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「オルタナティブ就活」のすゝめ~1冊の本から始まるもうひとつの「就活」

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

現在の支援総額

9,000

1%

目標金額は550,000円

支援者数

3

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

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現在の支援総額

9,000

1%達成

終了

目標金額550,000

支援者数3

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

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西田卓司です。茨城県日立市の株式会社えぽっくが展開する取材型インターンシップ「チームひきだし」に参加した学生がその際に取材した株式会社ユーゴーさんに内定したということです。チームひきだしのプロジェクト中の写真はこちら※A‐PARTにてクラウドファンディング挑戦中です。https://a-port.asahi.com/updates/tabisuru_sassi/detail/3910/?page=1 ちなみに支援額30,000円のコースは、私、西田卓司も出張する「出張ミライカイギ」です。チームひきだしの特徴として、大学生は、取材したい企業を選べない、というものがあります。1週間のあいだに指定された4社をまわり、午前中は社長(経営者)の話を聞き、午後からは社員の人たちとワークショップを行うというプログラムを合宿形式でおこないました。インタビューの結果は冊子「axis」として紹介されています。「就職」そのものをゴールに、就職希望企業(業種)にインターンシップに行くのではなく、複数の企業の経営者の話を聞き、また学生同士で対話する中で見えてくるものがあるのではないかと僕も思いました。僕は11月に茨城大学の「iopラボ」で行われた「チームひきだし報告会」に行ったのですが、そこでの学生のこんなコメントが印象的でした。ブログ「チームひきだしで就活を学びあいに変える」よりhttp://hero.niiblo.jp/e488445.html 「どうせ働くなら「雰囲気のよい会社」を選びたい。」「待ってるだけじゃなくて、自分から動くことが必要だと知った。」「はたらくことに対するイメージが変わった」「業種じゃなくて人との関係性で会社を決めたい」それを聞いて、思ったことがあります。「就職」とか「就活」への怖れっていうのは、見たことがない、やったことがないことに対して怖れているだけなんじゃないでしょうか。・社長は厳しい人なんじゃないか・社長は「社長室」にいて指示を出すだけじゃなんじゃないか・〇〇業界はブラックなんじゃないか・IT企業ってネクラな人が集まっているんじゃないかみたいな。まるで幼い子どもが、「悪いことばっかりしていると、怖い魔女がさらいにくるぞ」みたいな脅しを本気でビビっている、みたいな感じなんじゃないかって思いました。ただ、知ればいい。見てみればいい。やってみればいい。対話してみればいい。それだけでだいぶ違うんだなあと思いました。さらに、座談会で、こんなシーンがありました。参加学生の参加した感想「8名でやれたのがよかった」「1つのゴールに向かっているから仲良くなれた」に対して、(株)ユーゴーの稲野辺さんが言ってました。「それって会社も一緒ですよ」そう。それって会社も一緒なんですよね。チーム戦を戦っているんだって。そんな当たり前のことを改めて思い出させてくれました。会社でも、そういう「場」をつくるっていうこと。そういうことが「はたらく」っていうことなんじゃないでしょうか。稲野辺さんが今回のプログラムを通じて得たものを次のように説明してくれました。「再確認した」大切にしたいもの、自分たちがどう感じられているのかを再確認した。ココやっぱり面白いんだ!みたいな。チームひきだしはそういう場を作りました。それはつまり、「学びあい」の場のデザインだったのかもしれません。そんな「場」からユーゴーさんへの内定が出ました。それは結果であって、目的ではありません。(ユーゴーさんにとっては、大きな目的のひとつではありますが)株式会社えぽっくの「チームひきだし」プロジェクトは、「オルタナティブ就活」のひとつだなあと僕は感じています。


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こはるです。就活って、いつから始まるんだろうか。3年の夏からとか、3年の冬からとか、はたまた1年生のうちからサークルで結果を出しておく、とか。 早ければ早いほど周りに差をつけられる。反対に、遅ければ遅いほど不利になる。大学4年の夏になっても就活を始められずにいた私に、各方面から呆れた視線が刺さっていた。 このままじゃ本当にまずいかもしれない。なんとか履歴書を引っ張り出してペンをとったが、何も書けない。「こんなんじゃ相手は喜ばない」と、何度も自己PR欄を書き直す。 書いては消してを繰り返したPR文章は、監督官の視線を気にしてディスカッションをする姿は、本当に私なんだろうか、と違和感を抱きながら。(つづく)


オンリーおでん
2019/03/18 06:57
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イナカレッジ・ラボ@東京・湯島でした。午前中は「beの肩書き」ワークショップを40代のおじさん3人でやるという・・・みんな人生、迷ってます。笑人生を物語として見たときに、どう見えるか?っていう鈴木さんが放った一言が印象的でした。僕の中で出てきたキーワード。本、問い、場、フラット、創造、コミュニケーション・デザイン、コミュニケーション・ツール、お客は誰か?、脱・自分、脱・二元論、いいかげん、目的に向かわない、機会提供、溶け出す、とかとか。あとは「場づくり」の価値をどのように伝えるか?っていう話。これは面白かった。参加者の鈴木さんは「鈴木さんって何をしたいのか、よくわからないですよね」ってよく言われるらしい。それって場づくりにとっては、むしろプラスなんじゃないか、と。場の価値や目的を言語化できる、っていう場と言語化できない場っていうのは、どちらが価値があるのか?っていうジレンマ。というか、価値があるのは言語化できない「場」なのではないか。午後の部は、イナカレッジの井上有紀さんと「挑戦するな実験しよう」をテーマに参加者とフリートークをしました。~~~「やってみる」こと、「ふりかえる」こと。「ふりかえる」ときに、「目的」「目標」に沿って考えたことをふりかえるのか?「顧客」「価値」について感じたことをふりかえるのか?「予想できなかったよかったこと」は何か?「適応する」ことは個体にとっては「本能」であって、「価値」そのものではない。その個体が属する集団にとっては価値である可能性が高いけど。予測不可能性というエンターテイメント性と予測可能性という安全性・安心感「何に囲まれるか?」という判断基準。「感性」を磨いていくこと。「問い」を共有すること。~~~とまあ、こういう感じ。この4日間の「就活の違和感」ウィークで思ったこと。「二元論」でわかりやすくすること、とか「自分」(っていう概念も二元論だと思うけど)っていう考え方が苦しさの原因なのではないかと。3月14日(木)の「続・ゆっくり、いそげ」の夜でも、本の中でも出てくる「おでん」理論。それぞれが、「美味しいおでん」に向かって、ある者(たとえば昆布)は多くダシを出して、ある者(たとえば大根)は多くダシをもらって、全体としてひとつのおでんができている。ジャガイモはいつの間にか場(つゆ)に溶けている。「よい場」っていうのは「おでん」のような場なのではないでしょうか。個人を個人として考えるのではなく、場の構成要素として、つまりおでんの具のひとつとして、とらえてみること。2003年に発売された「13歳のハローワーク」(村上龍 幻冬舎)は200万部を売り、子どもたちに呪いをかけました。「プロフェッショナルになれ」という呪い。一方で同じ年にリリースされた「世界にひとつだけの花」(SMAP)は、200万枚を売り、子どもたちに「ナンバーワンにならなくてもいい元々オンリーワンなのだから」と語りました。それは子どもたちを癒すのではなく、よりいっそう、「何者かにならなければならない」という呪いをかけたのではないかと思うのです。でも。そもそも人はONEではないのではないか。おでんの具のように、生きていけばいいのではないか。場(つゆ)の中のひとつ(ひとり)として、場とやり取りしながら、出番が来るまで、役割を全うすることなのではないか。自分からリーダーシップをとって動かなくても、場の構成要素として、そこに存在することで、おでんの足しになればいいのではないのか。いま、この瞬間、変化し続ける唯一無二の「オンリーおでん」の中の具のひとつを演じる。そういうことでいいのではないか。就活の面接は「おでん」じゃないものね。そこからいいダシ出てないから。「今日もいいダシが出て、おいしいおでんになりました」そんなおでんをつくるような就活をしたいなあと思いました。そんな「おでんの歌」つくってくれませんか?


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クルミドコーヒー影山知明さんとの第5回「続・ゆっくり、いそげ」の夜。2月3日の第3回目に引き続き、出演させてもらいました。「続・ゆっくり、いそげ」を読んでの知の巨人、影山さんとのトーク。テーマは「就活、働くことへの違和感」について。キーワードは、「おでん」と「植物」でしょうか。~~~メモ書き起こし。おでんの中のジャガイモになる。最後はつゆに溶けてしまっている。でもたしかにじゃがいもはそこにいる。小さなおでんをたくさんつくる、ということ。「自分」ていうのと「二元論」みたいなやつが苦しさの源泉だと思う。「共感できる」っていうのはビジョンや目標ではなくて、その人物に、心が、感性が反応するっていうこと。「就活」とは限られた時間の中で内定を取るゲーム、つまりフレームワーク、システムにおいて必要なのはそこに適応できる人。違和感を感じる=創造のチャンス。「何がしたいのか?」って問いが違うような気がするんですよね。小さな植物を育てるようなプロジェクトをやってみる。育てながら、「顧客」はだれか?「価値」は何か?と問い続ける。「リザルトパラダイム」⇒正解主義⇒論理的思考⇒わかりやすさ⇒効率的「人の役に立つ」とか「役割を果たす」という呪縛はあるよね。自分の存在意義をそこに求めてしまう。「自分とは?」とひとりの個人として問うのではなく、「価値とは?」「顧客とは?」を場として問うということ。「身体がついていかない」っていうリアルを大切にしたい。それ、どうありたいか?に対する身体からのメッセージ。「小さな植物を育てる」「小さなおでん鍋をつくる」っていうこと。おでん×植物理論人(具)は場(つゆ)によって活かされ、場は人によって生かされる。その「場」(土)から植物が育つように事業は展開していくことができないか。「おでん」っていう「場」の良さは、時間軸があいまいになっていること。完成されないこと。終わりがないこと。いつからでも参加できること。「続・ゆっくり、いそげ」の夜が旅をするとしたら、「カレーキャラバン」じゃなくて「おでんキャラバン」ですね。「おいしいおでん」ができたとき。(プロセス上の一地点であって、「完成」ではない)その手柄は個人(具ひとつひとつ)にはなくて、「場」(具とつゆの集合体)にある。そういうおでん的な関係を職場と結べるか?植物、たとえば木であれば、大きさに限りがある。大きいもの(構造物)を作るには、ピラミッド型にするしかない。そうしてリザルトパラダイムが始まる。~~~ここまでメモ「おでん」のような「場」をつくれたら理想的だなあと思った。それは、職場でも、飲み屋でも、本屋でも同じなのだけど。積み重なる何かがダシとなり、「つゆ」ができる。ジャガイモすでに溶けているのかもしれない。新しい人が来たら、だんだんと味をなじませる。もしかしたら、新しいおでん鍋をこしらえたほうがいいのかもしれない。そんな「場」から生まれる、というか、育てる「植物」のような事業、あるいはプロジェクト。どんな種がまかれたか、どんな土の状態なのか、によって、育つ植物の樹形や根の張り方はかわってくる。そんな風な、リザルトパラダイムではなく、プロセスパラダイムにある事業、あるいはプロジェクトに携わっていくこと。そう考えると、教育っていう空間、つまり学校空間そのものが巨大なリザルトパラダイムの中にあるっていうのはどういうことなのだろうなと思った。「学校・教育」への違和感は究極そこに行くのかもしれないなと。まあ、それも「二元論」で語らないほうがいいのだろうと。正しい、とか、間違っている、とか、どっちがいいとか悪いとかではなくて、それはそれとして、適応していくのか、距離をおいていくのか。そこを自らの判断で、しかも分人的にやっていくことなのだろうなと。「違和感」を感じるからといって、それは必ずしも排除すべきものではないのだと思う。そんな「違和感」を組み合わせて、新しいものが生まれる可能性がある。つまり創造の種になることがあると思う。僕は、「就活」という舞台を、もっと創造的な場にしたいと思う。面接が終わった時に、「いま、話したことで、新たな事業のヒントが得られました」みたいに人事担当者が言うような、就活。創造的な就活をつくれないだろうか。「自動車をつくるように」ではなくて、「植物を育てるように」、やってみること。その予測不可能性とブリコラージュを楽しむこと。そんな機会に触れることを大学じゃなくて、高校、中学のときからやってみること。リザルトパラダイム一色の教育を受けてきたのに、急に、「未来はAIの登場によってわかりません」って言われたら、それは困るよね。学校教育はリザルトパラダイムの中で目標設定・達成を行う場であるとしたら、学校外の場、カリキュラムの外ではプロセスパラダイムで「植物を育てる」ようなプロジェクトをつくっていくことをやっていったらいいのではないかと思う。それが、僕が考える「オルタナティブ就活」なのかもしれない。


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今夜(3月14日)のクルミドコーヒー影山さんとの「就活、働くことの違和感」トークに向けての準備中です。さっき上野駅の「book express」でふと目の前に飛び込んできた本。「仕事選びのアートとサイエンス」(山口周 光文社新書)買っちゃいました。まだ冒頭しか読んでいないけど、就活に行く前に乗るべきヘリのラインナップに入れなきゃいけない本です。冒頭からだいぶ攻めてきます。~~~ここから引用仕事選びを予定調和させることはできない。自分をオープンに保ち、いろんなことを試し、しっくりくるものに落ち着くしかない。「計画」に価値ははい「風が吹く、生きようと試みなければならない。」変転し続ける世の中で、私たちは世界に身を投げ出すようにして、まず「生きる」ことをを試みなければならない、そうしなければ何も始まらない、と言っているわけです。スピノザは「本来の自分らしい自分であろうとする力」を「コナトゥス」と呼びました。その人の本質は、その人の姿形や肩書きではなく、「コナトゥス」によって規定されると考えました。当然のことながら、コナトゥスは多様であり、個人によって異なることになります。この世の中に存在しているあらゆるものは、それ自体として「良い」とか「悪い」とかいうことはなく、その人のコナトゥスとの組み合わせによって決まる、とスピノザは考えたわけです。私たちは極めて変化の激しい時代に生きており、私たちを取り巻く事物と私たち個人の関係性は、常に新しいものに取って代わられていくことになります。このような時代にあって、何が「良い」のか「悪い」のかを、世間一般の判断に基づいて同定することはできません。自分なりの「良い」「悪い」の評価軸をつくっていくこと。自分の姿形や立場などの形相を「エイドス」と呼びます。私たちは往々にして自分の属性や立場といった「エイドス」に基づいて「私はこうするべきだ」「私はこうしなければならない」とかんがえてしまいがちですが、このようなエイドスに基づいた自己認識は往々にして個人のコナトゥスを毀損し、その人がその人らしく生きる力を阻害する要因となっています。私たちは自分のコナトゥスを高める事物を様々に試していくことが必要になります。~~~ここまで引用いやあ。そうそれ!みたいな感激があります。「にいがたイナカレッジ」で昨年末から連載した「挑戦するな実験しよう」では、まさにそのような「コナトゥス」を高めるためにはどうしたらいいのか?みたいな問いを持ちながら実験していくことについて書きました。https://inacollege.jp/blog/2019/01/17/nishida4/今日、この後にお話する「就活、働くことの違和感」についても、通じてくるものがあるなあと感じています。「続・ゆっくり、いそげ」(影山知明・クルミド出版)▼▼▼ここから「続・ゆっくり、いそげ」より目的と目標(P50)目標:計数管理⇒体温を測るようなもの。体温がその人のすべてを反映するわけではないように、計数がお店のすべてではない。疑問詞でいえば、目標:how much⇒取り組みの進捗を測る目安目的:why⇒取り組みの存在理由や意義「あなたの中に種のあることをやりなさい」(P58)「have」「do」「be」という目的地(目標)設定。「do」の目標設定だけだと、人生を不足と未達成の連続にしてしまう。「人生はそんなロールプレイングゲームのようなものではない。」「でない」が「である」の苗床になる。(P71)僕はフラットじゃないコミュニケーションの場、その瞬間が何よりも嫌だったんですね。何も生まれないから。「いってまいります」という言葉。(P75)日本人はあたかも自らの自我を、外部から出発して構成するかのようです。システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムをつくったのです。(村上春樹 雑文集「壁と卵」より)(P210)1つ1つのシステムには、それが組み立てられた動機であり、目的があり、その動機や目的に沿うような人々のふるまいと相性がいい。いやむしろ、その動機や目的に沿ってふるまうよう、人々を方向付ける力をもっていると言った方がいいかもしれない。システムをつくるには、それをつくるための原初的な「問い」がいる。現代はそれが「生産性の高い社会をつくるには」なのであり、その問いに答えようとしていると考えれば、今の経済も政治も教育も、ある意味よくできていると言える。(P228)▲▲▲ここまで「続・ゆっくり、いそげ」よりまず目的と目標についてのここは鋭いなあと。目標だけだと、予測可能なのだけど、目的っていうのは、予測不可能だったり、変わり続けるもの、随時変更していかないといけないのではないか。エンターテイメントの本質は「予測不可能性」にあるのだと僕は思うのだけど、僕の「コナトゥス」的には、おそらくは「予測不可能性」が高いものを楽しめるというか好奇心が旺盛だから、そういうことになるのかもしれないけど、人によっては、自分が自分らしくあるためには、ある程度予測可能な未来設計と、目の前のことをコツコツやることが心地よいのだなあと。人を一元化して語ることは不可能だなんて当たり前なんだけど、いわゆる成功者の実践だったり、多数派が納得していることだったりっていうのは、受け入れる人の「コナトゥス」に関係なく、受け入れざるを得ないような状況があるのだろう。「本来の自分らしい自分であろうとする力」に耳を傾けること。本人だけではなく、一緒に場をつくっていく人たちがコナトゥスを意識すること。だから、ひとりひとりに耳を傾けて、be動詞的なあり方のイメージを共有しながら前に進んでいけるような組織が必要なのだろうと思う。「就活」という巨大なシステム。村上春樹さんの引用を借りれば、システムに我々を利用させてはならない、と。それを「フレームワーク」的な演劇だと割り切ってしまえば、うまいこと突破できるのかもしれない。しかし、そのフレームワークを、ずっとずっと続けていくのか?そもそもそのようなフレームワーク的な仕事は続いていくのか?いや、何よりも、そのシステムの中で、いま、自分自身はハッピーなのか?そんな問いを問いかけないといけないのだと思う。システムを新しく作っていく、そんな原初的な問いを始めてみよう。「就活」そのものが交換可能ではないのか?