20歳の頃、ダンス留学から帰って来てダンスバトルシーンに身を投じつつも。 同時に、福祉施設でダンスパフォーマンスをおこなうボランティア活動も始めた。 団体 「共有空間」の立ち上げだった。 そのボランティア活動は3年間で全国100カ所以上の施設に展開して毎年3年間年末に、川崎クラブチッタで利用者さんと若い子たちが混合するイベント「人=人(ヒトビト)」を主催した。 この活動の一歩目の体験が、踊りの本質に触れたときだった。 いわゆる【 踊りの本質は世界共通言語である。 】すなわち【 踊りは言葉を超える。 】 福祉施設へダンスパフォーマンス初日。 クラブでのショーケースのノリで施設で用意してもらったステージで踊る。 施設は川崎にあった。 用意してもらったステージといっても 広場にスペースを空けてもらった感じのイメージ。 普段ショーケースをするクラブとは全く違うお客さんたち。 施設利用者さんたちがお客さん。 まずレスポンスがやばい。 全員、己の世界。 。。。 もはや、ビビった。 クラブでは、かっこつけたり、スキルぶちかます!みたいな感覚で挑む舞台前。 そんな感じで、施設利用者さんたちの前に立ったら、 全員、己の世界。 もはや、おれのこと見てない。 見てても、あまり興味なさそう。。。汗 このクラブと施設のギャップにはかなり、動揺した。 そのときに一緒にパフォーマンスしていた介護ヘルパーのダンサー友達が、きにせずオープンに踊り狂っているのを観て分かった。 そうか、ありのままでいいんだ。 もうスキルとか考えないで、衝動で踊った。 本能で踊った。 踊り狂った。 そしたら、利用者さんたちめちゃ盛り上がるという笑 すごい嬉しかった。 彼らは踊る姿ではなく踊る人の『心』を見ていた。 かいていてた汗も爽やかだわ。って思った。 衝動的本能に突き動かされている健常者と呼ばれる成人男性が、Reo Matsumotoのビートボックスで狂って踊っている。 その姿は、一体見せれるものなのかどうかは謎だけど。 けど今でもたまに思う。 その‘ゾーン’に入ったときは、みんな一つになる。 パフォーマンスしている側も、みている側も。 みんな、一つになる。 俗にいう、会場を‘ロック’した刹那。 その刹那は、【 1つの和 】だった。 その感覚を踊りを本格的にはじめて、20歳にダンス留学から帰国した当時。 初めて福祉施設で踊った、あの日に初めて本質的な会場ロック状態を体験した。 その体験をして仲間たちとめちゃめちゃハイテンションになってステージを後にした。 ステージ後に、仲間たちと昼飯食べてたら だだだだー!!!と走って来た男の子がいて 彼は俺ととても似た症状だった。 彼のメインラングイッジは「小田急線」関連であった。 小田急に関連することしか普段、話さない。 そんなドープな少年だった。 その彼が、俺の手を掴んで言った。 『 感動した!!! 』 これは、本当にそういってくれて、、今でも耳に残っている声。 その光景をみた小田急男子の母が、感動してくれた。 普段、小田急線のことばかりなのに感動なんて言葉めずらしいと言ってくれた。 かつての自分と似た小田急線男子を見ながら同時に子供のころの自分を見ていた。 俺は、踊っていて良かったと思った。 踊りは、言葉を超えたコミュニケーション。 心と心で身体を使って会話する。 言葉を使わない踊りで超えれた言語障害と呼ばれる壁。 本来、その壁だって存在しないんだ。 僕らは子供のころ、全部知っていた。そして持っていた。 一つの人間であること。 一つの身体をもつこと。 僕らは、世界という船で共に生きている生き物なのだということ。 踊りは、世界共通言語である。 これは、本質である。 つゞく 一舞一生 -one step ,one life -小畑 ‘OBA’ 大左衛門 【歩んで舞る】特設サイトhttp://otona.be/ayundemairu/
とうとうエピソードシリーズも10回目を迎えました。 ここまでくると、もはや意味不明になってきたかもしれません。 エピソードって。。。きづいたら個人的な話で保育園まで、さかのぼりはじめられても。。。 ただ、どうしても出発前までに御共有させていただきたい旨でもあり、もしご興味がある方が一人でもいれば書き続けようと更新を続けております。 今回は前回より転じ【踊り】の本質に触れた体験のお話です。 僕は、もともと鎌倉市笛田にあります児童障がい者施設出身者です。 このことはあまり公にしていないのですが事実ですし、もういいかと感じ赤裸裸に書きます。 というのも、施設に通っていた理由は[言葉がうまく話せなかった]からの理由で、いわゆる言語障害という分類で考えられていた保育園児でした。 保育園の帰り、施設に寄って帰る。 そもそも、なぜ言葉が必要なかったのか。 それは、言葉を超えた「美」が生活にあったからでした。くせーよ。。って本当なので、もう正直に書き残そう。 母の車で藤沢から帰る道のり、ちょうど桟橋をブーンと渡る時に Keith Jarretの[TheMelodyAtNightWithYou]というアルバムの[Shenandoh]という曲が流れていたのですが。 その最高にマックス最高潮のときに、橋から見える光景が。。。 美しすぎた。 川から照り返す、夕日の陽。 空がパステルカラーにオレンジ色。 時に湘南でおこるパステルカラーミラクルノスタルジックサンセット。 フリーダムサンセット、SHIBAサン。最高にオススメな江ノ島のイベントです。 話はそれましたが、その光景にKeithのShenandohが、やばすぎた。 保育園児の僕はフルフル感動し分けも分からず涙がこみ上げてきたとき。 ふと、横を見たら、母ちゃんが泣いていた。 この涙は、いわゆる「悲しい」とか「辛い」の分類ではない涙。 この涙は、「美しさ」のため流れた美しい涙だなー。 と子供ながらにも感じ、同時に。 音楽が日常に、圧倒的な効果で色彩を増やしてくれる。 という真実を知ったときでした。 僕が、「言葉」の必要性を超えた瞬間の初めての体験でした。 今、思えば、あの瞬間。 いわゆる「リアル」な「ジブリ」感。。。 んー、、、その車のイメージは、限りなく崖の上のポニョの、ソウスケが母ちゃんすげーなーと助手席に座っているイメージ。わかりづらいか。。。 ともあれ、踊りを踊る使命を感じた時であったと今は振り返ります。 いわゆる、色彩を濃くした現実を生む音楽をもって身体表現する意味。 音が日常の色をより鮮明にしてくれる。 その美しい絵の中で、より世界観を増幅させるため、ストイックな在り方で 身体表現をなす。 その身体は、誰よりも研ぎすまされていないとならない。 その研ぎすまされた刀が、夕日の陽を受けたとき。 どのような反射を映すのか。 その反射光は、美しいのか。 それとも、さして美しくないのか。 刀が鈍っていたら、光は鈍い。 刀が研ぎすまされていたら、光は美しく映えるだろう。 踊りで「リアルジブリ」を体現すること。 ジブリ世代なら共通して学んでいること。 日常がリアル。 今この瞬間、刹那に生きることがリアルなドラマを生む。 その生活こそが人生の色彩をより濃厚としてくれる一点となりえる。 その可能性に胸をトキめかせた瞬間。 それが、その桟橋を渡る瞬間の夕日であったと感じる。 そこから順調に施設も通い、無事に小学校も通い始め ちょうど5年前見てしまったビデオの中で自覚症状がなかった事実を知ることになる。 それは俺が小学生ぐらいか。。。あれは。。。たぶん。 兄と弟が3ちゃんの曲で踊り狂っているとき 次男でいるおれは、ウチワをもって止まっている。 ただ静止している。 そして、時に黒目だけ動かし 少しウチワを手だけで動かし、とまる。 そして、また少し動いて、カクっと止まる。。 おれは5年前、たまたま見た親父が残したビデオテープという映像データをテーププレイヤーを再生しテレビでみたとき。 身が震えた。 俺、こんときから無意識に 止まってんじゃん。 というか、ロボットダンス。 超えては、ウチワ? もはや、能か。。? いわゆる言葉を超えたコミュニケーションとして身体表現にすでに身を投じていた事実をダンスを本格的に初めて14年後の5年前、初めて知ることになりました。 そこから、いわゆる言葉を超えた世界共通言語としての「踊り」をすでに自分が体現していることを知ります。 いわゆる、子供は全て知っている。 かつてのピカソではありませんが、子供時代が一番やべー表現しているという衝撃を受けます。 ただ、、、 ただ、、、、! しかし、子供時代に戻ればいいってもんじゃない。 なんなら、俺の今のライバルは小学校4年生、伊豆の「響」です。 大人のヤバさもあることを信じたい。 子供と遊ぶとき、一本歯の共有は大人であることを少しは良かったなとアーティストとして思う瞬間です。 しかしながら数時間後には余裕で子供の彼らも一本歯で歩いてるんだけど。。 結果的にいうと、子供たちのほうが凄いです。 というか、それで良いのだと最近思うし、というか次世代として世代を超えて行くのは当然であるし、そうであってほしいと切に願います。 そういう意味で今回の歩んで舞るは子供たちにより多く伝えたいって大分話それました。すみません。 ともかく、踊りの本質の共有です。 踊りの本質其の一 【 踊りは言葉を超えた世界共通言語である。 】 です。 そこから施設でのパフォーマンス時におきたドラマに、ようやく繋がります。 相も変わらず脱線すること多々知れず。。。 大変、申し訳ありませんが一文も無意味は無く意味は無いなんてことも感じつつ更新してまいりますので 引き続き、どうぞ何卒宜しくお願い致します。 つづく。 一舞一生 -one step ,one life -小畑 ‘OBA’ 大左衛門 【歩んで舞る】特設サイトhttp://otona.be/ayundemairu/
「ダンスバトルで黒人をぶったおす。」 とはいえ、僕の人生で最初で最後の師匠は「Jazzy J」という黒人ダンサー。 黒人を無差別に嫌悪していたわけではない。それでは肌の色だけで差別する人々と同じ。白人が黒人を差別し、黒人が黄色人種を差別する。悲しくも傷を受けた者は、その傷の受けようで悲しい連鎖を生み出してしまう。 ただ、黄色人種であるということだけで馬鹿にしてくるアメリカ人を踊りを通して見返したかっただけ。 18歳から20歳までの二年半。 それこそ狂うように練習しては、アメリカのダンスバトルに出場した。人生で初めてダンスバトルで優勝できたのはアメリカ フロリダで開催されたダンスバトル。この時の決勝動画が、今もなおネット上に残っていることにビックリします。すごい時代ですね。。。もう13年前になります。 ベスト4ではエリートフォースのストレッチとバトルをした。立場的に考えると、絶対に日本では生じない結果が生じていた。このバトルでのジャッジは、PoppingPete•今は亡きSkeeterRabit等のPopDanceパイオニア達。その瞬間の「リアル」をジャッジできる実力主義なオリジネーター。今もなお深く敬意を感じる。この優勝をきっかけに「努力は報われる。」と確信し、さらに異常なダンス修練に励む。 「完全実力主義」 そんな風潮が数十年前のアメリカにはあったと思う。 今では分からないけれど少なからずとも「コネ」なり「営業」が大切な日本のダンスシーンよりも、よっぽど生きやすかった。 鬼の形相で練習する日々。 そしてバトルに出場する。 そんな二年半の留学生活のなかで、確実に大きな自信が生まれると同時に大切な「何か」を失った。 それは、踊りを「楽しむ心」だった。 戦うために踊っていた。 踊りを刀に代えて生きていた。 そういっても過言ではなかった。 根本に「怒り」が存在していた。 怒りから生まれる表現はアートには必須と言われる。けど最近思うのは、それでは必ず限界が生じると思う。 バトルに出ては優勝するときもあるし、しないときもある。 優勝したら、それは嬉しいけれど、その瞬間に過去。 感じるのは、はかなさだった。 優勝した瞬間は、皆にリスペクトされるけれど次回負けたときにはシラーっとされる。 そのバトルの螺旋階段の行き着く先が、どんどん空しく思える。 20歳のころ日本に帰国し、出場した国内バトルでも運が良く好成績を残せて、アメリカでのバトル螺旋階段は日本でのバトル螺旋階段へと繋がった。 ひたすら、バトルのために練習する日々が帰国後も続く。 3年程経ち、比較する空しさが頂点に達した。 てか、俺はなんのためにダンスバトルに出場しているんだ? かつては、ある特定の要素に向けた「怒り」から生じた「熱意」だった。 見返してやる。その想い一点だった。目は燃えていた。 けれど、きづいたらバトルに出場する背景の想いが、「名誉」なり「金」になっているんじゃないか。 目が半ば灰となり、ある意味不純となった。 そもそも、踊りに評価って。。。おかしくない? 踊りは、スポーツではない。踊りは、アートだ。 アートに競争価値的概念は本来、存在しない。 子供の絵に点数はつけれないように、踊りにも点数などつけれるはずがない。 なんだかダンスもオリンピックに向けてスポーツ種目に加えようという動きもあるらしいからハッキリ言いたい。 ダンスは、スポーツではない。 スポーツの基礎的概念は競争。 アートの基礎的概念は衝動。 ダンスは競い合うものではなく、突き動かされる衝動により生じる『身体表現』だ。 ダンスバトルならびダンスコンテストに出まくっていた僕が言うのも、、、矛盾極まりないとは思いつつ、ただひたすらにバトルして競い合ったからこそ到達した答えであり 同時に、その答えを全身で感じざるえない現場があった。 それは、ダンスバトルが開催されるクラブカルチャーとは対極的な舞台。 僕はもともと児童障がい者施設の出身で 幼少期、言語障害という判断を受け小学校に上がるまで施設に通っていました。 児童障がい者施設出身のダンサーということもあり、福祉施設にパフォーマンスしに来てほしいという依頼をきっかけに20歳から23歳までの三年間。全国100カ所以上の福祉施設で踊ることになりました。 バトルとは対極な舞台。福祉施設でのダンスパフォーマンス活動を通して、踊りのあるべきスガタに触れることになります。 つゞく 一舞一生 - one step , one life - 小畑OBA大左衛門 [ 歩んで舞る。]特設サイトhttp://otona.be/ayundemairu/
2018年4月28日(土)黄昏れ時。野々宮神社で舞う公演の目的は、 現代舞の踊り手による新しい「舞」表現を、森林に囲まれた神社という特有の歴史文化、ならびに自然環境を背景に新しい「舞」を発信すること。 その現代舞ならび新しい「舞」表現とは。 若年であり、まだ未熟極まりない身として「新しい舞表現」を公開するということは少し厚がましいようなきもするけれど。 ただ、ここ数十年のダンスライフで自分なりに見えてきた到達地点(通過点)を全身全霊全力をもって一つの舞台作品として創造すること。それは一つの大いなる挑戦だと、勝手ながらにも思っております。 輸入文化としてのストリートダンスからスタートし日本人としてのアイデンティティを改め問い直し己が持つ身体による唯一無二な身体表現を見出すこと。 すなわち能や暗黒舞踏に次ぐ、日本オリジナルのダンスを生み出すこと。 伝統芸能を融合させた現代神楽のような【 伝統×現代 】的な踊りをすることではなく、 【 全く新しい舞表現 】を創造することを目指しています。 今日までのダンスライフは偶然の連続でありつつ一つの流れが出来ていることは間違い無しと感じております。 14年前。18歳のころ、ニューヨークへと留学。いわゆるストリートダンスの本場へと我が身を投じた時期。18年間住んで来た実家を出て、初めて一人身として住んだ町がニューヨークブルックリン。 留学前に日本にあるホームステイ紹介の会社に半ば騙されたかの如く。ホームステイ先は、ニューヨークでも三本の指に入るゲットーエリア(治安の悪い場所)地下鉄2番線の終点 Flutbush avenue。ブルックリンの末端。当時は、東洋人は一切いなかった。完全に黒人街だった。留学先であった学校まで地下鉄に乗って片道二時間。 このホームステイ先、朝食付きというのはいいが出てくる朝食はデリの片隅に積もられている極めて薄っぺらいカリカリのパン一枚。 ワンモアプリーズと言うと、黒人のお母さんに激怒される。 ホームステイ先にていきなり受ける人種差別。 そもそも人種差別されること自体、人生初めての経験であったためなぜホームステイ先の家族は俺のことをウザがっているのだろう。。。目つきが悪かったのか。。。いや、そんなに悪くなかったはず。。平和そのものの日本から来た18歳の少年には人種差別の認識さえ出来ずにいた。 ただ今思えば、かつてのニューヨークでは白人が黒人を差別化し、黒人が黄色人種を差別化していた。少なからずとも、ブルックリンFlutbush avenueエリアで相当な人種差別を受けた。 住み始めて二ヶ月ほど経ち、ストリートダンスという黒人が生み出したダンス文化に憧れ留学したにも関わらず黒人から受ける人種差別。 当時、ニューヨークに住んでいた日本人の多くが‘黒人’というだけでなぜか無条件に憧れる。 「やっぱ黒人のリズム感は違うよねー。はんぱねー。」 分かるけどさ、俺等だって同じ人間だ。 俺だって黒人が生み出したストリートダンスを追求してニューヨークに来た。ただ、「ストリートダンス」というダンス文化に憧れたのであって、黒人という人種に憧れているわけではない。 というか肌の色は違うけど、同じ人間じゃん。文化を創るのは特有の地域ならび人種であるかもしれない。ただ、ストリートダンスというのはグローバルなダンスジャンルだ。いわゆる民族舞踊的価値観ではない。 という感じで、居住エリアで受ける人種差別の傷のせいか。。。それまで純粋な18歳の少年の目つきが、悪くなりはじめてしまう。 最終的に、自分にとっての踊りが純粋に「楽しむ」行為から「戦う」ツールに変換してしまうことがおきる。 マンハッタンからの帰り、Flutbush avenueに着くまでの地下鉄の長い時間。 それまで車両にいた白人から東洋人が少しづつ居なくなる。それに変わり、少しずつ黒人が増えてくる。 向こうの車両から、黒人学生(たぶん高校生ぐらいだろう。)男性6人がスピーカーを手に持ちこっちの車両に乗り込んでくる。 なんだか嫌な予感がして下を向いて寝たふりをする。嫌な予感は的中。 彼らにとっては珍しい東洋人B-Boy。当時はバリバリのストリートダンサーであったためファッションもダボダボストリートファッション。 きづけば囲むように彼らが座っている。そして、俺のかぶっているメッシュキャップを頭から取り上げげらげら笑っている。 俺はそれでも寝たふりをする。大切にしていたメッシュキャップはどこかに投げられ彼らは俺にもたれ何だかクッチャベっている。 ただただ悔しい。悔しくて叫びたいけれど、コワくて動けない。むしろ震えているのは悔しさではなく恐怖からだった。 その恐怖に震えている自分自身にも情けなくそして、こいつ等が本場としているヒップホップファッションをしている自分自身にも恥ずかしくなってくる。 なんとも言いようのない感覚にひたすら襲われる。 きづけば終点、Flutbush avenueに着いていた。 こいつらは降りない。ひたすら俺のことを見て笑っている。 俺は目をつぶりながら、その笑い声を聞いていた。 意を決して、席から立ち車両から出ようとした。 車両からでる直前、数は明確に覚えている。 6回だ。 一人ずつ、俺の後頭部を叩いた。最初の三回目ぐらいは痛いのと驚きで、ただ固まった。残りの三回で、完全に頭の中の何かがキレた。 「黒人をバトルでぶっ倒す。」 その日から、黒人ならびアメリカ人をバトルで倒すことだけをイメージしながら一日10時間以上の、今思えば完全にイカれたダンス修行が始まる。 つゞく 一舞一生 - one step , one life - 小畑‘OBA’大左衛門 【歩んで舞る。】特設サイトhttp://otona.be/ayundemairu/
約10年前の「Rhythmalism」(左:TAKA 中央:Toshi 右:OBA )ただのヤカラやな。。。汗 もともと僕がメインとしてきたダンスジャンルは「Pop Dance」といいます。 Pop Danceの通称はロボットダンスです。 筋肉を瞬間的に収縮させ、ビク!!!とさせます。 そのビク!!!がHitやPopと呼ばれる技となります。 このビク!!!という技をそれなりに習得するのにも時間がかかるためストリートダンスジャンルの中でも比較的ムズかしいジャンルとされています。 ストリートダンスの華やかなイメージとは裏腹にどちらかというとオタクな野郎たちが取り組むダンスとして有名です。 僕がPopDanceを本格的に始めたキッカケは約12年前。NYのBroadwayDanceCenterに留学した時に出逢ったPopDanceの第一人者『Jazzy J』でした。 どう見てもヤバすぎでしょう。。。 彼は、かつて1986年。(僕が生まれた年) マイケルジャクソン キャプテンEOに出演していたダンサーとして知る人ぞ知る世界的に有名なダンサーです。(マイケルの左側奥の素頭の男性) - Rhythmatic Funk Movement Dance Showcase -上下青の黒人男性がJazzy。髪が長くて青シャツ着ているのが私OBA。 Jazzyが主宰するダンスクルー「Rhythmatic Funk Movement」のメンバーとしてニューヨーク留学時代ひたすらに、ひたすらにPopを追求する日々を送ります。 その延長でダンスバトルに出場し優勝したりしなかったりそんな日々を過ごし前回のepisode Sixに書いた内容の心境へと達しました。 ただし、このPopDanceの追求心。いわゆる筋肉の収縮が生む痙攣。 この痙攣作用の追求。 その追求心は止む事を知らず、さらなる追求欲が日々爆発的に更新されます。 痙攣を自発的に表現する。 このヤバさ。 痙攣身体表現がもつ可能性を、ストリートダンスシーンを飛び越えコンテンポラリーダンスならび暗黒舞踏のダンスシーンから改めて、学び始めたのが五年前。 この五年を通り、次なる舞台への【圧倒的挑戦】(勝手にですが。。。)の内容を共有いたします。 元々ストリートダンサーであった僕が 由緒正しき伝統的な舞台 野々宮神社 拝殿で舞う 全く新しい領域となるダンス即ち舞への挑戦。 [ 五頭龍舞•弁天舞•大国主舞 ] この三部作は、ストリートダンスから派生し身体表現の追求がいき過ぎた結果鎌倉から出雲まで歩んだ一人のダンサーが日本ならび世界へ提示する 全く新しいダンスジャンル-舞踊分野です。 この新領域はこれまでの「ダンスシーン」に必ず、一石を投じます。 ダンスに興味がある人もない人にとっても この挑戦が、一人でも多くの人々の感を動かす感動となるよう。 今日という日も、一日一生。 日々、One Step One Life = 一歩一生 = 一舞一生。 次回は、三部作にいたるダンス人生を振り返ります。 かなりダンスマニアックな内容ですが、引き続き更新して参ります。 何卒、よろしくお願い申ス。 つゞく 一舞一生 - one step , one life - 小畑OBA大左衛門 【歩んで舞る。】特設サイトhttp://otona.be/ayundemairu/