制作したPVは、現在のところ、下記で扱っていただくことが決まり、今後も増やしていきます。これを機に、YouTubeでも公開します。7/24(月)からYouTubeで一般公開する予定です。ご支援いただいた方々には先立ってURLをお知らせいたしますのでぜひご視聴ください。https://youtu.be/8Xkr0OF20CI【PV設置予定】分福公民館、館林市第二資料館・旧上毛モスリン事務所、アゼリアモール(音源のみ)
ギリシャ神話の美しいニンフ、シランクスは、半人半獣の牧神パンに見初められ追いかけられます。シランクスは川まで逃げますが、捕まった時に川辺の葦に身を変えます。それを悲しんだパンは、葦を何本か刈り取って、長さの違う筒を組み合わせ笛を作りました。その笛をシランクスと名付け吹いた、と言うのが「パンの笛」の話しです。ドビュッシーは、1913年、舞台の付随音楽としてフルート独奏曲「シランクス」を作曲しました。古今のフルート作品の中でも特に優れた名曲です。初めて茂林寺沼を見た時の衝撃は忘れられません。群生する葦、手つかずの湿原と森、野鳥や植物や鴨の群れ、沼の畔にある茅葺きの狸寺。この沼が日本遺産で、この寺が分福茶釜の寺と知らずに訪れたので感動はひとしおでした。なんとかこの街に住めないだろうか・・・。金策に奔走し、防音室2つは諦めて1つにしました。8/16の内覧から目まぐるしく準備をし、8/31に契約、9/13に防音工事着工しました。福岡で防音室を作ってくれた信頼できる職人に館林まで来てもらい、当初川越でやるはずだった工事のスケジュールに、ギリギリのところで間に合いました。福岡で20年積み上げた仕事、人脈、お弟子さん、全てを置いて川越に来て、思いも寄らないことで住めなくなり、満身創痍、羽を痛めて飛べなくなった白鳥の様な状態で、館林に辿り着きました。1年に2回も引っ越しをするとは思いませんでした。しかもグランドピアノ2台を持って。こうして、2021年11月1日から、館林での生活が始まりました。川越で起きた3つの苦悩から解放され、安らかな生活になりましたが、次考えるべきは、ここ館林で音楽家としてやっていけるか、ということでした。人が幸福を感じる時というのは、多かれ少なかれ、他者からの評価に依存している面があります。例えばサラリーマンなら昇進や昇給、音楽家なら賞賛、アスリートなら勝利、他には結婚や出産や受験合格などでしょうか。僕もこれまで生きて来て、幸福の多くはそういう成功体験だと思っていました。でも館林に来て、まず感じたことは、あるべき自然の美しさが身近にある、人は自然と生きている、ということでした。若い時は誰でも都会に憧れます。港区の豪奢でお洒落な街並みや、お台場の人工的な美しさも素敵です。館林で暮らし始め、すぐに自分の気持ちの変化に驚きました。自然に触れるだけで幸福を感じられたのです。誰かに評価されるわけでもなく、ただ風の薫りに悦び、緑に癒され、朝陽に心奪われ、夕陽に涙し、月夜に心洗われ、毎日空を見上げるだけで幸福になれたのです。そんな気持ちが、「里沼の記憶」を生み出しました。満身創痍の夏が、安らぎの秋へ解決しようと、音楽的な力が働きました。音楽も詩も、館林の自然から生まれたのです。一方、引っ越しが落ち着いた直後から母の容体が急変し、寝たきりになってしまいました。時々は泊まりに来られる様に、母の部屋も用意していたのに、一度も来ることなく、川越に会いに行っても起き上がれない状態。なんとか快方に向かって欲しいと願い、祈りましたが、2/26に亡くなりました。「里沼の記憶」が完成したのは、ちょうど2月中旬だったので、楽譜に書く作曲年月日を、2022年2月26日として、棺に楽譜を納めて見送りました。深い悲しみと寂しさと感謝の中で、母を思う作品が次々と生まれました。親を失うことは、自分の生き方が変わることだと知りました。母が連れてきてくれた街、沼辺にパンの笛-シランクス-が群生する街、この美しい館林を故郷と思えるよう、思ってもいい人間になれるよう、この歌曲と共にこの土地と暮らしていこうと思っています。(完)エピローグ昨年12月26日から本日まで、お力添えいただいた方々、本当にありがとうございました。皆様のおかげでPV制作費用の多くを補填できそうです。目標100%達成は難しそうですが、私のできる範囲で、今後の事業の一部分でも実現し、館林を音楽の街にしていきたいと思います。いつかぜひ、館林へ観光にいらしてください。
城沼に行って最後のお願い動画を撮りました。あと1日。今74%。目標まであと181,490円です。100%達成すれば、コンサートや、オールシーズン版のPV制作への展望も拓けます。館林に音楽で光を当てたいのです。ご支援のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。
「里沼の記憶」は調性音楽です。これまでの僕は現代音楽に見られる無調の曲を作ることが多かったのですが、館林の歌にはいわゆる古典芸術の伝統的なスタイルである、調性音楽がふさわしいと思いました。調性音楽とは、中心音(主音)が存在する音楽で、長調と短調の2種類が存在する音楽です。そこには主音に進もうとする引力のような 「力関係」 が存在します。ドミナント(属音)はトニカ(主音)へ解決します。2021年春から夏に味わった辛酸の全ては、現在の暮らしを導くためのドミナントだったと、今なら思えます。5月3日から始まった川越での生活。万事うまく行くように準備して居を構えたはずでした。しかし、間もなく2つの問題が勃発。5/24には早くも内覧に行っているのです。7月には、3つ目の大問題で、もう住めないことが決まりました。防音工事は9月開始、10月完成。このスケジュールは変えられませんでした。自宅では音を出すことができず、日に日に技術が衰えていくのがわかり、辛い時間を過ごしました。コロナ自粛で演奏会ができないどころか、練習さえままらない。音楽家にとってこれ以上の懊悩はありません。どうにか、住める場所を探さないといけない。この歳で住宅ローンはできませんし、今はコロナで収入が絶たれ賃貸も無理です。そして防音室2部屋分を作る資金しか持ち合わせていません。それで買える家ということは、築40年以上の山の中のボロ屋か階段4階の古い団地アパートです。7月までに、ざっと6件は内覧したと思います。いっそ福岡に帰ることも考えましたが、むしろ立ち行かなくなります。母はそんな状況を見かねて、「もうすぐ死ぬから、私の虎の子を全部使って、もう少しいい家にしなさい」と言ってくれました。そこから潮目が変わります。中古でもリフォーム済み、しかも戸建で駅近が視野に入りました。川越にも近い場所で探し、足利、羽生、そして館林と、物件巡りが大好きな母は、歩くことさえやっとなのに一緒に来たがりました。真夏の内覧ドライブの日々は、今思えば母との最後の思い出作りだったのです。館林の澄んだ空気に心打たれ、中古の戸建に決めかけたその翌朝、PCに舞い込んできた新築戸建の新情報。ちょっと予算を超えていましたが、すぐに内覧に行きました。新築を見るのは初めてで憶するものがありましたがちょっと工夫すれば届く値段。それが今住んでいる、茂林寺近くの家です。(続きは明日)
今日2月26日は、亡くなった母の一周忌です。館林に来たのは、母の病気が一つのきっかけでした。息子の僕が言うのは恥ずかしいですが、母は、本当に可愛らしい人でした。笑顔が優しく、皆に好かれて、イライラすることのない、おおらかで、おっちょこちょいで、ラーメンとアイスクリームを同時に食べてしまう変わった人でした。そんな母が長く患っていた病気の症状が、重くなってきたと言う知らせを、2020年暮れに父から受けました。小池都知事が「かつてない大きさの第3波」と発言したのが12月30日です。年明け2021年1月8日には2回目の緊急事態宣言が関東でなされ、14日には福岡も対象区域に加えられました。音楽家は本番に穴をあけられません。ぼくはこの30年、音楽を仕事にする以上、親の死に目に会えない覚悟を持って生きてきました。でもこのコロナで気持ちを変えました。音楽家に音楽をするなと政府が言うなら、25年離れて暮らした母の病気を見過ごすわけにはいきません。家賃や年金の支払いも、あと1年後には、ままならない状況になるのが必至だったこともあり、2021年5月、20年暮らした福岡市を離れる決心をし、両親が住む川越市へ引っ越しました。1200km、約20時間の車の旅、5月2日、嫁とウサギを乗せて福岡から自走で川越を目指しました。職業音楽家として在る以上、金持ちになりたいという欲は微塵もありません。しかし音楽を仕事にするためには、近隣のためにも、まずは防音の仕事部屋が必要です。しかも嫁も音楽家なので、2つ作るのが理想です。福岡のマンションでも一部屋は防音室にして仕事をしていました。そして弟子をとってレッスンをするために、教室を開業すること、加えて僕の場合は舞台制作も長年やってきたので、マネジメント事務所としても稼働できるように、オフィス環境を整える必要があります。様々な準備は福岡にいる時に済ませ、防音室をはじめ、当面の資金を残したタイミングで引越しをしました。しかし、人生は本当にままならないものです。引っ越して間もなく3つの重大な問題が発生し、川越でも生活を維持することができなくなりました。(続きは明日)*母が亡くなった日に書いた曲です。