クラファン募集期間もいよいよカウントダウンです。
このプロジェクトを進める宮城野サポーターズの一員として、この2ヶ月ほど監督と密に(リモートで)打ち合わせを重ねていると、多くの気づきや発見があります。
『宮城野』本編への理解も格段に深まっているのですが、その中で矢太郎のキャラクターについて考えてみました。
愛之助さんが演じる主人公の一人、矢太郎。脚本家の酒井雅秋氏と監督の演出メモには次のような設定がされていました。
【矢太郎】
自己矛盾に生きた男。
度胸がない故、絵師として、本流(美人絵)を捨て、亜流(役者絵)を極めることの哀しみを抱える。
色恋においても、自身の本流(宮城野)を捨て、世間的に本流に見える、その実、自身にとっては亜流(おかよ)の女を選んでしまう。
世俗に流される、俗なるもの。しかし、観客に非常に近い存在。
かなり緻密なキャラクター造形がなされていますよね。
矢太郎が目指していた絵は、肉筆による美人絵の方なんです。でも、現実(物語中)は写楽の木版役者絵のコピーをしています。実は、この二つには天と地ほどの違いがあります。
肉筆の美人絵は一品もので、まさに芸術作品。対して木版役者絵は、大量に印刷され消費されるグラビアのようなものです。
後者をやらざるを得ない、しかもそこで傑作が描けてしまう皮肉。矢太郎の思いはいかばかりでしょうか。
ところで、矢太郎の「矢」の字って、原作者・矢代静一の「矢」ですよね。
矢代静一氏は、戯曲『宮城野』の執筆当時、親友であった三島由紀夫と共に文学座を脱退し、劇界で苦しい立場に置かれていました。生活のためにラジオドラマなんかを書いていたこともあったといいます。
私の推論も含むんですが、原作者は自分自身を矢太郎に投影していますね、きっと。そしてそれは監督も同様かと。(あ、山﨑監督の「ヤ」でもありますよね?)
24歳で華々しくカンヌ・デビューを飾った監督も、「その次」がなかなか実現せずに苦境に立ち、鬱々とした日々を送っていたと聞いたことがあります。
本当にやりたいことがあるのにそれができない、そして、やりたくないことをやらざるを得ない鬱屈した思いを持っているというところで、どことなく共通していますよね。
……と勝手ながら。監督の原作への思い入れや演出時のキャラクター造形を見るにつけ、そんな風に感じてしまうのです。コロナが終息してお酒が飲めるようになったら、直に伺ってみたいものです。
歌舞伎でいうところの「色悪」で、現代的にいうならハイパーイケメンクズ。でもどこかつかみ所のない矢太郎。
皆さんはどんな風にご覧になりますか?
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