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音楽史年表データベース開発プロジェクト

音楽の楽しみを生き甲斐のひとつとしたい方のために、30年にわたり蓄積してきた音楽史年表を無料公開するデータベースシステムを開発します。音楽史年表は、1350年頃から1975年まで約600年にわたり、年表項目数約15000ステップ、作曲者数約200名、掲載楽曲数約6000曲から構成されます。

現在の支援総額

114,000

4%

目標金額は2,500,000円

支援者数

14

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/07/22に募集を開始し、 14人の支援により 114,000円の資金を集め、 2022/09/20に募集を終了しました

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114,000

4%達成

終了

目標金額2,500,000

支援者数14

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音楽の楽しみを生き甲斐のひとつとしたい方のために、30年にわたり蓄積してきた音楽史年表を無料公開するデータベースシステムを開発します。音楽史年表は、1350年頃から1975年まで約600年にわたり、年表項目数約15000ステップ、作曲者数約200名、掲載楽曲数約6000曲から構成されます。

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あなたの好きな作曲家、作品を検索してみましょう・・・ハヤカワ音楽史年表データベースヘ 作曲家は自身が生まれた地域のキリスト教宗派による洗礼を受け、作曲においてもその宗派の影響を受けることになります。イタリア、オーストリー、フランスはローマ・カトリック圏であり、ドイツはライン川以東とチェコの北の地域がプロテスタント・ルター派それ以外の地域はカトリック圏と2分されます。北欧はプロテスタント・ルター派、またイングランドは英国国教会、アイルランドはカトリック圏、スイス、オランダ、スコットランドはプロテスタント・カルバン派圏となります。カルバン派は宗派の教義により音楽は重要視されませんでしたので教会において宗教音楽は用いられず、それに伴い作曲家も輩出していません。作曲家を輩出したのは、ローマ・カトリック圏、プロテスタント・ルター派圏、英国国教会圏に限られます。 それぞれの宗派の音楽の特徴を見て行きますと、華美で華やかなカトリック圏と質素で質実剛健なプロテスタント・ルター派のように対比が見られます。カトリック圏では華やかなオペラ文化が隆盛を誇りましたが、プロテスタント・ルター派圏ではオペラ文化はハンブルクとドレスデン、ベルリンに限られルター派の作曲家の多くはオペラを作曲しませんでした。一方、イギリスの英国国教会はプロテスタントの中ではカトリックに近く、カトリックの音楽文化を受け入れています。 ヘンデルはルター派のハレに生まれますが、オペラが上演されていたハンブルクに移り、やがて音楽修業のためにイタリアへ渡ります。ベネツィアでオペラ「アグリッピーナ」を成功させると、ヘンデルは一夜にして名声を獲得し、各国の要人の間でヘンデルの争奪戦が始まったといわれています。ヘンデルはドイツ・ハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任します。ハノーファー選帝侯ゲオルグ・フリードリヒの母親は英国の血筋で選帝侯は当時のイギリスのアン女王とは又従妹にあたり、アン女王には跡継ぎがなく、ヘンデルは選帝侯の命で情報収集のためにイギリスへ渡ったともされています。アン女王が亡くなるとハノーファー選帝侯はジョージ1世としてイギリス・ハノーファー連合国の国王として即位します。ヘンデルはイギリスでイタリア・オペラを多く作曲し、またオペラの興業が行き詰まると「メサイヤ」をはじめとするオラトリオを作曲しました。ヘンデルは1727年イギリスに帰化しましたが、宗派は生涯ルター派を貫き、英国国教会に改宗することはありませんでした。 一方のセバスティアン・バッハも生涯ルター派を貫きますが、領主にあたるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はルター派からカトリックに改宗しています。アウグスト2世はポーランド王も兼ねていたためカトリックのポーランド支配のために改宗したものと言われています。選帝侯に宮廷作曲家の地位を申請したバッハは1724年にカトリックの典礼に基づいたロ短調ミサ曲のグローリアを作曲し1733年にはキリエとともに選帝侯に捧げました。その後、バッハは1748年にロ短調ミサ曲を完成させていますので、ロ短調ミサ曲はバッハの宗派を超えた作品となり、音楽家としての自身の人生を締めくくる作品としたのでしょう。モーツァルトのミサ曲ハ短調も未完に終わっていますが、おそらくモーツァルトが長生きしていれば完成させたかもしれません。 バッハの末っ子のクリスティアン・バッハはイタリア音楽を学ぶためにイタリア・ミラノへ渡りますが、ミラノでカトリックに改宗しました。その後、ロンドンへ渡りますが、ミラノのバッハ、ロンドンのバッハなどと呼ばれています。 クリスティアン・バッハ以降、多くのドイツ生まれの作曲家がカトリック圏で活躍しています。ベルリンに生まれたユダヤ系のマイヤーベーアはフランスのパリへ渡りオペラ作曲家となりました。シューマンはカトリック圏のデュッセルドルフに赴任し、合唱指導を行いますが、ここでバッハのマタイ受難曲を演奏し、合唱団員からは激しい反発を受けます。これが精神に異常を起こした原因のひとつとも考えられます。 ワーグナーはベートーヴェンの交響曲やマイヤーベーアのオペラから強い影響を受けましたが、ドイツ・ロマンオペラの偉大な作曲家となりました。ワーグナーは娯楽としてのオペラの対極の総合芸術としてドイツ・オペラを楽劇に発展させました。ドレスデンで革命運動に参加しドイツを追われたワーグナーは活躍の場をカトリック圏のミュンヘンに求めますが、ゲルマン民族のワーグナー音楽の演奏の場をプロテスタントとカトリックの境界に位置するバイロイトに定めました。 ハンブルクに生まれたルター派のブラームスはウィーンに移りますが、オペラなどには関心を示さず、交響曲やドイツ歌曲、ドイツ・レクイエムなどを作曲します。ブラームスはウィーンでバッハのマタイ受難曲を演奏しますが、これがウィーンでのマタイ受難曲の初演であったかもしれません。 フランスの作曲家ではグノーがローマ賞を受けイタリアに音楽留学しますが、その帰途にプロテスタント圏のライプツィヒのメンデルスゾーンを訪ね、バッハの音楽に接しました。パリに戻りバッハの平均律クラヴィーア曲集を弾いているときに旋律が現れ、この旋律にアヴェマリアの歌詞を付け、こうしてグノーの「アヴェマリア」が誕生しました。【音楽史年表より】1733年、7/27、J・S・バッハ(48)、ロ短調ミサ曲BWV232フリードリヒ・アウグスト2世にキリエとグロリアのパート譜を献呈する。バッハは1733年7/27ポーランドの王になるためにルター派からカトリックに改宗した、ドレスデンのザクセン選帝侯アウグスト強王(1733年2/1逝去)の皇太子であるフリードリヒ・アウグスト2世に、宮廷作曲家の称号を請願します。このときに請願書とともに提出されたのが、このいわゆる「ロ短調ミサ曲」のキリエとグローリアのパート譜でした。(淡野弓子・バッハの秘密より)1859年、グノー(41)、ピアノ伴奏声楽曲「アヴェ・マリア」パリ音楽院に在学していたグノーは1839年にカンタータ「フェルディナン」でローマ賞を受賞し、2年間のローマ留学に出発する。留学を終えたグノーはウィーン、ライプツィヒ、ベルリンを経てパリに戻るが、ライプツィヒではメンデルスゾーンに会い、セバスティアン・バッハの音楽を学ぶ。1859年グノーはバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1番ハ長調BWV846を伴奏とし、ラテン語の聖句「アヴェ・マリア」を歌詞とする声楽曲を作曲する。(ニューグローヴ世界大音楽大事典より)SEAラボラトリ


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ハヤカワ音楽史年表データベースが無料公開されました。作曲家、作曲家別作品、作品にちなむ年表データ、音楽史年表が簡単に検索できます。あなたの知っている作曲や曲を検索してみてください。関連する情報が次々と現れます。下記へリンクください。ハヤカワ音楽史年表データベースへリンク作曲者数:約200名登録作品数:約6000曲音楽史年表項目数:約15000ステップ(1350年から1975年)リンク:作曲者-作曲者別作品ー音楽史年表は互いにリンクします。みなさんの音楽の楽しみ、生き甲斐がますます広がることを祈っています。以上、お知らせいたします。SEAラボラトリ


ハイドンは1761年エステルハージ侯爵家の副楽長に就任し、ヴィヴァルディの「四季」などを愛好していたパウル・アントン侯から1日の時刻を題材とした交響曲の作曲を依頼され、交響曲第6番ニ長調「朝」、交響曲第7番ハ長調「昼」、交響曲第8番ト長調「晩」の3曲セットの交響曲を作曲しました。第1曲の「朝」交響曲は夜明けをイメージする序奏で開始され、5楽章のディヴェルティメント風の「昼」交響曲をはさみ、第3曲の「晩」交響曲は終楽章に「嵐」という標題を持ち、1日を夜明けから始め、最期は激しい嵐の楽章で締めくくりました。このハイドンの3曲セットの交響曲がのちの3曲セットの交響曲のモデルとなりました。モーツァルトは1788年、おそらくイギリス旅行に備えるための3曲セットの交響曲を作曲しています。モーツァルトはおそらくハイドンの3曲セットの交響曲を知っていたのでしょう、長い序奏で始まり、壮大なフィナーレを持つ3つの交響曲を作曲しました。後期3大交響曲といわれる交響曲第39番変ホ長調K.543、交響曲第40番ト短調K.550そして交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551です。モーツァルトの3つの交響曲はそれぞれ特徴的ですが、特にジュピター交響曲のフィナーレは特筆すべき壮大さを持っています。モーツァルトは弦楽四重奏曲第14番ト長調(ハイドン四重奏曲第1番)で試みたソナタ形式とフーガの融合を、交響曲で行っています。モーツァルトがバッハの音楽に出会ってから標榜してきたポリフォニーへの回帰は、モノフォニーとポリフォニーの完全なる融合、かつて聴かれたことがない荘厳な天井音楽と評されます。ベートーヴェンは1804年に交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55を初演し、初めてのオペラ「レオノーレ、あるいは夫婦愛の勝利」(歌劇「フィデリオ」)の作曲をはじめています。フランスのブイイの原作はおそらく数奇な生涯を送ったフランスの英雄ラファイエット将軍の幽閉と出獄をモデルにしているとも考えられますが、ベートーヴェンはレオノーレに当時夫のダイム伯爵を亡くしたヨゼフィーネへの愛を投影したのでしょう。しかし、1805年11/20のオペラの初演は失敗し、友人ブロイニングの台本改訂によって1806年3/29に第2稿を初演するものの、これも大失敗に終わりました。なお、オペラは1814年のトライチュケの改訂台本による最終稿初演で成功を収めました。ベートーヴェンはヨゼフィーネとの愛の勝利を願っていましたので、おそらく、オペラに代わり3つの交響曲によって夫婦の愛の勝利を成就したいと思ったと考えられます。ベートーヴェンはハイドン、モーツァルトの3曲セットの交響曲の様式にのっとり、第1曲には長大な序奏を置き、第2曲、第3曲の序奏は短く、フィナーレには壮大な音楽を構想しました。すなわち、交響曲第4番変ロ長調Op.60、交響曲第6番ヘ長調「田園」Op.68、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67を作曲します。3つの交響曲は交響曲自体が急緩急の性格を持ちます。長大な序奏を持つ交響曲第4番は、ダイム伯爵未亡人ヨゼフィーネへの愛の芽生えと高まりを表すベートーヴェン自身の感情表現の交響曲です。第2曲目の田園交響曲はヨゼフィーネが生まれ育ったハンガリーのマルトンヴァシャールの大自然を描いたヨゼフィーネのための交響曲です。ベートーヴェンはヨゼフィーネと出会った翌年の1800年の夏はヨゼフィーネの実家であるハンガリーのブルスヴィク伯爵家の邸宅に招かれています。そして、最後の交響曲第5番「運命」はヨゼフィーネとの愛の勝利の交響曲であり、運命に翻弄されながらも終楽章では愛の勝利を高らかに歌い上げます。なお、交響曲第5番が田園交響曲より先に出版されたために、順番が逆になりました。このように、ハイドンによって創始された3曲セットの交響曲様式は、モーツァルト、ベートーヴェンによって交響曲創作史における最高の高みに達しました。SEAラボラトリ 早川 明


音楽留学のためにウィーンに出てきたベートーヴェンは、訪英の準備に忙しいハイドンにはなかなか十分な指導を行ってもらうことはできず、対位法などをハイドンには隠れてシェンクやアルブレヒツベルガーなどに師事しました。ベートーヴェンのピアノ演奏はたちまちウィーンの貴族たちを魅了します。作曲においては、ピアノ三重奏曲やピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲などを次々と発表し、1798年にはウィーンを占領下に置いたフランス全権大使ベルナドット将軍と交流し、フランスの共和国の建国精神に感動したベートーヴェンは将軍から英雄交響曲作曲の依頼を受けたようです。ベートーヴェンは英雄交響曲の作曲構想時から3曲セットの交響曲を意識していたように思われます。第1交響曲は自らをウィーンに留学させてくれたボンの恩人であるマクシミリアン・フランツ選帝侯のために作曲されます。しかし、ボン宮廷はフランス軍の攻撃で消滅し、マクシミリアン選帝侯は各地を経由して、ウィーンのシェーンブルン宮殿近くのヘッツェンドルフに落ち着いていました。ケルン大司教でもあった選帝侯は聖職者として伴侶を持つことはなく、孤独な晩年を過ごし、ベートーヴェンが第1交響曲を出版する前に亡くなります。ベートーヴェンは交響曲第1番を、マクシミリアン選帝侯に代わり、セバスティアン・バッハのピアノ曲の演奏を賞賛してくれたスヴィーテン男爵に献呈します。ベートーヴェンはウィーンで多くのピアノの弟子に教えていましたが、1899年に姉のテレーゼとともにウィーンに来てダイム伯爵と結婚したヨゼフィーネには結婚後もピアノを教え続け、毎週ダイム家では夜会が催されベートーヴェンはピアノ演奏を行っていました。この夜会に登場したのがヨゼフィーネの従妹であり、イタリア・トリエステ生まれの17歳の美少女ジュリエッタです。ベートーヴェンはジュリエッタにもピアノを教えますが、たちまちこの美少女に魅了されます。ベートーヴェンはジュリエッタから贈られた手のひらサイズの象牙の肖像画を生涯秘蔵していましたが、このような肖像画が贈られるほど二人の仲は深まります。ベートーヴェンはジュリエッタに月光ソナタ嬰ハ短調Op.27の2を贈り、また構想していた3曲セットの第2番目の交響曲ニ長調をジュリエッタのために作曲したものと思われます。第2交響曲はイタリアの陽光が燦燦と降り注ぐように喜びにあふれ、またジュリエッタのコケットな性格が現れています。しかし、二人の恋は実りませんでした。ジュリエッタは若い貴族のガルレンベルクと結婚します。おそらく、貴族と平民という身分差が影響したものと見られます。経済力のないガルレンベルクと結婚したジュリエッタは1年も経たないうちに、ベートーヴェンに泣きついてきましたが、ベートーヴェンはこれをはねつけます。1803年、交響曲第2番を初演したベートーヴェンは壮大なフィナーレを持つ英雄交響曲の作曲に取りかかります。こうして、ドイツ・ライン地方の思い出と作曲家としての出発の想いを表した交響曲第1番ハ長調Op.21、イタリア生まれのジュリエッタのための交響曲第2番ニ長調Op.36、フランス革命の自由・平等・博愛の勝利の交響曲である交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55の、ドイツ、イタリア、フランスにちなむ3曲セットの交響曲が誕生しました。SEAラボラトリ 早川明


私の年代は学生時代からLPレコードに親しんできましたが、やがてCDにその役割が引き継がれました。画像付き音源では、モノクロTVからカラーTVへ、そしてビデオテープ、レザーディスクからDVDへと変遷しています。約400枚のLPレコードをおそらく30年ほど前までは聴いていました。しかし、その後はその存在が忘れられ、昨年でしたか久々に聴いてみると、LPレコードは埃とカビにやられ、再生してみましたが、カートリッジを新品にしても全く聞くに堪えない状態となっていました。そこで、インターネット情報を調べ、レコード盤の水拭きを実践してみるとこれがなかなか効果的で、従来の静電気防止スプレイなどとは比べ物にならないくらいに元の状態を取り戻しました。また、カートリッジもオーディオ・テクニカのスタイラスクリーナーのクリーニングで、寿命が来たと思っていたショアのカートリッジまでが復活し、現在ではこれを使っています。LPレコードとCDの聴き比べですが、ヘンリク・シェリングのバッハの無伴奏バイオリン・ソナタとパルティータのLP版の方は1954年にフランスで録音されたモノラル版で、おそらく同一のバイオリンを使用したと思われる1967年にアメリカで録音された音源を用いたCD版と聴き比べてみます。やはりLP版の方が数段良いですね。バイオリンの低音から高温まで響きが豊かで絹のような滑らかさがあり、すぐれたバイオリンの魅力が充分に聴けるように思われました。CD版の方はどちらかと言えば綿布か麻布のような粗さが感じられました。もちろん、LPやCDよりも実際にホールで聴くのが一番ですが、すぐれた楽器の音をピアニッシモからフォルテッシモまで十分に響かせることができるホールでの演奏においてです。日本の和楽器は静寂の森に響き渡らせるというイメージがありますが、西洋の楽器は石造りの教会のような響きの豊かなホールでその楽器のすばらしさが表現できるようです。このような響きの豊かなホールでは、ハープシコードやリコーダーのような音量の少ない楽器も独奏楽器として十分にアンサンブルに加わることができます。ということで、多くのLPレコードの名盤が完全復活し、その豊かな響きと往年の名演奏を楽しむことができるようになりました。