『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

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孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

深夜の東京の空は、厚い雲に街のネオンが反射して、どこか不健康な紫色に濁っていた。

窓ガラスには、初夏の湿気を帯びたぬるい雨が幾筋も流れている。

僕の部屋に着いた栞をリビングのソファに座らせ、僕はキッチンへ向かった。換気扇の低い唸り声だけが、ふたりきりの空間に響いている。 お湯を沸かしながら、戸棚からココアの粉末を取り出す。以前、輸入雑貨の店でふたりで選んだ、ベルギー産のひどく甘いココアだ。ブラックコーヒーの苦味しか受け付けない僕にとっては、暴力的なまでの糖度の塊でしかなかったが、栞はそれをとても好んで飲んだ。 この甘い泥のような液体に、彼女はさらにチョコレートなどの茶請けを添える。どうしてその細い身体のどこにあのカロリーが消えていくのか。そんなことをぼんやりと考えながら、僕は無意識のうちに、ソファに沈み込む栞の身体の輪郭をなぞっていた。 華奢な肩のライン。薄いブラウスの下で静かに上下する胸の膨らみ。膝を揃えて座る、白い脚。 いかんいかん。僕は頭を振り、小さく息を吐いてマグカップに湯を注いだ。

「ここに着替え、置いておくから」 僕が声をかけると、栞はビクッと肩を震わせた。 

「ベッドで寝て」 

「うん、ありがとう」 

栞は力なく頷き、そして、ふと顔を上げた。 

「……ねぇ」 

「どうした?」

 「……ありがとう。いいの? こんなにしてもらって」

 「したくてしているんだ」

 僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。 

「甘えてくれ」 

「甘党だからね、私」 

「知ってる」

タクシーでの移動中は死人のように押し黙っていた栞だったが、部屋の空気に触れて少し調子が戻ってきたのか、ポツリポツリと声を発するようになった。 僕が貸した大きめのTシャツとスウェットに着替えた栞は、自分の胸元を掴み、ふと鼻を近づけた。 

「あの柔軟剤、使ってくれてたんだ」 

それは以前、栞が僕の部屋のために買ってきた、微かにシトラスの混じるフローラルの香りだった。 

「あぁ、好みの香りなんだ。それに、他のを買いに行く必要もないしな」

 栞は、何度も何度も、Tシャツの襟元に顔を埋めてその香りを嗅いだ。それはまるで、この無機質な僕の部屋に自分の存在の痕跡がしっかりと許されていることを確かめるような、痛切なまでの確認作業だった。

彼女の表情が、ほんの少しだけ、泣き出しそうなほど幸せなものに歪んだ。

「はい、ココア」

 「ありがとう」

 両手でマグカップを受け取った栞は、フッと息を吹きかけ、口をつける。 

「熱っ」 

「あわてないでいいよ、ゆっくり飲んで」 

「熱っ」 

「懲りろよ」

 他愛のない、でも僕たちにとっては絶対的に必要なやり取り。 ふと、栞が上目遣いで僕を見た。 

「居て、いいの?」

 「そのつもりで連れてきたんだ」 

「いけないときは出ていくからね」 

「そんな必要はない」 

「なぎが来たら、ちゃんと外で時間つぶすから」 

「そんな気遣いするなよ」

 「でも……」 

「居てくれよ」

沈黙が落ちた。窓を叩く雨音だけが、部屋の隙間を埋めていく。

 「……ん」 栞はマグカップをテーブルに置き、俯いた。 

「私は……なぎみたいに明るくもないし、可愛げもないよ? わがままなとこはちょっと共通してるけど……」

 「最高かよ」

 「でも、一緒にいていいって思えるように、頑張る」 

「頑張らなくて……も……」

言葉が、喉の奥でつかえた。 その先を紡ぐ前に、視覚が僕の思考をショートさせたのだ。 栞は俯いたまま、ダボダボのTシャツの裾から両手を潜り込ませていた。背中に回った手が、布越しの微かな動きとともに、何かを外す。 カチャリ。 小さな、しかし決定的な金属音が鳴った。栞は器用にブラジャーを外し、Tシャツの首元からそれを引き抜いて、静かにソファの脇に落とした。 重力から解放された柔らかな胸の気配が、Tシャツの生地を通して生々しく伝わってくる。部屋の温度が、急激に上昇したような気がした。

「頑張ったら……ダメかな?」

 栞が、濡れた瞳で僕を見上げた。 

「私は、頑張ったら……ここで頑張ったら、ダメかな」

 「…………」 

声が出なかった。全身の血液が沸騰し、思考を奪っていく。泣きそうな顔で、自分自身の存在すべてを僕に委ねようとする彼女の脆さと、圧倒的な雌としての匂い。 僕は全力で、喉の奥から声を絞り出した。 「あとは、僕が預かる」

僕は手を伸ばし、栞の唇を塞いだ。 

「……はい……っ」

 唇の隙間から、彼女の嬉しそうな、甘い吐息が漏れた。

僕は栞を抱き上げ、ベッドへと横たえた。 僕たちの行為は、とても静かなものだった。ポルノ映画にあるような暴力的な激しさも、芝居がかった声もない。ただ、限りなく静謐な時間の中、シーツが擦れる微かな音と、耳元で熱を帯びていく栞の吐息だけがあった。 ただ、栞が愛おしかった。彼女の冷え切った魂を、僕の体温で溶かしたかった。 互いに手探りの、不器用な触れ合い。しかし、そこには圧倒的な安堵があった。僕の手が彼女の滑らかな肌を滑り、彼女の爪が僕の背中に食い込む。熱を帯びた粘膜が交わり、互いの汗が混じり合う。 それは、文字通り「一緒になる」という感覚だった。ふたりの肌が溶け合い、どこまでが僕で、どこからが栞なのか、その境界線が完全に消失していく。

 これが、誰かと「一緒」になるということなのか。

「大好き……ずっと、ずっと……好き」

 栞は僕の背中に回した腕に力いっぱいの想いを込めながら、耳元でハッキリとそう言った。そして、照れ隠しのように激しく、貪るように唇を押し付けてきた。 静寂だった部屋は、やがて甘く湿った栞の吐息と、ふたりの肉体が重なり合う水音に完全に支配されていった。

「……あっ……」 

栞の身体が大きく反り返り、甘い声を上げた、その瞬間だった。

コン、コン。

玄関のドアをノックする硬質な音が、僕たちを現実に引きずり戻した。 栞がハッと息を呑み、自らの口を両手で強く押さえて息を殺した。僕の背筋を一瞬にして氷のような悪寒が駆け下りる。

『せんせー、帰ってないの?』 

なぎの声だ。 何故。何故、よりによって今日なんだ。 思考が激しく空回りする。このまま息を殺してやり過ごそう。居留守を使えば、そのうち諦めて帰るはずだ。

 いや、ダメだ。 ——合鍵。なぎは、この部屋の合鍵を持っている。

ガチャガチャと、ドアの向こうでなぎがバッグの中を漁る音が聞こえる。 時間が凍りついた。僕と栞は、身体を深く繋げたまま、まるで石像のように硬直していた。 息を殺していた栞が、ゆっくりと僕を見た。 その瞳に宿っていたのは、恐怖ではなかった。先ほどまでの脆く震えるような少女の光は消え失せ、そこには底知れぬ暗い炎が燃えていた。 栞は、僕の背中に回していた腕を、逃がさないようにしっかりと固定した。

「……えっ!?」 

僕が声を漏らすより早く、栞は僕にまたがったまま、自らの腰を再び動かし始めた。

 「栞?」

 「もっと……気持ちいい……っ」

 「栞……いま……は……」

 「お願い……」 

止めようとする僕の顔を両手で挟み込み、栞の細い指が、僕の耳を塞いだ。 外部の音を物理的に遮断する、強烈な独占。


【次回以降の連載に関するお知らせ】

いつも『なぎのえき』をご愛読いただき、心より感謝申し上げます。 皆様からの温かいご感想や熱い反響が、執筆の何よりの原動力となっております。

本連載につきまして、大切なお知らせがございます。 これまで本編を全編公開してまいりましたが、次回以降の更新からは【一部分のみの公開(先行公開・試し読み)】へと移行させていただきます。

Webでの全編公開は終了となりますこと、何卒ご了承ください。

次回以降も、物語の不穏な空気感や、ヒロインたちの感情の揺れ動きを感じていただける「物語の断片」は引き続きお届けしてまいります。

栞と僕の行き着く先、そしてなぎの真実。 物語の核心に迫るすべてのエピソード(完全な結末)につきましては、現在挑戦中のクラウドファンディング限定リターンである『なぎのえき 完全版』および『オーディオドラマ』にて完全収録してお届けいたします。

私たちが目指す「唐津の風景を永遠の聖地(ARアート)にする」という挑戦。 この先の物語を最後まで見届け、共にその未来を創る「共犯者」になっていただける方は、ぜひ下記のプロジェクトページより詳細をご覧ください。

引き続き、『なぎのえき』をよろしくお願いいたします。

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