Xにて連載中の「怪童中西太フィロソフィー」第71話から第80話です。
第71話
アメリカ野球の研究、大リーグの招聘、プロ野球の設立などに尽くした鈴木惣太郎の分厚い野球理論書や米国から資料を取り寄せ、
勉強し練習にも活用していた。なんと、後に9連覇の際に巨人軍が取り入れたドジャース戦法などについても勉強していた。
第72話
昭和23年、高松中学出身の桝形博監督を迎え、その熱心な指導により高松一高野球部は強化される。早稲田からは名捕手の宮原実をはじめ多数選手の指導を受けた。また後に巨人の名遊撃手になった平井三郎から、守備の基本をみっちりと学んだ。
第73話
このように当時の高松一高野球部は、貪欲に理論研究を行うとともに、その当時のトップクラスの選手の指導を受けていた。太っさんは、まだ中学生で試合に出ることはできなかったが、その後の野球人生の基礎・基本を身に付けていったのではないだろうか。
第74話
昭和23年10月一高グランドでの野球部の整列写真。14人の選手の内、4名がプロ野球に、他の部員も多くが社会人野球、大学野球で活躍した。そんな中、ついに高松一高野球部は全国デビューをする。24年春の選抜大会だ。
第75話
選抜は3月に開催、太っさんは高松一高への入学は決まっていたが、まだ中学3年生、今日では出場はあり得ない。ところが、新旧の学校制度の狭間にあった当時、特別に認められたようだ。
第76話
昭和24年春の選抜大会、1回戦は関西高(岡山)、太っさんは1年生ながら3番サードで出場し、9-3で快勝。2回戦は、小倉高、名投手福嶋に抑えられ、0-4で完敗した。太っさんも完全に抑え込まれた。
第77話
昭和24年夏の選手権大会、1回戦水戸商6-4、2回戦芦屋高5-0で勝利する。準決勝は湘南高に2-3で惜敗をする。降雨の悪コンディションの中、前半先取点を取られた高松一高は後半に追い上げ、2-2の同点にしたが、延長10回サヨナラ負けを喫した。
第78話
昭和26年夏の選手権大会、岡山東商12-3、福島商戦に太っさんは発熱を押して出場2-0、芦屋高6-2で快勝する。準決勝は平安高、8回まで4点リードされ9回に猛反撃するが3-4で惜敗した。太っさんはこの大会2本のランニングホームランを放つ。
第79話
敗戦、焦土の高松、学制改革・・、大変革の時代。予科練帰りの猛者、旧制中学出身者、新制高校入学者が集まった、新興のチームが猛練習を重ね快進撃。ついに甲子園出場を果たした。鮮烈に登場した四国の高松一高球児に人々は大きな感動を覚えた。
第80話
甲子園での活躍により、太っさんは「怪童」と呼ばれ全国にその名を轟かせた。この時代、甲子園に出場するためには、北四国大会を勝ち抜かなければならなった。香川県と愛媛県の代表が一枚の甲子園切符をかけ死闘を繰り広げていた。