アフリカの新しいオペラ!ブルキナファソで、現地の人々とじっくり・ガッツリ・コラボ

世界最貧国の一つ、西アフリカのブルキナファソで、現地の伝統音楽奏者たちとのコラボで新しいオペラを作っています。アフリカ人が自らの視点で語るアフリカの歴史、苦難と希望の物語を、アフリカの豊かな音楽を取り入れて描く、アフリカ独自のオペラの誕生をサポートし、見守ってくださいませんか。

現在の支援総額

695,500

115%

目標金額は600,000円

支援者数

61

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/08/22に募集を開始し、 61人の支援により 695,500円の資金を集め、 2021/11/08に募集を終了しました

アフリカの新しいオペラ!ブルキナファソで、現地の人々とじっくり・ガッツリ・コラボ

現在の支援総額

695,500

115%達成

終了

目標金額600,000

支援者数61

このプロジェクトは、2021/08/22に募集を開始し、 61人の支援により 695,500円の資金を集め、 2021/11/08に募集を終了しました

世界最貧国の一つ、西アフリカのブルキナファソで、現地の伝統音楽奏者たちとのコラボで新しいオペラを作っています。アフリカ人が自らの視点で語るアフリカの歴史、苦難と希望の物語を、アフリカの豊かな音楽を取り入れて描く、アフリカ独自のオペラの誕生をサポートし、見守ってくださいませんか。

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#africa の付いた活動報告

8月5日の万博でのコンサートの模様今回の投稿はお金に関する話です。皆様とはご支援という浄財を通してのご縁がありましたので、この国におけるお金のあり方の一端をご紹介させていただきたいと思い立ちました。ブルキナファソは多民族・多言語社会で、以前公用語だったフランス語を含めて様々な言語が話される、いわば言語のるつぼです。その中で一つ不思議なのが、お金の数え方です。未だに、事実上フランスが発行するCFA(フランセーファ)が通貨として使われていますが、例えば1,000CFAを地元各種言語では 200と呼ぶのです。25CFAは5、5,000CFAは1,000、というように常に5で割って呼ばねばなりません。これは何故かというかというと、一番小さい貨幣が5セントだからだそうです。1セントのコインは存在しないので、5セントを1と数えざるを得ないそうです。ともかく、今でこそ慣れましたが、初期の頃はよく頭が混乱しました。私は買い物の時にもなるべく現地語を使うようにしていますが、実はCFAだと感覚的にむしろしっくりくるのです。紅茶1杯が100CFA、ランチセット(汁物、ご飯、水)が300~500CFA、アボカド・サンドイッチが100~150CFAというように。実際に円換算するためにはこの数字を4で割るのですが、そうすると現地の数え方に近い数字になります。(ブルキナファソへ来た頃はユーロが今ほど強くなかったので、5で割ればほぼぴったりでした)そういえば、この前、日本へ出発する直前にある音楽フェスに参加したときのバンド全体のギャラが40,000CFAでした。この時、10,000CFAを出発直前に空港前喫茶店で行う予定だった私の誕生日祝いのために取り除けておいて、残りの30,000CFAを6人で割りましたので、1人あたりの取り分は5,000CFAでした。円換算すると1,250円ですが、ワガドゥグにいれば日本における5,000円相当くらいの価値はあります。さて、今回の万博公演は純粋なボランティアで、1円のギャラも支払われませんでしたが、日当1日11000円✕6日、および宿泊費25000円✕5泊分が各人に支給されました。実際に泊まった宿はもっと安いところで、(後で知ったのですが)差額は返さなくてよかったのです。日当は、もちろん食事や交通費として支給されたのですが、途中から貨幣価値に気付いたバンドメンバーたちが、可能な限り自炊をして節約に努めたことは想像に難くないでしょう?といっても、最初の宿に付いていたキッチンはIH式でしたから、普段は炭か、せいぜいガスボンベで調理している彼らにはなかなか火加減が難しく、結局調理は私か、日本人ダンサーの吉田さんが主にやりました。それやこれやで一生懸命節約したお金を関西空港でブルキナファソへ送金し、ワガドゥグへ戻った時には現地通貨で引き出せるようにしておきました。その金額は5人分合わせて約150万CFA。つまりワガドゥグでは150万円ほどの価値がある金額です。それが証拠に、銀行ATMでの1日の引出し限度額は100万CFAですので、2日に分けて引き出さねばなりませんでした。注目していただきたいのはこの後の経緯です。つまり、一人当たり平均30万の現金を手にしたというのに、10日経った頃には、それらは跡形もなく消えたと言うのです、それも一人を除いて全員が!皆さんは、彼らが山のような借金を清算したとか、喜びのあまり、バイクか何かの大きな買い物をしたとか、そんな想像をなさるかもしれません。でも、違うのです。日本のような先進国へ行ったからには、相当なお金を持ち帰ったに違いないという勝手な想像で、毎日毎晩、近隣やワガドゥグのあちらこちらからは無論のこと、遠い村からまでも噂を聞きつけて多くの人々がお金を無心してくる、あるいは奢ってくれと迫る…などなどの連続で、お金は瞬く間に無くなったというのです。実はこれは十分に予測された事態なので、ヤクバは到着の翌朝早く、壊れていたバイクのエンジンを買い変え、マブドゥはこの先2ヶ月分の米袋を買いに行ったりと、それぞれ必要最低限の自衛はしていました。それにしても、無心されたらお金を渡さなければならないという感覚が、ちょっと理解し難いかもしれませんが、それがこの社会の実態なのです。私もブルキナファソへ来て長いので、分かっていたつもりでしたが、それにしても30万CFAが瞬く間に消えてしまうとはあらためて呆れました。ところがバンドメンバーがいうには、この件で私は「女を上げた」(通常は男、ですが)というのです。人々はこの経緯で私のことを今までにも増して尊敬しているのだとか…。つまり自分たちのところにお金が流れてきた、その川上にいる存在として私を有難がるという意味なのでしょう。そういえば、私が1年4ヶ月もワガドゥグへ帰ってこなかった間、心無い人々は「彼女はもう二度と帰ってこないつもりなんだ。マブドゥたちはナサラ(白人)と一緒にいて良い気になっていたけど、結局は相手にしてみれば大した金額でもないのに、自分たちにとっては大金を支払ってもらっていると喜んで一緒に仕事していたけど、見捨てられたのさ」と噂していたそうです。まぁ、噂好きな人々が勝手なことをいうのは、どこの国にもあることですから、目くじらを立てても始まりません。ちなみに、もう一つ驚いたことは、1年4ヶ月ぶりに帰宅してみると、居候が4人も増えていたことでした。正確にはマブドゥの家に3人、隣家のヤクバの家に1人ですが、隣家といっても境界はなく、トイレ兼風呂場は我が家(マブドゥの家)のを使っているのですから、感覚的には一つの家です。居候が1CFAもお金を入れないで居続けるのに苦情も言えない、あるいは言う気もない、というのがまた理解し難いところですが、まぁ、それでも持ちこたえていける自分の状態を天に感謝する、という気持ちといいますか、そのような意識で過ごしているとしか思えません。確かにそういう考え方は美しいし、私もそう考えることにしています。でも、やはり時々不条理を感じることがあります。今まで、一番こたえたのは、私の留守中にマブドゥがバイクを人に貸して、その人が大事故を起こし(衝突事故で、相手は即死したそうです)、バイクが大破損した上、2ヶ月も警察に押収されたままになったときでした。私はベルリンでその報せを受け取りましたが、マブドゥの説明は私にとっては支離滅裂で「もしそのバイクに乗っていたのが自分だったと考えると非常に怖ろしく、身代りに事故に遭った従兄がどうか死なないように祈るばかりだ」というような内容でした。その人は私にとってはほとんど見知らぬ人でしたが、マブドゥにとっては従兄なので動揺していたのはわかりますが、バイクは彼と私が共有しているもので、もちろん買ったのは私でした。オペラプロジェクトのために街中のあちこちへ行く必要がありましたから、その度に他人のバイクを借りるわけには行かないし、その後マブドゥが兄から譲られたバイクに乗っていた時期もありましたが、ボロのバイクだとしょっちゅう不具合が起きて、修理しているうちに約束の時間に大幅に遅刻してしまうこともあったので、一念発起してヤマハのオリジナルバイクを買ったのです。これには、家を建てた時よりも高いお金がかかりました。ヤマハのバイクをこちらで買うと、フランスの課す関税のせいで日本で買うよりも高いのです。だんだんにわかったことですが、その事故は早朝に起こり、双方がスピード違反を犯していたそうです。幸いマブドゥの従兄はわりと早く回復し、亡くなった相手の遺族も訴えないという決断をしたので、マブドゥはホッとしたようでした。私が納得できなかったのは、マブドゥからも事故った本人からもきちんとした謝罪がなかったこと、そして当然のように修理費は私がもつと思っているかのような態度でした。「次からは保証のあるバイクを買ったほうがいい」と、ベルリンから戻った私にマブドゥが告げた時、内心怒りが込み上げました。当時の私にとっては、バイク代は本当に大金でしたし、次のバイクなんて買う余裕はなかったのです。自分よりは遥かに金持ちだと私のことを考えているのでしょうが、勝手にバイクを貸して、それが壊れたのになぜ私が次のバイクを買わなくてはならないのでしょうか?内心は彼もビビっていたのでしょうが、ビビった時ほど強気に出るという変な癖が当時の彼にはありました。でも私もこんな理不尽な話があるものかと憮然としていましたので、案の定大喧嘩になりました。当時、ワガドゥグを訪ねてきていたマブドゥの一番親しい従弟で警察官のバキスが、片言の英語で一生懸命取りなそうとしてくれましたが、理解し合うのは難かしく、私はバイクが事故を起こしたのではなく、早朝からスピード違反で走らせたドライバーが事故を起こしたのだから、断じて身代わりの犠牲などではないと一歩も譲りませんでした。バキスだって何もそんなマブドゥの考え方を支持していたわけではなかったと思います。結局バキスが、当時臨月だった彼の奥さんのバイクをワガドゥグにおいて行くから、警察からバイクが戻ってきて修理が完了するまで使うようにと申し出てくれました。このありがたい申し出により、次のバイクを買う云々の話はしなくて済むようになりましたが、結局バイクはどんなに八方手を尽くして頼んでもなかなか返してもらえず、2か月後にようやく返してもらい、修理に出しました。この時、私が136,000CFA、マブドゥが66,500CFA、事故った本人は10,000CFAを支払い、バイクは何とか再び走行できる状態に戻すことができました。日本円にして5万円強ですが、壊れたときの無惨な写真を見た日本の知人が「買い替えた方が良い」と即座に言ったことを思えば、案外安価で修理出来たと考えるべきかもしれません。しかしご想像に難くないでしょうけれども、その後事故った本人は1CFAたりとも(5CFAたりとも、というべきですが)補償しに来ません。私は数回、マブドゥを通じて毎月1,000CFAずつでも返すように言いました。自分で直接言いたいのは山々でしたが、そこはグッとこらえて、西アフリカ式に仲介人(マブドゥ)を立てたのです。しかしながら、あれこれの言い訳で、そのうち払いますという返事が間接的に伝えられるだけで、3年近くが経過していますが、何も起こりません。遂に私は、万博公演から帰って来て、最初のバンドのミーティングでこのことを問題提起したのです。それは、マブドゥが日本で行ったワークショップの謝金を受け取ったら新しいバイクを買い、今のバイクは妻に譲ると私に話したからです。これは単にアイデアとして話しただけですが、私の心にくすぶっていた割り切れぬ思いが、再び頭をもたげました。1週間ほど経ってから、私は「賛成しかねる」とはっきりマブドゥに伝えました。まだ損害賠償を受けていないバイクを、たとえ妻であっても譲るのは賛成できない。もしも新しいバイクを買って、今のバイクが不要だというのなら、それを売って修理費を穴埋めすべきだ、と。これが理に適っているかどうかは、自分でも半信半疑でした。中古バイクはどんなに状態が良くても、250,000CFAで売れればラッキーですから、ちょうど初期の修理費に相当するくらいにしかなりません。それよりも、我が家に2台のバイクがある方が何かと便利だとマブドゥは考えたのでしょう。しかし、1台だろうが、2台だろうが、ここの風習では誰かが貸してくれと頼んでくれば貸さざるを得なくて、借りた挙句に使ったガソリンすら補填しない人も大勢いますし、挙句に自分で買わない(買えない)人々に限って使い方は荒く、しばしば故障して戻ってきます。その修理代も全てこっち持ちですから、たまったものではありません。いかに「郷に入れば郷に従え」と言われても、限界があります。今回も日本滞在を終えて帰ってみると、誰が使ったのか、バイクのブレーキがおかしくなっていました!こんな状況で、2台のバイクの面倒を見るなんて私は真っ平なのです。マブドゥとはこの5年余りの間、何度か激しくぶつかりましたが、「雨降って地固まる」というように、より深い信頼と相互理解を築いて来たと信じています。しかしこの一件は未だに未解決なのです。そこで遂にバンド全体の意見を求めました。驚いたことに、これまで誰も私に告げていませんでしたが、事故った人は、その後第二の事故を起こしていたのです。それに加えて、(これはバンドのミーティングに先駆けてマブドゥ自らが私に話したのですが)、マブドゥもかつて(私に出逢う前に)大事故を起こして2週間ほど入院しましたが、その時真っ二つに壊れて修理不能になった(人から借りた)バイクに関して、1CFAも補償しておらず、何故かと問うと「持ち主が全く要求してこないから」と答えるのです。彼にとっては、自分もかつて他人を同じ目に遭わせたから、自分もそういう目に遭っても仕方がないということなのでしょうか?私は、バンドの皆が日本まで行って、単にボランティアとして万博公演を行っただけで、何のお金も稼ぐことが出来ずにワガドゥグへ戻るなどということにならないように、日本で1年以上も全力を尽くして画策しました。労働ビザが発給されるケースではなかったのですから、合法的に彼らに何らかの収入を得させるためには、どうしたら良いのか、それを考え、実現するのは本当に難しい課題でした。マブドゥは他のメンバーの数倍働いて、私の片腕としてプロジェクトを支えて来たのですから、彼には特に報いたいと思ってきました。彼には9月に、相当の支払いをする準備をしていますが、彼はそのお金を手にしても、以前壊した他人のバイクの補償をするつもりはなく、自分に新しいバイクを買って、また無責任な他人に貸し出して、もしかしたらまた誰かがそれを傷つけて、心ならずもその「つけ」を私に回すことになるのでしょうか?交通事故が異常なまでに多発するワガドゥグで、このような心配をするのは当然のことです。このバイクをめぐる一件は、私がブルキナファソを身をもって理解するための最後のハードル、あるいは通過儀礼なのでしょうか?お金とは、結局何なのか?水のように常に循環して全ての人を潤すのがお金のあるべき姿なのかもしれません。貸し借りを厳しく追及すべきではなく、無いときは悪びれず貰って、入ったときは紀伊国屋文左衛門よろしく、ぱーっとばら撒くのが人徳なのでしょうか…。マブドゥが故郷へ帰って留守の間、ヤクバやラミッサ、他の友人たちと中国茶のお茶会をしながら、私はぼんやり考え続けていました。その夜、故郷のヌナから遊びに来ているマブドゥの姪っ子の一歳半の息子の、すさまじい叫び声で目が覚めました。ひきつけというのでしょうか?呼吸困難のようになってしまっていて大騒ぎになり、その子どもは病院へ連れていかれました。翌朝早く、バンドのバラフォニストのブレイマが「マブドゥから電話があり、10,000CFAを病院へ持っていかねばならないと言っている」と私に告げに来ました。それは10,000CFAを私に払ってくれと頼んでいるのか、それとも貸してくれということなのか、それとも彼はそのお金を既に送金していて、それを引き出して払いに行けということなのか、ブレイマは一向にちゃんと説明しません。ただただ「10,000CFAを病院へ持っていかねばならない」と大声で繰り返すばかりです。後で、ヌナから急遽引き返してきたマブドゥに聞くと、彼はブレイマにお金を出してくれるように頼んだのであって、私に出させるつもりはなかったから、私に電話しなかったというのです。ブレイマ唯一人が日本から持ち帰ったお金を死守していることを、皆知っていました。けれどもブレイマはお金を出したくないので、私に「10,000CFAを病院へ持っていかねばならない」と伝えに来たのです。そう伝えれば、私が何とかすると思ったのでしょう。ブレイマは病院へ見舞いには行きたいけれどガソリン代がないから支払ってくれとヤクバに頼んだらしく、ヤクバは呆れてそれを断りました。朝の時点では、ブレイマと話してもらちが明かないし、マブドゥの到着は午後3時ころだと聞きましたので、とりあえず20,000CFAを持ってヤクバと病院へ向かいました。こちらの病院の常ですが、次から次へと処方箋を出して、病人の家族を薬局へ行かせてそれらの薬を購入させ、それを使って治療するのです。しかも看護師という存在がいませんので、病人の家族が交替で付き添い、夜も寝泊まりしなければなりません。庶民は保険などにもほとんど加入していませんから、病院にかかるとその出費は途方もない金額になります。昨夜は、戻ってきたばかりのマブドゥがさっそく夜の付き添いをしましたが、子どもの母親のみが病室での付き添いを許され、彼は外のテラスで蚊の猛攻撃に悩まされながら眠ったそうです。今、子どもはすっかり元気を取り戻しているそうですが、かと言ってなかなか退院はさせてもらえません。すでに20,000CFAはほぼ使い果たされています。マブドゥは数日前にヌナですっからかんになって、早くも私に借金を申し込んでいたくらいですから、病院への行き帰りのガソリン代すら、その借金から工面しているのです。これが日本から戻って、たった二週間後の実態なのです。「お金を持っていない」ということはある意味強みですらあり、持っていなくても結婚はする、子どもは産む、病院にもかかる、必要と考えれば何でもするのであり、その代金は誰かが支払ってくれる...支払うだけの力がある人が支払うのだから、別にありがとうすら言わないことも珍しくはなく、時に「神があなたに長寿を授けますように」というような常套句を言われるのみで終わりです。病院からいったん家へ戻る途中で、マブドゥがバイクの後ろの私に「またあなたに借金を作っちゃったね」と溜息交じりに声をかけた横を、かつて私たちのバイクで事故を起こしたマブドゥの従兄が(また誰かに借りたバイクの後ろに)息子を乗せて「やあ!元気?」と満面の笑みで笑いかけながら、追い越していきました。


通常、2時間もかかるオペラの舞台の仕込みは遅くとも前日から始めなくてはなりません。ブルキナファソでの過去の公演でも3日間会場を借りて仕込みをし、リハーサルを重ねてから公演してきました。ところが今回の万博公演では、当日の午前中に式典があり、それが終了するのが12:00、その後の1時間はホールスタッフの休憩時間、13:00から仕込みという有り得ない状況でした。しかもオペラの開演時間は16:00。当初それを何とか17:00にしてもらおうとお願いしました。ブルキナファソ政府の万博担当官も懸命に交渉してくれましたが、18:00からレセプション(ビュッフェ式晩餐会)があるから絶対に駄目だと万博事務局から断られました。そのため、まさにアクロバット的な迅速さと正確さで作業しなければならない羽目になりました。この無理やりな条件を突き付けられた我がオペラチームのテクニカルスタッフ達の献身的な働きと能力の高さがなければ、この離れ業は実現しなかったでしょう。とはいえ、日本人、ドイツ人、デンマーク人、台湾人、という混交チームで、出演者たち(ブルキナファソ人)との言語の壁もありましたし、70名近い小学生たちも5つの場面に出演したのですから、非常に難しい状況でした。いろいろなハプニングもありましたが、あれだけの厳しい条件のもとで、なかなか良い公演が出来たのではと自負しています。ともあれ、予定時間通りに公演を終えた私たちは、1時間余りレセプションに出席したあと、撤収作業を終えるために再びホールへ向かいました。規則では21:00までに完全撤収すれば良かったのですが、翌日はウクライナのナショナルデーで、彼らが仕込みをなるべく早く始めたいと言っているので出来れば早めに撤収してほしいと万博事務局から言われていたのです。レセプションへ向かう前にステージはほぼ空にしてあったので、私たちが戻ったとき、ウクライナチームは既にステージの仕込みを始めていました。黙々と働く大勢のウクライナ人たちを見ながら、戦争の最中にありながら、こうして文化事業にお金を掛けられるのは、彼らの文化への意気込みなのかという疑問が浮かびました。実際にどれほど複雑な準備を要する文化イベントをウクライナが行ったのか知りませんし、もしかしたらセキュリティなどの別の理由で準備を周到にしたかったのかもしれません。ともあれ、前夜からホールを借りるためには別途、相当のお金を支払わねばならず、私も実はそうしたかったのですが、それは到底無理なことでした。私の呟いた疑問に「本来、国(ブルキナファソ)がやるべきところを、あなたは個人でやっているのだから仕方がないよ。ウクライナはきっと国が払っているんでしょう」とテクニカルスタッフのひとりが返しました。確かにそうなのでしょう。それにしても、私が個人でこんなことを背負い込んだのは、何もブルキナファソへの愛のためなんかではありません。縁あってブルキナファソへ行ったわけですが、今回の万博公演は私の芸術家としての使命の一環として行っているのであって、特定の人や特定の国家のためにしているわけでは決してありません。でも、それはなかなか理解してもらえず、様々に誤解されやすいのは仕方がないのですが、私の経済状況を心配してくれた身近な人々から「(そんなに頑張らなくても)万博に出演することで、バンドのブルキナファソ人たちも箔が付くのだし、そのうえ少しのギャラでも貰って帰れば喜ぶんじゃないの?」と言われたときは、さすがにショックでした。悪気なく言ったのだと思いますが、こういう発言は最も差別的な「上から目線」で、私からすると本来、許し難いものなのです。でも、もしかしたらバンドメンバーたちの中にも「そうだよ」とあっさり同意する人もいるかもしれませんから、一概に否定することも出来ませんでした。この発言は、私がまだ大学院生だった頃にドイツへ行ったとき、ドイツのラジオ局が私の作品を放送するという話を聞いたあるドイツ人に「自分の曲がドイツで放送されるなんて、あなたはさぞかし名誉に感じるでしょう」とあけすけに言われたときの違和感をそのまま蘇らせました。その時感じた不快感は40年経った今も忘れません。でもこれは根の深い問題に違いありません。芸術活動も「自由主義経済」の支配する世の中にあって、ブランディングだの、パブリシティだのといった「消費者」へのアピールの必要性と無縁でいることは難しいからです。「芸術は消費の対象などではない」などと正論を振り回しても始まらないのが現実で、アーティストたちも皆、あの手この手の自己宣伝に大忙し、結局は「売れたもの勝ち」の世の中だという考え、そして「いかにも(すでに)売れているように見せかける」手法を競ってでもいるかのような印象を視聴者(あるいは「消費者」?)に抱かせるSNS投稿やプロフィールの作り方...そういうものを見慣れている人々から「箔が付いて嬉しかろう」などと侮られるのも、ある意味では仕方のないことです。今回の私のように、単に作曲家や出演者ではなく「プロデュース」をする立場であると、より直接的にお金の問題に巻き込まれますので、自分のプロジェクトのブランディングはより切実な問題になります。「より多くのお金をどこかから持って来られないのは無能の証拠」とあからさまに批判を受け、挙句の果てには「作曲家なんぞにそんな能力のあるはずもないのだから、誰かに委託するべきだ」「有能なマネージャーを雇うべきだ」「お金が余りまくっている助成金もあるのになぜ応募しないのか」「クラウドファンディングで数日で大金を集めた人もいる。あなたはやり方が悪いのではないか」等々、まぁ本当に言いたい放題の「ご忠告」を山ほど受けました。確かに結局合同会社まで起こさざるを得ない羽目になりました。初めてそういう立場でお金を扱う立場になってみると、今まで見えていなかったことが見えてくるのも事実です。クラウドファンディングにしても実際にやってみなければわからないこともいろいろありました。でも、そんなさまざまの経験を経た今も、変わらず思うのは、「自由」というものはかけがえのない、大切なものだということ。そして、その自由を守り抜くことは、実に「高く付く」ということです。芸術家として本当に自由に制作するためには、限りなく「自由個人」として在ることが大切なのです。金策に駆けずり回って、ついぞ作品に集中することのできなかったこの1年半を振り返ると本当に辛いですが、それ以前の、何の縛りもなく、何かのプログラムの一員でもない状態で、完全に自腹でブルキナファソへ渡って自由に過ごした数年間があったからこそ、ある程度納得のいく形でこのオペラが制作できたと思っています。8月4日夜、万博会場を後にしてホテルへ戻るバスの中で、「あなたは今日の結果に満足したの?」と友人の台湾人作曲家が私に訊ねました。(彼女は今回の公演で字幕のプロジェクションを手伝ってくれました)私は啞然として答えに窮しました。ちょっと待ってよ、そんなに急かさないでよ。ある程度の手応えはあったといえども、終演直後というのは、細かいミスなどが大変気になるものです。そしてまた、自分の気付いたことなどはきっとほんの一部に過ぎず、会場で起こっていたことのすべて、私たちはいったい何ができたのか、そして何ができなかったのか...観てくれた人々に何が伝わったのか。それらはなかなかわからないことですし、これから私の人生がまだ続いていくとしたら、その中でふとした瞬間に何かがわかることもあるかもしれません。もちろん、すぐにフィードバックを書き送ってくれる人々もいるけれど、彼らだってすべてを言い尽くしているはずはないですから。公式配信、私を含めた各人がSNSに投稿する写真やビデオに対するフィードバックも次々とあるでしょうけれども、公演以来自分の心の奥底でうごめく感覚を、まずはじっくり捉えて、それを理解することに務めたいと思います。「人からどう見えるか」ばかりを気にして、「人の評価」ばかりを気にして、フォロワーの数や高評価の数、再生回数を気にして、自らの芸術をそんなもので査定するようになってしまっては、もはやシステムの奴隷、自由主義経済という名を騙る多国籍企業の巨大勢力の掌で踊る駒にすぎません。さて、万博で公演したことは私たちのプロジェクトに箔を付けたのでしょうか?いいえ、「万博」という催し自体に最初からステータスがあるのではありません。多くの人々の反対を押し切って開幕した今回の「万博」にステータスを与えられるかどうかは、ひとつひとつのイベントの内容、一人一人の参加者の心意気にかかっています。戦火の消えることのない世界、深刻な環境破壊が止められていない状況、その中で開催された大阪・関西万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン(Designing Future Society for Our Lives)」です。このテーマは、多様ないのちの尊重と一人ひとりが輝く未来を追求することを掲げています。経済だけでなく、環境・人権・教育・健康など多方面から持続可能な社会の実現を目指して。万博におけるひとつひとつの催しは、このテーマにどれほど貢献したのか...その審判を受けるのにもまた、一定の時が必要でしょう。


万博公演動画上記をクリックしていただくと、万博がアップロードしているオペラ公演動画をご覧になっていただけます。波乱万丈の日本旅行・万博公演が終わり、ワガドゥグへ戻って1週間目。残務処理やら何やらに追われて休む暇もない有様です。でも、あまり遅くなりすぎないうちにご報告をさせていただきたいと存じます。オペラ・プロジェクトを開始してから5年半が経過しようとしています。万博での公演は決して私の目標でもゴールでもありませんでした。私の目標は興味のあるオペラというジャンルに西アフリカの強力なDNAを加え、全く新しい様式のオペラを作ること。そしてそれは同時に、グローバリズムと、文化さえも観光資源として売りに出そうという各国政府の振舞い、「ONE WORLD、ONE PLANET」を謳いながらも各国の文化をブランディングしたがる傾向…そんな全てに大いなる疑問を呈示するための取り組みでもありました。そして、強大な勢力にコントロールされているメディア、溢れんばかりの情報の洪水に溺れ、何でも知ることが出来ると容易に錯覚しかねない状況で、実は重要な事実でも全く報道されていないことがままあるという現実。ブルキナファソで暮らすうちに、この現実を否応なく突き付けられ、その中で芸術に携わる者として今、何をしなければならないのかを考え続けてきました。万博で公演することは、そういった、現状を牛耳る勢力の企画する祭典の真只中で、芸術の力によって、この世の有様に対する大いなる批判と疑問を突き付ける絶好の機会だと思いました。しかし、当然ながらそれは決して簡単なことではありませんでした。ブルキナファソは今回の万博に途上国支援の対象として参加しました。出演者、音響や映像のスタッフを含む10名が万博に招待されましたが、オペラ公演はあくまでもボランティア公演としての位置付けでしたので、入場料を取ることはもちろん出来ませんでしたし、公演したナショナルデーホールに備わっている設備以外に必要なものは全て自力で用意しなければなりませんでした。ところが今なおテロリストとの戦いに明け暮れるブルキナファソ政府からは1円の支援も受けられず、(個人にとっては)かなり莫大な費用を自力で準備するために2024年2月末から2025年4月末まで日本へ帰りました。が、円安などの状況でスポンサーを得ることも難しく、全ての当てははずれ、8ヶ月が経過した時点でほとんど何の成果も得られず、途方に暮れました。10月のある日、内閣官房事業・万博国際交流プログラムというものの存在を教えてくれた人がいて、その時点でもう応募が締め切られているかも知れないと言いながらも、情報リンクを送ってくれました。実際、その時点でこの事業は第九次募集を受け付けていました。しかしこれは、私が自分で申し込めるものではなく、全国の地方自治体が万博参加国の一つを選び、その国との交流を深める事業のために登録申請をするものでした。私は奈良県橿原市を含む5つの地方自治体に登録申請をお願いしましたが、人が足りなくて余計な業務を増やしたくないという理由で4つの自治体から断られ、橿原市だけが受け入れてくれました。2025年が始まる頃にようやく令和6年度事業をスタートさせましたが、まだほとんど活動らしい活動も始めていないのに膨大な書類作業に追われるばかりで、こんな調子では令和7年度はいったいどうなってしまうのだろうと頭を抱えました。結局、会社を設立して橿原市から委託を受けて事業を進めるしか道はないと悟り、大学時代の同期生の助力を得て合同会社を立ち上げました。いち早くワガドゥグへ戻ってリハーサルを始めたいのは山々でしたが、資金が用意出来なくては万博公演は実現しませんから、帰るに帰れず、滞在は長引くばかり。この間実家からも「いつまで滞在するやらきちんと頼みもしない」と嫌味を言われて、居辛さのあまり、急遽三重県熊野市に部屋を借りて移り住みました。膨大な作業の合間に、冬の熊野灘で泳ぎ、海底の珊瑚礁や魚の群れを眺めてはひとときの慰めを味う日々でした。4月20日にようやく日本を発ったものの、ブルキナファソのVISA発給を待ちながらドイツでさらに2ヶ月近くを過ごし、ワガドゥグに戻ったのは6月半ばでした。バンドメンバーを伴っての日本行きまであと5週間しかありませんでした。その頃には様々な経緯から、オペラ公演のみならず、万博での公式式典での40分間の演奏も頼まれてしまい、オペラとは全く別の5曲をマブドゥに用意してもらっていましたが、私はその全てを5週間でマスターしなければならず、依然として続く万博事務局とのやり取りで忙殺される中、ともかく1分1秒を惜しんで準備に努めるしかありませんでした。出発当日(現地時間7月23日朝4時50分発の飛行機でした)はものすごい雨が降り、私たちの住むあたりは道路が川のようになってしまいました。それでも何とか空港へたどり着き、無事出発し、初めて飛行機に乗ったマブドゥ、ラミッサ、ヤクバは大興奮。でも機内のトイレの使い方も何もわからない彼らに現場でいろいろ教えるのはなかなか大変でした。イスタンブールでの乗り換えは、なんと次の便を待つこと11時間50分!! 日付が変わってようやく関西空港行きの便に乗り込み、10時間近いフライトで7月24日夜7時頃に関西空港に着いた私たち。検疫でイブラヒムが引っ掛かり、(39度1分の熱でカメラが反応)そのまま空港内のクリニックへ。私の下手くそなモレ語通訳による問診後、直ぐに血液検査が行われ、あろうことかデング熱と判明。その後も延々と続く検査や質問攻めの末、ようやく2時間半後に入国させてもらいました。が、既に22時を過ぎて閑散としたラゲージクレームに寂しく取り残された私たちの荷物を引き取ろうとしているところへ麻薬捜査犬を連れた警察の方々が!すると犬が私たちの荷物のうち2つに異常に興奮して反応するではありませんか!メンバーの誰かが違法薬物を持ち込んだのかと、私は啞然…でも山羊革を張った太鼓の匂いに犬が興奮しただけでした。翌朝9時から金橋小学校で子どもたちとのリハーサル開始なのに、イブラヒムを奈良県立医科大学病院の感染症科へ連れて行って受診させろと至上命令が下り…。すべて綿密に計画を立ててありましたので今更リハーサル時間変更など不可能。ですがブルキナファソ大使館や万博の事務局の人々が病院への付き添いをしてくれるはずもなく…結局ブルキナファソ在住の日本人ダンサーで今回もオペラに参加してもらっている吉田さんに病院への付き添いをお願いしました。この後も次から次へと起こる予想外の出来事の連続で、まともに眠ることすら出来ない私の姿に気を遣ったマブドゥは、歯の激痛を私に告げることを躊躇。ひたすら何でもない顔をし続けていましたが、あまりの痛さに遂に自分でその歯を抜いてしまったんです!翌日遅くなってからそれを知った私は、衝撃のあまり目眩がしました。せっかく保険が掛かっているのに、何で歯医者に行かないのよ?! 化膿したらどうするのよ?主演歌手無しで公演できるはずないじゃない⁈? でも「あなたがそんなに忙しいのに歯医者に連れて行ってもらうなんて、そんな迷惑をかけられない」というマブドゥ…ステージ上で見せる笑顔の裏の、凄まじい真実の一端です。(この後の報告は②に続きます)


ご無沙汰しています。皆さま、お元気でお過ごしでしょうか?私は7月24日にバンドの仲間たちと関西空港に着きます。現在日本で開催されている万博にブルキナファソの代表として出演することになりました。8月4日(ブルキナファソのナショナルデーです)午後4時から5時50分まで、ナショナルデーホールでオペラ公演を行います。同日の午前11時から12時まで、やはりナショナルデーホールで行われるブルキナファソの国家式典でも演奏します。翌日5日は、ポップアップステージ(東内)において夜7時から1時間ほどのコンサートをします。前回の活動報告に書いた夢-「マブドゥがいつか飛行機に乗る日」が目前に迫っています。ブルキナファソは、途上国支援プログラム対象国として万博に参加しています。今回のオペラ公演は、ブルキナファソ暫定政府の推薦により参加が承認されましたが、純粋にボランティアとしての公演で、無償で上演します。往復航空券、5泊6日分の宿泊費用と日当は万博側が負担してくれるのですが、それでも、ブルキナファソのような貧しい国からの参加者にとって、これがどれほど大変なことか、すぐにはご理解いただけないかもしれません。パスポートを申請し、VISAを取得し、指定された予防接種を受け、普段はむき出しのまま運んでいる楽器のカバーも、飛行機にチェックインするのにふさわしいように作らねばなりません。万博が領収書と引き換えに払い戻してくれるまで、自分たちでホテル代を立て替えねばなりません。何よりも、途上国支援プログラムでは出演者・ステージ技術者チームを含めて10人しか招待してくれませんので、オペラに必要な合唱団をどうしたものかというのが、最大の悩みでした。そもそもこの10名の枠は、国家式典の中の40分の文化イベントを行うために設定されているようで、オペラのような大きな作品を上演するという想定はされていないようです。しかし、私たちは2020年初頭から5年半かけてこのオペラを制作してきました。この間のブルキナファソの激動の時代を作品に反映させてきました。 テロリストが国土の4割を占拠し、テロとの闘いで人々が命を落とす中、政府は万博参加を決めました。そしてこのオペラがブルキナファソの国民感情を高揚させ、長期にわたるテロとの闘いを乗り越え、共に平和へと歩んでいく力となることを認めて、文化代表団として選んでくれたのです。マスメディアを通してでは、遠く離れた国の人々になかなか伝わりにくいブルキナファソの庶民の心情を、オペラを通して浮かび上がらせ、音楽を通して共感を得ることも期待されています。幸いにも、内閣官房プログラム・万博国際交流プログラムというものの存在を知り、昨年末に奈良県橿原市にお願いし、ブルキナファソとの交流のためにこの事業に登録していただきました。これによって橿原市立金橋小学校の有志の児童たちが合唱・ダンスでオペラ公演に参加してくれることになったのです。当初20~30名の児童を募集しましたが、予想をはるかに上回る応募があり、68名が万博の舞台で演技するために練習を重ねています。7月25日から彼らと合同で練習するのが本当に楽しみです。日本で万博開催に反対する声が多く上がっていたことも承知しています。私自身、この万博のあり方に全く疑問がないかというと、そうではありません。ですが、私たちにとって、これは日本の皆さまにオペラを観ていただく千載一遇のチャンスです。8月4日に万博・ナシオナルデーホールで皆様にお目にかかれればこんなにうれしいことはありません。お待ちしています!


デジタルアルバム LÀ-BAS OU ICI...8月24日に私たちの新しいアルバムがリリースされました。オペラ LÀ-BAS OU ICI... の中からMaboudou Sanouの作曲した4曲を収録しています。ブルキナファソはいまだテロとの厳しい 戦いを強いられています。ですが、真の独立を求めてトラオレ大統領の下に団結し、よりよい未来のために頑張っています。世界の他の地域でも戦火の絶えない今、平和を切望する歌声を世界中に届けたいのです。どうぞ皆様がアルバムをダウンロードしてお聞きくださいますよう、メンバー一同、心からお願いします。上記のタイトルをクリックしていただきますと購入サイトに飛べます。                


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