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20歳、大学生。いじめられっ子だった僕が、キリマンジャロへ挑戦する話。

自分の人生は自分で決めたい!中学受験をした理由は、いじめっ子と同じ中学に行きたくなかったから。大学受験も自分の意思でしたわけではなかった。僕はもう自分の人生の方向性を、他人に委ねたくない!そう決意し、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロへ一人で挑戦します!この挑戦にぜひ手を貸していただけませんか?

現在の支援総額

650,546

130%

目標金額は500,000円

支援者数

49

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2023/11/14に募集を開始し、 49人の支援により 650,546円の資金を集め、 2024/01/31に募集を終了しました

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20歳、大学生。いじめられっ子だった僕が、キリマンジャロへ挑戦する話。

現在の支援総額

650,546

130%達成

終了

目標金額500,000

支援者数49

このプロジェクトは、2023/11/14に募集を開始し、 49人の支援により 650,546円の資金を集め、 2024/01/31に募集を終了しました

自分の人生は自分で決めたい!中学受験をした理由は、いじめっ子と同じ中学に行きたくなかったから。大学受験も自分の意思でしたわけではなかった。僕はもう自分の人生の方向性を、他人に委ねたくない!そう決意し、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロへ一人で挑戦します!この挑戦にぜひ手を貸していただけませんか?

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第五章 目覚め朝、聞き馴染みの無い鳥の囀りで目をさます。なんの夢を見ていたのかは思い出せない。しかし、あまりいい夢ではなかった気がする。そして、目覚めと同時に、自分が今タンザニアへキリマンジャロ登山に来ていることを思い出した。普段は悪い夢を見ると、目覚めた時に、ああ夢か、と安堵するが今日は違った。私自身の意思で来たものの、初めての一人海外、さらにアフリカ、さらに未知への挑戦。昨日の現金引き出せない問題も相まって、少し余裕がなくなっていた。目が覚めて、しばらく経つとウェイターのブレイッソムが朝食を持ってきてくれた。クレープと食パンとソーセージとよくわからないスープ、フルーツだ。スープは本当によくわからない味であった。昨日のキューカンバースープの方が100倍美味しかった。クレープと食パンとソーセージにケチャップをつけ、交互に食べた。ブレイッソムが食後に、お湯と紅茶、ミルク、コーヒーを持ってきてくれた。私はどれも飲む気が起きず、日本から持ってきたセブンイレブンのインスタント味噌汁を飲んだ。最高であった。今日はマチャメキャンプ(3000m)から、シラ・キャンプ(3980m)へ向かう。朝7時にガイドのジャコブと共に出発した。昨日はキリマンジャロ国立公園のジャングルをひたすらあ歩いたが、今日は昨日とは打って変わり、ヒース帯と呼ばれる低木林を歩くことになった。ちょうど植生の境目にキャンプ場が位置していたようだ。第六章 キリマンジャロとポーターこの日はポーターのことを考えた。というのも私はこの登山を通して「生きる意味」を考えようと、日本から「生きる意味」というタイトルの本を3冊持ってきていた。1冊目は心理学者であるアルフレッド・アドラーの本。2冊目は政治家である姜尚中氏の本。3冊目は文化人類学者である上田紀行氏の本。私は彼の「愛する意味」を読んだことがあり、面白かったので本書も読んでみたいと思っていた。なぜ「生きる意味」を考えようとおもったのかというと、決して病んでいるわけではない。人間の生活は、変化を無くす方向に進んでいる。例えば、自分の部屋を考えてみてほしい。地面は平ら、エアコンにより温度は一定、さらに壁に囲まれているため雨風も吹かない。あらゆる自然環境の影響を受けないように、設計されているはずである。そんな”生きやすい”環境で、「生きる意味」を考えるより、酸素濃度が少なく、自然の脅威を直に感じるこの”生きづらい”環境で「生きる意味」を考えた方が、より本質的な答えに辿り着けるのではないかと考えたからだ。「生きる意味」を考える過程で「幸せとは何か」を考え、キリマンジャロ登山で荷物持ちをしている彼らは幸せなのか、とポーターのことを考えるに至ったというわけだ。ご存知だと思うが、彼らはキリマンジャロ登山の荷物持ちである。彼らは20kg以上にもなる荷物を頭の上にのせ、アタック直前の標高4600mのバラフキャンプまで、荷物を運んでくれる。すれ違うポーターを見ていると、年代は20代から50代ぐらいと幅広かった。ポーターは男性が多かったが、女性もいた。男女比は9:1といったところか。人によってはとてもきつそうに荷物を運んでいる人もいた。そんな彼らは幸せなのか。主観的な幸福の形は多様であり個人差があると考える。故に個々人が幸せかどうかを考えてはきりが無い。よって事実に基づき、客観的に彼らが幸せなのかを考えていこうと思う。この幸せに対するアプローチの仕方は正しいかわからない。ネット上では、彼らの労働環境に悲観的な記事が多く見られる。その記事の多くは、彼らの給料、肉体労働、一部のポーターの死亡例などを引き合いに出し、彼らの労働環境がいかに過酷で杜撰なものかを記している。確かに事実として、彼らの給料はタンザニアの平均的な給料と比較して低い。また、残念なことに、一部のポーターが命を落としていることもまた事実である。だが、私が議論しているのは幸せか否かである。タンザニア政府はキリマンジャロ登山の入山にガイド、ポーターの同行を義務付けた。これはシンプルであるが、この制度によってもたらされる恩恵は大きいと考えられる。このシンプルな制度により、キリマンジャロ登山のハードルは格段に下がり、誰もが挑戦できるようになった。それにより、登山客は増加。また、それに伴い雇用も大幅に増加したと考えられる。このシンプルな制度設計をしただけで、キリマンジャロの登山観光産業は格段に活性化したといえよう。そしてポーターはその恩恵を受けている人々である。また、私についてきてくれたスタッフは5名。彼らはとても仲が良く、キャンプ地にてボードゲームをしたり、登山中も雑談しながら登ったり、夜中も彼らの笑い声が聞こえてきたりした。もちろん、ボードゲームを仲間同士で楽しそうにしているから、彼らは幸せであると言っているのではない。厳しい現実があるのは確かである。ただ私には、仲間で笑い合い、登山客である私を励まし、時にジョークを言う彼らの様子を見ていると、とても不幸には見えないのである。第七章 アサンテサナ登山中、コックのバラカが話しかけてきた。彼は僕にスワヒリ語を教えてくれた。たくさんのスワヒリ語を一気に教えてくれたので、ほとんど覚えられなかった。覚えたスワヒリ語↓ポレポレ「ゆっくり」ジャンボ「よう!/こんにちは!」ハクナマタタ「大丈夫/問題ない」ブワナ「友よ」アサンテサナ「ありがとう」トゥウェンディ「出発!」5時間ほど歩くと今日の目的地であるシラ・キャンプに到着した。時間は午前12:00。夜まで暇だ。すぐ寝たい気もするが、高所順応のために起きていなければならない。なぜか本も読む気になれなかった。テントの外からは、歓迎ソングである『ジャンボ・ブワナ Jambo Bwana』が聞こえてきた。他ツアーのガイドやポーターが登山客に向けて歌っているのだろう。とても盛り上がっているのがわかった。そんな陽気な歌とは逆に、ここにきて初めて強い不安に襲われた。思えばタンザニアに到着してから、考える暇なくすぐに登山が始まり、今日を迎えていた。考える余裕ができ、初めて今自分が置かれている状況を理解し、実感したからであろう。自分の心に余裕がなくなっているのがわかった。そんな時、彼女からのメッセージを見た。彼女は、僕を空港まで見送りに来てくれた時、旅守りと、登山期間である8日分のメッセージカードをくれた。初めは登山守りにしようと思ったそうだが、自分が願うのは登山の成功ではなく、無事な状態での帰国であると考え、旅守りにしたらしい。メッセージカードは1日1枚見るようにと言われていた。その日のメッセージカードを見ると、安心したのか涙が溢れた。僕はこの手のことで泣かないと思っていた。彼女のおかげで、前向きになれた。帰国したら「ありがとう」と伝えよう。泣いたせいで、鼻が腫れてしまい、呼吸しにくくなってしまった。標高4000mでは少し苦しかった。第八章 静かな夜この日は20:00に寝た。23:00頃寒さで目が覚めた。温度は氷点下を下回っていた。体力に余裕があるうちにしたかったことを思い出した。星空撮影である。寒さで寝袋から出たくなかったが、これ以上標高が上がり高山病にでもなれば、きっと撮影する余裕がなくなってしまう。そう思い、重い腰を上げる。カメラを持ってテントの外に出ると、今までに見たことがない満点の星空が広がっていた。三脚を持ち外へ。人は誰もいない。昼間とは打って変わり、静かな外。少し怖かった。星空はほとんど撮影したことはなかったが、案外うまく撮影できた。雲一つなかったからか、奇跡的に電波が通り、写真を家族と彼女に送った。血中酸素濃度 94% 身体異常なし。


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第一章 登山ゲートへ・開始早々問題発生朝8時に起床した。自分が持つザック、ポーターに預ける2つのザックを持ち、ホテルエントランスへ。エントランスへ行くと、Kiliclimber & Safari のDirectorのジャスパーとその仲間たちが待っていた。昨日支払いが出来なかった、残りのツアー料金をカードにて支払い、出発。チーフガイド、コック、ウェイター、ポーター(荷物持ち)2名の計5名のタンザニア人と一緒のバンに乗り、登山ゲートまで移動する。正直とても怖かった。車内ではスワヒリ語で会話が飛び交い、私が入る隙がなかった。途中japani(スワヒリ語で日本人)という単語が、何回か聞こえてきたので、私に関することを話していることはなんとなくわかった。誘拐されちゃうかも、なんて考えた。私が現金を下ろしたいと申し出たため、登山ゲートへ移動する前に、モシ市内のATMへ寄ってくれた。というのも、私はこの時、現金を一銭も持っていなかった。現金がないと、登山中のスタッフへのチップが払えない。ので、ATMに寄ってもらったというわけだ。なぜ現金を持っていなかったのか。私は羽田空港にて500USDを換金したが、その現金はツアー代で全て消えてしまった。事前にツアー代はカードで支払いをする約束だったが、Directorのジャスパーがなるべく現金で欲しいと言ってきたので、仕方なく現金で払える分は現金で支払ったのだ。この時、いくらか現金を残しておけばよかったと後悔した。ATMの前には、AK-47を持った20代後半ぐらいの兵士が立っていた。また、これはタンザニアについてからずっと思っていたことだが、街中ではとても視線を感じる。日本人が一人で来ているのが物珍しいんだろうか。この時も、多くの視線を感じてた。ATMでお金を下ろすことさえ緊張した。しかし、何故かお金が下ろせなかった。ATMには insufficient fund の文字。そんなはずはなかった。口座には余裕を持ってお金を入れていたはずだった。「スキミングされたか?」「このままではチップが払えない」「下山後の生活はどうしよう」「リターン品購入できない」様々なことが脳裏をよぎった。すぐに口座残高を確認すると、確かに口座には十分な量のお金があった。詐欺の線が消えて一安心。チップは登山が終わったらまとめて支払うとスタッフと約束し、現金がないまま登山がスタートした。あとの問題は登山しながら考えることにした。第二章 孤独のトザン登山ゲートである、マチャメゲート(1800m)は思っていたよりも人で溢れていた。現地のスタッフはもちろんのこと、登山客もたくさんいた。8割がヨーロッパ系、2割がアジア系といったところだろうか。私のように一人で来ている人はほとんどおらず、各々の家族、友人と談笑していた。僕も友人と来たかったなあ。孤独な登山の始まりである。ガイドのジャコブが準備ができたと言いにきた。どうやら入山の手続きが終わったらしい。ジャコブと私で登山を始める。その他のスタッフは先に行っているらしい。登山をしていると、他のツアーのポーターらしき人たちが、私を抜かしていった。彼らは自分の荷物のほかに、20kgほどの荷物を頭の上に乗せて登っていた。ものすごい体幹と体力である。首おかしくならないのかなあ。そんなことを思った。ジャコブは50歳ぐらいの男性ガイドで、寡黙なイメージだった。登山中僕が質問をしてもあまり会話が続かない。単純に僕の英語力不足はあるが、それにしても会話のキャッチボールができていなかった。僕が質問すると、答えて、会話終了。この人と1週間行動を共にするのか、と少し憂鬱な気分になった。ジャコブは僕とは会話をあまりしなかったが、すれ違う現地のタンザニア人とは楽しそうにスワヒリ語で談笑しながら登っていた。もしかしたらあまり英語が得意ではないのかもしれない。タンザニアは国語(national language)はスワヒリ語で、公用語(official language)はスワヒリ語と英語である。よって英語は通じると思っていたが、個人差があるのかもしれない。タンザニアは元々はイギリスの植民地であった。その後、1961年に独立しタンガニーカ国となり、1963年に同じくイギリスの保護領から独立したザンジバルと合邦してできた連合共和国である。英語はイギリス植民地であったときに流入してきた。それからは中等教育以上では英語が用いられてきたが、2015年にジャカヤ・キクウェテ大統領による新教育制度により、国内の学校における使用言語を、英語ではなくスワヒリ語へと変更した。アフリカの国で、使用言語を外国語ではなく現地語にするのは、初めての取り組みらしい。この新教育制度制定には様々な背景があると思うが、この制度が制定されたということは、タンザニア人において、国語であるスワヒリ語の方が、英語よりも話しやすく、好きなのだろう。こう考えるとガイドのジャコブが、私と英語で会話したがらないのも、納得ができる。歴史上、植民地になったことがなく、言語に関してもずっと変化していない日本人である私には共感できないことなのだろう。ジャコブの歩みはとてもゆっくりであった。正直もっと早く歩きたかったが、我慢した。また、ジャコブの後ろを歩いていると、あることに気がついた。すね毛が一切生えていなかったのだ。チョコレートの様なとても綺麗な足をしていた。50歳でキリマンジャロの登山ガイドをしているタンザニア人のジャコブが、明日から登山だから毛剃っとくか、と足をツルツルにしてきたことは考えにくい。紫外線が強すぎて、毛穴が死んでしまったんだろうか。体毛の機能は紫外線から肌を守ることだとすると、メラニン色素が強い黒人はそもそも、体毛を生やす必要がないのか。どちらにせよ日本の脱毛は高額なので、羨ましい限りである。キリマンジャロ国立公園のジャングルをひたすら抜けると、マチャメキャンプ(3000m)へ到着した。日本でいえばすでに相当高い位置にいる。第三章 想像以上のサービスキャンプにつき、手続きを済ませると、先に行ったスタッフがテントを設置してくれていた。テント内で着替えをしていると、ウェイターが、お湯、石鹸、コーヒー、紅茶、ミルク、ポップコーン、ビスケットを持ってきてくれた。体を洗って、好きなものを食べて休憩しろとのことだ。どうやら登山後は毎日同じサービスをしてくれるらしい。普段、テントの設営や食事は全て自分で行なっているため、とても豪華に感じた。コーヒーは粉状のインスタントコーヒーで、キリマンジャロだからと少し期待したが、あまり美味しくなかった。ポップコーンは最高に美味しかった。塩加減が絶妙であった。ティータイムが終わりしばらくすると、夕食が運ばれてきた。白身魚の揚げ物と、ポテトフライ、野菜炒め、バナナ、アボカド、キューカンバースープだった。驚くことに、白身魚の揚げ物とポテトフライは熱々で衣もサクサクだった。おそらくその場で揚げてくれていた。標高が上がると酸素濃度が下がる。よって当然、調理器具の火力も下がるのだが、それなのに揚げ物とはなかなか高火力の器具を持っているんだなと感心した。そして何より、普通に美味しかった。野菜炒めはとても味が濃く、ビールが欲しくなった。第四章 トイレ文量的に第三章に書いてもよかったが、内容的に分けることにした。食事を終えトイレにいった。くそ汚かった。トイレでする概念はあるらしいが、的を外さない努力を怠っている。トイレットペーパーを日本から持ってきて大正解であった。この日は22:00に就寝した。血中酸素濃度96% 身体以上なし。


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皆様、お久しぶりです。2024年 2月8日 5時30分 無事アフリカ最高峰、キリマンジャロ山頂のウフルピーク(5895m)に登頂することに成功いたしました。皆様のご支援・応援のおかげです。本当にありがとうございました。報告遅れてしまい申し訳ございません。画像はウフルピークの登頂証明書です。僕の一生の宝です。21歳にして、貴重な経験をさせていただきました。感謝の気持ちでいっぱいです。活動報告、リターン発送、順次行なってまいります。もうしばらくお待ちください。


アフリカ大陸最高峰へ2023年8月25日、僕がリーダーを務める表銀座班(*1)は、槍ヶ岳から上高地までの道のりを歩いていた。4泊5日にも及ぶ2023年度夏合宿(*2)が終わろうとしているのだ。それと同時に、あと少しで僕の岳文会幹事長としての生活も終わるのである。そう思うと、達成感もあったが、少し寂しく、感慨深いものがあった。思えば約2年半もの間、僕の大学生活は岳文会1色だった。中高帰宅部の僕が、大学へ入学し、岳文に出会い、登山にハマり気がつくと幹事長にまでなっていた。運動嫌い、ゲーム大好きだった当時の自分がこのことを聞いたら、驚愕するだろう。人生何があるか分からないなー。そんなことを考えながら、小梨平キャンプ場まで歩いていた。ふと、岳文会の幹事長を引退したら、僕は何をするんだろう、そんなことを考えた。順当に行けば就活である。僕は大学で生物学を学んでいるが、特にやりたい分野がある訳ではなかったため、院進はあまり考えていなかった。早いなと感じた。もう就職か、と。それと同時に、僕の大学生活は岳文会だけだなと思った。それを悪いとは思わないし、むしろ幸せな大学生活だったと思う。しかし、なにか物足りなさと虚無感が僕の中に芽生えた。何かをしたい。面白いことをやりたい。僕にしかできない、今しかできないこと。このことを思い浮かぶ人間は限られてくるのだろう。"自分にしかできないこと"とは、ある適度、本気で特定の分野へ打ち込んだ人間しか、想像しえないからである。もし僕がプログラミングの分野で、なにも勉強していないのにも関わらず、「自分にしかできないことをやりたい」なんて言っていたら、プログラミングを本気で取り組んでいる人に対して失礼である。僕が本気で取り組んできたこと。あるではないか。上りは美しい景色を求め、下りは温泉とビールがあるからと、自らに言い聞かせ、なんとかモチベーションを維持し、時になぜ自分はこんなことをしているのだろう?と疑問に思わせてくるアウトドアスポーツが。だとしたら、"僕にしかできないこと"の答えは出た。海外の山へ行こう。小梨平にてそう決意した。それからはひたすら調べた。海外の山なんて考えたこともなかったし、そもそも本当に現実的なのだろうか。死ぬのは嫌だなあ。お金もかかりそう。調べていくうちに、"7大大陸最高峰(seven summits)"というものを知った。この地球上にある、変化に富んだ7つの大陸の最高到達点。アジア-エベレストヨーロッパ-エルブルスオーストラリア-コジオスコアフリカ-キリマンジャロ南米-アコンカグア北米-デナリ南極-ヴィンソンマシフこれを知った時、興奮した。かっこよかった。登ってみたいと心から思った。恐らくこれはNewスーパーマリオブラザーズをやっていたときの感覚に似ている。それぞれ環境が異なるマップがあり、それぞれのマップにボスがいる。マップボスを倒すと次のマップへ行け、最後のマップで最大の敵クッパを倒し愛しのピーチ姫を救うのだ。ここで言うクッパは恐らくエベレストだろう。では最初のマップのボスはだれだろう。恐らくそれはキリマンジャロだ。7大大陸最高峰の中で、特別な登山技術を必要とせず、タンザニア政府により登山者にガイド、ポーター(荷物持ち)の同行が義務付けられている。7大大陸最高峰の中で最も登りやすい山(オーストラリア大陸のコジオスコは標高2000mなので除外します。コジオスコはマリオで例えるならパックンフラワーですかね。)である。とはいえ標高は5895m。酸素濃度は地上の約半分だ。舐めてはかかれない。マリオは穴に落ちても生き返るが、僕は生き返らない。登山面以外も問題は山積みだ。まずお金。飛行機、ホテル、人件費(現地のガイド、ポーター)、食事、ワクチン(保険適応外なのです。)、撮影機材、、、到底大学生である僕が払える金額ではない。どうやって集めよう。そんな時、同じ早稲田大学出身で7大大陸最高峰へ日本人最年少である20歳112日で登頂を果たした南谷真鈴さんの記事を思い出した。彼女はメディアや新聞に片っ端からメールを送り、取材を受け、その記事を読んだ人々からの寄付で南米最高峰のアコンカグアへ挑んでいた。集め方は違えど、僕にも同じようなことができるのではないか。岳文会のOB・OGの方々に僕自身の思いをちゃんと伝えられれば、ご支援してくださる方が見つかるのではないか。そう思い、クラウドファンディングをやろうと決意した。初めは本当にお金が集まるのか半信半疑だった。クラウドファンディングを初めて僅か2週間で目標金額の50万円を達成した時は、感動で胸が震えた。岳文会OB・OGの方々以外にも、現役岳文会の先輩・後輩・同期、中高の友達、昔の小学校の友達、バイト仲間、親戚、東進チューター時代の教え子などなど、たくさんの人たちが応援してくれた。僕の人生で関わってきた人たちが一つに繋がった気がした。そして僕は今、羽田空港第三ターミナルにいる。いよいよ始まるのだ。キリマンジャロへの挑戦が。少しの緊張感と、多くの高揚感を胸に、まだ見ぬ景色へ心躍らせながら、出発を待つ。2024年2月2日 岳文会 64期 山内悠平クラウドファンディングでご支援していただいた皆様、応援してくださった皆様、ありがとうございます。また、僕の挑戦を岳文会OBの方々へ伝えてくださった阿子島さん、並びに岳文会OB会長の宮島さんに心からお礼申し上げます。*1 表銀座班: 早稲田大学公認サークル岳文会の中の表銀座縦走コースを登る班の名前*2 夏合宿:岳文会の夏の一大イベント。各班が北アルプスの各コースを1週間かけて縦走する。