
壊れかけて、ひび割れたガラス細工のようになってしまった栞を、
僕の小さなアパートに迎え入れたとき。僕たちの間には、言葉にしない、
水のように自然な「いくつかのルール」が生まれた。
それは外界からのノイズを徹底的に遮断し、この四角い部屋を世界で一番安全な繭(まゆ)にするための儀式だった。何気なく点けるテレビ番組も、感情の起伏を強要するようなものは避けた。ドラマの愛憎劇や、誰かが誰かを陥れるようなバラエティ番組は、いまの栞の薄い皮膚には刺激が強すぎる。 僕たちが好んだのは、地方のひなびた町を歩き、まったりと定食を味わうようなグルメ紀行だった。大食いでもなく、
ただ温かい湯気を立てるご飯を「美味しいね」と笑って食べる。
そんな平熱の時間がちょうどよかった。 その影響は、確実に栞の身体の輪郭を柔らかくした。特にお腹周りについたほんのわずかな丸みは、彼女がこの部屋で安心し、栄養を吸収しているという何よりの証拠で、僕にはそれがとても愛おしかった。基本的に、僕たちは「何もしない」という時間をゆっくりと消化して過ごした。 根が真面目で完璧主義な優等生だった栞は、最初「何もしないこと」に強い罪悪感を抱いているようだった。だから僕は、
「暖房を消してベッドで一緒に過ごすのは、地球環境に配慮した立派なエコ活動だ」
という、呆れるような大義名分を掲げた。 すると栞は、ふっと肩の力を抜いて、すんなりとそれに従うようになった。冬の冷たい空気のなか、ベッドの毛布にくるまり、僕の体温で栞を温める。それが日課になった。 そのまま午睡に落ちてしまっても構わない。先に目覚めたほうが夕飯の支度をするか、献立を思いついたほうがキッチンに立つ。 料理は、冷蔵庫の残り物でジャズのように適当なアレンジを加える僕が作ることが多かった。
栞はレシピという「正解の譜面」が先にあり、それに合わせて食材を完璧に揃えなければならないと考えるタイプだったからだ。
あとは、お風呂。 以前はお互いにシャワーだけで済ませがちだったけれど、毎日必ず、狭い浴槽にたっぷりとお湯を張るようになった。一度だけ「一緒に入る?」と誘ってみたが、物理的な狭さゆえに断られた。
それでも、立ち上る白い湯気の中で身体を沈める時間は、溶け合ってしまいそうな「今日」と「昨日」の境界線をきっちりと引き直し、一日をリセットするための大切な句読点になった。知人も友人も極端に少ない僕の生活圏では、電話のベルが鳴ることはほとんどない。外部との繋がりは、パソコンの無機質な電子メールと、小さな液晶画面が光るポケベルだけ。 それでも、僕は音に気を遣った。 外出するときは、まるで遠足に行く子供のように、行き先と帰宅時間を正確に伝えた。出先からの公衆電話やポケベルでの連絡も欠かさなかった。 栞が会社に退職願を出したとき、彼女はその後の行き先を少しだけぼかした。
もう、彼女の帰る場所はこの部屋しかないのだと、暗黙の了解がそこにはあった。
ある日の深夜。 いつものようにベッドで微睡んでいると、ふと、隣にあるはずの温もりが消えていることに気がついた。 ベランダへ続く掃き出し窓が、半分だけ開いている。
都市の冷たい夜風が、薄いカーテンを幽霊のように揺らしていた。
ドクン。
心臓が警鐘を鳴らすように大きく跳ねた。それを合図に、僕は慌ててベッドを抜け出し、ベランダへと出た。 そこには、手すりに寄りかかり、夜の街を見下ろしている栞の背中があった。 僕は彼女を驚かせないよう、スリッパの底でわざと小さく音を立てながら近づき、その華奢な肩に触れた。
「寒くない?」
「寒い……。でも、それがいい」
僕は、手に持ってきた上着をそっと彼女の肩にかけた。 僕のアパートはたかだか三階建てだが、小高い坂道の上にあるため、視界を遮るものがない。不便な坂道と引き換えに手に入れた、宝石箱をひっくり返したような夜景が広がっていた。
「あんなに、人がいるんだね。こんな夜中なのに」
光の瞬きのひとつひとつに、誰かの営みがある。
「そうだね」
「なのに……この部屋は、別の宇宙みたい」
「ふたりでいる。それだけでいい」
僕は夜風に溶けるような声で言った。
「悪くない宇宙だ」
後ろから、栞の身体をすっぽりと抱きしめる。 栞は僕の腕に自分の手を重ね、その体温の感差をしばらく楽しむように撫でた後、冷え切った僕の手を導き、自分の胸へと添わせた。 薄い布地越しに、栞の柔らかなふくらみと、かすかな硬さが手のひらに伝わってくる。
「いま、いまはね、幸せ」
夜空を見上げたまま、栞がぽつりと言った。
「この幸せって、終わりがくる?」
「いちおう、あるかもね」
「いつ?」
「願わくば、ずっと後。希望は、寿命まで」
「……寿命まで?」「それまでは、そばにいてよ」
「…………ずっと、生きてて」
「善処する」
僕は、栞の胸に置いた手を、確かめるようにゆっくりと動かした。 栞の呼吸が、次第に浅く、早くなっていく。熱を帯びた吐息が、冬の冷気を切り裂いて僕の耳たぶに触れた。ひどく、あたたかい。 栞は少しだけ顔を振り向き、僕の耳たぶに柔らかな唇を寄せた。 そうして、普段の彼女からは想像もつかないような、甘く濡れた声量で、夜の底に溶かすように呟いた。
「——欲しい」
「ふたりだけでいい」と完結した宇宙に引きこもっていても、やはり時には外の空気を吸いたくなる。
その日、僕たちは郊外のショッピングモールへ出かけることにした。
息の詰まる満員電車を避け、少し遠回りになるのんびりとした路線バスを選んだ。 ファッションや流行に興味を失っていたように見えた栞だが、やはりそこは美しい女性としての本能なのか、綺麗に身支度を整え、バスの座席に揺られながら微かに鼻歌をこぼしていた。
ふたりでよく観ていた人気アニメの主題歌。その小さなメロディが、車内に差し込む光の粒子に乗って踊っているようだった。季節外れの、狂ったような暑さの日だった。 突き抜けるような青空から、暴力的なまでの陽射しがアスファルトを焼き付けている。 乗り換えのバス停。照り返しで蜃気楼が揺れる中、僕は自動販売機で冷たい飲み物を買い、日傘の下の栞に声をかけた。「何か飲む?」
「あなたが飲むのを、少し頂戴」
「了解。はい、点滴液ね」
僕がスポーツドリンクのペットボトルを差し出すと、栞は目を細めてふわりと笑った。ああ、澄み切った笑顔だな、と思った。 ようやく、心の底から吹っ切れたのだろうか。 けれど、陽光に透ける彼女の背中に、
僕はなぜか、ぞわりとした不穏な影を感じ取っていた。——あ。車の往来をぼんやりと見つめていた栞の背中に、嫌な予感が走った。
「……栞」
僕の声に、栞がゆっくりと振り返る。 その笑顔。その立ち姿。何かが決定的に歪んでいた。 強烈な逆光のなか、栞の輪郭が、まるで蜃気楼のようにぐにゃりと歪んで見えた。 彼女の足が、ふらりと、引き寄せられるように車道の方へ向かって踏み出される。そっちに行ってはダメだ。 明るすぎる陽射しのなかで、栞という存在そのものが、光に溶けて消えてしまうように見えた。「栞ッ!」
僕はペットボトルを放り出し、全力で手を伸ばした。 彼女の細い手首を掴み、歩道側へと強く引き戻す。 その瞬間、僕の足が縁石の何かに引っかかった。視界が、コマ送りのように奇妙に歪む。 驚愕に見開かれた栞の瞳。 彼女が歩道のアスファルトに倒れ込むのと、止まらない慣性の法則に従って僕の身体が車道へと放り出されるのが、まるで入れ替わりのように同時だった。スローモーションの視界。 夏の強烈な光を切り裂いて、巨大な鉄の塊と、ギラギラと反射するヘッドライトが急激な勢いで迫ってくる。 音が消えた。世界がカットアウトされる。
(……しまった)
ドンッ!
激しくも、奇妙なほど鈍い衝撃が頭部を貫き、視界がぐるぐると回転した。 青い空、白い雲、黒いアスファルトがマーブル状に混ざり合う。
何だ、どうなっている? 不思議と、頭の芯が痺れる以外の痛みは感じなかった。 ただ、遠くの方で、栞が絶叫している。僕の名前を叫んでいた。
普段は絶対に「ねぇ」か「あなた」としか呼ばない彼女が、喉が裂けるような声で、僕の固有名詞を呼んでいる。
(あぁ、こんな時は、そんな風に呼ぶんだ……)
そんなピントの外れたことをぼんやりと考えていると、まるで古いテレビの電源を落としたときのように、視界の真ん中からぷつりと、世界は真っ暗な闇へと沈んでいった。
本連載につきまして、大切なお知らせがございます。
これまで本編を全編公開してまいりましたが、前回の更新からは
【一部分のみの公開(先行公開・試し読み)】へと移行させていただきます。
Webでの全編公開は終了となりますこと、何卒ご了承ください。
今後も、物語の不穏な空気感や、ヒロインたちの感情の揺れ動きを感じていただける
「物語の断片」は引き続きお届けしてまいります。
栞と僕の行き着く先、そしてなぎの真実。 物語の核心に迫るすべてのエピソード(完全な結末)につきましては、現在挑戦中のクラウドファンディング限定リターンである
『なぎのえき 完全版』および『オーディオドラマ』
にて完全収録してお届けいたします。
私たちが目指す「唐津の風景を永遠の聖地(ARアート)にする」という挑戦。 この先の物語を最後まで見届け、共にその未来を創る「共犯者」になっていただける方は、ぜひ下記のプロジェクトページより詳細をご覧ください。
引き続き、『なぎのえき』をよろしくお願いいたします。



