スマナサーラ長老の宿題に、鎌田東二先生の完全受動態からヒントをもらったクラファンのキックオフの時もお話したのですが、鎌田先生というのはとっても不思議な方で、「日本の山野がそのまま人の形をとった」というような方なんですね。それで京都大学の名誉教授だったりするんでまたびっくりするんですけど。修験道の山伏みたいな存在と言っていいかもしれないです。その鎌田先生に、「〈俺〉がいろんなことを知りたいんだ、〈俺〉が悟るんだ、〈俺〉が気づくんだという、この〈俺〉がは何とかなりませんか?」ということをお聞きたかったんです。対談の準備のために改めて鎌田先生の本を読んでいたのですが、その中に「完全受動態」という言葉が出てきました。完全受動態になれれば、心が開くし、生きとし生けるもののうたがそのまま聞こえてくるんだ、ということが書かれていました。「これだ!」と思いました。実践していると「ただ気づいているだけ」という瞬間が出てくることがあるんですね。「気づこう、気づこう」としている、今の自分の身体の状態、五感を通した感覚に気づこうとしているのですが、「ただ気づいているだけ」という瞬間が訪れることがあって、この時には、俺が俺がという自分がいないわけです。スマナサーラ長老の本のほかに、もう1冊、私がマインドフルネスを学んだ本がラリー・ローゼンバーグの書いた『Breath by Breath』です。この本は『呼吸による癒し』(春秋社)という邦題で井上ウィマラ先生が翻訳されています。これは本当に素晴らしい本で、日本語で3~4回、英語で7~8回読みました。ウィマラ先生の訳も本当に素晴らしいです。この本の中に、「呼吸を観察していると、呼吸だけを感じられる瞬間がある。それはどういう感じかというと、There is no breather. 呼吸している人なんかいない、呼吸だけがそこにある。そういう経験が出てきますよ」ということが書かれているんですね。呼吸しようと思わなくても息が続いていく、死ぬまでの間。そういうことに気づくというのがマインドフルネスの目指しているところなんだと。だから、ただ気づいているだけというのが、マインドフルネスの目指していることなんだけど、ではどうやったらそうなるの? 「鎌田先生助けてください」という感じで、お話を聞いてみたくなったんですね。鎌田先生の本の中に見つけた「完全受動態」になれれば、向こうからやってくるものを受け取るだけだから、自分が気づこうって気持ちはないよな。そして感じているということが実現できる、と。でもどうしたら、そうなれるの? と思っていました。そして、鎌田先生の『神道とは何か』(PHP新書)という本の中に、それはユーミンの「やさしさに包まれたなら」あの歌だと書いてあるです(笑)。やさしさに包まれた状態になれたら、自分の五感があらゆる方向に開かれて、完全受動態になって世界が自分の中に流れ込んでくるでしょう、ということが書かれていたんですね。そこから私が気づいたのは、マインドフルネスとか瞑想とか意識とかを考えていく時に、常に「こちら側」で考えてしまう。自分がどうすれば気づけるんだろうか、自分がどうすればわかるんだろうか、自分がどうすれば自分をなくせるんだろうか……無理ですよね。ではどうすればいいかというと、環境の側なんです。環境に鍵がある。たとえば円覚寺のようなところに行って座れば、すっと気持ちが落ち着く。日本人のパワースポット好きもそういうことと関係があるんじゃないか。パワースポットと言われるところに行って身を置くと、全身こう全方位に間隔が開いてそこにあるものをそのまま感じる取ることができるんじゃないか。なるほど、だから鎌田先生は日本の山野のような人なんだ、と私は腑に落ちました。「俺が、俺が」と思わなくても、場所の力を使えばいい。その場所というのも、例えば日本人がずっと大切にしてきた場所がある。その場所に出かけていくと、私たちはすっと気持ちが落ち着く。そして場と一体になる。これ何なのか。場所自体が、我々の先祖がそこに通いながらいろいろなことをしてきたことによって、その場所が変わってきているわけです。大昔から、我々の先祖がそこでお祈りをして、耕して、活動して、その場所自体が変わっていってるわけですよね。だから我々が、その場所に出かけていくと、場所の中に織り込まれている、先祖がその場所とかかわってきた記憶に我々が感応して、我々自身もまた先祖が体験したことと同じようなことを体験できる。これが、完全受動態なんだな。そんなことが、この対談を通して発見できたことなんじゃないかな、と思います。(熊野宏昭)* * * * *最終日です! よろしくお願いいたします。クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381
スマナサーラ長老から、私の方法はものすごく回り道でくどいよと、やんわりと示唆していただいた私は人から習うのが上手ではないのですが、何もないところで実践はできませんので、勉強しながら、その都度いろんな人に教えていただき。あと、本をいろいろ読んで、そこに書いてあることに基づきながらやってきました。マインドフルネスやヴィパッサナーに関しては、スマナサーラ長老の『自分を変える気づきの瞑想法』、今は第4版まで出ていますが、これの最初に出た本を買って、その本に基づいて私はヴィパッサナー瞑想を覚えました。そしてそれを実践して今に至っている、まぁそんなつもりだったんですね。なので心の中では、スマナサーラ長老に教えていただいて、私のマインドフルネスは始まったし今も実践しているんだと思っていたわけです。一度、ゴータミー精舎という幡ヶ谷にあるお寺に行って、一度だけですけど何人かの人たちと直接スマナサーラ長老のお話をお伺いしたことがありました。本書に収録した対談の時は公開のワークショップだったので、私もマインドフルネスの実践指導をして、10分くらいやっていただいたんです。それが会の前半でした。後半でスマナサーラ長老のお話と対談でした。休憩に入るときにスマナサーラ長老から言われたのは、「熊野先生、私は熊野先生のおっしゃったことを全部否定しなくちゃいけないですね」と。私も「わかりました、ありがとうございます。私もまた、勉強させていただきます」と後半に参加させていただいたのですが、心中穏やかじゃないです。何を言われるんだろうと(笑)もちろん、私が行なったことを否定するような形でお話になったわけではありません。そんな意地悪な方ではないですから。ただ、私がやったのとは全く違うやり方で教えられました。その中で仰っていたのは、「私は気が短いんですよ」と。だから最短距離で進んでいく。そういう質なんだと。前半で私が皆さんにお伝えしたことは、ものすごく回り道でくどいよということを、やんわりとおっしゃったわけなんですね。そこから私が学べたことはものすごく大きかったですね。私のやっていることはものすごくくどいんだ、最短距離はこうなんだということを感じましたた。実際それがどういうことだったかというのは本に書きましたので読んでください。一言で言うと、誰が瞑想するのか、誰がヴィパッサナーするのか。私が瞑想するわけですよね。自分が瞑想する。俺が幸せになりたくて、俺が苦しみから抜け出したくて、瞑想するわけです。「それじゃ瞑想にならないでしょ」ということなんです。「俺」を手放す、「俺」から離れるのが、ある意味瞑想の目標なんです。自分で作り上げた「俺」ですよね。「これは譲れない、これは好き、これは嫌い」、そういう自己イメージや自己概念から自由になるために瞑想するのに、そこから出発してどうするの? そういう話なんですね。それが、私がスマナサーラ長老から教えていただいたことじゃないかなと思います。私はその教えを胸にしまいながら、その後の対談を続けていったということになります。おそらく、その宿題のかなりの部分には答えられるところまで来たかな、とは思います。まだ完全にってところではないですが。その後の4人の先生方の対談で、答えがどのように進んでいったか、皆さん楽しみに読んでいただければと思います。(熊野宏昭)* * * * *最終日です! よろしくお願いいたします。クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381
横田南嶺老師に伺いたかったのは禅の伝統の型についてこの本の対談は、わたしの知りたいことをいろんな先生方に聞きまくりました。だから私の考えをお伝えするというより、聞きたいことを聞いていった本です。横田老師にお聞きしたかったのは、禅の伝統です。何を伝えるために、こんな手順を踏んだ格式があるのだろうか、そこを教えてほしかったんです。日本文化には型というものが非常にあって、その型というものを実践していくことで心を伝えていくんだ、心を伝えていくことはできないんだということを、鎌田東二先生がおっしゃっていたんです。日本文化は心を直接伝えようとはしない。型を伝えていく。その型を実践していく中で、一人ひとりが心をつかんでいくというのが、日本文化の在り方なんだというんですね。では、臨済宗の様々な型、あるいは禅問答とか公案とかは何を伝えようとしているのか。それを聞きたくてお伺いしました。横田老師は、「我々のやっていることは古くてね、先生からみておかしいとか足りないところはないですか」と控室で開口一番におっしゃいました。わたしは、「そんなことはないです。とにかく、臨済宗の中で実践されてきているものが、何を目指しているのか、何を実現しようとしているのか、そこをぜひお伺いしたい」とお話して対談は始まりました。それで分かったのは、禅宗の中では、観察瞑想というのはほとんど意識されてこなかったということです。瞑想にはサマタ(集中瞑想)とヴィパッサナー(観察瞑想)があるわけですが、集中瞑想をとにかくやってきた。無になるんだ、無になるんだと、呼吸を細く長くして、というふうにやってきたと教えていただきました。私が、「でも、お寺の中での作務は観察がなければできないようになっていませんか?」とお聞きしたら、「確かにその通りだ」と。「私の師匠なんかは、障子の桟の上にわざと蚊の死骸をおいておくんだ。それを若い修行僧たちが掃除の時に見つけなかったらものすごく怒るんだ。なんて意地悪な人なんだと思った」と、半分冗談で仰っていました。つまり、そうやって気づくということを鍛えている。でもそれは前面には出ていない。前面はあくまで集中瞑想。お話を聞いていて面白かったのは、臨済宗でも型というのをビデオに撮影して、映像で伝えようとしているんだけど、ある時一人が急いでいて走ったら、それからは臨済宗では走ることが一般的になってしまったと。非常に率直に本音でお話しいただいて、ありがたいなと思いました。そして何より、円覚寺が大変すばらしくて、言葉にならないものを伝えているなと思いました。大変楽しい対談でした。(熊野宏昭先生のお話抜粋)* * * * *本日、最終日です! よろしくお願いいたします。クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381
きっかけはヨーガの逆立ち。そこから始まる瞑想の旅路を、旅行記を読むように皆さんに追体験していただきたい。この本は私の個人的な体験から始まっています。鹿児島ラ・サール高校時代に頭を良くするためにヨーガの逆立ちを始めて、時間さえあればいくらでも覚えられるようになりました。人間で不思議だなと思ったのを覚えています。そして、二十歳のころにまだ瞑想をやってないなと思い、数息観をはじめたらドッカーンという体験(禅定体験)をしました。インドで日本語を話せるお坊さんに再会してとき「あなた何か経験しましたね」と言われました。何を観たのか聞けばよかったと思います。そうしたことを無料公開している「はじめに」に書きました。そこから私は誰かに瞑想を教わるということではなく来ました。それでも、17歳でヨーガを始めて、ここまで44年間、ヨーガとか瞑想とかリラクセーションとかマインドフルネスとかそういうのをやってきましたので、もう人生の3分の2はそういうことをやって来ています。もうそうなるともう、習うとか習わないとかではなくて、人生を生きていること自体でそういうことを実践していることになります。この本が皆さんに提供できるものは何かというと、あっちにぶつかりこっちにぶつかりして思索を深め、実践を深めてきた、そういうことを追体験していただけるのではないかと思います。私がたどってきた旅路を、紀行文や旅行記のように本書を読むことで、一緒にたどっていただければと思います。そして、それによって、瞑想とかマインドフルネスとかに、それほど馴染みがない方にも楽しんでいただけると思います。また、そういうことを続けてこられた方には、何か共通したところを読み取っていただけると思います。皆さん方一人ひとりの日本的なマインドフルネス、日本的な精神性、日本的な宗教性、日本的な身体性、そういったものにつながっていくものが皆さん方の中に必ずあると思います。海外の方でも、日本に暮らして、日本語を話していたら日本的マインドフルネスというものが動き、生まれていると思います。本書を読んでいただくことで、そういうものを皆さん一人ひとりが掴んでいただければよいなと思っています。(熊野宏昭先生のお話の要約)* * * * *最終日です! どうぞよろしくお願いいたします!クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381
皆さま、ご予約、ご支援ありがとうございます!222人のご支援をいただきました。ぞろ目です。金額で120万を超えて達成率80%となりました。心より御礼申し上げます。あと1日です。ここまで来たので、是非とも目標金額を達成できたらと思っています。どうぞよろしくお願いいたします!* * * * *クラウドファンディングは4月3日(日)23時59分までです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします!https://camp-fire.jp/projects/view/537381