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心のパンツを脱いで素顔に戻っちゃう宿、小田原のティピーに遊びに来ませんか!

【「心臓」がなくなっちゃいました!!】『観光の“通過点”である小田原に、地元の人と外の人が交わる点をつくりたい』『そこに新しい価値観と文化を積み上げていく』これが僕の一番やりたいことでした。そのために、カフェ&ラウンジをつくります。見た事ない未来を見に、この船に乗りませんか?よろしくお願いします!

現在の支援総額

10,771,000

1,077%

目標金額は1,000,000円

支援者数

527

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2024/06/03に募集を開始し、 527人の支援により 10,771,000円の資金を集め、 2024/07/31に募集を終了しました

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心のパンツを脱いで素顔に戻っちゃう宿、小田原のティピーに遊びに来ませんか!

現在の支援総額

10,771,000

1,077%達成

終了

目標金額1,000,000

支援者数527

このプロジェクトは、2024/06/03に募集を開始し、 527人の支援により 10,771,000円の資金を集め、 2024/07/31に募集を終了しました

【「心臓」がなくなっちゃいました!!】『観光の“通過点”である小田原に、地元の人と外の人が交わる点をつくりたい』『そこに新しい価値観と文化を積み上げていく』これが僕の一番やりたいことでした。そのために、カフェ&ラウンジをつくります。見た事ない未来を見に、この船に乗りませんか?よろしくお願いします!

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14歳の僕が感じていたことの一つ。小田原の日常がつまらなかった。東京では日々かっこいいバンドがライブしてるし、すぐそばにライブハウスやレコード屋さんがあって、容易にそれに触れることができる。僕が10代の時にそんな場所があったら、もっとセンスいい大人になれたであろう。でもじゃあ東京に行くのは嫌だ。さらに東京と同じも嫌だ。この地域独自の魅力を醸成して、「いつか見返してやろう東京を」と思っていた。ライブハウスみたいな非日常は、日常から作られる。街に落っこちてる文化的なものが大事だなと思う。たとえば「おじさんなんだけどオシャレで聴いてる音楽だってかっこいい感じ」か、「あのお店のお母ちゃんの眼差しは優しくて綺麗」とか、なんとなくこんな大人になりたいなと思えるような風景が街中にあること。大人になった今なら、小田原の人の魅力を感じ取れるんだけど。10代20代の時にそれを感じたかった。そんな日常の延長線に非日常の瞬間があり、表現が生まれ積み重なっていく。その方法として突如投入される異分子が、大事だなと思った。だからティピーでは移住の支援もやっている。ゲストが街の人と交流することが大事だからだ。たとえば僕は、横須賀のライブハウスが一番好きだ。ある日のブッキングライブ。ガラガラのフロアにふらっと外国人がくる。そしてライブがはじまるとモッシュしてくる。米軍が。衝撃だった。横須賀に米軍基地がきてどのくらいかは知らないけれど、日本文化 ✕ 海外の文化が入り乱れて、横須賀のライブハウスシーンはめちゃかっこいい。(知ってる人向けの話になるが、Hawaiian6とか、9mm Parabellum Bulletとか、Qomolangma TomatoやSTOMPIN' BIRDとかも横須賀でやってた)小田原には横須賀と重なる環境の欠片がある。もちろん小田原には米軍基地の様な海外の日常はないけど、観光目的の人たちが小田原をめちゃめちゃ通過する。それをTipy records innが宿泊という目的で滞在してもらう。異分子が投入され、日常の延長線上に非日常の瞬間が生まれる。まさに、ライブハウスのような。小田原からすると異文化の人も。そしてこのカフェ&ラウンジphotonで地元の人と触れ合う。ここにしかできない文化がゲストハウスから生まれる。「通過点である小田原に、地元の人と外の人が交わる点を作りたい。」 そこに新しい価値観と文化を積み上げていく。っていうのはもう開業当初からずっとやりたかった。>続く (毎日僕のヒストリーを公開していきます。これは5本目です)


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2016年8月。小田原のタワーレコードがなくなった。毎週水曜日に通っていた僕にとっての大切な場所がなくなった。中学生の頃から通っていたし、小田原のロック小田原イズムが行われる時には自分たちのバンドのデモCDを置かせてもらったり、本当にたくさんの思い出が残る場所。改めて、自分の人格を形成させてもらったのは小田原のタワーレコードだった。CDを買って自宅でCDプレイヤーに入れて聞くまでの時間が好きだった。好きなバンドのCDを発売日に買う。それは試聴機にも入っていない。帰り道、とりあえず袋から出してみる。封を開けてみる。開いてみる。プラスティックケース特有の香りを感じる。盤面の印字された文字をみる。歌詞カードをみる。まだ聴いたこともない音楽の歌詞を流し読む。レコーディングはどこでしたのだろう。あ、あのバンドのあの人がコーラスに入ってるんだ。スペシャルサンクスにはあのライブハウスの店長の名前も入ってる。あー早く聴きたい。家に帰るまでの自転車のかごで揺れるCD。家に到着してすぐに聴く。この時間が好きすぎた。タワレコに限らず小田原周辺のレコードショップは潰れ始めていた。もう、この体験をこの地域で生まれた子供達はができなくなってしまうんだ。そう思った時になんとか音楽に触れられる場所を作りたいなと思った。でも今の時代、サブスクもあるし、youtubeもある。大手のレコード屋さんが続けたいと思ってもできないことが僕ができるとは到底思えなかった。ある時にマニアックなレコードやさんは海外の奥地の村にまで行って、その家に眠ってるテープやレコードを買い付けにいくという話を聞いた。その時僕はバスの運転手で、振り返るとめちゃめちゃ海外からここに来てる人がいた。「この人たちみんなに日本にくるときに一枚持ってきて貰えばいいやん!」そう思い、宿の宿泊時にレコードとその音楽とのストーリーを書いたTHE RECORD PAPERをを寄贈してもらうと500円キャッシュバックする「レコードディスカウント」の仕組みを思いついた。今では集まったレコードは100枚を超え、世界中の意味のわからない音楽が集まっている。>続く (毎日僕のヒストリーを公開していきます。これは4本目です)


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友人とバンドを続けていた僕は、20歳ごろにオリジナル曲を制作し、本格的に活動を始める。いわゆるメロコアバンドで、地元のライブハウスでは僕たちくらいしかそんなバンドはいなかった。ポップなバンドが出演し、最前列にはハイヒールを履いたワンピースの女の子のファンがいた。僕の思うライブハウスと違った。(もちろんこれもライブハウスだけど僕は若かったw)フロアは汗だくでもみくちゃ。モッシュの嵐でダイブが飛び交いお客さんも熱唱!これがライブハウスだと思ってた。「全員ぶっ飛ばしてやる」そう誓った。都内のライブハウスでライブをして、そこで出会ったかっこいいバンドを小田原での自主企画に呼ぶ。そしてライブハウスでの遊び方を地元に浸透させていく。その繰り返し。一年前に最前でハイヒールだった子は僕らのライブでTシャツハーパンで現れもみくちゃになっていた。自分が思い描く景色は自分たちで作れることを知った。ライブハウスでの最高の夜は、演者もお客さんも一つの最高の空間を作るために全力だ。ステージに立っていた僕たちがお客さんたちに負けてしまうかもしれない!と思うほどの熱狂に立ち会ったこともある。この瞬間の快感は忘れることはできないから、バンドマンは一生バンドマンなんだと思う。そして、この現象は何もライブハウスだけで起きるわけじゃない。スポーツでも、飲食店でも、夫婦の間でも、心のパンツを脱ぎ切った、ありのままでのぶつかり合いコミュニケーションの上で起きる。これを僕はティピーで起こしたいと思ってるし、小田原の町中でも起こしたいと思っている。ライブハウスを作りたいとはそういうこと。>続く (昨日から毎日6本、僕のヒストリーを公開していきます。これは3本目です)


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学校に行かなくなるのと同時期、父親の持ってるギターに興味を持ち始めた。みんなが勉強に勤しむ頃、僕はゲームとギターにのめり込み、飽きると自転車で街を走り続けた。中学校も卒業し、周りが高校に進学する頃、さすがに心配した母親が音楽の専門学校を勧めてくれた。成績がなくても入れる。60万円ほどの入学金を払えば入れる学校だった。面白いかもしれない。と思い行ってみたが、学校というスタイルがやっぱりどうも合わずに、3ヶ月で辞めた。親不孝すぎる。でもその時、年上の先輩と初めてバンドを組んだ。BRAHMANのSEE OFFとRIZEのWhy I'm Meをやった。これが最高すぎた。人生で初めて自分から奏でる音が一つになってアンプから増幅して誰かに届く。ライブハウスという空間との出会いもこの時である。完全にいけないことをしている。日常社会の中ではやってはいけないことが、ステージ上で起きている。社会的にはダメだなこの人。そう思った。でもその人のライブはすごかった。最高にかっこよかった。社会に適合できなくてもここでなら、このステージに上がれば、テレビのブラウン管の向こうに映るあのヒーローたちみたいに、僕もなれるんじゃないか?そういう鈍器に殴られたような感覚に襲われた。そこから僕は、さらに音楽にのめり込む。専門学校を3ヶ月で辞めたあと、中学の同級生とバンドを組んだ。そして来る日も来る日もギターを弾き続けた。学校に行ってない分、いろんなCDショップに行っては視聴機にかぶりつき、新しい音を探し続けた。もちろん当時は、インターネットもまだ普及しきってないしスマホもない。新譜の情報は、レコードや壁に貼ってある予約受付の紙だし、本や、深夜やってる音楽番組で情報を得た。足で稼ぎまくるしかなかったから、同級生の中では一番僕が早かった。だって学校行ってないんだから。中でも、小田原のタワーレコードへは毎週水曜日に必ず通っていた。水曜日は新譜のフラゲ日で、いち早く試聴機に新作が入る。そして気に入ったものを買う。しかも水曜日はダブルポイントデー。だから、毎週水曜日に財布のお金がなくなっていった。★15歳のコアゼ少年。学校には気分で給食だけ食べに行ってた。僕は学校に行かない代わりに、音楽に育ててもらった。学校の全員が将来何になるのかもわからずに同じ方向を向いて同じことを勉強することに納得がいかなかった。そして意味のわからない校則や理不尽な先生の言いなりになることが本当に嫌だった。僕の好きなパンクは、そんなものは全てクソ喰らえと言ってくれた。自分の選んだ道を歩むこと、周りのいうことに流されないこと。世の中に従うことの愚かさ。全部教えてくれたのはそんなアーティストやバンドたちで完全にヒーローだった。僕は証明したいと思っていた。今もそう。二度死んだ僕でも、自分で生きる道を切り拓けること。そこからがスタートなんだと。親にも家族にも恩返しがしたかった。本当に親不孝だなと思っていたし、根は真面目だし。大丈夫だよって伝えたかった。何より一番はあの時の自分を救いたい。自分が生きること、自分らしく表現し続けて生きることで、14歳の頃に悩んでいた僕へ償いたい。もし、あの時に今の僕がそばにいれたらもっと明るく人生を捉えられていたと思う。話を戻す。なぜ僕がティピーをやっているのか?全ては「14歳の自分を救うためにやっている。」生きる証明のため20代前半はバンドをやっていたが、それと変わらない。ティピーはパンクバンドって言ってるのはそういうこと。同じことをやっている。もし14歳の時の僕が目の前にいたら。「社会一般的な当たり前から外れたお前でも素敵だよ」って声をかけたい。僕の目に届く「14歳の僕」は、本当は全員に寄り添いたい。そんな歌を今も歌い続けている。>続く (昨日から毎日6本、僕のヒストリーを公開していきます。これは2本目です)


僕は2回死んでる。
2024/06/10 22:02
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僕は生まれてからもう2回も死んでいる。3回目だなと思った今回、蘇りをかけてこのプロジェクトに挑んでいる。生まれてすぐに僕は死にかけた。生まれて1週間の僕は高熱を出し、救急で運ばれた。母親はその時、僕はもう死んだと思ったらしい。幸い一命を取り留めたが、その後も頻繁に日常的に発作があり救急車で運ばれることもあった。WPW症候群(ウォルフ-パーキンソン-ホワイト症候群)という病気だった。もちろん僕は記憶はないが、この時に一度死んだと思ってる。幼少期は他人と同じような健康な毎日を送ることは失われた人生になった。この病気は中学生の頃に手術をして幸い完治した。病気のことはあったけど、小学2年生から剣道を始め、体は少しずつ丈夫になっていった。運動神経自体は元から悪くなく、勉強も好きではないけれどそつなくこなすことができていた。母は地元の進学高校出身だし、父も良い大学を出ている。親戚なんかは東大の学長がいたり、たどれば曽祖父は「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一の書生として、新潟での銀行開設に携わったり。エリートばかりだ。真面目な自負があった。生徒会にも推薦された。親は僕に「絶対に優秀な道を歩めよ!」と言うことはなかったが、僕は勝手にプレッシャーを感じていた。0か100でしか考えられなくなっていた。勉強ができてこそ僕。勉強ができない僕は僕ではない。そんな思考に侵されながら、少しずつ成績が落ちる自分を許すことができず、これは僕が悪いんじゃなくて世の中が悪いんだと思うようになった。そもそも何故勉強してるんだろう?成績は悪くなりはじめて、かつ理科の先生とウマが合わなくて、どうにか仮病を使って保健室でやり過ごせないか?ってことばかり考えてた。ひねくれた僕は、同級生ともうまく関係性を築けなくなっていった。多分いじめられてたんだと思う。ちょっかい出すやつはいつも2人でそのうちの1人は小学校のとき毎日あそんでた親友だった。昔は仲良かったのに、無視されたりうまく付き合えんかったりで日に日にストレスが溜まっていた。そんな中学2年生の秋、文化祭の準備をしていた時に、僕は水筒の水を飲んだ。水筒の水を飲んでいいのは休み時間だけである。いつも僕にちょっかいを出してくるやつが言った。「あー!コアゼが水筒の水を飲んでる!いけないんだ〜!先生にいってやろう〜!」完全に糸が切れた。僕は彼を殴りトイレに駆け込んだ。すぐにそいつも駆け込んできた。震えが止まらない。僕はそもそもそんなことできる度胸は持ち合わせてない。耐えられなくなった僕はそのまま学校を飛び出した。そして登校拒否になった。この時僕は二度目の死を迎えた。もう、自分や親、先生の思う人生を送ることができなくなった。人生が終了である。そう感じるほどに理想と現実のギャップに苦しんだ。そこから数年、僕は全てを失ったと思い込み引きこもる。自殺しようと思ったことは何度もあるし、家出もしたし親も殴った。>続く (今日から毎日6本、僕のヒストリーを公開していきます。これは1本目です)