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「オルタナティブ就活」のすゝめ~1冊の本から始まるもうひとつの「就活」

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

現在の支援総額

9,000

1%

目標金額は550,000円

支援者数

3

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

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「オルタナティブ就活」のすゝめ~1冊の本から始まるもうひとつの「就活」

現在の支援総額

9,000

1%達成

終了

目標金額550,000

支援者数3

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

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昨日、内野町で「おうちのごはん」の昼ごはん会があった。自己紹介で、ひとりの大学生が「シェアハウスしてます」って言ってて、ああ、シェアハウスは住むものじゃなくて、するものなんだな、と。(作りつつ住んでいるので「住む」と「つくる」両方やっているという意味なんだそう)今日はそんなのにもつながる話を。「就活の違和感」とか、「自分に自信がない」とか、「やりたいことがわからない」とかって、結局「アイデンティティ・クライシス=(自分らしさ危機)」につながってくるなと思う。自分とは何か?自分らしさとは何か?自分にはどんな価値があるのか?その「自分」っていうのが違うんじゃないかっていうのがひとつのアプローチで。もうひとつのアプローチ。それは「アイデンティティ・クライシス」がどのように生み出されてきたのか?ということ「街場の共同体論」(内田樹 潮出版社)この本に的確に指摘されているなあと。~~~以下メモ経済成長のための最適解を求めた結果、最も合理的な政策は「家族解体」でした。消費活動を活性化するためには家族の絆がしっかりしていて、家族たちが連帯し、支えあっていては困る。だから、国策として家族解体が推し進められたのです。どうして、経済成長のためには家族解体が必要だったのか。問題は消費単位です。「誰が」、あるいは「何が」消費活動を行うのか。それを考えてください。近代社会では久しく消費単位は家族でした。家族のそれぞれが労働によって、いくばくかの収入を「家計」に入れる。その使途についても家族全体の合意が必要でした。自分の消費行動について他人から批判的なコメントをされることは、現代人にとって最も耐え難い苦痛のひとつなのです。現代人は、自分の消費行動に関するコメントを、自分の人格についてのコメントとして受け取るように教え込まれているからです。「あなたが何ものであるかは、あなたがどのような商品を購入したかによって決せられる」そのような消費者哲学に基づいて、現代人のアイデンティティは構築されています。どういう家に住んで、どういう服を着て、どういう車に乗って、どういう家具に囲まれて、どういうワインを飲んで、どういうレストランで食事をして、どういうリゾートでバカンスを過ごすか。そういう消費行動によって、「あなたが何ものであるか」は決定される。だから、商品購入ができない人間は「何もの」でもありえないのだ。長い時間かけて現代人はそう教え込まれてきました。「自分らしく」生きるためには、消費行動におけるフリーハンドを手に入れるしかない。何を買うのか自己決定できる環境で暮らすこと。その消費活動が「身の程」と引き比べて適切であるかどうかということについて、誰にも口を差し挟ませないこと。それがすべての日本人にとって喫緊の課題となりました。バブル期以前まで、自分が「何もの」であるかは、消費行動によってではなく、労働行動によって示すものと僕たちは教えられてきました。「何を買うか」ではなく、「何を作り出すか」によって、アイデンティティは形成されていた。自分が作り出したものの有用性や、質の高さや、オリジナリティについて他者から承認を得ることで、僕らは自らのアイデンティティを基礎づけてきた。でも、80年代からの消費文化は、そのルールを変えてしまいました。それがこの時期の最大の社会的変化だったと思います。「労働」ではなく「消費」が、人間の第一次的な社会活動になったのです。「何を作るか」ではなく、「何を買うか」を基準に、人間の値踏みをするようになった。その場合、消費の原資となる金をどのようにして手に入れたかは、原則的に不問に付されます。この新しい貨幣観は、僕たちの労働観にも本質的な変化をもたらさずにはいませんでした。日本人に刷り込まれた新しい労働観というのは次のようなものでした。最も少ない努力で、最も効率よく、最も大量の貨幣を獲得できるのが、「よい労働」である。労働の価値は、かつてはどのように有用なもの、価値あるものを作り出したかによって考量されました。バブル期以降はもうそうではありませんでした。その労働がどれほどの収入をもたらしたかによって、労働の価値は考量されることになった。そういうルールに変わったのです。ですから、最もわずかな労働時間で巨額の収入をもたらすような労働形態が最も賢い働き方だということになる(例えば、金融商品の売買)。一方、額に汗して働き、使用価値の高い商品を生み出しても、高額の収入をもたらさない労働は社会的劣位に位置づけられました(例えば、農林水産業)。そのようにして現代人の労働するモチベーションは、根元から傷つけられていった。~~~以上メモ1980年代以降の「消費文化」は、アイデンティティをずらすことに成功した。「生産者」としてではなく「消費者」として。そして得たマインドが、「最も少ない努力で、最も効率よく、最も大量の貨幣を獲得できるのが、「よい労働」である。」だった。いや、これリアルにそうだなあと。僕が20代のころに見た雑誌で、「わずか半年で株取引で1億円つくった」みたいな大学生の連載があって、えっ。それ、何がすごいんすか?ってめちゃめちゃ衝撃を受けたことを覚えている。この本を読んでやっと謎が解けた。それが世間の(刷り込もうとしている)価値観だったのだ。そして、何を買ったか?どんなモノを所有しているか?それがその人のアイデンティティ、つまり「その人らしさ」を決めるのだと。おそらく今の大学生や20代からすれば、まったくのファンタジーみたいな世界だろうと思うけど、そこへ官民挙げて突き進んだ時代が確かにあったのだ。かくして、経済は延命した。一家に一台だったテレビは、ひとり一台となり、新機能がたくさんつきました!と宣伝されるコンポを買い替え、「一人前になるための」家や車を買うために、ローンを組んだ。でも、もう、そこに夢はない。いや、もともとなかったんじゃないか。「消費主体としての自分」がアイデンティティを決めるなんて、「シェアハウスしてます」という大学生には、まったく理解できない価値観なのだろうと思う。でも、そういう時代があったのだ。そしてその時、労働するモチベーションが書き換えられた。しかし、いま。消費主体として、アイデンティティを構築することはかなり難しい。現在の大学生が抱える「アイデンティティ・クライシス」や「就活の違和感」の原因のひとつがここにあるだろうと思う。「消費主体としてのあなたが、あなたの価値を決めるのだ。」そんなメッセージ。東京でバリバリ働いて、高い家賃を払って、オシャレなカフェでランチをして、それをインスタにアップするような暮らし。それ、本当にやりたいですか?っていうことなのだと思う。「街場の共同体論」には、その違和感の正体が詰まってるなと。


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「すべての教育は洗脳である」(堀江貴文 光文社新書)を読み直し。やっぱ、「学校」そのものをとらえなおす必要あるなあと。「学校」ってなんだっけ?みたいな問いから始めないといけないんじゃないかと。~~~ここから引用日本には、僕のような「我慢しない人」を軽蔑する文化がある。そして、「我慢強い人」を褒め称える文化がある。どんなに不満があっても、どんなに理不尽な状況に置かれても、それを耐え忍ぶことを美徳とし、耐えしのいだ先にこそ「成功」が待っているかのような言説がまかり通っている。ほとんどマインドコントロールに近い不条理なこの呪いが、この国全体を覆っている。その原因は何か?「学校」なのである。旧態依然とした学校教育の中で、日本人は洗脳されている。やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、自分の可能性に蓋をすることを推奨する恐ろしい洗脳、白昼堂々なされているのが今の学校なのだ。教育はよく「投資」に例えられる。(中略)「学び」はそれぞれにとっての投資であるべきだと思う。投資とは、投資した側へのリターンが発生すること、すなわち投入した資本がそれ以上に大きな価値を社会に生み出すことをいう。だが、今の学校教育は「投資」になっていない。いざという時に引き出すための「貯金」にとどまっているのだ。投資型の学びに我慢は不要。貯金の本質は我慢である。そして99%の我慢は、ただの思考停止にすぎない。でも僕は、「高学歴の若者たち」がカルト宗教に洗脳されたことを、特に不思議とは思わなかった。僕の目に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳になれた人たちが信仰先を変えただけ。僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。残念ながら、普通に暮らしている限り、「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。それは「常識」の洗脳が、国ぐるみで行われているからだ。国家は、全国に4万6000箇所もの「出先機関」を設け、この国で暮らす人たちすべてをその魔の手にかけている。その出先機関とは、「学校」だ。学校の大きな役割は二つあった。一つは子どもの保護。そしてもう一つは、彼らを「望ましい工場労働者」へと育てあげることだ。政府にとって、工場労働者の確保は死活問題だった。工場の生産性は、国家の軍事力と直結している。しかし、ただ単に人手があればいいというわけでもない。工場の生産性を上げるために必要なのは、基礎的な学力、忍耐力やコミュニケーション能力といった、複数の能力を備えた「人的資材」だった。つまり学校はもともと、子どもという「原材料」を使って、「産業社会に適応した大人」を大量生産する「工場」の一つだったのである。世界のどの国でも、学校の誕生・発展はナショナリズムの台頭と連動している。問題の本質は、国家が人間の規格=「常識」という鋳型を作り、そこに人間を無理やり押し込めようとすることにある。その教育システムそのものの誤りに気づいていないから、今でも学校は恣意的な常識の洗脳機関なのだ。~~~ここまで引用「学校」とは、そもそもなんだったのか?「学校」制度の目的とは?そんな「そもそも」から考えていかないといけないと思う。もちろん、これは、堀江さんのいう、学校の負の側面を強調した文章になっているのだから、学校の正の側面ももちろんあるだろうと思う。(友人を得るとか、基礎的な学力がつく、とか)しかし、そもそも「学校」ってなんだ?「常識」ってなんだ?みたいな問いに対して、何か仮説を立てようとするには、とてもいいヒント、ネタになるのではないかと思う。僕がこの引用した中で一番好きなのは、ここだ。「僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。」「学校」は、あるいは「就活」というシステムは、もしくは、「会社で働く」ということは、「常識」への適応を要求する。もちろんそれは、世の中を生きていくために、必要なことだろうと思う。しかし、「常識」を「信仰」してはならない。本書にあるように、「学校」というシステムは、200年前に存在していないし、「工業社会」とセットで生み出された仕組みだった。「就活」について言えば、もっと短い期間でしかない。その「常識」に適応する、ということ。それは「適応」であって、正解ではないこと。それを「信仰」することなく、考え続けていくことが大切なのだと思う。


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「日本再興戦略」(落合陽一 幻冬舎)今日も読書日記。この本から「わかりやすさ」と「東洋思想」について。~~~ここから引用幸せという概念は、明治時代以降の産物です。西洋的な幸福観は押し付けられたものなのに、今の日本人はメディアの基準に照らし合わせて、「とにかく幸せでないといけない」と信じ込むようになってしまいました。何かを求めているけれども、それが足りないという状態は、実は依存症です。別に、自然でいればいいのに、メディアが定義した幸せを探す日々の中で、日本人はいつのまにか「幸せ依存症」になってしまったのです。「愛」も明治以降に日本に入ってきた概念です。日本人には、きずなは昔からありましたが、愛はありませんでした。愛ときずなの違いとは、愛が熱情的な感情を指す言葉であるのに対して、きずなはステート(状態)であるということです。きずなは状態ですので、それが永遠に続くこともあります。しかし、愛はあくまでも感情ですから熱したり冷めたりで総量が変わっていきます。たとえば、日本人の伝統的な老夫婦は、「愛している」とは口で言わずに、静かにたたずむイメージがあると思いますが、あれはすごく日本的でジャパニーズです。西洋の夫婦関係は、年老いてからも愛を語る美しさがありますが、きずなそれ自体もまた美しい関係性です。こうした幸せや愛という概念に限らず、明治時代に生まれた翻訳言葉が、我々の変な価値観を規定しています。福沢諭吉や西周をはじめとする知識人たちは明治期に、西洋社会から輸入した概念の訳語をほとんどつくりました。それはものすごい仕事であり、評価できることなのですが、如何せん突貫工事でもあるので、時代に合わせて修正する必要がありました。つまり、先人に学び、先人と対話し、我々の思考基盤のアップデートが必要になるのは先人も想定した上で取り組んでいたのでしょう。しかしながら、それを修正する前に、日本は第二次世界大戦の敗戦国となり再びグランドデザインされてしまいました。日本になじむ西洋との折衷概念が生まれる前に、多くの言葉がふたたびリセットされたしまったのです。言葉を考え直さないと、われわれは日本再興戦略を組むことができません。このままでは言葉尻だけを追い続けてしまう。「欧米」と言っているうちは、コミュニケーションはできず何も見つけることはできないのです。~~~ここまで引用いやあ、テレビCMとか、トレンディードラマとか、ゼクシーとか、広告屋さんが作った「幸せ」像にみんな向かっていった。そうやって日本は消費を拡大し、経済成長していったのだなあとそれと同じことが、たぶん、キャリアでも起こっている。メディアとか、リクルートがいう、「幸せな就職」とか「ロールモデル」とか「キャリアターゲット」とか「天職」とか。そういう「言葉」に流されてはいないか?その「言葉」に対する姿勢でも、西洋と東洋は思想的にまったく違うのだと落合さんは指摘します。~~~ここから引用西洋的な思想は、言葉の定義が明確であり、わかりやすいという魅力がありますが、わかりやすさばかりを求めてはいけません。定義によるわかりやすさの対極にあるのが、仏教や儒教などの東洋思想です。身体知や訓練により行間を読む文化です。東洋文化を理解する必要があります。理解できないのは自分のせいだから、修業しようという精神が求められるのです。わかりにくいものを頑張って勉強することで理解していく―それが東洋的な価値観なのです。言外の意味を修業によって獲得する。それは言外の意味が参照可能な西洋的文法に対して、内在させようとする仏教的、東洋的文法だと思います。一方、西洋の精神は、個人主義でみなが理解する必要があると考えます。もし内容が理解できなければ、「わかりやすくインストラクションしないお前が悪い」という精神なのです。読み手が自分で修業しろ、というのはとんでもないことで、ジャンプなく読み手のところまで降りていかないといけません。こうした点にも、東洋思想と西洋思想は立場上、大きな違いがあるのです。~~~ここまで引用「わかりやすさ」に本当に価値があるのか?そもそも「わかりやすさ」が価値を持つのは、西洋的価値観、思想なんじゃないか?そんな問い。まあ、だからと言って、わかりにくくてもいいってことではないのですけど。最後に教育について言及しているこの箇所から。~~~ここから引用根本的には、教育から変えないと、今の流れは変えられません。今の近代社会を成り立たせるすべての公教育とはほぼ洗脳に近いものですが、我々は中途半端に個人、自由、平等、人権といった西洋的な理念を押し付けられた結果、個人のビジョンがぼやけてしまいました。今の教育は「やりがいややりたいことがない」といった自己否定意識を持った歪んだ人間を生み出してしまいます。要は、欲しいものをちゃんと選ぶとか、自発的に何か行動する、ということを練習しないし、それをガマンするように指導するのに、好きなものを見つけることが重要だと言い続けるのは大きな自己矛盾を生み出しうる欠陥であり、自己選択に意味がなく、不安が募る社会にしてしまっているのです。教育を変えて日本人の意識を変え、地方自治を強化して、ローカルな問題を自分たちで解決できるようにすること。つまり、帰属意識と参加意識、自分の選択が意味を持っている実感を、それぞれの人々が感じ、相互に依存することから、日本再興は始まっていくのです。~~~ここまで引用公教育が起こしているダブルバインド(矛盾)を的確に指摘しているなあと。重要なのはたぶん最後の一節なのだろうなと。帰属意識と参加意識、自分の選択が意味を持っている実感をそれぞれの人々が感じ、相互に依存すること。それを感じられるような、小さなプロジェクト。あるいは「場」。「おでん」のような「場」をつくり、「植物」を育てるように「事業」をつくる(3月15日投稿の活動報告)https://camp-fire.jp/projects/139651/activities/75934#mainそういうのを作っていくこと。たぶん中学・高校の時から学校以外の場所に「おでん」を持つことそうそう。「居場所」じゃなくて、「おでん」のような「場」を持つこと。何か小さなプロジェクトが生まれる、そこに小さな帰属意識と小さな参加意識が生まれるような、そんな「場」を持つこと。その「場」は、「場」から生み出されるプロジェクトは、個人が特定されないような、中途半端な「匿名性」を持っていること。それは、「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)で紹介されていた鯖江市「JK課」の取り組みのように、「JK課が批判されても、私の学校の成績が下がるわけじゃない」(参加高校生のコメント)とか、福岡で出会った大学1年生の「インスタ講座」で「インスタはもうひとつの人格を作り出す装置」というような、調べればだれがやっているのか分かるけど、発言(表現)はプロジェクトとして、あるいはチームとして行う、っていうのが、日本人のメンタリティに向いているのかもしれない。だからこそ、大学生たちは、「場」を持とうじゃないかと。(もちろん中学生・高校生も)「おでん」のように相互に関係し合う「場」で小さなプロジェクトを生んでいこうじゃないか。「プロジェクト」は仮の自分だ。もうひとつの自分だ。もちろん複数名でやっているから、自分そのものではないけれど。その「中の人」として、何かを始めてみること。これが、オルタナティブ就活への第1歩なのかもしれない。


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ニシダタクジです。先日、花巻の宮沢賢治記念館に行ってきました。100年近くの時を超えて、胸に来るものがありました。僕は、大学時代に宮沢賢治「農民芸術概論綱要」に出会い、「だれもが芸術家たれ」というメッセージに共鳴して、就職せずに20代は畑をやりながら、人が集まる場をつくっていました。今でも、賢治先生のメッセージが胸に響きました。「永久の未完成これ完成である」今回はこのメッセージが一番心に響きましたが。ほかにも、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である 」「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」このあたりがビビっときました。そんなタイミングで出会った本。「日本再興戦略」(落合陽一 幻冬舎)前から読もう読もうと思ってはいたのですが、このタイミングでよかったなあと。いきなり「欧米とは何か?」そして「日本とは何か?」ときます。~~~以下引用もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。日本が「近代的個人」を目指し始めたのは1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、いまだに日本には「個人」によって成り立つ「国民国家」という感覚が薄いように感じます。むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。江戸時代には、日本人は長屋に住んで、依存的に生きてきました。我々は個人なんてなくても、権利なんて与えられなくても、江戸時代など、対外的には大規模の戦争をせずに生きていた時もありました。それなのに、日本は自分から依存を切ってしまいました。個人の持つ意味を理解していないのに、西洋輸入の「個人」ばから目指すようになってしまったのです。今では、長屋もないし、団地も減りました。隣の人に醤油を借りることもなくなってしまいました。過去の状態が理想状態であるとは言いませんが、我々は過度に分断されるようになった。そしていつのまにか日本人はバラバラになってしまったのです。本来、江戸の日本には、100、200、300という複数の職業があって、そのうち何個かの職業を一人の人が兼任して、みなで助け合いながら、働いてきました。ポートフォリオマネジメントがされていたため、誰かが技術失業することはありませんでした。でも今は、「誰々の職業がAIに奪われる」なんて話題ばかりがメディアに出てきます。これからの本質的な問題は、「我々はコミュニティをどう変えたら、次の産業革命を乗り越えられるか」ということなのに、「どの職業が食いっぱぐれるのか」という議論ばかりしているのです。そうした「AI脅威論」は西洋の個人主義の文脈において出てくるものですから、本来の日本人がそうした問いに振り回される必要はありません。これから日本が東洋的な感覚を土台としてテクノロジーを生かしていくためにも、まずは西洋的個人を超越しなければならないのです。一人がひとつの天職によって生きる世界観に我々はもともと住んでいませんでした。百姓とは100の生業を持ちうる職業のことです。そもそも、アジアは昔から、言語によって何かを分断する考え方をよしとしません。荘子は言語による二分法でモノを語りません。個人と個人以外、対象と対象以外というように分断する行為は、世界が調和によって成り立っていた安定状態を破壊してしまう行為であると主張しています。つまり、西洋思想の二分法の考え方は、アジア的な安寧に関する感覚、美的感覚や価値観とは合わないのです。 ~~~ここまで本文より引用就活の違和感、その根本には、アイデンティティ・クライシス(自分らしさ危機)と、個人戦を戦わなければいけないという就活のシステムがあるように思います。そしてその違和感のひとつに、「個人」、つまり「近代的個人」があるのではないかと思っています。そもそも、「個人」という概念がなければ、自分らしさとか、自分の強みとか、あまり重要ではないのではないか。その「二分法」でとらえてしまうような就活への違和感があるのではないかなあと思っています。


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大学を休学してインターンに行くみなみさんから寄稿してもらいました。~~~大学3年生からインターンなど就職に関することを意識し始めて、インターンに3社、選考に1社参加したけど、自分がそこで働く気はしなかった。自己分析をやってみると、それ自体は面白かったけれどエントリーシートや履歴書に書くと、実際の自分と全然違う人の像のような気がした。就活に関して、何に取り組んでいても自信が全くなかった。私は片頭痛持ちで、自分のしたいことと出来ることとの間にギャップがあり、症状が出るより何より、それをものすごくコンプレックスに感じていた。必要以上に自分を使えないヤツと考えてしまう。バイトをたくさん入れるのも、友人と予定を立てて出かけることも、慣れない場所に行くことも、夏や冬に外出することも、電車に乗るのも、「頭痛になったらどうしよう」それしか考えられなくなる。薬にも限界はある。頭痛にならないかが行動の第一基準となり、動き出すのをためらうことがとても多くなっていった。就活も、条件が自分の体調を合わせられそうなところを探そうとしたが、したいこととは離れていたし、消極的な気持ちでとてもつまらなかった。もともと自分が納得できないと物事に取り組めない性分だった私は、周りの動きとは逆に、ゆっくり立ち止まることになった。したいことはあった。昔から外遊びが好きで、大学では樹木や森林を専攻している。林業従事者になりたかったが体験するとやっぱり頭痛は避けられなかった。でも、身近に植物があることが自分の気分を保ってくれることが分かった。大学生になってから一人旅でゲストハウスを回るのが好きになった。仕事をするなら正社員になるものと思っていたが、いろんな働き方をしている人がいることを知った。そんな人達ともっと会ってみたい。絵を描くことが好き。集中しているととても落ち着く。そういうことをちょっとずつ整理していくと、自分にとっては、働く会社より住む環境のほうが重要で、たとえ正社員じゃなくても健康でいられるほうが、ストレスがなくなるのではないかと、3年生の年末に気付いた。林業に従事できなくても山の近くに住めばいいし、身近に面白い働き方をしている人がいれば影響を受ければいいし、絵を描くことが何かに繋がる気がした。お金はないよりあった方がいいとは思うけれど、したいことが自分のせいで出来ないと思うと、自分のことがどんどん嫌いになって辛かった。就職する前に、一度そういうところに住んでみようと思った。いろいろな地方を調べたり連絡を取ったりしているうちに、新潟県長岡市の「にいがたイナカレッジ」という団体が、インターンや集落での生活を通して、暮らすことと働くこと、どちらも大切にする生活を支援してくれることを知った。そしてそのプロジェクトのうちの一つ、印刷会社での発信・企画等を行うインターンに半年間、参加することになった。自分のできるペースで、したいこと出来ることを周りの力を借りながら挑戦できる。絵だって活かせるかもしれない。休みの日は近くの山や村に行ける。とてもわくわくしながら申込書を書いた。これを書いているのは、インターンの始まる5日前。インターンの後のことは、今は何も考えない。過剰な期待も悲観もしないことにした。毎日、目の前のことをあるがままに受け取っていって、半年後に残ったもので次のことに繋がればいいな、とだけ思っている。(つづく)