Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第61話から第70話です。
第61話
その時太っさんは、一旦家の近くの防空壕に逃げたが、「太、危ないぞ」の声に、防空壕を出て、大人の列について行った。後で狭い防空壕が潰れていたのを見た。間一髪で太っさんは難を逃れたのだ。旧市街で焼けの残ったのは、三越と百十四銀行旧本店だけだった。
第62話
間もなく終戦、太っさんは、松島小学校6年生。兵隊になる夢も消え、焦土となった高松。絶望感に覆われていた中、子どもたちの楽しみは、三角ベースボールだ。担任の牧野先生が教えてくれた。バットもグラブも無かった。子どもたちの歓声が町中を明るくした。
第63話
太っさんは万能選手だった。走るのはもちろん速かったし、バスケットボール、相撲もうまかった。近所に高松一中野球部の柏野豊がいた。終戦の翌年、昭和21年4月、太っさんは高松一中に入学、柏野先輩に誘われ野球部に入部した。これも運命的だ。
第64話
ところが、この頃戦後の学制改革が行われ、昭和22年から旧制の中学校は募集停止となる。太っさんは下級生がいないまま高松一高の併設中学校へ進級することになり、3年間を最下級生して過ごすことになる。そして、そのまま新制高松一高に入学する。
第65話
つまり太っさんは中高一貫教育を受けたようなもので、6年間を高松市桜町(さくらまち)の校庭で過ごした。しかし中学校の3年間は試合に出ることができず、ボール拾いなど下積みの生活が続いた。この経験がその後の野球人生の礎になったと思う。
第66話
太っさんは初めて手にした硬式のボールを「本球(ほんきゅう)」と呼び感動したそうだ。当時はボールの入手に随分と苦労した。だから太っさんは僕たちが現役の頃、大量のプロ野球の使用済みの練習ボールを贈ってくれた。
第67話
この母校への練習ボールのプレゼントは、阪急に在籍していた山下健先輩が始めたらしい。中西太、近藤昭仁先輩などもそれに続いて僕らに潤沢にボールを提供してくれた。だから僕らの時代はボールを縫った経験がない。
第68話
高松空襲の時、旧制高松一中は奇跡的に難を逃れ校舎も校庭も無事だった。終戦の翌21年夏、この高松一中のグランドで県下8校が参加して、第28回全国中等学校優勝野球大会が開催された。高松一中は小豆島中に9対10で惜敗する。
第69話
この時の捕手が柏野先輩。彼はマスクだけを使用し、胸当てやレガースは着けず、危ないなあと思った、と観戦していた中山恒雄先輩からの手紙で知った。それ程、何もかも不足していた。1年生の太っさんもグランドでこの試合を見ていたはずだ。
第70話
終戦直後、全てが焼かれ、途方に暮れていたが、米軍(進駐軍)が琴電瓦町付近に図書館を開設した。戦前に出版された本だったが、フォークボールやスライダーが写真入りで載っていて、野球についてどんどん新しいことを勉強したそうだ。