、写楽の筆を写した「代作」であり、やがてそれ自体が「真作」に成り代わるからです。
“copy”に至った訳ですが、これには私の中に三島由紀夫の『文化防衛論』(1969年初刊)の裏打ちがありました。要約すると、
【日本文化は、「オリジナルとコピーの弁別」を持たない。伊勢神宮の20年毎の式年造営のように、いわばコピーに「オリジナルの生命」が託され、「コピー自体がオリジナルになる」のである】
日本文化の有り様を的確に捉えた解釈だと私は考えています。
このような議論から、エピローグの台詞は以下のように訳されました。
<日本語>
本物とニセ物の境なんてものぁ、とっくのとうに消えてなくなっちまった。
写楽そのものが、洒落臭え戯れ言よ
↓
<英訳>
The border between origin and copy disappeared long ago.
Sharaku himself has become an impertinent joke.
4月下旬、ボイド先生による完訳が完了しました。
別の言語から作品を解釈するのは、非常に客観的な視点が加わり、新たな発見が沢山ありました。それは矢代戯曲へのより深い理解につながり、自分の作品を見つめ直すきっかけになりました。
続いて、小川氏による英語字幕の作成に入っていくはずだったんですが――
(其の三へ続く)
映画『宮城野』監督 山﨑達璽