【ライクスミュージアムが残した「二人の画家」の謎】の投稿で、アムステルダム国立美術館 への問い合わせの返答がきました。
「お問い合わせの件について調べましたところ、2014年刊行のアジア美術コレクション・カタログに、この問題に関する記述があることが分かりました。該当するページを添付いたします。また、このカタログ項目を担当した学芸員に、共有できる基礎的な調査資料があるかどうかを問い合わせております。回答が届き次第、改めてご連絡いたします。」というお返事をいただきました。
2014年刊行のアジア美術コレクション・カタログには下記の記述があります。
ブロムホフ家族
石崎融思(1768–1846)または川原慶賀(1786頃–1860頃)
1817年
絹本着色 95.7 × 173.3cm
所蔵番号:NG-2008-64
1817年8月15日、オランダからの船が長崎港に入港した。それ以前は1806年まで毎年オランダ船が来航していたが、その年ルイ・ボナパルトがオランダ王となって以降、日本との交易は完全に途絶えていた。1809年から1817年までの間には、わずか3隻のイギリス船が長崎港への入港を試みたものの、いずれも成功しなかった。
この間ずっと出島商館長を務めていたヘンドリック・ドゥーフは、ヨーロッパで何が起こっているのかを知らなかった。彼は困難な状況の中で職務を果たしていたが、1817年、ようやくオランダ船が水平線上に姿を現したときには、さぞ安堵したに違いない。
その船には、ドゥーフの後任としてヤン・コック・ブロムホフ(1779–1853)が乗っていた。彼は、日本当局を大いに困惑させることになる妻ティティア・ベルフスマ(1786–1821)、生後18か月の息子ヨハネス、乳母ペトロネラ・ムンス、そしてジャワ人の女中マラティを伴って来日した。
これは、出島にはオランダ東インド会社の職員しか居住を許されていなかったため、規則に明らかに反する行為であった。ドゥーフとブロムホフは日本側当局に家族の滞在を願い出たが許可されず、12月6日、妻子と召使たちは長崎港を出帆し、ブロムホフだけが出島に残された。これは悲劇的な結末であり、夫妻は二度と再会することはなかった。
出島で過ごしたこの4か月間は、非常に綿密に記録された。この前例のない出来事は、できる限り正確に記録される必要があると考えられたため、ブロムホフ一家を描いた絵画は、まるで記録写真のように細部に至るまで精密に制作された。
この肖像画では、一家は互いに間隔を置いて配置されているが、これは明らかに演出された構図である。夫妻は椅子に腰掛け、乳母は立ち、女中は床に座り、もう一人の召使は後方に立っている。幼いヨハネスは恥ずかしそうに母親にしがみついている。
この家族肖像には複数のヴァージョンが制作された。当時、石崎融思は出島で記録画家として活動していた。しかし、この無署名の作品は、石崎融思の弟子であった川原慶賀が描いた同じ構図の作品群に、より近い特徴を示している。そのため、この作品はブロムホフが私的に川原慶賀へ依頼して制作させたものである可能性がある。
ブロムホフはこの肖像画を生涯手元に置き、1823年にオランダへ帰国した際にも持ち帰った。アムステルダム国立美術館は2008年、この作品を彼の子孫から取得した。
何世紀もの間、日本にはヨーロッパ人女性が存在しなかった。そのため、ティティアの姿は長崎で制作された版画に大きな影響を与え、外国人を描いた土産物版画を求める国内旅行者の市場拡大に寄与した(図92A)。
サイトの表記は曖昧で、実はアムステルダム博物館もこの家族図をブロムホフが依頼して川原慶賀に描かせたとみているようです。担当学芸員からの引き続きの回答を待っております。



