昨日、内野町で「おうちのごはん」の昼ごはん会があった。自己紹介で、ひとりの大学生が「シェアハウスしてます」って言ってて、ああ、シェアハウスは住むものじゃなくて、するものなんだな、と。(作りつつ住んでいるので「住む」と「つくる」両方やっているという意味なんだそう)今日はそんなのにもつながる話を。「就活の違和感」とか、「自分に自信がない」とか、「やりたいことがわからない」とかって、結局「アイデンティティ・クライシス=(自分らしさ危機)」につながってくるなと思う。自分とは何か?自分らしさとは何か?自分にはどんな価値があるのか?その「自分」っていうのが違うんじゃないかっていうのがひとつのアプローチで。もうひとつのアプローチ。それは「アイデンティティ・クライシス」がどのように生み出されてきたのか?ということ「街場の共同体論」(内田樹 潮出版社)この本に的確に指摘されているなあと。~~~以下メモ経済成長のための最適解を求めた結果、最も合理的な政策は「家族解体」でした。消費活動を活性化するためには家族の絆がしっかりしていて、家族たちが連帯し、支えあっていては困る。だから、国策として家族解体が推し進められたのです。どうして、経済成長のためには家族解体が必要だったのか。問題は消費単位です。「誰が」、あるいは「何が」消費活動を行うのか。それを考えてください。近代社会では久しく消費単位は家族でした。家族のそれぞれが労働によって、いくばくかの収入を「家計」に入れる。その使途についても家族全体の合意が必要でした。自分の消費行動について他人から批判的なコメントをされることは、現代人にとって最も耐え難い苦痛のひとつなのです。現代人は、自分の消費行動に関するコメントを、自分の人格についてのコメントとして受け取るように教え込まれているからです。「あなたが何ものであるかは、あなたがどのような商品を購入したかによって決せられる」そのような消費者哲学に基づいて、現代人のアイデンティティは構築されています。どういう家に住んで、どういう服を着て、どういう車に乗って、どういう家具に囲まれて、どういうワインを飲んで、どういうレストランで食事をして、どういうリゾートでバカンスを過ごすか。そういう消費行動によって、「あなたが何ものであるか」は決定される。だから、商品購入ができない人間は「何もの」でもありえないのだ。長い時間かけて現代人はそう教え込まれてきました。「自分らしく」生きるためには、消費行動におけるフリーハンドを手に入れるしかない。何を買うのか自己決定できる環境で暮らすこと。その消費活動が「身の程」と引き比べて適切であるかどうかということについて、誰にも口を差し挟ませないこと。それがすべての日本人にとって喫緊の課題となりました。バブル期以前まで、自分が「何もの」であるかは、消費行動によってではなく、労働行動によって示すものと僕たちは教えられてきました。「何を買うか」ではなく、「何を作り出すか」によって、アイデンティティは形成されていた。自分が作り出したものの有用性や、質の高さや、オリジナリティについて他者から承認を得ることで、僕らは自らのアイデンティティを基礎づけてきた。でも、80年代からの消費文化は、そのルールを変えてしまいました。それがこの時期の最大の社会的変化だったと思います。「労働」ではなく「消費」が、人間の第一次的な社会活動になったのです。「何を作るか」ではなく、「何を買うか」を基準に、人間の値踏みをするようになった。その場合、消費の原資となる金をどのようにして手に入れたかは、原則的に不問に付されます。この新しい貨幣観は、僕たちの労働観にも本質的な変化をもたらさずにはいませんでした。日本人に刷り込まれた新しい労働観というのは次のようなものでした。最も少ない努力で、最も効率よく、最も大量の貨幣を獲得できるのが、「よい労働」である。労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。ですから、最もわずかな労働時間で巨額の収入をもたらすような労働形態が最も賢い働き方だということになる(例えば、金融商品の売買)。一方、額に汗して働き、使用価値の高い商品を生み出しても、高額の収入をもたらさない労働は社会的劣位に位置づけられました(例えば、農林水産業)。そのようにして現代人の労働するモチベーションは、根元から傷つけられていった。~~~以上メモ1980年代以降の「消費文化」は、アイデンティティをずらすことに成功した。「生産者」としてではなく「消費者」として。そして得たマインドが、「最も少ない努力で、最も効率よく、最も大量の貨幣を獲得できるのが、「よい労働」である。」だった。いや、これリアルにそうだなあと。僕が20代のころに見た雑誌で、「わずか半年で株取引で1億円つくった」みたいな大学生の連載があって、えっ。それ、何がすごいんすか?ってめちゃめちゃ衝撃を受けたことを覚えている。この本を読んでやっと謎が解けた。それが世間の(刷り込もうとしている)価値観だったのだ。そして、何を買ったか?どんなモノを所有しているか?それがその人のアイデンティティ、つまり「その人らしさ」を決めるのだと。おそらく今の大学生や20代からすれば、まったくのファンタジーみたいな世界だろうと思うけど、そこへ官民挙げて突き進んだ時代が確かにあったのだ。かくして、経済は延命した。一家に一台だったテレビは、ひとり一台となり、新機能がたくさんつきました!と宣伝されるコンポを買い替え、「一人前になるための」家や車を買うために、ローンを組んだ。でも、もう、そこに夢はない。いや、もともとなかったんじゃないか。「消費主体としての自分」がアイデンティティを決めるなんて、「シェアハウスしてます」という大学生には、まったく理解できない価値観なのだろうと思う。でも、そういう時代があったのだ。そしてその時、労働するモチベーションが書き換えられた。しかし、いま。消費主体として、アイデンティティを構築することはかなり難しい。現在の大学生が抱える「アイデンティティ・クライシス」や「就活の違和感」の原因のひとつがここにあるだろうと思う。「消費主体としてのあなたが、あなたの価値を決めるのだ。」そんなメッセージ。東京でバリバリ働いて、高い家賃を払って、オシャレなカフェでランチをして、それをインスタにアップするような暮らし。それ、本当にやりたいですか?っていうことなのだと思う。「街場の共同体論」には、その違和感の正体が詰まってるなと。



