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平戸の大仏|熊谷市に江戸時代から伝わる3.5mの仏像を修復したい!

埼玉県熊谷市の源宗寺には、江戸時代初期に制作された「平戸の大仏」が伝わっています。高さは3.5mほどで、埼玉県内の木造寄木造の仏像としては最大級の大きさ。熊谷市の文化財にも指定されています。昨年の調査で老朽化が著しく、バラバラになりかねない状態であることが判明したため、修復しようとしています。

現在の支援総額

2,210,500

105%

目標金額は2,100,000円

支援者数

131

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/09/14に募集を開始し、 131人の支援により 2,210,500円の資金を集め、 2021/10/29に募集を終了しました

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平戸の大仏|熊谷市に江戸時代から伝わる3.5mの仏像を修復したい!

現在の支援総額

2,210,500

105%達成

終了

目標金額2,100,000

支援者数131

このプロジェクトは、2021/09/14に募集を開始し、 131人の支援により 2,210,500円の資金を集め、 2021/10/29に募集を終了しました

埼玉県熊谷市の源宗寺には、江戸時代初期に制作された「平戸の大仏」が伝わっています。高さは3.5mほどで、埼玉県内の木造寄木造の仏像としては最大級の大きさ。熊谷市の文化財にも指定されています。昨年の調査で老朽化が著しく、バラバラになりかねない状態であることが判明したため、修復しようとしています。

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(株)文化財マネージメントの宮本です。今回修復を目指している大仏の内部から、制作されたときに書かれた銘文が発見されました。今まで曖昧だった制作年や仏師が明らかになる大発見です。この件について、修復を担当していただいている、吉備文化財修復所・代表の牧野隆夫さんから詳細と意義についてご寄稿いただきましたので、掲載します。令和3年10月15日熊谷市平戸源宗寺「おおぼとけ」 薬師如来像頭部内の墨書発見について吉備文化財修復所 代表 牧野隆夫本堂再建に伴い仮屋内で保存修理を進めている「おおぼとけ」薬師如来像から造像銘と考えられる墨書が発見されました。台座光背を新本堂へ入れ、広くなった周りに作業用足場を組み、二体のお像の清掃作業を始めました。像内は空洞になっており、仮台の下から内部に入ることが出来ます。まず像内の昔年の汚れや蜘蛛の巣の清掃から始めたところ、薬師如来坐像の頭部内(後頭部の内側)に墨書きがあることが分かりました。薬師如来像の頭部を上方から清掃している像の内部を清掃している[銘文]寛文三年卯 八月廿五日江戸  仏師    松田 庄兵衛       正重作 花押今まで文献上には、本像そのものの造られた時期が明確に示されてはいませんでした。今回発見された年号寛文三年(1663)は、寺伝にある寛文二年(1662)に勝願寺代14世玄誉上人による一万日念仏の勤行の折に造られた、とされる記述と合致する点で、造像時の墨書であることは間違いなく、その後の資料に出てくる元禄十四年(1701)に再興された、とされる「再興」の意味を明確に「修理」と解釈できる上でも極めて重要です。像は、その後正徳三年(1713)にも修理が行われ、さらに寛保二年(1742)の大洪水による損傷で修理が行われたようです。県内でも最大級の木造仏である本像2体は、大きさゆえに材料の木材の制約は感じられるものの、その造りは木で彫り上げた表面に全面布貼りし、漆下地、漆塗りを施し、その上での肉身部の漆箔という極めて丁寧なもので、江戸時代前期の「良い時代の造像技法」を示しており、また巨像制作の知恵を知る上でも貴重な作例と言えます。修復者としては、今後さらに多くの方々の支援を受け、より適正な保存がなされることを強く望むものです。


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平戸の大ぼとけとして知られる源宗寺の薬師如来(右)と観音菩薩(左)(株)文化財マネージメントの宮本です。熊谷市立江南文化財センター・学芸員の山下祐樹さんに新たにコラムをご執筆いただきましたので、掲載します。源宗寺の大仏メモワール―調和する造形の美と信仰の歴史―熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹古代ギリシアの時代、哲学者ピタゴラスの思想を背景として、世界の本質を知る最も重要な学問に「数論」、「幾何学」、「天文学」、「音楽」があり、これらの追究が日常生活から宇宙全体までを支配する「調和(ハルモニア)」の原理を解き明かすと考えられていた。一方、プラトンは人間の魂を「理性」、「気概」、「欲望」に区分し、魂の調和により「正義」が実現されると説いた。「調和」とは、職人による各部材の完全なる接合というギリシア語から派生し、事物や現象の全体的な均衡の美を意味している。現実と理想を結び付け、相反する立場を包容する。人間はこうした調和への祈りや願いを込めて、仏像に対する信仰や仏像の美を愛する文化を継承してきた。熊谷の郷土と深く関わる仏像の歴史。その一つが平戸の源宗寺で息づいている。源宗寺は17世紀初頭に藤井雅楽助が開基し、薬師如来と観世音菩薩の二体の「木彫大仏坐像」が横に並び鎮座している。仏像の存在は武蔵国の地誌「新編武蔵風土記稿」にも記され、古くから地域の歴史とともにあった。1662(寛文2)年に制作、1701(元禄14)年に再び着手され現在の本尊となる。二体の仏像は台座を含めると約4メートルの規模を誇り、「平戸の大ぼとけ」と呼ばれている。仏師の宗円と江戸弥兵衛が制作を担い、中西村の喜兵衛や沼黒村の太兵衛ら近隣出身の塗師が丹念な技術を発揮した。木彫による造形美と重厚感が融合した迫力ある寄木造で、円形の光背も壮観。表面は金箔の上に黒漆を塗る技法が用いられ、光沢を帯びている。仏像には薬の秘伝書が収納され、これを調剤した妙薬が評判となり多くの参拝者を集めた。二体の仏像が安置される本堂は「千日堂」と呼ばれ、仏像の制作と同時代に建立された。江戸時代半ばに洪水被害を受けた後、建物の丈を下げる改修や壁の補強が実施された。源宗寺の大仏には、仏師による彫りの力強さと繊細さを併せ持った美しさがある。地元、平戸地区の人々は、次世代へ歴史を継承するため、今後の保存について模索を続けている。長い時代を超えて黙想を続けている薬師如来と観世音菩薩。調和した仏像の美が人間の魂に希望を与え、信仰の歴史を未来へとつなげている。堂内に安置された二体の大仏、力強い彫りと塗り技法の粋が感じられる。(左方からの撮影)


彼岸寺に掲載
2021/10/11 20:03

(株)文化財マネージメントの宮本です。本日、彼岸寺に今回のクラウドファンディングについての私の寄稿が掲載されました。「大仏建立」ならぬ「大仏修復」。地域に伝わる大仏の修復クラウドファンディング彼岸寺は、仏教関係の情報などを発信し、また共有している「インターネット上のお寺」です。以前にも、私どもが支援しておこなった仏像修復クラウドファンディングについて取り上げていただいておりました。一般的にイメージされる仏教やお寺の印象が変わるような、様々な情報やコラムが掲載されているサイトです。ぜひこの機会に色々な記事をご覧になってくださいませ。


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「平戸の大仏」特別公開で解説を行う山下裕樹(株)文化財マネージメントの宮本です。3回に分けて掲載している、熊谷市立江南文化財センター・学芸員の山下祐樹さんにご執筆いただいたコラム、最後の第3回です。源宗寺本堂保存修理事業の歩みと仏像保護に向けた試み熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹源宗寺本堂改修事業の要点源宗寺本堂保存修理委員会(会長:木島一也)を改修工事の主体者として事業運営を進めている。建造物の新築費用約4000万円(税込)+周辺整備等工事費400万円の事業計画の中で、約千人からの寄付金、熊谷市からの補助金500万円、檀家組織の負担金などを含め、費用工面の完了と以降の保存維持に向けて寄附募集を続けている。施工業者は株式会社大島工務店(深谷市柏合)であり、令和2年8月に実施したプロポーザル(事業内容提案型)入札によって決定した。解体前には、使用可能な部材を再利用する計画であったが、想像以上に劣化が激しいことが分かり、一部の彫刻や鬼瓦などの再利用に留めることになった。改修内容は概ね新築となり、建築確認などの法的手続きが生じたことから、細川末廣(一級建築士)、内島章雄(一級建築施工管理技士)、山下祐樹(学芸員・埼玉建築士会歴史的建造物保全活用専門家)を中心とする建築委員会を発足し、事業の監理を担っている。設計を細川、事業指導を内島、建築の意匠デザインを含む保存改修事業全体の監修を山下祐樹が担当している。改修のコンセプトとしては、明治時代以降、奈良の東大寺の大仏殿に模して改修が行われてきた経緯があることから、屋根に「鴟尾(しび)」や「二の鬼」などの古代寺院建築の意匠を加えることで、新たな時代への継承という念願を込めた。保存修理事業では、令和2年12月末に源宗寺の旧本堂を解体し、大仏坐像2体(観世音菩薩・薬師如来)の仮設小屋への人力での移動を実施した。令和3年4月から基礎工事を始点に新調復元工事を開始。6月以降は木工事業を開始。7月上旬には瓦の設置工事が開始。7月下旬、屋根の大棟両端に「鴟尾」が設置された。今後は12月の本堂竣工及び以降の仏像修理の完工に向けて、適宜、地域住民や寄附者に工事現場の一般公開を行うなど、情報発信と啓発を行う予定である。そして本尊の二体の仏像の保護に向けて新たな知見等を活用しながら次世代に継承する下地作りを進めていきたいと考えている。


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大仏が安置されていた源宗寺の旧本堂(株)文化財マネージメントの宮本です。熊谷市立江南文化財センター・学芸員の山下祐樹さんにご執筆いただいたコラムの続きを掲載します。源宗寺本堂保存修理事業の歩みと仏像保護に向けた試み熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹源宗寺本堂の概要源宗寺は鴻巣市の勝願寺末寺で、江戸時代以降の管理を担った藤井家文書「源宗寺過去帳」によると、開基は祖先の藤井雅楽之助が行い、源宗大法師が開山したとされる。源宗寺は、官や当時の権力者による支援を受けずに建立を果たした私寺であり、江戸時代には近村の人々を中心に信仰を集めた。令和の改修事業において判明した基礎の状況から、当初は茅葺屋根であった可能性が高い。これを前身本堂として寛文2年(1662)に勝願寺の第一四世玄誉上人による一万日念仏供養が成されたと伝わる。その際に本尊となる二体仏像の制作が進められことが推定される。以降、正徳3年(1713)に大仏は損傷し、近隣村々の援助を受けて修復されたが、寛保2年(1742)8月の大洪水では再び二体の大仏は破損したとされている。その後、第八世喚誉上人が本堂を瓦葺にするなどの再建を行い、大仏の修復にも努めたと伝わる。源宗寺は、江戸時代後期には僧侶を配置しなかったため、近隣の久下にある東竹院が仏事を担い、檀家組織の護持会が今日まで維持管理を続けてきた。そして、近年、建物全体の老朽化が著しくなる中、「源宗寺本堂保存修理委員会」が発足し、令和の改修事業及び二体の仏像保存修理事業の実施へと結び付いたのである。