
「気が重い」という言葉が、これほどまでに鮮やかに——もちろんそこに色彩などないのだけれど——物理的な重さを持って自分の胸を締め付けるとは思いもしなかった。
意を決して、僕は駅に向かう。今日はなぎに会うためじゃない。東京に戻るのだ。ずっと休職していた会社を、正式に退職するために。 なぎの幻影がいない、つまり誰一人としていない無人駅は、僕を励ますことも、叱責することもなく、ただ淡々とした時間をやり過ごすための背景としてそこに在った。
僕は錆びた金属音を響かせる2両編成の電車に乗った。空港までどれくらいかかるのか。時間には、たっぷりと余裕を持たせてある。分刻みのスケジュールに追われ、常に焦燥感に急き立てられていた都会での生活は、僕の魂に「行動には常にバッファを持たせなければならない」という強迫観念めいた癖を植え付けていた。
ガタガタと揺れる車窓から、夏の濃い緑をぼんやりと眺めながら、僕は頭の中で何度も退職届を提出するシミュレーションを繰り返した。係長という肩書きをもらってから、初めて会社に対して自分の「明確な意思」を見せる瞬間だ。胃の奥が冷たく軋む。
空港に着いても、搭乗時刻まではまだかなりの時間があった。僕は出発ロビーの巨大なガラス窓の前に立ち、陽炎を揺らして滑走路を飛び立っていく銀色の機体を見つめていた。 数年前、栞と一緒にこの街へ帰ってきたときは、あんなにも胸がわくわくしていたのに。同じ場所に立っているというのに、今の僕の足取りは鉛のように重い。
会社のことと同じ比重で、あるいはそれ以上に僕の頭を占めていたのは、栞のことだった。 僕たちはあの息の詰まるような大都会で、二人きりで身を寄せ合い、互いを支え合って生きてきた。栞が社会の波にすり減り、ひどく塞ぎ込んでしまったときは、僕が彼女を支えた。そうやって長い夜を共に乗り越え、栞は少しずつかつての凛とした明るさを取り戻し、見事に会社へと復帰を果たした。 それなのに、僕は今、会社を去ろうとしている。栞はすごいな、と純粋に思う。それに比べて僕は、どこで歯車を掛け違えてしまったのだろう。
*
東京に着き、羽田からモノレールと電車を乗り継いで、直接会社へと向かう。 駅を降りてスクランブル交差点に出ると、巨大なビジョンから降り注ぐ人工的な光と音の洪水が僕を飲み込んだ。アスファルトの強烈な照り返しの中、人々は皆一様に、活気というよりも「から元気」のようなギリギリの熱量を纏いながら、足早にすれ違っていく。その圧倒的な速度に、僕の歩調までもが無意識のうちに焦らされる。
久しぶりに足を踏み入れたオフィスは、相変わらず無機質で、冷たい空調の風が吹き抜けていた。 とはいえ、誰一人として僕に声をかけてくる者はいない。無理もない。疲れ果てて「休職」に逃げ込んだ係長なんて、今の彼らにとっては触れてはいけない「腫れ物」以外の何物でもないのだから。みんな、自分の仕事(日常)を守るために必死なのだ。
あっけないものだった。 拍子抜けするほどに、退職の手続きはスムーズに終わってしまった。人事部の小さな会議室で、いくつかの書類にサインをし、事務的な説明を受けただけ。一時期は本気で退職代行サービスの利用を調べ、あんなにも僕の生活を黒く侵食していた巨大な悩みは、ものの十五分で紙切れと共に終了した。
ビルを出て、見上げるほど高いガラス張りの壁面を振り返る。
「……僕って、その程度の存在だったんだな」
引き継ぎの心配すらされなかった。社会という巨大な機構の中で、僕という歯車一つが欠けても、世界は何の滞りもなく完璧に回り続ける。
再びスクランブル交差点に戻ってきたときには、日はすでに傾き、ビル群の谷間に強烈なオレンジ色の西日が差し込んでいた。 信号が青に変わり、膨大な数の人々がそれぞれの「目的地」へと一斉に歩き出す。僕はそのうねりの真ん中で、まるで足元から根を張られたように立ち尽くしていた。
「何者でもない僕」になって、呆然と。 次から次へと、サラリーマンや学生たちが僕の肩の横をすり抜けていく。そのうち、誰の肩も僕にぶつからなくなったことに気がついた。群衆が、まるで水流が岩を避けるように僕を透過していく。 西日が僕の身体を通り抜けて、アスファルトに影を落とさないような感覚。僕という「生きた人間」の輪郭がひどく薄れ、世界から切り離されていく。 ……ああ、そうか。僕は今、あの無人駅にいるなぎと全く同じ「幽霊」になってしまったんだ。
猛烈な恐怖と孤独が襲ってきた。誰かに触れてほしかった。僕がここにいるという証明がほしかった。僕は無意識のうちに、逃げるように走り出していた。栞の待つ、あのマンションへ。
僕の最後の救い(サンクチュアリ)へと。
*
玄関のドアを開けると、仕事で遅いはずの栞の靴が綺麗に並べられていた。 廊下には、彼女の纏う甘く清潔な柔軟剤の香りと、温かい料理の匂いが満ちている。
「おかえりなさい」
リビングの扉を開けると、エプロン姿の栞が、夕陽に染まる部屋の中で完璧な微笑みを浮かべて立っていた。
「栞、仕事は……」
「今日は早退させてもらったの。大切な日だから」
彼女はそう言うと、ふわりと近づき、僕の首に腕を回して深く抱きしめた。彼女の確かな体温と鼓動が、幽霊になりかけていた僕の身体に、再び生きた血液を注ぎ込んでいく。
「お疲れ様」栞は僕の耳元で、甘く、そしてどこか陶酔したような声で囁いた。
「……これでやっと、私だけのものだね」
その言葉の響きに一瞬だけ奇妙な違和感を覚えたが、僕は彼女の背中に腕を回し返した
「……うん。でも、拍子抜けだったよ。引き継ぎもなく、あっさりと終わってしまった。僕なんて、いてもいなくても同じだったんだ」
僕が自嘲気味にこぼすと、栞は全く驚く様子もなく、むしろ心底嬉しそうに目を細めた。 「当然よ。あんな会社、あなたの本当の価値なんてわかってないんだから。さあ、手を洗ってきて。退職のお祝い、作って待ってたの」
食卓を見て、僕は息を呑んだ。 そこにあったのは、丁寧に形作られたオムライスと、トマトのサラダ、それにポタージュスープ。 それは、高校の文化祭の打ち上げの夜——僕となぎと栞の、あの完璧だったトライアングルが壊れる直前に、三人で食べたファミレスのメニューと、寸分違わぬ構成だった。
「味も、あの時の思い出の通りに再現してみたの。どうかな?」
僕を見つめる栞の瞳には、一切の淀みがない。 あの破滅に向かう直前の、一番美しかった過去の記憶を、彼女は今、この東京の密室で完璧に固定(パッケージ)しようとしているのだ。
「これからは、私がずっと面倒を見てあげるからね。あなたは何処にも行かなくていい。私が、全部守ってあげる」
僕の頬に手を添える栞の優しさは、圧倒的で、暴力的で、まるで真綿でゆっくりと首を絞められるような息苦しさを伴っていた。けれど同時に、何者でもなくなった僕を肯定してくれる、世界で唯一の絶対的な聖域(サンクチュアリ)でもあった。 僕は胃の奥に冷たい氷を飲み込んだような感覚を覚えながらも、「ありがとう、栞」と笑い返した。僕にはもう、彼女のこの美しく狂気めいた愛に溺れるしか、生きる道は残されていないのだ。
栞がスープを温め直すためにキッチンへ向かった隙に、僕は脱ぎ捨てたジャケットをハンガーに掛けようとした。 その時、ポケットの中に、指先をザラリと擦る異物感があった。
手を入れて、引き出す。 それは、あるはずのないものだった。 あの冬の夜、なぎが不格好に編んで僕の首に巻いてくれた、あの毛糸のマフラーの切れ端。
エアコンの冷たい風に揺れるその赤い毛糸から、むせ返るような冬の海の匂いが立ち上り、僕の幽霊のような輪郭を、静かに、そして確実に侵食し始めていた。



