介護施設における利用者サービスには、排泄、食事、入浴、移動・移乗の介助などがある。これらの利用者サービスの質を高め、また、個々に効率化出来るかという問題意識から私の経験した介護施設における介護サービスの様子は出来るだけ明確に手順次従って書かれています。オムツ交換とレクリエーションの様子を取り上げている「オムツ交換とレクリエーション」は他の話と比べて比較的多く読まれていて、利用者サービスに関する話としては上位にある。 出来れば、そのような利用者サービスについて読者の意見や経験を聞いて、より良い利用者サービス、より効率的で、効果的な利用者サービスのあり方について考えてみたいと思う。オムツ交換とレクリエーション (10) 介護サービスの基本としては、利用者の自立を支援することと利用者を個人として尊重することが大きな目標となるだろう。利用者の自立支援という観点では、出来ることをしてもらう、残存能力をいかす、自己決定の尊重、強みや個性の尊重、過度な支援をしないことなどが重要であろう。 また、個別支援という観点では、一人一人を個人として尊重すること、個性や好みの尊重、一人一人に同じような対応するのではなく個別にその利用者に合ったサービスを提供する必要があるだろう。 そんな観点も踏まえつつも、個別対応というよりも、いかに利用者サービスを効率化するかという問題が「オムツ交換の運営管理」などで扱われている。この話題は「すき」の数は比較的多いが、あまり読まれていないようである。一般的にあまり関心の高い話題ではないと言えるのだろう。オムツ交換の流れを工場での生産に例えて説明しているところに非人間的な扱いとして隠れた批判を受けているのかも知れない。オムツ交換の運営管理 (47) 総じて、個別対応による感情的なもの、多くの読者の共感を得られるような話題が多く読まれ、「すき」の意思表示を示して頂いているように思うが、一方で、効率性の議論や費用対効果の視点も欠かせない問題だと考えているため物語の中では一定程度以上取り扱うようにしている。 自立性や個別性を尊重して、いかに質の高い個別の利用者サービスを提供していけるかが問われる。一方で、自立性の尊重に関して言えば「何もしないこと」も利用者サービスの一環となる。 個別性の尊重では、人員や予算費用の制限も関わって、個別対応の質を高めるために、逆に、利用者サービスの標準化や一般化による効率化、不要なサービス時間や費用の削減などが問題になる。 利用者サービスの質と効率を高めるために、正しい議論の題材として「チャレンジ介護士篇」が活用されることを願っている。★この記事はnoteサイトにて掲載しています。
介護現場での課題は、大きく分けて2つだと思います。一つは、高齢な利用者とのコミュニケーションであり、また、同じ現場で働く他の職員とのコミュニケーションです。耳が遠かったり、自身の事で精一杯になっていて周囲に注意が払えなくなっていたり、認知症を患うなど利用者から投げかけられる断片的な会話によって論理的な会話にはならなかったりする高齢な利用者とのコミュニケーションは重要な問題でしょう。もう一つ、それと同じくらい重要なのは、現場で一緒に働く職員といかに意思の疎通を行うかということです。「おはようございます」、「お疲れ様です」などの挨拶一つで、現場での意識レベルを共有出来る職員もいます。しかし、なかなか同じような意識を共有出来ない職員もいます。それは基本的な性格や相性の問題であり、さかのぼれば、職員が生まれた家庭環境や育った環境とも密接に関わるのでしょう。その人の性格、また、思考や行動の好みのようなものと、こちらの性格、思考や行動が合わない、少なくても、相手側からの歩み寄りが期待出来ない場合が、少なからずあるようです。そんな時に、こちらから、相手を理解して、どれだけ、相手の感情や立場に寄りそい、思考や意識の歩調を合わせることが出来るかという課題があるでしょう。 『チャレンジ介護士篇』で、そんな職員間の意識や思考のすれ違いを扱ったものに「海野、怒鳴られる」や「社内コミュニケーション」などがあります。「海野、怒鳴られる」は、筆者が同じような経験をした時のショックが大きかったためか、題名が注目を引いたためか分かりませんが、海野総一の介護現場での仕事を描いた話題の中で、多くの方に読まれています。海野、怒鳴られる (21) 「社内コミュニケーション」でも現場の職員との微妙な意識の違いとそこから生まれるストレスを取り上げています。著者としては、そんな現場のストレスの原因となる他の職員を責めたい気持ちがない訳ではありません。しかし、そんな職員間の意識のすれ違いを出来るだけ現実に近い形で再現することによって、そのようなコミュニケーションの失敗の原因を探り、改善策、改善のための手段を見出すことが出来ると良いと思います。社内コミュニケーション (50) 職場のコミュニケーションは、伝言ゲームのように伝わることがあります。当初の意図とは別のメッセージとして相手や、その先の相手に伝わることがあります。それは、伝える本人の本心や深層心理を表していることもあるでしょうし、周囲との関係性や職場の環境などによって、反対の方向に向かい、さらに、助長されることもあるでしょう。また、実態と関係のない空想が展開されることもあるでしょう。 介護現場における職員間のコミュニケーションの問題は、同じ立場の職員間の問題から、上司や経営陣との関係にも及びます。 そんな問題も考えていけると良いと思います。★この記事はnoteサイトに掲載しています。
「障害のある人もない人も、互いに支え合い、地域で生き生きと明るく豊かに暮らしていける社会を目指す(厚生労働省)」という考え方がある。「ノーマライゼーション」と呼ばれる概念であり、福祉の理念となっている。この言葉を最初に私が知ったのは、介護・福祉の仕事や勉強を始める前に、市議会議員として福祉政策について市の説明を聞いた時だった。そんなことも知らなかったのかと一部の方々からは叱られるかも知れないが、この言葉を聞いた私が考えたことは、「ノーマル=普通、標準」、「普通にする」、「標準化」、「障害者を健常者と同じにする(普通にする)→無理だろう」ということだった。もっとも、少し考えて、健常者と全く同じ心身の機能を実現したり、人や社会との関係を築くことは出来なくても、それに近づけることだということを理解した。 次に私が考えたのは「ノーマライゼーション」などと言うカタカナ言葉を使っているのであれば、日本人に対して、また市民に対しての福祉政策としては不十分だということだった。結局のところ曖昧な理想論を掲げて、現実とのギャップを見て見ぬふりをするような対応しか出来ないのではないかと感じた。私は市に対して「ノーマライゼーション」という言葉を使わずに市民に対して日本語で分かりやすく説明してはどうかと提案したように記憶している。 それからこの言葉に出会ったのは2年くらい後だった。物語では「介護の基礎研修」と書いているが、介護職員としての基本的な知識と技能を学ぶ「介護職員初任者研修」を受講した時だった。そこでもこのカタカナ言葉が普通に使われていたので、2年程前に市議会で「ノーマライゼーション」を日本語で説明したらどうかと市に提案したことが、正に、標準と外れていたことを知ったのだが、私の考えは、必ずしも間違いではないだろうとも思っている。 その事自体が、私のノーマライゼーションを考える良い題材にもなる。周囲に合わせて行動しないと「異常」だと思われる、「劣ったもの」と見られる、「少数」として扱われるということである。 私としては「ノーマライゼーション」という言葉を知り、研修でその言葉に再び出会った時には、10年以上、起業やベンチャーについて考え、その本質を探究してきたこともあって、このノーマライゼーションという考え方、さらには、障害者など社会的に何らかの生きづらさを抱えた人々の生活と起業家あるいはリーダーとしてのあり方に類似性があるように思えた。 障害者など困難を抱える人と「ノーマル」に接するためには、自らが常に「アブノーマル」な環境に身を置くこと、つまり、何かに挑戦することが大切ではないかと思う。日常生活を送っていると、何か違うのではないか、別の方法、他の道があるのではないかと思うことが時々ある。そんな風に感じないことも多いのだろうが、そう感じる以上は、人と別の方法、他の道を探ってみるのが、自らの使命ではないかと思う。 ペンギンの群れで、天敵がいるかも知れない海に最初に飛び込むペンギンは「ファーストペンギン」と呼ばれる。その危険を恐れない勇気ある行動をたたえるものである。私がこの言葉を知ったのは、NHKの朝の連続ドラマで話題になった時だった。それ以前にアメリカに留学していて合計3年住んでいたが、そういう言葉を認識していなかった。私の周りで語られていたとしても意味を説明してもらわない限りは「可愛い動物のペンギンの話をしている」くらいにしか思わずに、記憶にも残らなかっただろう。 ファーストペンギン、ベンチャーの精神は、福祉分野にも通じると思う。そんな事も踏まえて書いたのがチャレンジ介護士篇の「ノーマライゼーションとは」。ノーマライゼーションとは 私が書いた介護の仕事に関する文章の中で、認知症についての「認知症対応」が一番多く読まれていた。次に読まれていた「ノーマライゼーションとは」について書こうと思って、私自身が読み直している間に、こちらの方が閲覧数が多くなってしまった。 障害者等に対するノーマライゼーションと、私の生き方としてのノーマライゼーションを両方とも考えていかなければいけないような環境を改めて意識しているのは、偶然ではなく、何かの必然なのかも知れない。★この記事はnoteサイトに掲載しています。
私は8年程前までビジネス講座の講師をしていた。経営戦略、マーケティング、会計、ファイナンス、リーダーシップ、アナリティカル・シンキングの5科目の講師をほぼ一人でこなしていた。これは、アメリカのビジネススクールで経験したことを、日本において社会人を対象に再現して、ビジネスの効果・効率を高めるために役立てて頂ければと考え、構成してきたプログラムであった。 このアナリティカル・シンキングは、「分析的思考」を扱ったものであり、全経営プログラムの中で導入的な基礎講座に位置付けられていた。【クリティカル・シンキング】【ロジカル・シンキング】【アナリティカル・シンキング】 当時配布していた資料では、上記のように、クリティカル・シンキング(批判的思考)、ロジカル・シンキング(論理的思考)、アナリティカル・シンキング(分析的思考)を分類して解説していた。 日常的なコミュニケーションにおいて、これらの思考は、基礎、基本として大切だろう。これらを応用して、日常のコミュニケ-ションが行われていると言えるだろう。 日常のコミュニケーションを阻害する要因として、相手の注意、相手の聴力(視力)、相手の理解、相手の認知、また、騒音や視覚作用などの環境の問題が挙げられるだろう。 介護・福祉の仕事をしていて、これらのコミュニケーションの阻害要因は、顕著に利用者、特に認知症の利用者とのコミュニケーションにおいて、また、職員間のコミュニケーションにおいて問題になると実感している。 端的に言えば、どれほど批判的思考、論理的思考に優れていても、相手がメッセージの送り手側に対して十分な注意を払っていなければコミュニケーションは成り立たない。これは、メッセージの送り手側の問いかけ方や姿勢の問題であると同時に、相手の注意の問題でもある。 また、送り手のメッセージが、相手に聞こえていなければ、あるいは、相手にメッセージが見えていなければ、コミュニケーションにはならない。これは、相手の聴力や視力の問題である。 さらには、メッセージの送り手が相手が受け止められない程に大量のメッセージを送ったり、相手が理解できないような難しい言葉や専門用語を使うとコミュニケーションは困難になる。 そして、先入観や固定概念、無意識に行われる習慣的な思考(スキーマ)などによって相手が正しくメッセージを認識しなければ、良好なコミュニケーションにはならないだろう。それは、相手に知的障害がある場合、相手が高齢であるなどして認知症を患っている場合などにおいても同様である。短期的な記憶力に障害があり、相手が受け取ったメッセージを一定の時間以上覚えていられない場合などでもコミュニケーションは成り立たない。このような場合、相手は同じ質問を繰り返して、メッセージの送り手が何度同じメッセージを送っても、それを相手が正しく受け止め、覚えていられないのであれば、そこから先のコミュニケーションは成り立たなくなってしまう。 このような問題意識を踏まえて書かれているのがチャレンジ介護士篇の『認知症対応』である。これは、介護職員としての仕事に関する話題の中で最も多くの読者の関心を集めている話題となる。認知症対応 このような認知症対応は、介護職員として、私が行っている認知症の利用者への対応であり、そうしたら良いのではないかと考えている対応である。それらは必ずしも正しい対応ではないかも知れないが、より良い対応を考え、実践する上で、良い話題になるのではないかと思い、取り上げている。★この記事はnoteサイトに掲載しています。
チャレンジ介護士篇の主人公・海野総一のガールフレンドの大野リサ。彼女も著者である私の想像が生み出した人物です。実在はしません。 リサは、海野が勤める投資会社の同僚の友達の友達で、海野とはパーティで知り合います。海野がアメリカに留学をしていたことがあり、リサの祖母がハワイに住んでいたことがあったことから、何となく気が合い、交際が始まります。物語に登場するリサの年齢は正確には分かりませんが、著者としてや20代の半ばくらいを想定しています。転職とガールフレンド (5) リサは、黒い大きな水玉の白いワンピースを着て物語に登場します。海野の介護の基礎研修の後で、夕ご飯を一緒に食べるために駅で待ち合わせをしている場面で登場します。リサとの夕食 (16) リサは、衣料品店に勤めていて、出勤時間は遅く、仕事帰りのお客さんが来店するため夜遅くまで仕事をしていることが多く、海野とは、お互い休みの時以外は、メール(SNS)で連絡を取っています。リサの仕事 (18) リサは、お店の中堅スタッフであり、店長の代わりに店舗運営を行う店長代理に昇格します。リサ、支店長代理になる (49) ちなみに、最近話題になっている歌手のLiSAと物語のヒロインのリサは関係がありません。昨年秋に物語の執筆を始めた段階で、著者は「鬼滅の刃」もLiSAが歌う主題歌「紅蓮華」なども知りませんでした。 昨年の紅白歌合戦は録画して見ましたが「カッコいい歌だな」くらいにしか思わなかったと思います。実際に、リサの人物像の多くを描いたのは今年5月の物語の公開以降です。リサという名前の響きの中に私の様々なイメージが混在していると思いますが、意図的に誰かに似せて描いている訳ではありません。主人公の海野総一が、私自身の理想像を追求している側面が強い一方で、リサは、私の中の理想の女性像を描き出そうとしているのではないかと思います。 今回の全60話の後の第2部を描く機会があれば、海野とリサには、困難があっても、是非、乗り越えて行って欲しいと著者は願っています。第2部では、夫婦関係が破綻して一方の父母が子どもを連れて別居をして、他方の父母が子どもと会いなくなるという「子どもの連れ去り」や「親子関係の断絶」の問題が話題に上ります。 物語の中心が、介護になるか、政治になるか未定ですが、第2部では離婚後等単独親権制の弊害が重要なテーマとして盛り込まれることになるはずです。 海野とリサには、夫婦として、また、父母として、あるべき姿を描いて行って欲しいと著者は願っています。★この記事はnoteサイトに掲載しています。