延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

宮崎県延岡市で5年以上続けてきた「子ども宅食」。食支援・見守り・相談支援を通じて、「助けて」と言えない子どもと家庭への継続的なつながりを届け続けたいです。

現在の支援総額

1,293,500

51%

目標金額は2,500,000円

支援者数

201

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/15に募集を開始し、 201人の支援により 1,293,500円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

延岡で「助けて」と言えない子ども家庭を地域で支え続けたい。

現在の支援総額

1,293,500

51%達成

終了

目標金額2,500,000

支援者数201

このプロジェクトは、2026/06/15に募集を開始し、 201人の支援により 1,293,500円の資金を集め、 2026/07/31に募集を終了しました

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第九章 「父」という文字のある仕事小学校から中学校までは成績がよかったが、高校に入ると、授業についていけなくなった。友達は塾に通っているとか、家庭教師をつけてもらっているとか話していた。そんな話を親にすることはできなかった。継父は真面目な男だった。けれど母はいつも、「もっと稼いでほしい」と発破をかけていた。ちょうどバブルがはじけた頃だった。給料のよい会社を何度も受けては落ちていたようだ。無職の期間も半年以上あった。再就職しても営業ノルマを達成できず、すぐにクビになった。僕は少し軽蔑していた。実の父は仕事のできる男だった。金を稼ぐ男だった。だから女性にもモテ、不倫もしたのだろう。思春期の僕には、表面的には実の父の方が格好よく見えた。対して継父は、情けなく見えた。今なら、継父を単純な悪人だったとは言えない。母から叩かれ、収入を責められ、自分の子ではない僕と取っ組み合いをしながら、それでも家庭にいた。けれど、十五歳の僕にはそんなことは分からなかった。母は稼ぎの悪い継父のことを、僕たちの前で繰り返し悪く言った。特に僕には、「あんなふうになるな」と言った。高校三年生の頃には、僕はすっかり落ちこぼれていた。それでも進学したいという思いは残っていた。僕の中には、「オヤジ」への憧れがあった。子どもたちのオヤジになりたい。家に父親がいない子や、大人の男と関わる機会がない子にとって、頼れる大人になりたい。学校の先生への憧れもあった。しかし、落ちこぼれた自分には非現実的だとすぐに理解した。そこで思いついたのが「保父さん」だった。「父」という文字が入った仕事があることに、強くひかれた。当時はまだ、男性の保育者を「保父」と呼んでいた。男性が保育の仕事を選ぶこと自体、今以上に珍しい時代だった。進路指導の先生に相談すると、笑いながら言われた。「保母さんと仲良くなりたいのか。下心があるのか」真剣に考えていた僕には、つらい言葉だった。親戚に相談すると、こう言われた。「社会福祉士を目指せ」そんな職業があるのかと衝撃を受けた。困っている人の生活全体を、いろいろな方向から支える仕事だと知った。僕が子どもの頃に求めていた大人は、職業として社会に存在していた。第十章 合格しても、進学できない社会福祉士になるには、大学へ行くしかないと知った。当時、社会福祉士はまだ新しい資格だった。その最先端にあると思ったのが、日本福祉大学だった。「ここに行きたい」親に話した。反対された。理由は明確だった。学費を払えない。分かっていた。それでも諦められなかった。受験科目を懸命に勉強し、せめて受験だけでもさせてほしいと頼んだ。そして、奇跡的に合格した。合格通知を手にしても、入学手続きはできなかった。入学金が払えなかった。母は「申し訳ない」と、初めて僕に頭を下げた。責めることはできなかった。さらに頼むこともできなかった。努力すれば夢はかなう。大人は子どもにそう言う。けれど、本人に意欲があり、合格する力があっても、家庭の経済状況によって進路は閉ざされる。それでも諦められず、学費を払える方法を一人で調べた。十八歳の未成年が、自分だけで借金や奨学金を利用することは難しかった。そこで見つけたのが新聞奨学金だった。朝と夕方に新聞を配る代わりに、学費を肩代わりしてもらう。卒業まで新聞販売店の寮に住み込み、決して高くない給料で働き続ける制度だった。四年間をやり通す自信はなかった。二年間なら何とかなるかもしれない。僕は東京の専門学校を受験し、進学した。そこから、地獄が始まった。第十一章 腹が減ったら寝るにかぎる大都会・東京で、僕はいきなりその裏側を見せられた。寮の水道から出る水は赤茶色だった。共同トイレはいつも汚れていた。風呂はなく、海水浴場にあるような簡易シャワー室を配達員同士で奪い合うように使った。中学時代のぼろぼろの二軒長屋より、過酷な環境だった。新聞を毎日、約三百軒に配った。タワーマンションでは建物の中を一軒ずつ回った。大企業へは、肩が抜けそうなほど重い新聞の束を持って行った。購読料は手集金だった。配達時間以外に、一軒ずつチャイムを押して回った。居留守を使う人、払えないという人、配達が遅いと怒る人、記事の内容に文句を言う人。中には、新聞配達という仕事そのものを蔑む人もいた。一緒に働く仲間は、だいたい同じような境遇の学生だった。みんな仲がよく、先輩も優しかった。でも、みんな貧乏だった。「腹が減ったら、寝るにかぎる」そう言った先輩がいた。確かに、その通りだった。ある日、腹が減りすぎて、共同冷蔵庫にあったまんじゅうへ手を伸ばした。先輩が慌てて止めた。「お前、よく見ろ。カビ生えてるぞ。賞味期限も一年前に切れてるやつだぞ」見かねた先輩が、夕飯をおごってくれた。ところが次の日、その先輩は顔を腫らし、あざだらけで出勤してきた。自分を捨てた父親が突然、金を貸せと訪ねてきたらしい。断ると、ぼこぼこに殴られたという。その先輩はいつも、寒い朝にコーヒーをおごってくれていた。その日だけは、僕が聞いた。「ジョージアのテイスティでいいですか?」2本買った。自分にも余裕はなかった。それでも、温かい缶コーヒー一本なら誰かに渡すことができた。学業と勤労の両立は、並大抵ではなかった。仲間の多くが留年し、卒業できなかった。僕は何とか卒業単位を取った。しかし、肝心の社会福祉士国家試験を受けなかった。心が折れていた。合格率の低さもあり、将来を諦めかけた。それでも、「保父」という憧れだけは残っていた。わずかな貯金を元手に、教員養成所へ通った。新聞配達は二度としたくなかったので、あらゆるアルバイトをした。ファーストフード、コンビニ、宴会場のボーイ、家庭教師の営業、携帯電話会社の受付。短期も長期も、さまざまな仕事をした。学校で実習があると、アルバイトができない。収入が減ると、支払いができない。まず止まるのは電気。次にガス。最後に水道。生きる上で必要なものが、どの順番で止められるのかを身をもって学んだ。財布に十一円しかないまま、二週間過ごしたこともある。腹が減ったら、寝るにかぎる。友達の家へ行き、「何か食わせて」と頼むことにも慣れた。当然、学校へ行かなくなった。毎日アルバイトに明け暮れ、将来への希望もなく、その日を生きるだけで精いっぱいだった。僕は、貧困の連鎖のどつぼにはまっていた。次回第12章 逃げるように都会を去った第13章 父になる第14章 菓子パン一つの兄弟へ続く。


第六章 ザボンの置かれた玄関中学三年生のある朝、学校へ行こうと玄関を開けると、大きなザボンが置いてあった。それを見た母は泣いていた。鹿児島でよく見かける大きな柑橘類。広島で一緒に暮らしたあの男は、鹿児島出身だった。ザボンを見た瞬間、何かがまた動き始めたのだと分かった。その後すぐ、母から引っ越すと言われた。場所は近くだったが、今度は一戸建ての貸家だった。風呂もトイレもきれいだった。豪華という意味ではない。ただ、普通だった。母は、広島で一緒に暮らしたあの男と再婚した。再婚してもいいかとは聞かれなかった。広島へ連れて行かれたときと同じように、気づけば生活が決まり、いつの間にか一緒に暮らし始めていた。ただし、男の息子二人とは一緒に住まなかった。母は言った。「自分の子でない子を育てる自信がない」広島では、男の子たちと僕たちが一緒に暮らしていた。母の言葉を聞きながら、自分はどうなのだろうと思った。継父にとって僕と妹も、自分の子ではない。けれど、高校受験を控えた僕には、継父のことを気にかける余裕はなかった。母からは、繰り返し言われていた。「県立高校に落ちたら就職してもらう」落ちれば働く。受かれば高校へ行ける。十五歳の進路は、夢ではなく家計によって決まろうとしていた。そして高校入学と同時に、僕の名字は変わった。周囲の友達に気を遣われるのが嫌だった。そこで自分から「ダンディ健吾」というあだ名をつけ、下の名前で呼んでもらうよう仕向けた。けれど、友達の方がずっと大人だった。第七章 「お兄ちゃん」と呼ばれた僕ある日、母が雑種の子犬をもらってきた。うちには、いつも何かしらペットがいた。ただ、飼い方は放し飼い同然だった。今思えば、十分な余裕もない家庭で動物を飼うのは、無責任だったのかもしれない。それでも、僕はペットたちに救われていた。子犬には「J.J」と名付けた。J.Jは僕にとても従順だった。学校から帰って飯を食うと、すぐに散歩へ出た。河原に座り、長い時間、J.Jに話しかけた。「大人になったら絶対に金持ちになる」「鳥の骨ばかりじゃなくて、ステーキを食わせてやる」「こんな田舎じゃなくて、都会へ行こう」当時は見たこともなかったが、後から思えば、映画『スタンド・バイ・ミー』のような時間だった。家の中では、母と継父の関係が荒れていった。僕が夜更けに帰ると、割れた皿を片付けた跡があった。ふすまが破れていた。きれい好きの母が、食べ終わった食器を放置していた。チラシの裏に、こう書かれていたこともある。「自分のことは自分でしなさい!」何があったのかは分かった。でも、関わるのが面倒だった。継父が母や妹を一方的に殴っている場面を見たわけではない。反対に、比較的小柄な母が、背の高い継父を本気で叩いている場面を何度も見た。そのたびに、僕は妹の目をふさいだ。大人同士のことなのに、妹に見せてはいけないと思った。母が叩き続けると、継父も時折、「やめろ!」と声を荒らげ、母を払いのけた。その瞬間、僕は母の前に立った。継父に対抗できるのは、僕しかいないと思った。感情が高まり、つかみ合いになった。我を忘れて取っ組み合った。口から出る言葉は、「うるせえ」「死ね」だった。思い返せば、僕と継父の間には、喧嘩になる直接の理由はなかった。十五歳の僕と、三十五歳の継父。ただ戦う、二匹のオスのようだった。喧嘩が終わると、母は決まって妹を抱きしめた。「おとうさんも、お兄ちゃんもイヤだね」母を守るために前へ出たはずの僕は、いつの間にか継父と同じ「嫌な男」の側に置かれていた。そういえば、母はいつからか僕を「健吾」と呼ばなくなっていた。「お兄ちゃん」僕もいつからか、「母さん」と呼ばなくなった。「ねえ」とか、「ちょっと」。人に話すときは、「あの人」とか、母の名前に「さん」をつけて呼んだ。名前を呼ばなくなるほど、親子の距離は遠くなっていた。初めは母を守ろうとしていたのだと思う。けれど、やがてそんな理由も消えた。目の前にいる継父をどうやっつけるか。自分の方が強いと、どうやって分からせるか。どう屈服させるか。俺がいる限り、お前の好きにはさせない。もう、守るもクソも何もなかった。継父は、ただ嫌いな存在になった。第八章 「ダンディ健吾いるか」母のいら立ちは次第にエスカレートした。顔を合わせれば、僕に文句を言った。継父との取っ組み合いを毎日のように繰り返し、僕の暴力にも歯止めが利かなくなっていた。ある日、僕は母の横面をはたき、机をひっくり返した。泣きじゃくる妹を見て、我に返った。J.Jを連れて家を飛び出した。制服のまま、泣きながら担任の先生の家を訪ねた。先生は最初こそ驚いたが、僕の家庭事情を知っていた。何があったのかと問い詰めることはなかった。「風呂入れ」そう言って、すぐに風呂を沸かしてくれた。風呂から出ると、ご飯とみそ汁が用意されていた。「これ食え」僕が食べている間も、先生は深刻な話をしなかった。「うまいだろ」「ここの店の味噌にこだわってるんだ」先生は、たわいのない話をした。けれど、そんな話がありがたかった。J.Jは途中で勝手に家へ帰っていった。賢い犬だった。制服で飛び出してきた僕に、先生は自分のスウェットを貸してくれた。「俺はいつもソファで寝てるから、俺のベッドで寝ろ」翌朝は朝飯も作ってくれた。「俺は先に学校へ行くから、お前も遅れず来いよ」「鍵はここに入れとけよ」先生は、家の鍵を僕に預け、先に出た。学校へ行くと、先生は昨夜のことを何も言わなかった。僕を呼び出すことも、みんなの前で特別扱いすることもなかった。出席簿を開き、いつもの調子で声を上げた。「ダンディ健吾いるか~?」普通に出席を取った。僕は普通に返事をした。その日の放課後、いつもどおり家へ帰った。母から文句は言われなかった。僕はJ.Jにだけ言った。「悪かったな」餌をやり、頭をなでた。自分も飯を食い、いつものように河原へ散歩に行った。夜更けに帰ると、また何事もなかったように一日が終わった。先生は僕の問題を解決したわけではない。ただ、風呂を沸かし、飯を食わせ、寝床を用意し、次の日には普通の生徒として名前を呼んだ。あの夜の僕に必要だったのは、説教でも事情聴取でもなかったのだと思う。一晩、安心して眠れる場所だった。別の日には、仲のよい友達とゲームセンターで殴り合いになった。金を貸した、借りたという、今となってはどうでもよい理由だった。美術の先生が体当たりで止めてくれた。正座をさせられ、説教された。先生は言った。「お前の心は、もっと美しいはずだ」問題行動だけではなく、その奥にいる僕まで見てもらえたような気がした。あの言葉も、今も残っている。次回第9章「父」という文字のある仕事第10章 合格しても、進学できない第11章 腹が減ったら寝るにかぎるへ続く。


第三章 「私にはこの子がいる」ある冬の寒い朝、けたたましい警報音で目を覚ました。台所へ行くと、母がひもで縛られていた。そのそばには、あの男が立っていた。「暴れるから縛った」そう言われた。意味は分からなかったが、僕は母のひもを解いた。警報音の理由を尋ねると、ガスコンロからガスが出ているせいだと言われた。後になって知った。母と男は、僕たち子どもを巻き込んでガス自殺を図ったのだという。母もそれに賛成していたと聞かされた。僕は理科の授業で習ったガスの性質を思い出した。コンロの栓を閉め、玄関の扉を開けた。ほうきを持ち、天井を掃くようにして空気を動かした。しばらくすると、警報音は止まった。家族の命を救ったなどという実感はなかった。ただ、うるさい音を止めなければならないと思って動いただけだった。そのとき、目にした光景を今も忘れられない。母は眠っている妹だけを抱きしめて、言った。「私にはこの子がいる」僕もそこにいた。ガスを止め、玄関を開け、家の中の空気を動かした僕も、同じ部屋にいた。けれど、その言葉を聞いたとき、母に選ばれたのは妹だけなのだと思った。子どもだった僕が家族を守った。けれど、その場で僕だけが家族の外側へ押し出されたような気がした。第四章 「その他」に丸がついた日小学校を卒業したら、また引っ越すと言われた。もう、どうでもよかった。次に移ったのは、母の実家から少し近い場所だった。二軒長屋のぼろぼろの家。汲み取り式のトイレ、五右衛門風呂、二部屋だけの2K。それでも、広島で一緒に暮らした男も、その息子たちもいなかった。学校生活はまあまあ楽しかった。バスケットボール部に入り、友達もできた。同級生の女の子たちが、「家に遊びに行ってもいい?」と聞いてくることもあった。でも、家を見せたくなかった。ある日、母から実父に電話をかけるよう言われた。養育費を払ってもらうように伝えろという。電話の横で母は、声を潜めて言った。「自転車が欲しいと言いなさい」自分の希望として父に頼むように言われた。子どもの僕が、親同士のお金の話を運ぶ役目になった。ある夏休みの暑い日、母から「今日は来客があるから、制服を着て家にいて」と言われた。きちんとしたシャツを着て名札を付けた男性が二人やってきた。その数時間前から、母はなぜかエアコンを切った。「エアコンは壊れていると言いなさい」母の軽自動車も、その日だけいつもの駐車場にはなかった。男性たちは僕にいろいろなことを尋ね、三十分ほどで帰っていった。後になって、彼らが生活保護の担当者だったと知った。うちは母子家庭の生活保護世帯だった。担当者が定期的に訪問するたびに、「エアコンは壊れている」「車はない」と、うそをつくように言われた。なぜそうしなければならないのか、子どもの僕には分からなかった。ただ、大人に本当のことを言ってはいけない家なのだと覚えた。当時、中学校では毎月、諸費を集める集金袋が配られた。袋には「長子・次子・その他」と書かれていた。同じ学校にきょうだいがいる場合、徴収額が変わるためだった。僕は長男だった。しかし、僕の袋には「その他」に丸がついていた。友達が聞いた。「なんで長男やとに、その他に丸がついてるん?」僕自身もよく分からなかった。しかし、その質問で気づいた。生活保護世帯だからだ。僕は母に、もう集金袋を学校へ持って行きたくないと訴えた。母は、毎月納めなくてよいように年間分を一括で払ってくると言い、学校へ行った。次の日から、朝食はパンの耳だけになった。第五章 茶色い弁当僕はバスケットボール部に入っていたが、バッシュを買ってもらえなかった。しばらくは体育館シューズで練習した。友達にからかわれるのが嫌で、何度も母に頼んだ。ようやく買ってきてくれたのは、コンバースのワンスターだった。それ、スニーカーじゃん。そう思ったが、ないよりはましだった。試合に出るときは、後輩のバッシュを借りて履いた。当時通っていた中学校には給食がなく、毎日弁当を持参した。母は料理が上手だった。けれど、僕の弁当だけはいつも茶色かった。魚のあらや大根を、しょうゆで煮ただけのおかず。アルミホイルすら買えなかったのか、ご飯とおかずの仕切りはなかった。昼にふたを開ける頃には、白いご飯まで煮汁で茶色に染まっていた。隣の弁当には、赤いウインナーや黄色い卵焼きが入っていた。色とりどりのおかずがきれいに仕切られていた。僕は弁当を隠しながら食べた。食べないという選択肢はなかったが、できるだけ目立たないように急いで食った。家が貧しいと、子どもは何も分かっていないようで、よく分かっている。バッシュを持っていないこと。弁当の色が違うこと。集金袋の丸が違うこと。友達の家では当たり前にあるものが、自分の家にはないこと。一つ一つは小さな違いでも、それが毎日積み重なると、自分だけが別の場所にいるような気持ちになる。だから家に友達を呼ばなかった。だから本当のことを話さなかった。困っていると知られるくらいなら、何も必要としていない顔をした。次回第6章 ザボンの置かれた玄関第7章「お兄ちゃん」と呼ばれた僕第8章「ダンディ健吾いるか」へ続く。


プロローグ 玄関の外側に立つ2020年12月。僕は食料の入った袋を持ち、ある母子家庭の玄関の外に立っていた。玄関が開く。真冬なのに、部屋には暖房がついていなかった。昼間なのに薄暗く、それでも電気はつかなかった。家の中には、僕をじっと見ている男の子がいた。「今、何が面白い?」「別に」その返事を聞いた瞬間、忘れていたはずの寒さがよみがえった。ああ、そうだったな。僕も、こんな部屋にいた。僕も、大人に何を聞かれても、何も言えなかった。あのぼろぼろの家にも、ストーブはなかった。寒い日は布団をかぶっていた。夜の七時を過ぎるまで電気をつけてはいけないという、変な決まりもあった。食料の袋を持って玄関の外側に立ちながら、僕は気づいた。この扉の向こうにいるのは、知らない男の子じゃなかった。玄関の向こうにいたのは、あの日の僕だった。 第一章 父のいない家僕は1973年9月26日、普通のサラリーマン家庭に長男として生まれた。家族からかわいがられて育ったと思う。ただ、出張や転勤の多い父は、ほとんど家にいなかった。暮らしぶりだけを見れば、僕は母に育てられたようなものだった。父は家に戻ってきても、「付き合いがある」と言って夜になると出かけた。そのたびに、僕の目の前で夫婦喧嘩が始まった。後になって、父には不倫相手がいたと知った。母は分かっていたのだろう。だから、あれほど父と争ったのだと思う。子どもは、親の事情を詳しく知らない。それでも、家の空気が変わる瞬間は分かる。声の大きさ、戸の閉まる音、食卓に置かれた皿の音。父が帰ると家族がそろうはずなのに、僕にとっては家の中が緊張する時間でもあった。小学6年生のとき、両親は離婚した。一学期の終業式が終わると、母は僕と幼い妹を連れて家を出た。僕は当然、母の実家へ行くのだと思っていた。連れて行かれたのは、母の友人が暮らす団地だった。母の友人はシングルマザーで、僕より一つ年上の息子がいた。夏休みだったこともあり、数日間は楽しく過ごした。けれど、一週間ほどすると、見知らぬ男が現れた。僕たちはその男の運転する車に乗せられた。母と妹と僕、そして見知らぬ男。どこへ行くのか、なぜ行くのか、詳しい説明はなかった。子どもの僕には、質問するという選択肢さえなかった。第二章 今日からここが新しい家車が着いたのは広島だった。古い3DKのアパートに入り、母は言った。「今日からここが新しい家」新しい小学校は近い。店もたくさんある。楽しいところだ。母はそんな説明をした。僕は何が起きているのか分からないまま、何となく楽しそうなのかもしれないと、自分に言い聞かせた。転校には慣れていた。実父の転勤で、小学校はすでに四校目だった。転校生として教室に入り、名前を言い、どこから来たのかを説明する。そういうことには慣れていた。しかし、転校先では修学旅行がすでに終わっていた。小学校生活で最も大きな行事に、僕は参加できなかった。旅行先がどこだったのかよりも、みんなが共有している思い出の中に自分だけがいないことが寂しかった。しばらくして、妹と同じくらいの年頃の男の子が二人やってきた。4歳と5歳くらいだった。あの男の息子たちだという。正直に言えば、かわいいとは思えなかった。二人はよくおもらしをし、いつもおしっこのにおいがした。妹は年が近いこともあり、一緒に遊んでいた。あるとき、そのうちの一人が妹のスカートの中をのぞき込んでいるのを見た。僕はとっさにその子を叩いた。母にはひどく怒られた。けれど、僕は自分が間違ったとは思わなかった。妹を守ったのだと思っていた。広島へ引っ越したその年の冬、母方の祖父の体調が急変した。病床の祖父の前で、あの男は言った。「必ず幸せにします」親族がみんな聞いていた。僕も聞いていた。大人が親族の前で口にした約束なのだから、きっと守られるのだと思った。しかし、気づけば男はいなくなっていた。母はただ、「別れた」としか言わなかった。次回第3章「私にはこの子がいる」第4章「その他」に丸が付いた日第5章 茶色い弁当へ続く。


鈴木京子 さまより応援メッセージをいただきました!食べることは疲れた身体を元気にしてくれるつらい気持ちも癒してくれる生きていくにはとてもとても大切なことだなぁと思います。心のこもったこの活動はあると助かる精神細やかな活動だと思いますこの気持ちが食べる人にきっと伝わり明日も頑張れるのだと思います。頑張ってください微力ではありますが応援しています。


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