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「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します

「報徳開拓者 安居院義道」は鷲山恭平氏が昭和28年(70年前)大日本報徳社から発行した本です。今回、「報徳の師父」シリーズ第3集として本書の現代語訳を出版するに当って支援を求めます。出版した本は支援者に返礼品とするとともに、報徳の師父シリーズを蔵書とする大学図書館、静岡県内公共図書館に寄贈します。

現在の支援総額

302,000

67%

目標金額は450,000円

支援者数

62

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2023/11/01に募集を開始し、 62人の支援により 302,000円の資金を集め、 2024/01/13に募集を終了しました

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現在の支援総額

302,000

67%達成

終了

目標金額450,000

支援者数62

このプロジェクトは、2023/11/01に募集を開始し、 62人の支援により 302,000円の資金を集め、 2024/01/13に募集を終了しました

「報徳開拓者 安居院義道」は鷲山恭平氏が昭和28年(70年前)大日本報徳社から発行した本です。今回、「報徳の師父」シリーズ第3集として本書の現代語訳を出版するに当って支援を求めます。出版した本は支援者に返礼品とするとともに、報徳の師父シリーズを蔵書とする大学図書館、静岡県内公共図書館に寄贈します。

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◎相州北秦横曽根村難村取直し相続手段帳(大日本帝国報徳第四十四編明治30年8月)相州大住郡北秦横曽根村仮趣法帳一 右は其村方の儀前々より致困窮罷在候処去る巳申(天保4、7年)両度の大凶荒飢饉に付暮方初万端必至と差詰り取直しの手段術斗尽果一同十方に暮候処当村庄兵衛老人年来善事を心懸居候へ共其村方取直し手段十方に暮候処へ風と十ヶ市場庄七出会いたし咄の内に二宮先生様の大名を承り善道の大意を蒙り度義八ヶ年以前より心懸け候処幸に庄七去る寅(天保十三年)の六月野州桜町御陣屋へ罷越候て小田原領中沼村伝蔵殿取次を以て先生様へ相願一家取直し相続其外色々御理解承り恐入感服仕候て七月二十六日まで逗留致し同日御いとま申上帰国さっそく横曽根村庄兵衛村方へ一同相談仕候得共早速に相分り兼候中段々其年も暮に相成り卯(天保十四年)の二月より下拙以参いたし庄兵衛諸とも其村方へ大小一同談合二宮先生様の御理解段々十月まで毎月三度づつ参り解聞せ候処村方名主伴右衛門、市右衛門、吉左衛門、吉蔵、惣右衛門右五人を初め村中一同恐入感心いたし御趣意に基き日々日々農業は不及申其外何事に不限村為に相成業を工風いたし出精仕或は作初穂或は山稼或は索綯(さくとう:縄ない)莚織或沓草鞋農間朝夕相励み村柄取直しの趣法組立度候得ども其目的無之致成就申間敷より先人々身の分限を能く能く弁ひ申度候譬は木ハ同じ杉といへども桶屋一升樽を造れば一升樽に成たる所則身の分限なり三升樽を造れば三升樽に成たる所身の分限なり五升樽を造れば五升樽になりたる所則身の分限なり壱斗樽を作れば壱斗樽に成たる所則身の分限なり又曰水六尺五寸の大桶を作れば日みづし大桶に成たる所則身の分限なり壱升樽弐升樽三升樽五升樽壱斗樽それぞれ日みづ大樽の積をせんといへども十分に不及候故に他念なし他念なきが故に生涯それぞれ八分に入置時はこぼれちる憂ひなし然れば横曽根村に住する者ハ村高五十七石家数潰ども弐拾弐軒但一軒に付弐石五斗九升壱合目に当る是則天性自然なり其余ハ農間朝夕相励み勤行いたし天道の正理を恐れ各々本業を尽し御百姓相続致度候若し分を失へば貧苦艱難免れず其根元を案ずるに人皆天地の間に生れて天地の潤沢を得て天地の間に住みながら、何ぞ天地に随はざるべけんや。弥慎み守る時ハ安楽自在を得る事疑なし。聖語曰天命謂之性率性之謂道脩道之謂教道也者不可須臾離可雖非可離非道也右は相州大住郡北秦横曽根村連々致困窮難渋罷在候処去る巳申両度之大凶荒飢饉に付暮方必至と差詰り此侭差置申候ては退転仕より外有御座間敷と十方に暮れ無拠所村中一同相談の上村役人惣代を以て御地頭所へ奉願上候処助成米御金左之通り一一右の通り御拝借被仰付被下置村内一同相助り様々露命を繋ぎ補ひ候段重々冥加至極難有仕合奉存候につき去る酉年より今卯年まで年々割済を以て御返納仕置候へども其未だ村柄取直しの義は十方に暮候処此度庄兵衛取持を以て二宮先生様の御理解を承り一同感心いたし前文の通り人々分限分内を弁へ候て天命に基き候へば貧窮の憂ひを免れ富貴一段の事と相励み農行出精いたし農間朝夕丹精致し或は縄索莚織草鞋其外村為にも可相成義を案外勤行いたし度義に付村中一同連印左之通り          発言人 姓名 印          名 主 同  印          組 頭 同  印          百姓代 同  印          総百姓 同  印          取次人 同  印   二宮金次郎様聖語曰過則勿憚改と宣り中庸曰果シテ能此道矣雖愚必明雖柔必強シ今般村柄取直し御百姓相続之趣法組立候儀は段々当二月より御理解被仰付承服仕居候処村方前々より困窮難渋いたし或は潰或は退転仕候其根元は銘々本業に怠り終に身の分限を失へ奢に長じ候故之儀尤貧富は背時て為変化者に候は一村同所に生合候義は前世の宿縁万代不易之大幸依之村内申合潰百姓或は極困窮人今日之暮方に差支へ候もの相互に助合取直し申合常々不限何事万端物事に倹約を宗とし或は酒を止め其器物を売払或は煙草を止てその道具を売払ひ或は麁服を用て其余服を売払或は麁器を用て余器を売払或は神事を厚ふし長するを禁じ或は仏事を厚ふし長ずるを禁じ、或は伊勢太々講驕奢を禁じ・・・・・・或は吉礼凶礼惣て本源を厚し弊風驕奢を省き節倹を尽し潰百姓相続仕度段窮民撫育の為め勤行仕家政取直子孫相続の義に付本業出精いたし暮方の驕倹其外何事によらず友々勤行致度事に候  日々につもる心のちりあくた     あらい流して我を尋ねん  飯としる木綿着物は身を助く     其余は我をせむるのみなり恐可恐受財楽身有其身其身天命年々減其徳分内恐可恐受財楽身有其身其身天命月々減其徳分内恐可恐受財楽身有其身其身天命日々減其徳分内恐可恐受財楽身有其身其身天命時々減其徳分内恐可恐受財楽身有其身其身天命刻々減其徳分内恐可恐受財楽身終減父母祖先徳失其身子孫徳也勤可勤苦身施財有其身其身天命年々増其徳分内勤可勤苦身施財有其身其身天命月々減其徳分内勤可勤苦身施財有其身其身天命日々減其徳分内勤可勤苦身施財有其身其身天命時々減其徳分内勤可勤苦身施財有其身其身天命刻々減其徳分内勤可勤苦身施財有其身其身天命其身子孫得徳也聖語曰天命之謂性率性之謂道脩道之謂教道也者不可須臾離可離非道也 曇らねば誰が見てもよし富士の山     生れ姿で幾世経るとも聖語曰過則勿憚改 日々に積る心のちりあくた    あらい流して我をたづねん 聖語曰君子必慎其独  山寺の鐘つく僧のおきふしは    しらてしりなむ四方のさとひと湯之盤銘曰苟日新日日新又日新  いにしへの白きを思ひ洗濯の    かへすかえすもかへすかへすも富貴貧賤善悪邪正共  蒔種と生たつさまは異なれど    実法は元の種となりぬる  蒔種のすぐにその侭生たちて    花と見るまに実法る数数  天地や無言の経をくりかへし後に語曰天謂何時々行而百物生是謂天何儒者語同経曰色則是空空則是色(完)


当初、2人で「二宮尊徳の会」で10年来聴衆にわかりやすく聞いて頂いている対話方式で、「農業余話と万人徳用鏡」の話のあと、演ずる予定でしたが、手島さん(鈴木藤三郎の曽孫)が安居院庄七役として参加を快諾していただいたので、急遽、安居院庄七のセリフを増やしたシナリオを作りなおしました。12月17日第10回報徳講座レジュメ 石田村仕法抜粋(修正版)8 対話方式「駿州石田村回復方法の事(淡山論集第1編より摘載)」   (地福)駿河国の石田村は戸数31戸。静岡宿から南におよそ3キロ、南海岸から1.5キロ、土地は平坦で水田は多く、久能山東照宮の神領に属していました。村民は農業に従事せず、借金が増加し、田畑の多くは、他村へ貸出し、収穫しても村民のものになりません。しかし村民はこれを憂えることもなく、「神領の地だから、借金が増えても政府が救助してくれるだろう」と、小作人は地主の年貢を滞納し、年々歳々怠納の負債が増加していました。地主は他村に住んでいて、これを責めても、村民は貧窮でどうしようもないと言い訳をするばかりでした。 安政4年(1857年)、安居院先生は庵原郡(いはらぐん)鳥坂村にいました。駿府の片羽(かたは)町の伏見忠七は、資産家で石田村に田地を所有し、早くから石田村の困難な状況を知っていました。また鳥坂村にも田を所有し、鳥坂村が安居院先生の仕法により、村民は農業に励み、借金は返済され、風俗が良くなることを知って、良法だと思いました。そこで忠七は番頭を石田村の庄屋石垣治兵衛の家に行かせました。石垣氏は「これはまた借金の督促に来たものであろう」と思って顔色に出ました。番頭(樋口)「心配しなさんな。今日わたしが来たのは、決して借金の督促のためではない。とても良い方法がある。報徳という。その先生を安居院(あぐい)庄七という。今、現に鳥坂村にいらっしゃる。この法に従うならば、数年たたずして村は回復しましょう。安居院先生に従って、その教えを聞いて、一村こぞって、これに従われよ。これが主人の忠七が私を使いして、あなたに告げさせるゆえんです」。石垣氏はこれを聞いて喜んで、詳しくそのいきさつを聞き、すぐに村内の重だった者を7名集めて相談したところ、みなとても喜んで、翌日すぐ鳥坂村に出かけました。その時に安居院先生は、上座にありました。七人の者ははるか遠くから臨みました。(樋口)「あのどてらを着ている年寄りが先生なのか。私たちはだまされたのではないのか?」先生は、すぐには面会を許されません。先生(手島)「報徳のご仕法は容易に行うことはできない。石田の面々は悔悟している様子がない。」石田村の者は、その言葉にみんな眉をひそめて村に帰りました。このようにして二回、三回して、ようやく面会を許されました。先生(手島)「お前たちが、報徳の道を慕って、わが教えを聞きたいとするのは、賞賛すべきだ。しかし、報徳の道は容易の事業ではない。まずお前たちの日常の心掛けを聞こう。 お前たちは今までに天道のために尽すところは、どれほどあるか?」七人の者(樋口)(顔を見合わせて黙然)「・・・・・・」先生(手島)「お前たちが答えることができないところを見ると、これまでに天道のために仕えるの道を尽くしたことが無いと見える。村が困窮するはもっともだ。」七人の者は、ついに何も答えることができずに村に去りました。翌日また往くと先生は、天道について教えました。翌日また往くと、先生は人道について教えました。毎日このようにして教えました。ついに18日を重ねて、ようやく報徳の大意をのべました。七人の者は、一日一回ごとに先生の説くところの意義があることに感銘し、深く感化されました。安居院先生はいったいどんなことを説かれたのでしょうか?安居院先生が門弟・荒木由蔵に伝えるところを、手島さんに読んでいただきます。(手島)二宮大先生が出生され、報徳の教えを立てられた。私たちがその理をうかがうに、まずその身を知らないで難渋困窮するために、家内が和合(わごう)しないで止むことが無い時は、種々の迷いとなる。親は慈悲の心がなく、子は孝行の心がなく、兄は愛の心がなく、弟は敬の心がなく、いずれも真(まこと)がない泥海である。まず家を治めるのは、主人の心一つである。富貴であれば富貴のところが天命である。この富貴に随って譲り施すのが主人の道である。困窮であれば困窮のところが天命である。この困窮に随って勤めるのが主人の心一つである。困窮の道を行えば、困窮の憂いを免れる。もし免れ難いときは、財宝衣類諸道具まで売払い、この財宝をもって他を恵むよりほかにない。もともと蒔いておいた種の実りであるから、今改めるのに遠慮する事はない。元を知るということは、一に帰るということである。この一をもって勤めるときは、少しもけがれることがなく、また元のように富貴にいたる。これを道という。二宮先生は 梅の木は根も梅なれば種も梅 枝も葉も梅花も実も梅 と詠じられた。この歌を考えてみると、天地神明の大恩を知らず、その昔から万物の霊である人間である。天地に何ひとつ恩を返さないでいられようか。私たちにまで恩沢を下される有難さは言葉では述べ難い。これを知らないで私欲・身勝手の人情で天道の正理をあだに暮らし、始終助かっている大恩を思わず、種々の悪行がわざわいを招いてしまう。その罪を復さず、なおまた自分の不運と名付け、どれほど厚い神明の匙(さじ)加減を下されても、一心にもとづく事とは夢にも知らない。自分勝手の悪行だけで千里をひびかして、我意を張って罪に罪を重ね、足ることを思わないようになり、家の中は蜂の巣のようで、中に実はないのに隠しとげようと望んで、田を質入し高利の借金をして世渡りし、なおまた嘘に嘘をいって、借りた元金を返済しようとは少しも思わない。うわべは利口に言い並べても、天命はこれを隠すことはできない。富貴貧賤、善悪邪正ともみんな自分の心の行うところである。天命に基いて自由自在の平等を心がけ、清く正浄潔白の道を渡る時には、人として愚かであっても、神明の憐みを蒙ることは疑いない。この故に子孫長久、富貴繁盛し、悪事が来ることなく、行うところ大小と限らず成就しないことがない」という誠に有難い言葉でした。石田村の村民(地福)「諸君は報徳神に参詣し福を得る方法を伝えられたと聞く。なぜこれを私たちに告げないのか。」七人の代表者(樋口)「われらは諸君に隠すところはない。先生の言葉はこのとおりだ。実に感服した。この方法に従うならば、必ず村を再興することは疑いがない。諸君、一村こぞって先生に来て下さるように願い出て、その教えに従おう。どうであろうか。」村民は大変喜んで、名主石垣治兵衛(じへい)の言葉に従って安居院先生を石田村に招くことを決定しました。七人の者は鳥坂村に行って先生に「おいでいただきたい」と願い出て止みません。先生はその事情を察して、石田村に行くことを承諾しました。そこで七人の者は日時を決めて迎えに来ることを約束して、帰村しました。約束の期日、七人の者が来た時刻が約束よりも遅くなりました。先生(手島)「お前たちは、今日私を迎えるのに約束の時刻に遅れたのはどういうことか? 私は待つこと、久しい。思うにお前たちは、帰村の上、村民の評議が変更する所があって遅刻したのであろう。このような状況で私を村に迎えても決して成功しないだろう。これはきっと時機がまだ至らないからであろう。神が私を誡められること、このようである。私がもし往けば、必ず神意に逆らうことになろう。私が往こうと欲しても往くことはできない」迎えに来た者たちは謝罪し、言葉を尽し、ようやく許されました。七人の者は先生に従って帰村し、先生を石垣家に招待しました。すぐに村民を集めて、日夜報徳の教えを聞いて仕法を求めます。先生は毎戸の家政を調査して借金返済の仕法の案を立てたものの、どの家も貧しく借金が積み重なって仕法を立てるべき所が無いようでした。先生は言われました。(手島)(右を向いて)「お前は衣服や家屋を売払って負債を返済すべきだ。」(左を向いて)「お前は子女を人に託して、自分は人の下僕となるべきだ。」(正面を向いて)「お前の鍋・釜、お膳・お椀、お前の鋤や鍬は、皆債権者の恩沢によるものであるから、その不要のものは売って借金の返済の資本にし、必要なもののみを保存し、常に貸主の大恩を思って、謹(つつし)んで毀(こわ)してはいけない」その仕法は、厳重で寛大な所が少しもありません。村民は非常に驚いて、妻や子で泣きだす者があり、子を背負って隣村に助けを求むる者があり、衣服を質入れして家を売却しようとする者もありました。村民の気持ちは挫折し、報徳社を脱しようと村内の境内に集まる者が過半数に達しました。村民は昼夜協議をこらし、不穏な状況になりました。石垣治兵衛は大変心配して、同志と共に力を尽くして、利害得失を説明して、報徳仕法が善法である理由を詳しく諭しました。そこで村民はようやく納得して、一村を挙げてその教えに従って、その後、仕法を遵守するに至りました。そこで仕法帳を作成し、各債権者のもとに行って、年賦償還の承諾を求めました。その仕法とは、農業の余力をもって日掛縄索(ひがけ・なわない)の業を勤め、日夜怠らないでこれを積み立て、借金の返済にあてることに外なりません。また旧来の悪弊である凧(たこ)揚げ、雛祭りその他諸祝儀や飲酒の風習は一切これを廃して、年賀の礼は報徳社において一同でこれを行い、各々編んだ縄一房を持参することとし、また年中、毎朝、報徳社の社長が各戸を回って、その縄を集め一手にこれを売却して借金返済の元資とすることにありました。その報徳仕法を、一村が真心をもって、少しの違納の疑いがないということを債権者たちは各々承諾しました。更に農業奨励のために土台金を寄付する者もあり、肥料を施与することがあり、無利足金に加入する者があり、借金の督促は全く止みました。一村皆その報徳仕法の有難さを喜び、村の人気は非常に進み、農業を奨励し、縄ないの仕法も怠ることなく、女、子供まで、幼児を背負って縄をなうようになりました。十年で数千両の負債は残らず償還し、さらに十年で数千円の社金を積立てることができました。質に入れた土地を受け戻し、また買戻しを行い、後にはついに他村からの入作地は無いようになりました。安居院先生は、石田村に在ること3年、報徳の教えをのべることは深く切実であり、石垣氏もよくその教えに従って、仕法を行うこと数十年が一日のようで、真心が堅固であることで社員は一致して事業をなし遂げ、村を再興し、豊かになることができました。(終わり)



本社・掛川報徳館十二月常会報告秦野と安居院庄七   二宮尊徳の会 地福進一  「現代語 安居院義道」出版と秦野視察 昭和二十八年に鷲山恭平氏出版の報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳の出版の企画に携わっていて、その一環として令和五年九月二十七日に秦野視察を実施致しました。 JAはだの宮永組合長に案内をお願いし、参加者は鷲山恭彦本社社長等4名で、有意義な視察になりました。 秦野視察のコースは、1. 庄七の生家・神成家(旧朝田家)の墓域2. 現在の神成家のお宅3. 庄七が一村仕法を行っていた横曽根村の地域4. 庄七の婿入先の旧磯屋跡5. 庄七の墓のある妙相寺  安居院義道(庄七)の秦野での経歴 一七八九年相模国蓑毛村(秦野市)の蓑毛御師朝田家(後に神成家)の二男に生まれ、長じて曽屋村の穀物商・磯屋を営む安居院家に婿入りします。妻をヒサといい、前夫との間に少なくとも四人の子がいることから、庄七は中年になって婿入りし、それまでは父や兄と檀家廻りしていたと推測されています。 二宮先生に聴いた「元値商」を実践 庄七は天保十三年に桜町陣屋に二宮先生を訪ねます。桜町陣屋日記天保十三年七月二日に「相州十日市場磯屋庄七と申す者田蔵相頼り罷越候」とあります。二宮先生は幕臣登用を控えて面会できず、庄七は下働きを許され、門人達への説話を立聞きします。 「福山先生小伝」に「二宮先生は五、六十人の門人に報徳仕法を説明された。庄七は感服して聞いた。なかんずく『元値商いの法の如きよく了解する者はこれを行え』の話に大いに感じ、仕法組立も勉強し、二十日余りで郷里の秦野に帰った」とあります。庄七は自家で米の元値商を始め、商法は売って喜び、買って喜ぶ、双方共に喜ぶのが極意だと大悟します。この報徳の教えを世に広めようと伝道に出ます。庄七の御師としての前半生の重要性 東京大学の戸石七生准教授は「安居院庄七と参詣講」の論文で「遠州の地域有力者のネットワークと庄七の参詣講の運動の双方が上手くかみあった結果、遠州の報徳運動は盛んになった」「庄七の報徳仕法普及運動も大山講を組織するノウハウが報徳社設立に応用された」「報徳仕法普及は檀家廻りのノウハウに負う所が大きい」と論述されています。 「横曽根村仮趣法帳」発掘の意義「大日本報徳第四四号」に「相州大住郡北秦横曽根村仮趣法」に秦野の蓑毛近くの横曽根村(後に小蓑毛村)の村役人庄兵衛が庄七から聞き取った話が記録されています。そこに「二宮先生様の大名を承り善道の大意を蒙りたき義八ヶ年以前より心懸け」とあります。   庄七は桜町陣屋に無利息金を借りに行き、そこで初めて報徳を知ったとされてきました。同時代人の記録によればその八年前から二宮先生の大名を聞き及び、報徳の大意を聞きたいと念願していたのです。八年前というと天保五年です。庄七はどこで大名を聞いたのでしょう?私の推測ですが、神成家の檀家一覧(『開導記』)を相模国足柄上郡・下郡と駿河国駿東郡の村名地図と重ね合せると場所が浮かび上がります。金次郎の故郷栢山村に神成家の大山講があり、小田原仕法実施の村々の近くにも大山講があります。富田高慶は「安居は旧大山御師ナリト云。曾比・竹松ノ両村ノ御趣法御施行ノ頃、故先生村民一同エ御教誡被為在ルゝ所を障ノ外ニテ立聞シタル人物ニシテ、御趣法ハ其頃、筆記に被頼タルヲ幸ヒ写シ置、其御趣法ニ感シ駿遠地方に説諭シ廻ラレタル也」と「報徳史料 富田高慶先生との対話」(『富田高慶 報徳秘録』p.334)で言及しています。 また「横曽根村仕法」の経緯を熟読すると秦野は遠州報徳社の原点である事も分ります。  庄七逝去時持参の書物と結語 安居院庄七は七十五歳で遠江国長上郡小松村で逝去されました。報徳に骨の髄まで尽した尊い生涯でした。逝去時の書物に「西大井村・藤曲村仕法書」「御殿場村仕法書」があります。先生はこれら仕法書を大切に持参されたのです。 安居院先生の御師としての前半生の重要性と桜町陣屋に行く八年前から二宮先生に傾倒していた事実をご紹介しました。


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大日本報徳社の「報徳」の表紙と「温故知新」で、原本の鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』が紹介されています。「本書出版に込めた思い」で「本書は大日本報徳社において遠州に報徳を伝え広めた安居院義道の功績を初めて文章化して伝えた書籍である」とあります。安居院庄七の伝記及び資料集としては、現在までこれが唯一です。今から70年前の昭和28年12月発行入手困難であるとともに、現代人には文体など読みづらくなっています。そこで現代語に訳し、近年発見の『横曽根村仮趣法帳』を新たに史料として原文と現代語訳で収録し、史料的価値を高めました。800冊目途の限定出版で、支援者へのリターン品とするほか、大学図書館、公共図書館(主に静岡県内)に寄贈します。CAMPFIRE or Social Good(社会貢献プロジェクト)として、広く支援を求めるものです。