この世界の中でどう生きていくか。その時、本書はきっと役に立ちますこの本はですね、瞑想をやっていない方々にも読んでほしいと思っています。どういうことなのかというと、こういう世界があるんだとか、こういう考え方ができるんだとか、こういう可能性があるんだとか。そういうなんというのか、皆さんが知らなかったことをここで知るということが、たぶんできます。この本に書かれていることを全部知っている人は絶対にいないと思います。そして、これが私が聞き役になって、私はけっこう人から話を聞くのが上手なんですね。いろんなことを聞き出して、まとめたということで作った本なので。だから、どんな方でもこの本を読んで、何か感じるところがあると思いますし、皆さんの一人ひとりのマインドフルネスに向けてですから、皆さんの日々の暮らし、あるいはこれから世界がどうなっていくかを考えたり、この世界の中でどう生きていけばいいんだろうということに、きっと役に立つと思うんですね。だから、そういう意味で、瞑想と意識の探求というタイトルですが、意識というのは誰でも持っているものですし、日本的マインドフルネスというのを日本の心というようなものだととらえていただいて。これを皆さんが読んだ時に、どんな体験ができるかなというのが私はすごく楽しみです。なにか、皆さんにお伝えできるものがきっとあるぞと思っています。けっこう難しい話をしてしまいましたけど、あまり難しいことは考えずに、ぜひ読んでいただけたらなと思います。よろしくお願いします。(熊野宏昭)* * * * *ラストスパートです!クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381
光吉俊二先生の数論には「無」や「空」が登場する光吉先生とはですね、鎌田先生と対談させていただいたZen2.0の懇親会でお会いしたのだと思います。最初お会いした時、タンクトップでスキンヘッドのおじさんがすごい勢いでいろんな話をしてくださって、私はたまげて、おいおいちょっと待って。そんな感じでした。でも、何かお話になっていることに引っかかって、自分は人工自我を作ろうと思っているんだとおっしゃるんですね、、、、。人工自我ってなんですか?人工「自我」なわけですから、自分で感じなくてはいけない、自分で思いつかなくてはいけない。それが人工「自我」ですよね。それを光吉先生は作ろうとしている、もうできるというところまで来たんだとおっしゃったんですね。そのあと気になって、光吉先生の資料を調べていたら、無(む)とか空(くう)とかを、ご自身が作った数学のなかで、ある概念を示す言葉として使っているんですね。まず空に至って、無を通り抜けて、反空に至ることで、反宇宙から何かを持ち帰ることで、自我は創生するんだということが書いてある。「はぁ、反宇宙か」という風に思いました。それがこういう原理にすれば実現できるはずだということが光吉先生の書かれたものにあるんですね。結構前の15年くらい前の文章ですが。ほとんど本などを書いておられない方なので。これは一度きちっと聞いてみないとと思いました。なんでそう思ったかというと、空とか無というのは仏教の専売特許ですよね。瞑想が扱ってきた、あるのかないのかよくわからないものなのですが、空というものを体験する、無というものを体験する。例えば横田老師は無になることを目標にするんですと、気海丹田というへその下指三本のところに気持ちを集めて、「無になるんだ」「無になるんだ」「無になるんだ」「無になるんだ」と、ずっとやっていたと。無になったかというところで、ずっと時間だけが流れて、そこで大きな拍子木をカーンと鳴らされると、自分が鳴った、という風に思うんだそうですね。そんな風にして、無というものを目指していくんだということをおっしゃっていました。ということは、無になるということは、サマタ瞑想と非常に深い関係があるんですね。空というものにたどり着いて、その先の無にまでたどり着こうとしているのがサマタ瞑想のやろうとしていることですけど、サマタ瞑想(集中瞑想)には禅定という体験が起こるんですね。禅定という体験は、一度も体験したことのない人には、全くわからないです。これは新しい意識の状態なので。我々がこうして五感に基づいて生きている、五感に基づいて働いている意識とは、全然違う意識なんですね。五感に基づいて働射る意識が全部抑えられて行って、働かなくなると、その下にある色界心というのが表に出てくるという理屈なんですね。五感に基づいて働いている意識を欲界心というのですが、欲界心の働きが全部静まって止まると、サマタ瞑想は別名ストッピングメディテーション、止める瞑想という風に言うのですね。止まるとその奥からわっと出てくる。わっと出てきたものは全く新しい心の働きだし、これが出てくると我々のパーソナリティは非常に大きく変わってしまうのですね。ということは、これは、我々の中で新たなものが生まれている、創発しているのじゃないか。そうすると、光吉先生が言っている、反宇宙に行って戻ってくるということを、もしかしてサマタ瞑想はやっているのではないか、と思ったんですね。そこのところの疑問を光吉先生にぶつけていった、というのがこの対談です。サマタ瞑想はアナログ、ヴィパッサナー瞑想はデジタルそして、結論としては、やっぱりそうだったかぁということなんですが、そんな大まかなことじゃなくて、宇宙と反宇宙の接点を通って、向こうに行って戻ってくるということで創発が起こるわけです。こっちの宇宙から反宇宙に行けば、反宇宙のほうで何か生まれるわけですね。反宇宙からこっちの宇宙にかえってくれば、こっちの宇宙で何か生まれるわけです。そういう風にして創発というのは起こるんだということを数学的に明らかにしたわけです。光吉先生の数論は、量子論と相対性理論を同時に説明できる、そういう数論なんです。それから、デジタルとアナログを同時に表現できる、という演算子です。このデジタルとアナログを同時に表現できるということが、ものすごく重要で、すべての物を明らかにしていく。そして、実はマインドフルネスというものの実践の構造もそうなっている。アナログがサマタ瞑想、デジタルが観察瞑想と言っていいと思います。なぜか? 皆さん量子力学を勉強したことのある人もいるかもしれませんが、我々が量子というものを観察すると、量子は粒子になるんですね。たとえばこういう実験があります。光子、光の粒を一個ずつ発射する。2つスリットがあります。こちら側で光子を発射すると、スリットを通った光子は向こう側にあるフィルムにぶつかって、そこに感光します。スリットが2本あると、光子が一個ずつ行くわけだから、向こう側に2本の像ができるはずですよね。これが、光子が何らかの形で通ったというのを観察すると、粒子としてぶつかるということが起こる。でも観察しないと波になるんですね。一個ずつしか出ない光子があたかも波のようにふるまって、その波が2つのスリットを通っていくので、干渉縞というのができるんですね。波の山と山が重なったところが濃くなって、山と谷が重なったところが薄くなる。これは、どこかでどっちのスリットを通ったのかというのを検出するような装置をいれると、干渉縞はできない。粒が当たった2本の痕しかできない。ですから、観察するということは粒子をもたらす。デジタルを実現する。ですから観察瞑想はデジタルを実現するんです。それに対して、サマタ瞑想はアナログのほうで理解できる。ですから、このアナログとデジタルの両にらみでとらえていくことで、いろんなことがわかってくるということがわかりました。禅定体験とはメビウスの輪を通って反宇宙に行くことだった!それから、宇宙と反宇宙の接点の構造が、メビウスの輪になっているということを光吉先生は見つけたんですね。メビウスの輪が宇宙と反宇宙の接点のところの構造なのだと。メビウスの輪のところを通ることによって反宇宙に行き、そしてまた戻ってくる。この世界観は数学的には説明できた。数学者にとって数学的に説明できたということはそれが事実ですよ。それが現実なんだということです。それ以上でもそれ以下でもないわけですけども。宇宙の中で、このメビウスの輪の構造がどこにあるかというと、ブラックホールにあるんだと言っていました。ブラックホールが宇宙と反宇宙の接点なんだと。それから、光吉先生の数論はもうひとつ、宇宙の構造と意識の構造が同じなんだ、同根なんだということを示しているんですね。ということは我々の意識というもの宇宙と同じ広がりを持っている。我々の意識の中にもブラックホールがある可能性がある。そういうことになっていくんですね。であれば、我々がサマタ瞑想で禅定体験をするのは、我々がブラックホールの中に入り込んで、向こう側に抜けて、また戻ってくるということなんじゃないか。あるいは我々が生まれるとか死ぬということも、もしかしたらそういう現象なんじゃないか。そういうようなことが見えてきた、ということなんです。宇宙の数式と意識の数式は同根そしてこれは宇宙の数式なんだと光吉先生はおっしゃっていました。宇宙の数式が書けるということは、宇宙を外側から見ているということだから、反対側を観れば、次は宇宙の外の数式が書けると思いますとおっしゃっていました。宇宙の外の数式が書けるということは、宇宙内存在であることをやめるということです。宇宙ない存在、イコール生命であることをやめる、ということが仏教でいう涅槃ということなんだと思います。ですから、涅槃というのも、いずれ数式表現されてしまうということだと思います。ヴィパッサナーが目指しているのは、禅定ではなくて、涅槃です。ですので、ヴィパッサナーが目指しているのは、このメビウスの輪の外に出る。宇宙内存在であることをやめるということなんだな、ということが、数学的に示された。というのが光吉先生との対談でたどり着いたことでした。これが終着点、わかったなーというところなのですが、だからと言って私は何も変わらないのですね。何も変わらない。今まで通り生きているだけなんで。そこまでわかって、さあどう生きていくか。また出発点に戻ってきちゃったな。というのがこの本の終わり方ということになるのかと思います。(熊野宏昭)* * * * *達成率98%まで来ました!ラストまであと4時間あまりです!どうぞよろしくお願いいたします!クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381
熊野宏昭先生からクラウドファンディング最終日のお礼のビデオメッセージが届きました!お釈迦様のエピソードであるローヒタッサ経と最新の宇宙論、量子物理学そしてクラウドファンディングには深い関係があるという話です!本日、クラウドファンディング最終日、どうぞよろしくお願いいたします!残すところあと6時間、現在達成率95%です。クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381
柴田先生のお仕事、実践は、臨床心理学の教育の中では語られていないこと柴田先生のご本『沈黙を越えて』(萬書房)を読ませていただいて、本当に私も驚きました。本当にこんなことがあるんだと。今日もこの会に、心理を専門にしている方々が何人も来ていただいていると思うのですが、ぜひ読んでいただきたいです。今回のこの対談集の私と柴田先生の対談も読んでいただきたいですし、この柴田先生が書かれた『沈黙を越えて』も、ぜひ読んでいただきたいです。臨床心理学の教育の中では、こんなことは語られていないです。でも私は自分の目で見てきたし、それは実践されているんです。私が、今回のこの対談本をぜひ世の中に出したいと思った1つの意図は、この柴田先生のお仕事を、もっと多くの人に知ってほしいということです。これが1つです。それと最後6人目の対談者の光吉先生の仕事も知ってほしい。この2つが、とても大きな動機になっています。柴田先生の開催されている「きんこんの会」というところに一度お伺いしました。障害の当事者の方々が30人くらい集まっておられ、家族の方、柴田先生、そして何人かの通訳をされる方が参加されている会でした。知的障害の方、けっこう重い自閉症の方、普通にしゃべれない方々、そういう方々の手を取って、自分の手のひらにその当事者の方の指を乗っけるんですね。そして、自分の手のひらに言いたいことを書くようにしてもらうと、ちょっと動くだけでも読み取っていけるということなんですね。これを指筆談とおっしゃっていました。そして、この読み取るスピードがすごいんです。普通にしゃべる速さなんです。ということは、「これって本当にその人が、話していることなの? 柴田先生が自分の思いを書いているだけなんじゃないの?」と、そんな風に思われてしまいますよね。でも、私は見てきましたので、そうではないと。どんな感じなのかというと、みんな順番に話していくんですね。知的障害の当事者の一人の方が司会をして、柴田先生が順番に一人ひとりの隣に行って、座って、手を取って、こういうことを今話そうとしていますということを、柴田先生の口から話してくださっている。そうすると、みんな静かにして聞いているんですね。一人ひとり、聞いているんです。自閉症の方で、奇声を発して、全然じっとしていられない方もいらして、ギャーギャー言っているんですけど、柴田先生が隣に行って、手を取ると、すっと静かになって、そして考えていること、年相応に考えていることを、お話されるんですね。後で聞いて分かったのですが、自閉症の方というのは、不随意運動が出てしまうんですね。自分の言いたくないことを情動行動のようなものが出てきて、言っても仕方のないようなことをずっと繰り返してしまう。しかしそれは、自分にとって不本意なので、なんとかそれを抑えようとする。その抑えようとするところで、我々の心のキャパシティ、ワーキングメモリを全部使ってしまう。それで自分が言いたいことがあってもそれが言葉にならない、ということなんですね。だから、こちらがそれをサポートして、言葉にしてあげるということで手伝ってあげれば、自分が話したいことがそこからずっと出てくる、ということなんですね。なるほどなと思いました。身体を通して、うたがそのまま聞こえているそして、もしこれが本当に通訳をしている方々の考えていることを話しているだけであれば、みんなも聞いていないと思うんですね。だけど、みんな黙って静かに聞いている。私も静かに聞いている。鎌田先生が完全受動態についておっしゃった、日本の和歌とか俳句というのは生きとし生けるものが歌っているそのうたを聞いて、それをそのまま写し取っていく。それが和歌や俳句なんだ。完全受動態になれば、生きとし生けるもののうたが聞こえてくるんだ。鎌田先生はそういう風におっしゃっていました。これは古今和歌集の仮名序というところに、紀貫之が書いたらしいのですけれども、そういうことが書いてある。それと同じだ、と私は思ったのですね。柴田先生がやっておられることは、この人たちのうたがそのまま聞こえているんだ。そのまま聞こえる。どうやって聞こえるかというと、身体を通して感じるのだと。非常に不思議で、最初は運動感覚を感じている、掌の上で相手の指が動く運動感覚を感じているのだけれども、それがそのうち必要なくなるというんですね。手を持っているだけでわかるようになってくる。これは何なんだろう? 運動しようとする、神経インパルスでもいいですけど、神経インパルス自体を感じているのか?そのひとの本当に言いたいことが、柴田先生の口を通して出てくる――言霊という言葉がありますが、鎌田先生は言霊の研究者ですが、柴田先生は言霊実践家だと、私はその時思いました。中途障害か何かで動けなくなった方がその時来ておられて、全くしゃべれない。その方は横になって、やはり通訳の方に手を取っていただいて、お話をされた。その時におっしゃっていたことが、私は凄く印象的でした。「ここに来ている人たちは、みんな本当にやさしいですね」と。「身体でわかるんです」と、その時おっしゃったんです。私もそう感じたんです。ちょうど津久井やまゆり園で非常に悲惨な殺人事件があった後でした。当事者の方が巻き込まれた。あのことについてみんな怒っているんですね。私も皆さんのお話を聞いて、その怒っている内容に、本当にそうだなと思いました。「みんな言葉が話せなくても、知的障害でも、命なんだから大切にしなくちゃいけないでしょう」と、そんな感じでいう人たちは大勢いる。でも、そうじゃない! われわれは喋れる! 我々は言葉を持っているんだ! 我々はいろんなことを考えているんだ! それを知ってもらわないと、という話をみんなされていました。私も、そこの場にいさせていただいて、心洗われるというのはこういうことだなと思いました。鎌田先生のところでお話したことで言えば、超パワースポットという感じでした。そういうことができるんだということを、我々はもっと素直に認めていくことで、自分というものの出来ること、あるいは人とのつながりも広がっていくんじゃないかな、ということを思わせていただいた対談でした。(熊野宏昭)* * * * *260人を超える方にご支援いただきました!最終日です! よろしくお願いいたします。クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381
西平直先生には「無心」の働きについて伺い、ここまでの話題のまとめをお願いしました西平先生は日本マインドフルネス学会に来ていただきお話をお聞きして、いつかお話お聞きしないとと思っていました。西平先生との対談でテーマとなる「無心」というのは、鎌田先生とお話しをしているときに、すでに私は気づいたんですね。観察瞑想の方法というのは注意を分割して、いろんなものに気を配っていく。そうすると、我々の心のキャパシティが全部使われてしまって、様々なものを同時に感じ取るんだけれども、それ以上もう我々の注意資源がなくなり、思考も浮かんでこない。思考が浮かんでこないので、自分も成立しない。しかし感じ取っているのは現実なので、現実と一体になって現実がありありと感じられる。そういう進め方をしていくんですね。でも、我々は学習するんですね。そうすると、注意の分割をしていっても、だんだん上手になっていく。そうすると、最初は注意の分割をして心のキャパシティを使い切っていたのが、余ってくるんです。余った心のキャパシティって、どうするんだろうか。注意というのは能動的にいろいろなものに注意を振り向けていく、転換する、分割するということをしていくわけです。これは注意資源を使うことになるんですね。でもなにか、突然、ドーンと音がして、そこに注意が惹きつけられる。こういうのを「受動的注意」というのですが、受動的注意では注意資源は使われないんですね。完全受動態で世界と関われば注意資源は使われない、心のキャパシティは残る。完全受動態になったとき、我々の能動的な能力を使っていない。では残った心って何なんだ?それを実は、日本の文化では「無心」といってきたんですね。そこにようやく私はたどり着いたんですね。「無心に」という言い方を日本語ではするんです。無心にパチンコやるでもいいですが、日常用語としても使われています。ですが、「無心」というのは実は、心の大きな大きな働きのことなんですね。マインドフルネスや完全受動態で、感じることが上手になってくる。心キャパシティが余ってくる。でも余ってきた心は最初にやっていたように後悔したり、取り越し苦労したり、自分のことばかり考えたりしないんですね。余ってきた心というのは、自由にいろんなことで動く。非個人的な心なので、広がりをもっていろんなことが実現できていく。その代表的なものが能なんですね。世阿弥が大成し発展させた能です。「無心に」舞を舞うんですね。もっと正確に言うと「無心が」舞を舞うんですね。西平先生も鎌田先生も、世阿弥の研究者です。そういうところがどうなっているんだろうか、というところを西平先生に教えていただいた、というのがこの回です。身体は個人を超えて響き合う。五蘊は個人を超えて響き合うあと、身体性についてもお聞きしました。その中で、「なるほど」と思ったことがあります。身体というのは言葉でコントロールされていない。一方「自分」というのは言葉の働きで作り出される、思考の働きで作り出されるのが自分である。なのでこれは個人的な枠の中にはまってしまっている。そこから非個人的なところに移っていくというのが、瞑想が目指していることなんです。身体というのは、もちろんこれは自分の身体なんですけど、身体の仕組みというのはみんな変わりませんよね。だから、身体というのはもともと非個人的なものなんですね。ということは、身体というのは、個人を超えて、個体を超えて、感応するのではないですか、ということもお聞きしたんです。西平先生はそういうことも本の中にお書きになっていたので。「我々の身体というのはどのくらいまで感じることができそうですか」とお聞きしたら、「それはかなり遠くまで感じるのではないですかね」とおっしゃっていました。「地球上だったらどこでも感じるのではないでしょうか」ということまでおっしゃって。哲学者の先生がそこまで言ってしまうのか、と思いました。アフガニスタンで活動されていた医師の中村哲さんが銃撃されて亡くなった事件があり、それを聞いた時、私も身体もすごく動揺しましたとおっしゃって。この対談の後、私は井上ウィマラ先生と対談させていただいたのですが、その時井上ウィマラ先生がおっしゃっていたのがこういうことです。人間というのは五蘊でできている。色受想行識。色は身体です。受は五感です。感じた後動く心。想は表象を作り上げる心の働き。行は思考パターン、行動パターンで、ここに認知行動療法が扱う問題がある。あるいは俺が俺がというのも行のところにある。そういう習慣的なパターンです。そして識は対象を取って自分と対象というふうで認識をする働き。あるいは、記憶も含まれている。この色受想行識のご蘊の中のどこに自分があるかと探しても、どこにもない。「俺が」というのをどこにも位置付けることができない。無常に変わり続けていく五蘊があるだけなんだ。これが仏教の大きな発見なわけです。「私」というのが出てくると、これは個人的なもので、枠組みを作って、そこから出られなくしてしまうのものなので、この私というものがあると、我々は響き合うことができない、共感することができないんですよ、とウィマラ先生はおっしゃっていました。もし、この私というものが落ちていくと、それぞれのレベルで共感する、それぞれのレベルで響き合うんですよということをおっしゃっていました。だから、身体は身体のレベルで、感受は感受のレベルで響き合うのだと。西平先生からは、そういうところにもつながるお話をお聞き出来たかなと思います。ここまで横田老師、スマナサーラ長老、鎌田先生といろいろなことをお聞きしてきたのを、哲学者である西平先生はどのようにまとめてくださるのか、ということもありました。ここまでのところのまとめの章として、読んでいただければと思います。(熊野宏昭)* * * * *最終日です! よろしくお願いいたします。クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381