Check our Terms and Privacy Policy.

奇跡的修復を経た幻の蕪村画「寒山拾得図」のデジタル複製襖をつくり本堂に奉安したい

俳人画家・与謝蕪村が江戸中期の明和年間に讃岐・香川を訪れ、「蘇鉄図」「寒山拾得図」(国の重要文化財)等を残した妙法寺。別名「蕪村寺・ぶそんでら」といわれる。黒の油性マジックによる落書きを除去するという奇跡的修復を経た、幻の名画「寒山拾得図」についてデジタル複製の襖を作り、本堂に奉安したい。

現在の支援総額

1,675,000

139%

目標金額は1,200,000円

支援者数

51

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/11/18に募集を開始し、 51人の支援により 1,675,000円の資金を集め、 2020/01/10に募集を終了しました

エンタメ領域特化型クラファン

手数料0円から実施可能。 企画からリターン配送まで、すべてお任せのプランもあります!

このプロジェクトを見た人はこちらもチェックしています

奇跡的修復を経た幻の蕪村画「寒山拾得図」のデジタル複製襖をつくり本堂に奉安したい

現在の支援総額

1,675,000

139%達成

終了

目標金額1,200,000

支援者数51

このプロジェクトは、2019/11/18に募集を開始し、 51人の支援により 1,675,000円の資金を集め、 2020/01/10に募集を終了しました

俳人画家・与謝蕪村が江戸中期の明和年間に讃岐・香川を訪れ、「蘇鉄図」「寒山拾得図」(国の重要文化財)等を残した妙法寺。別名「蕪村寺・ぶそんでら」といわれる。黒の油性マジックによる落書きを除去するという奇跡的修復を経た、幻の名画「寒山拾得図」についてデジタル複製の襖を作り、本堂に奉安したい。

このプロジェクトを見た人はこちらもチェックしています

thumbnail

寺伝では、小堀遠州が築いた庭といわれます。泉水(池)は「心」の文字を表し、石が山から自然に崩れたように配されており、「崩れ石の庭」といいます。与謝蕪村が妙法寺に逗留した頃にも、この庭がありました。現在でもヒラトツツジ、松、南天、樫、槙などが植えられており、四季折々の風情を楽しませてくれます。蕪村は旧本堂の上座敷に滞在していましたが、そこから庭が現前にみえ、庭の北西の端には与謝蕪村が絵のモデルにした蘇鉄があり、岩々が滝のように流れ落ちてて池に注いでいます。蘇鉄図にある「階前闘奇酔春星写」の落款のごとく、生い茂る蘇鉄が蕪村の目をひときわ引いたに違いありません。左に建物が見えますが、宝暦年間に建てられた旧元三大師堂で、蕪村もこの大師堂にお参りされていると思われます。


thumbnail

与謝蕪村は明和3年(1766)の秋から明和5年(1768)の夏にかけて讃岐・香川を訪れた。蕪村の讃岐行脚の目的は画業にあったといわます。画業において一応の地位を得、さらに俳諧も本格的に取り組んでいこうとする蕪村にとって讃岐への旅は、自分に課した再修業の意味があったに違いありありません。風景の美しさや、土地にまつわる数々の文学や歴史に触れながら、心ときめくものであったことでしょう。明和3年(1766)、51歳の蕪村は京都を離れ、讃岐へ赴く。讃岐・琴平には望月宋屋門下の俳人が多く住んでいて、その中に当時妙法寺檀家総代の菅暮牛(琴平の豪商)がいました。菅暮牛をはじめとする琴平の俳人仲間を訪ねるため、明和3年のある秋の夕方、蕪村は海路・丸亀の港に上陸した。そして一夜の宿を借りるべく妙法寺を偶然に訪れた。妙法寺中興10世住職の真観上人の時であった。その時の蕪村は無一文で、まるで乞食のような格好であったと伝えられています。 その後、菅暮牛の案内で再び妙法寺を訪れる機会を得た蕪村は、真観住職との再会を喜ぶとともに、一夜の善根宿と運命的な再会が縁で、絵を嗜好していた真観住職と意気投合し、蕪村との親密な交流が始まったのです。このようなご縁から、妙法寺は、讃岐時代における与謝蕪村揮毫の6作品を収蔵庫において所蔵しています。讃岐時代の一大作品である『蘇鉄図』をはじめとして国指定重要文化財<昭和46年6月22日指定、絵1669号>にしていされています。1.紙本墨画「蘇鉄図」四曲屏風、一双2.(附)紙本淡彩「竹の図」一幅3.紙本淡彩「寿老人の図」一幅4.紙本淡彩「山水図」三双、明和5年(1768)5.紙本淡彩「山水図」一双6.紙本淡彩「寒山拾得図」襖貼付、四面これらのうち、「蘇鉄図」、「山水図」「寒山拾得図」は描かれた当初は本堂(旧本堂)の襖絵として、実際に使われていました。 蘇鉄図は四間八枚の本堂上座敷の襖絵、山水図はそれぞれ七間六枚の内襖絵、「寒山拾得図」は内陣と下陣を仕切る三間四枚の大襖絵でした。妙法寺中興15世真延住職は、「約百年前に描かれた蕪村の大作であるが、年月とともに襖が剥げ傷んできた。思い切って屏風に改装して、寺宝として後世に残したい」と発願されました。こうして文久2年(1862)に襖絵から屏風に改装されたのです。蕪村から絵を描いてもらった真観住職は初めの功労者であり、真延住職は後の功労者と言ってもいいでしょう。


thumbnail

明和3年(1766)、51歳の蕪村は京都を離れ、讃岐へ赴きました。讃岐・琴平には望月宋屋門下の俳人が多く住んでいて、その中に当時妙法寺檀家総代の菅暮牛(金川屋という琴平の豪商)がいました。菅暮牛をはじめとする琴平の俳人仲間を訪ねるため、明和3年のある秋の夕方、蕪村は海路・丸亀の港に上陸した。そして一夜の宿を借りるべく妙法寺を偶然に訪れたのです。妙法寺中興10世住職の真観上人の時でした。その時の蕪村は無一文で、まるで乞食のような格好であったと伝えられています。その後、菅暮牛の案内で再び妙法寺を訪れる機会を得た蕪村は、真観住職との再会を喜ぶとともに、一夜の善根宿と運命的な再会が縁で、絵を嗜好していた真観住職と意気投合し、蕪村との親密な交流が始まったのです。蕪村は一度京都に戻るも、再度讃岐を訪れ、菅家(琴平・金川屋・臨川亭)、富山家(高松・三倉屋)、妙法寺などに滞在しました。讃岐滞在の間に数回にわたり妙法寺を訪れ、明和4年から明和5年の初夏にかけて妙法寺に逗留し、お礼の意味を込めて、蕪村は客殿の襖を表装し、絵を描き、真観住職の歓待に応えたのです。京都へ帰るとき、妙法寺で俳句を残しています。  長尻の春をたたせて棕梠(しゅろ)の花と讃岐香川での様々な思い出を胸に、少々長く逗留しすぎたことを詠んでいます。さて、琴平の柳谷墓地の一角に菅家ご一統様のお墓がずらりと並んでます。ちなみに菅冬扇は菅暮牛のお父様で「冬扇之墓」とあります。これら江戸時代の菅家のお墓群ですが、「冬扇之墓」しかり、戒名が彫られていない墓石がほとんどです。明和3~5年にかけて蕪村は琴平の俳句仲間を訪ね、琴平で逗留した菅暮牛(金川屋左平太)の家は「臨川亭」といい、現在の橋本屋旅館(平成30年に廃業)です。金倉川にかかる一の橋麓にあり、「臨川亭址」の石碑が建っています。また、蕪村が明和4年に琴平で詠んだ有名な俳句が「象の眼の笑いかけたり山桜」です。菅家の先祖ははじめ美作国弓削庄にいましたが、慶長年間に備前国金川村に移り、寛永5年、時の金光院別当住職宥睨(ゆうけん)に招かれて金毘羅へ移ったといいます。だから金川屋なんですね、きっと!。菅家は代々酒造業を営んでいました。菅一族は菅冬扇、暮牛、岱石、岱山など多くの俳人を輩出し、菅冬扇が5代目、その息子の暮牛は6代目です。妙法寺の檀家だったことから後日、暮牛が蕪村を連れて妙法寺へお越しになり、当山と蕪村のご縁ができました。菅暮牛のお墓の表裏ははっきり読めます。[表]東皋之墓[裏]東皋姓菅諱政甫稱左平太。寛政十一年己未歳六月廿九日終寿七十四。暮牛は金川屋左平太といいます。また、「備前国金川村」というのは、戦国時代に備前・松田氏が城主だった金川城があった所です。金川つながりで菅氏と松田氏と蕪村が繋がったように感じます。橋本屋旅館1階フロントの所に掲げられている「史跡臨川亭址」の蕪村逗留記が表装されています。宿のパンフレットからその内容を転載し、締めくくります。---------------史跡臨川亭址碑山下泰一琴平町内町一ノ橋の西袂、橋本屋旅館前に「史跡臨川亭址」と刻んだ、高さ一三五cm・幅二四cmの角柱碑がある。俳聖蕪村ゆかりの臨川亭はこの旅館の処にあったので、昭和三十一年(一九六五)十月十日に建碑された。碑陰には故草薙金四郎先生の撰文で次の如く記されている。俳聖蕪村は宝暦明和の頃讃岐高松丸亀琴平に來遊して俳人らしい逸話と遺墨を傳えている。就中像頭山下の豪商金川屋こと菅暮牛をはじめ冬扇陸船寸木など所謂金毘羅連と詩酒追逐してこの地を永く淵叢とした。由來琴平は千古の霊域加うるにこの地の山水人情亦詩懐に適いまこと金陵楊州の雅名に負かずために文人墨客志士侠徒あとを絶たず。蕪村また屡この地に杖を留め主として菅暮牛の邸に送歳又迎年して、象の眼の笑い初めたり山桜等の名吟を吐くいはゆる彼の象山客次臨川亭揮毫は即ち此處なり。予はこの邸址の煙滅をおそれ建碑して事蹟を後昆に顕わす。昭和三十一年十月十日香川県立図書館長香川県文化財専門委員草薙金四郎 撰象東 山野秀一 書---------------


thumbnail

寺伝では、奈良時代の天平年間に行基菩薩が諸国を遍歴した際、豊田郡和田村(現在の香川県三豊郡豊浜町和田)の正因山に一宇のお堂を建立したことに始まるといいます。長宗我部元親の兵火による消失の後、再建されたが、文禄4年(1595)、豊田郡坂本郷(現在の香川県観音寺市坂本町)に移り、当時は日蓮宗不受布施派に属していました。慶長2年(1597)には丸亀城主生駒親正公の命により当山中興1世日眼上人の時、現在の地・丸亀に移りました。 寛文6年(1666)に徳川幕府の命により日蓮宗不受布施派が禁止になり、寛文9年(1669)に京都・毘沙門堂の末寺となり、天台宗に改宗し、現在に至っています。俳人画家・与謝蕪村(1716-1783)が明和3(1766)年秋から同5(1768)年の夏にかけて讃岐国(香川県)を訪れ、妙法寺に逗留して「蘇鉄図」などの絵(国の重要文化財指定)を残したことから、妙法寺は別名「蕪村寺・ぶそんでら」といわれます。一方、妙法寺は丸亀城下にあって丸亀藩主京極家の祈願所でありました。文久2年(1862)、京極朗徹(あきゆき、第7代丸亀藩主)から京極家の家紋である「四ツ目」の入った幕が元三大師宝前に奉納され、京極家の武運長久を祈願しました。以後、元三大師宝前に四ツ目の紋入りの幕を掛けることが許されたのです。また、京極高豊公(第2代丸亀藩主)が揮毫したの大黒天図が残されています。現在では、「蕪村寺・ぶそんでら」と親しみを込めて呼ばれ、商売繁昌、家内安全等の信仰を集めている「大黒天」や、厄難災除、魔除守護の「元三大師降魔尊像」が奉安されており、元三大師おみくじ祈願所として信仰を集めています。写真画像は、『古今讃岐名勝図絵』の妙法寺の様子で、蕪村が逗留して絵を描いた頃も、ほぼ同様と考えられます。蕪村は写真画像の「本堂」の上座敷つまり本堂の左上の部屋に逗留し、そこから蘇鉄の生い茂っていた庭が目前に見れたのです。それで蘇鉄を画題に筆を取ったということでしょう。ちなみに蕪村来讃時にあった建物で唯一現存するのが、写真画像左の「大師堂」です(大師堂は宝暦年間に建築と伝わる)。この大師堂の建物を後ろに引いて、現本堂新築と合体しする形で改造改築され、今日に至ります。


thumbnail

お世話になっております。プロジェクト管理人の大岡です。クラウドファンディングを開始して約10日。この間、ご支援を賜りました皆さんに、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございます!。また、当サイト(キャンプファイヤー様)での操作方法があまりよくわからないということで、直接お寺にご持参くださった方1名、銀行振込の方1名がおられます(これらの方はキャンプファイヤーのパトロン数に入っていません)。重ねて御礼申し上げます。遅くなりましたが、取り急ぎの御礼とさせていただきます。さて、PR TIMES社というプレスリリース・ニュースリリース配信サービスを依頼し、今般、各種メディアやプレスに配信いただきました。一例で時事ドットコムニュースのサイトURLです。https://www.jiji.com/jc/article?k=000000001.000051414&g=prt 一方、PCやスマホの操作になれていないと、支援する際、入力項目がいくつもありますし、入力漏れも指摘されます。クレジットカードでのご入金もさることながら、個人的にはコンビニ支払いもおすすめです。プロジェクト管理者としましては、所期&初期のPRは一通りさせていただいたつもりです。逐次推移を見守りつつ、活動報告をさせていただきます。何かございましたらご遠慮なくお問い合わせください。引き続きご支援を何卒よろしくお願い申し上げますm(_ _)m。