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「オルタナティブ就活」のすゝめ~1冊の本から始まるもうひとつの「就活」

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

現在の支援総額

9,000

1%

目標金額は550,000円

支援者数

3

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

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現在の支援総額

9,000

1%達成

終了

目標金額550,000

支援者数3

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

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なぜ関西のローカル大学「近大」が、志願者数日本一になったのか(山下柚実 光文社)こういう、読んだ後にジーン熱くなるタイプのビジネス書が好きです。この本。めちゃめちゃ問いに詰まってるよ、って。熱いっす。って何度も思った。「価値とは何か?」と問いたいすべての人に贈りたい1冊です。僕がこの本を手に取ったのは、「近大マグロ」誕生までのプロジェクトXのVTRを見たからです。近大の教育方針。(公式webより)本学は、未来志向の「実学教育と人格の陶冶」を建学の精神とし、「人に愛される人、信頼される人、尊敬される人の育成」を教育理念として掲げてきました。この「建学の精神」と「教育理念」は、知識基盤社会へ転換しようとする21世紀の日本において、いっそう必要とされる理念であると自負します。本学が、総合大学として各学部の特色を生かしながら、共に手を携えて目指そうとしているのは、「実学教育」と「人格の陶冶」の融合です。真の「実学」とは、必ずしも直接的な有用性を志向するだけではなく、その事柄の意味を学び取ることを含みます。現実に立脚しつつも、歴史的展望をもち、地に足をつけて、しなやかな批判精神やチャレンジ精神を発揮できる、創造性豊かな人格の陶冶を志向するものです。「自主独往の気概に満ち」、生涯にわたって自己の向上に励み、社会を支える高い志をもつことが「人に愛され、信頼され、尊敬される」ことにつながります。このような学生を社会に送り出すことが、これからの時代に、本学が目指す社会的使命であります。「実学」ってそういうことだったんだ。「松下村塾」で吉田松陰先生が伝えたかった「実学」もまさにこのことだろうと思った。その次に出てくるのは、女子トイレの数やパウダールームの設置、オープンキャンパスでの在校生の対応など「お客は誰か?」近大らしさ、それは、受験生を「お客さま」と位置づけて、「相手の立場を優先する」こと。最高学府に「入れてあげる」という目線からではなく、「よくいらっしゃいました」と心から歓迎すること。であると山下さんは言う。何よりもそれを象徴するのが入学式の現場だと。~~~ここから引用「入学式は、新入生たちに全力で大学生活に取り組む決意をしてもらう、最大のチャンスなんです。その大切な瞬間を、私たちの思いを真心込めて伝えていく大切な時間にしたいんです。」「不本意新入生」と大学がどう向き合うのかは、入学してくる学生に意欲や勇気を持ってもらう教育問題であると同時に、大学の経営問題でもあるのだ。入学式という一瞬の時間によって、「不本意新入生」の意識をいかに転換し、近大に入学して良かったと思える大学生に変えていくことができるのか。「よくぞ近大に入学してくれました」という感謝の思いを伝えることができれば、新入生は新たなるモチベーションを獲得し、大学はその結果として安定した授業料収入を確保できる。「一人の天才より百人の中堅という分厚い中間層を育てていくことが、実学教育を掲げる私たちの重要な役割なのです。」~~~ここまで引用「不本意新入生」偏差値という序列の中で、少なくない高校生が、「不本意入学」を強いられる。つまり、第一志望ではない大学への進学だ。そんな新入生をどう迎えるか。その1点から近大は入学式をド派手に行っている。そしてラストに出てくる「三つの目標」。これ、書いちゃうとネタバレになってしまうのだけど。プロジェクトX風に書くと、こんな感じ。2012年12月、近大を離れることになった世耕弘成は、全職員を一堂に集め、近大が未来に輝く近代であるための「三つの目標」を掲げた。1 10年以内に「関関同立」に追いつき、追い越す2 偏差値や大学のランクで測れない、次元の違う独自性を持った大学になる3 世の中の役に立つ大学になるこれが、職員一同に浸透しているのだという。すごい。とただ、思った。みんなが乗る船の行き先を知っている、ということ。それって、伝わってるよって思った。6年連続志願者数日本一(併願率とかはおいといて)のヒミツ。それを単に「広報うまくやってるからなあ、近大は」と思っていた自分が恥ずかしくなった。そんなことじゃない。18歳はそんなことに騙されない。近大が送り出すオープンキャンパスなどのひとつひとつのコンテンツや広報一つ一つに、「お客は誰か?」という問いと仮説を感じるのだろうと思う。そして何より、職員ひとりひとり、学生ひとりひとりが、「近大」という船の行き先を知り、そこへ到達するために自らはどんな貢献ができるのか?を考え、その一手を打っているのだろうと思った。参りました、近大。さわやかな風をありがとう。さて、あなたが乗っている船の行き先はどこですか?


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「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)内田さんの著作の中でも大好きな本のひとつ。いつもいつも読み直すたびに「学ぶ」とは何か?そんな問いをくれる本です。「働くこと」やそもそも「学ぶこと」が楽しくなく、つらいことであることの理由のひとつに、「師匠」と呼べる人(先輩)がいないことがあげられると思います。退職した理由で「先輩を見ていて、自分の5年後、10年後だと思って不安になった」というのを何度か聞いたことがあります。目指すべき「ロールモデル」が社内にいない。それはつらいことなのだろうと思います。しかし、本書によれば、「師匠」とは、そのような目指すべき立派な人でなくてもよい、ということになります。そもそも師匠とは?学びとは?そんな根源的な問いをもらうのに最適な1冊です。この本の冒頭では、「学び」と「恋愛」をうまく結び付けていて、中学生でもわかるようになっています。~~~以下、本書より引用師との出会いに偶然ということはありません先生というのは、出会う以前であれば「偶然」と思えた出会いが、出会った後になったら「運命的必然」としか思えなくなるような人のことです。これが「先生」の定義です。あなたが「えらい」と思った人、それがあなたの先生である。先生を求めて長く苦しい旅をした人間だけに、先生と出会うチャンスは訪れます。「尊敬できる先生」というのは「恋人」に似ています。恋愛というのは、「はたはいろいろ言うけれど、私にはこの人が素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。自分の愛する人が世界最高に見えてしまうという「誤解」の自由と、審美的基準の多様性によって、わが人類はとりあえず今日まで命脈を保ってきたわけです。生物種というのは、多様性を失うと滅亡してしまうんですからね。師弟関係というのは、基本的に美しい誤解に基づくものです。その点で、恋愛と同じなんです。あなたが「あ、この人には、そういうところがあるんだ」と思い、「そういうところ」に気がついているのは私ひとりだという確信があるから、どきどきしちゃうわけですね。「誰も気づいていないことに、私だけが気づいていた」という経験て、たぶん人間にとって、「私が私であること」のたしかな存在証明を獲得したような気になるからでしょうね。恋も科学の実験もそういう意味では、とても人間的な営みなんです。先生も同じです。誰も知らないこの先生の素晴らしいところを、私だけは知っている、という「誤解」からしか師弟関係は始まりません。プロの人なら言うことは決まっている。「技術に完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」です。この二つが「学ぶ」ということの核心にある事実です。ことばはむずかしいですけれど、これはじつは恋愛とまったく同じなんです。「恋愛に終わりはない」そして、「失敗する仕方において私たちは独創性を発揮する」。私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために、私たちは学ぶのです。「この先生のこのすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思い込みが弟子には絶対に必要です。それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じです。「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。だから私は生きなければならない。~~~ここまで本書より引用本当はもっともっとメモしたのですけど、きりがないので今日はこの部分から。一番強調したいのは、ラストのところです。私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために、私たちは学ぶのです。「この先生のこのすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思い込みが弟子には絶対に必要です。それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じです。「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。だから私は生きなければならない。この4つのフレーズから、「学ぶ」とは?から始まって、「生きる」とは?まで進んでいる。弟子になること。それは「生きる意味」を見つけるということ。大げさに言えば、そういうことなのかもしれない。しかもそれは恋愛に似ている。つまり、思い込みなんだと。この出発点。これが大切なことなのかなあと思います。僕たちが学ぶのは、有用な知識や技術を習得するためではなく、自らがかけがえのない存在であるという事実を確認するため。そうなんですよ。学ぶということの目的は、「グローバル人材」になって、「エンプロイアビリティ」(雇用され得る能力)を高め、「コモディティ化」(交換可能になること)するためではないんですよ。そのためには、師匠に出会うこと。師匠の教えを誤読すること。そして、行動すること。その繰り返しでしかない。僕は山口・萩で吉田松陰先生に「学びあいの場づくりこそが希望を生む」と学び茨城・五浦で岡倉天心先生に、「世界はひとつなんだ。まあお茶でも飲もうじゃないか」と学び岩手・花巻で宮沢賢治先生に「永久の未完成、これ完成である」と学んだ。彼らを師匠だと思うのは思い込みや勘違いに過ぎない。(だって、お前が弟子だ、って言われてないから)それは、「運命の人」に出会って結婚するのと同じだ。師匠の教えを誤読し、自分なりのプロジェクトを作っていくこと。そして師匠が出す問いに仮説検証を繰り返していくこと。それが、自分が自分であるために、行っているのだなあとあらためて思いました。さて、あなたの師匠は誰ですか?


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「学校をつくり直す」(苫野一徳 河出新書)からの「ふるさとを元気にする仕事」(山崎亮 ちくまプリマー新書)「探究」ってこういうことなんじゃないかとあらためて思った。地方こそ、地域社会こそ、「探究」の宝庫だと。僕の「探究」の入り口は、2002年の中3不登校男子、シンタロウとの出会いだった。そこから、「生きる力」ってなんだろう?っていう問いが始まった。ツルハシブックスの店に立っていたとき、「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」と深刻に語る大学生を前にして、「やりたいこと」とか「自信」ってそもそもなんだ?働くってなんだろう?っていう問いが始まった。2004年秋、30歳の時、社会科の教師になろうと思って、玉川大学通信教育学部に3年次編入。介護等体験も、2週間の教育実習もやったけど、「自分のフィールドは学校そのものじゃない」と思って中退。学校そのものじゃないというより、何かを教えるようなスタンスじゃない、と思った。2004年春に「小説吉田松陰」(童門冬二 集英社文庫)に出会い、野山獄エピソードに「これだ!」と直感。以降、「学びあえば希望を生むことができる」をコンセプトにしてきた。そして、そのための「機会提供」を行うこと。「機会提供」というコンセプトは、目的を持って始めないということ。そしてそれは、「予測不可能性」を大切にするということだと最近になって気がついた。今でも「暗やみ本屋ハックツ」のイベントに引き継がれている。今でもたぶん、それは変わらないのだろうと思う。本屋には、宝物が眠っている。それは「探究」を駆動する何か、だ。そしてそれは、「地域」にも、「地域の人」にも同じく眠っている。「地域の課題解決」が叫ばれているが、「解決」したいと心から思うのは、一般的「課題」じゃなくて、具体的な誰かが困っていることだ。それを解決することで楽しい未来が待っているようなこと。それに出会えること。それが「本屋」と「地域」の魅力だろうと思う。「本」や「地域の人」に出会い、心が動くこと。「衝撃」や「共感」だったり、「何とかしたい」と思うこと。そこから「探究」が「学び」が駆動していく。そういう場所をつくりたいんだ。そんな学びを駆動させる1冊に偶然にも出会える本屋を、一緒につくらないか?「探究」を発動するような地域を、場を一緒につくらないか?


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「学校をつくり直す」(苫野一徳 河出新書)読みました。長野県伊那市で「まあるい学校」やってた濱ちゃんに紹介されて読んだのが苫野さんの「教育の力」でした。あれから5年。「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子・苫野一徳 日本評論社)にも記載がありましたが、「教育の個別化、協同化、プロジェクト化」に僕もめちゃめちゃ賛同しています。特に「プロジェクト化」について、大学生のインターンシッププログラムや課外活動を仕事としても考えていたというのもあって、その機会をどうやってつくるか、っていうのを僕もひたすら考え続けています。そしてそもそも、本屋っていうのは、そのような「プロジェクト」への入り口、機会を提供している「場」なのではないかと。人との出会いや本との出会いによって「知りたい」「学びたい」という「探究」の心が駆動していくのではないかとあらためて思った1冊でした。ということで、本文より引用~~~ここから引用「自由の相互承認」を原理(根本ルール)とした社会を築くこと。これ以外に、人類が「自由」に平和に生きる道はない。これが哲学者の出した答えでした。そしてわたしの考えでは、この原理こそ、一万年におよぶ戦争の歴史を経て、人類がついに到達した英知の結晶にほかならないのです。公教育は、すべての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、「自由」に生きるための力を育むことを通して、「自由の相互承認」を原理としたこの市民社会の礎を築くためにあるのです。苫野さんからの3つの問い1 現代において「自由」に生きるための“力”とは何か?2 その“力”はどうすれば育めるのか?3 「自由の相互承認」の感度はどうすれば育めるのか?「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」そして、カリキュラムの中核を「プロジェクト」あるいは「探究」へと転換すること。それはつまり、出来合いの問いと答えばかり学ぶ学びではなく、「自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えにたどり着く」、そんな「探求型の学び」です。学校はこれまで、多くの場合、子どもたちに「問いを立てる」という経験さえ十分に保障できてきませんでした。学ぶべきことはあらかじめ決められ、そしてそれを、決められた順序に従って勉強するように強いてきたのです。わたし自身、「探究」という言葉を、「学び」それ自体として、つまり、そもそも学びとは「探究」にほかならない、という意味を込めて使っています。「プロジェクト」という言葉は、この「探究」を駆動するための方法概念です。要するに、子どもたちの「探究」を駆動するために学校での学びを「プロジェクト化」していく必要がある。「プロジェクトの類型」1 課題解決型プロジェクト2 知的発見型プロジェクト3 創造型プロジェクト子どもたちが「探究」によって学ぶとき、教師は「探究」をサポート、ガイドする「共同探究者」「探究支援者」になる必要があります。「共同探究者」「探究支援者」としての教師は、どれだけAIが進化したとしても、あるいはAI時代においてはなおのこと、これからますます必要とされていくはずです。わたしたちには、今、自分はどう生きれば幸せなのか、自由になれるのか、そしてそれはどうすれば可能なのかという、自らの人生の問いそれ自体を立て、またその答えを見つけていく力が必要なのです。「探究」の四つのステップ1「テーマ」:探究テーマの発見・選択、およびそのテーマに浸りきる2「問い」:探究テーマに関する「問い」を立てる3「方法」:「問い」を解くための方法を考え出し、実行する4「発表」:探求の成果を持ち寄り、交換し、学び合う子どもたちの学びをもっと「遊び」にしていこうということでもあります。より正確に言うと、「遊び」と「学び」を、もっと連続的なものにしていこう、と。幼少期の遊び浸りがその後の学び浸りの土台になる、というのは幼児教育の基本です。子どもたちは遊びの中で、自分の関心をとことん追求すること、粘り強く探究すること、また人と協働したり折り合いをつけたりすることなどを学んでいくのです。学びは本来、とんでもなくワクワクするものなのです。新しいことを知ること、そのことで自分が成長していくのを実感することが、ワクワクしないはずがありません。でも、小学校に入った途端に、遊びと学びは分断されてしまいます。先生は言います「はい、遊びの時間は終わり。今は勉強する時間です!」遊びとお勉強はまったく別のものにされてしまうのです。遊びは楽しいものでお勉強は嫌なものになるのです。「探究」とは、本来最高の「遊び」である。そう、わたしは改めて言いたいと思います。子どもたちの「遊び」を見れば、それは一目瞭然です。あの「遊び」が、高度の「探求」でなくて一体何でしょう。~~~ここまで引用大人の役割は、「共同探究者」「探究支援者」となること。いや、大人に対する子どもの役割ではなくて、人と人との関係性は、そこから始まるのかもしれない。かつて僕の師匠の塩見直紀さんが「一人一研究所の時代」と言っていたのを思い出した。それぞれが、それぞれのテーマで「探究」している。本書にあるのような、「自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えにたどり着く」、そんな「探求型の学び」を共に進めていく関係性があること。それって人生において必要なのではないかなとあらためて思った。そして、僕が茨城でやりたかったけど、まったくできなかったこと。「地方は、過疎化や少子高齢化をはじめとする社会問題のいわば「宝庫」であるから、であり、むしろ地域の人たちと共に解決していく「探究」の学びをデザインすることができる。学校や世代を超えたプロジェクトチームを発足することもできるでしょう。」そうそう、こういうの。これをやっていくこと。本屋っていうのは、本のある空間っていうのは、本と出会い、そして人と出会うことによって、その入り口を作っているのではないかな。学びと遊びが連続的に起こっていくこと。それこそが「探究」の楽しさであると思う。「挑戦」の連鎖じゃなくて、「学び」と「遊び」と「さらなる学び」の連鎖をつくっていきたいな、と。 そんな「場」としての本屋、共同探究者との出会い、相互支援の場に、「かえるライブラリー・ラボ」がなっていったらいいなと思っている。


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山口・萩・吉田松陰生誕地から萩の街を望む。僕の師匠は、29歳のときから、吉田松陰先生で、それは、「小説・吉田松陰」(童門冬二 集英社文庫)を読んだ時の「野山獄」エピソードの衝撃からだった。みなを師匠とし、書道教室や俳句教室を始め、獄中を学び舎に変えてしまった。雰囲気は一変。希望にあふれた。「どんな場、境遇でも、学び合うことで希望が生まれる」これが僕の原点となった。「街場の共同体論」(内田樹 潮出版社)の最終章、「弟子という生き方」にシビれた。現代に足りないのは、「師匠」と「弟子」なのではないか、と思った。会社に足りないのは、「ロールモデル」ではなく「師匠」ではないかと。~~~以下引用弟子になったものは、自学自習のサイクルに入り込んでしまう。師を持つ弟子のポジションときうのは、そうやって聞くと、無限に解釈し続けるばかりで、なんだかたいへんみたいですけれど、実は大きなメリットがあるんです。それは、自分を守る必要がない、ということです。自分の今の手持ちのフレームワークや、今の自分が使える技などは、いつ捨てても平気なんです。先生がいるから。「お前のその知識や技術は使い物にならない」と誰かに言われても、全然気にならない。だって、まさに自分の手持ちの知識や技術が使い物にならないからこそ、師について学んでいるわけで、「そんなこと、先刻ご承知だい」ということです。「あんたに言われるよりはるか前から、自分がどれくらいのものを知らないか、技が使えないか、誰よりも自分が知ってますよ。だから師匠に就いて学んでいるんじゃないか」という話です。だから、「知らない」「できない」ということによるストレスがない。自分がその道の開祖とか、学派の学祖とかであったら、「知らない」や「できない」は許されません。でも、違う。いくらでも間違えることができる。いくらでも失敗することが許される。この広々とした「負けしろ」が、弟子というポジションの最大の贈り物です。今の自分の知見や技術に「居着かない」でいられる。この開放性が、弟子であることの最大のメリットだと思います。孔子が治世の理想としたのは、周公の徳治です。でも、すでに孔子の時代においてさえ、魯の国において、周公の治績は忘れ去られようとしていました。孔子はその絶えかけた伝統の継承者として名乗りを上げた。そして、自分は古い知の伝統の継承者であり、私の教えには何も新しいものはないと高らかに宣言したのです。自分は何も創造せず、ただ祖述するのみである、と。かつて白川静先生は、ここの「無主体的な主体の自覚」のうちに、孔子の「創造の秘密」があると道破しました。自分にはオリジナリティがない、私の説はどれも先賢の不正確なコピーに過ぎない。そう自己規定することによって、孔子は思考の自由と豊かな創造性を手に入れたのです。孔子と周公のこの関係が、師弟関係の原型だと僕は思います。周公を師に選んだのは孔子自身です。孔子が進んで弟子のポジションを選んだ。そして、その「周公に師事する構え」それ自体を、顔回や子路をはじめとする孔門のすべての弟子たちが模倣することとなった。弟子たちに思考の自由と創造性を賦与するために、孔子は弟子のポジションを取ったのです。そういうものなんです。~~~以上引用「自由」ってなんだろう?「オリジナリティー」ってなんだろう?って思った。「自分は伝統の継承者であって、私の教えには何も新しいものはない。」この圧倒的な強さ。そして自由。そして何より、「弟子」なんて、勘違いや思い込みに過ぎないっていうこと。あの孔子でさえ、勝手に弟子を名乗っていただけなんだと。「師匠」とは、「問い」そのものである。本文にも書いてあるけど、師匠が答えを教えなければ、弟子は「なぜ、師匠は答えを教えないのだろう?」と問い、師匠が答えを教えれば、弟子は「なぜ、師匠は答えを教えたのだろう?」と問うこと。そういうスパイラルに入っていくことが弟子になるということ。だから、師匠には何度も会いに行かないといけない。そのときどきの師匠を持ってもいい。花巻・宮沢賢治の墓所にて。僕の師匠元祖は、宮沢賢治先生だった。「農民芸術概論綱要」を読み、心が打ち抜かれた。花巻に行くたびに、問いをもらう。「永久の未完成これ完成である」それはいったいどういう意味なのか。どう行動すればいいのか。そこに対する、問いをもらえる。「師匠」に出会うこと。「弟子」として生きること。それは不自由ではなく、圧倒的な自由だ。僕は継承者にすぎない。オリジナリティーなど何もない。そう言える強さと自由こそがオリジナルなものを生んでいくのではないか、と思った。「師匠」に出会うこと。「いや、僕の周りには、そんな素敵な人はいないよ。」と言っている場合じゃない。師匠なんて、勘違いと思い込みなのだから。さて。吉田松陰と宮沢賢治と岡倉天心の継承者として、僕はどんな次の一手を打とうかな。