(株)文化財マネージメントの宮本です。いよいよクラウドファンディングの期間も明日5月30日23:59までとなりました。お陰様で、5月26日に当初の目標としていた140万円に達しまして、現在はネクストゴールとして、残りの期間で追加の修復内容に必要な230万円を新たに目指しています。というのも、当初の目標としていた修復内容は最低限のもので、これ以上の損傷を防ぎ、像が安定して立てるようにする、というものでした。しかし、不動明王三尊像には失われてしまっている部分が多くあります。不動明王の左手先・宝剣・羂索、制多迦童子の金剛棒、矜羯羅童子の右手・左手、台座の蓮華がそうした部分です。できることならば、これらも新たに制作して補い、制作当初に少しでも近い形に近づけられればと思っています。追加の修復内容の詳細は下記です。①不動明王の左手先、その他後補箇所、宝剣、羂索、制多迦童子の金剛棒、矜羯羅童子の右手第三~五指、左手第二指、蓮華を新補。②それぞれ取付けを行い、矧ぎ目は木屎漆で充填して接合面の形を整える。③矧ぎ目に充填した木屎漆の上にサビ漆の塗布・砥ぎを繰り返して滑らかな面にする。④サビ漆に生漆をしみ込ませ、サビ固めを行う。⑤新補箇所を周囲に合わせて補彩。⑥修理後写真撮影。⑦各工程の写真を含む修理報告書作成。なお、光背については後世に作り直されて形状のそぐわない部材が多いため、それらを除去し新たに制作して補いたいところです。しかし、その修復工程を含むとさらに多くに費用が掛かるため、今回はそこまでは目指しません。改めまして、ご支援よろしくお願いいたします。
(株)文化財マネージメントの宮本です。今回のプロジェクトで対象としている像に関係して、関西大学教授で、仏像彫刻史(特に近世)がご専門の長谷洋一さんからコラムを寄稿いただきました。 岩手県内の近世の仏像制作の実情や、江戸時代後期の仏像制作や輸送についての、ほかでは読むことのできない貴重な内容の書き下ろしです。下記に掲載します。長谷洋一岩手の近世仏像は、元禄年間頃までもっぱら京都仏師と江戸仏師がその制作・修復を請け負っています。元禄16年(1703)に行われた奥州市・黒岩寺薬師如来像の修復には江戸仏師6名が黒岩寺に来て行っています。 享保9年(1724)9月に幕府からひとつの大成令(布告)が出されます。3尺以上の仏像や3尺以下の仏像でも10体以上の制作は町奉行の許可を必要としました。布告は町触によって告知されますが、この布告は江戸の町触だけで確認でき、京都の町触では確認できません。つまり京都仏師の活動は従来通りとしながらも江戸仏師のみに制限を加えた布告でした。享保16年(1731)から同20年にかけて製作された盛岡市・報恩寺五百羅漢像は、京都仏師の法橋宗而重賢や駒野丹下定孝ら9人によって制作され、報恩寺に運ばれています。いっぽう活動を制限された江戸仏師は、これ以降、関東地方での仏像制作のほかに神輿制作などを副業とします。沢山不動尊不動三尊像の作者である江戸仏師の安岡良運(俗名:忠五郎)も明和6年(1769)に水戸・羅漢寺不動明王像を制作します。享保の布告以降、江戸仏師の活動は造像料と運送費との関係から常陸あたりが活動圏のほぼ北限となりました。さらに安岡良運は安永9年(1780)には江戸・三井越後屋からの依頼を受けて群馬・諏訪神社神輿を制作します。三井越後屋は大槌の豪商・前川善兵衛とも交流があったとされます。水戸・羅漢寺は天保9年(1838)頃に水戸藩による廃仏毀釈により破却され、不動明王像は同寺で修行したとされる大槌町の古沢屋山口清助利記浄圓らの尽力によって三日月神社に移されます。古沢屋山口清助利記浄圓は、寛政6年(1794)の安岡良運の制作による大念寺法然上人・善導大師像の造立にも世話役として名前があがっています。寛政11年(1799)7月には、幕府から再び大成令が出されます。今度の布告は、3尺以上の仏像や3尺以下の仏像でも10体以上を制作することが禁止となります。この通達も江戸仏師に限定された通達です。この布告以降、岩手の仏像は、その製作や修復を京都仏師や一関市・芦友慶のように京都で修業し郷里に戻って活躍した地元仏師に委ねられていきます。こうした状況をもとに沢山不動尊の不動三尊像をみてみると、江戸の豪商と交流があった前川善兵衛、安岡良運と関係のあった古沢屋山口清助利記浄圓ら大槌の人びとが、造像料よりも運搬費が高額になることを甘んじてでも江戸仏師の安岡良運によって不動三尊像造立を果たしたいという熱い思いとそれに応じた安岡良運の心意気が感じられます。沢山不動尊の不動三尊像は両者の思いをつないだ証として位置づけられるではないでしょうか。
(株)文化財マネージメントの宮本です。お陰様で、当初の目標としていた140万円に本日達しまして、プロジェクトが成立しました!誠にありがとうございます。これで不動明王三尊像を修復し、後世に伝えていくことができます。ここでネクストゴールとして、残りの期間で追加の修復内容に必要な230万円を新たに目指したいと思います。というのも、当初の目標としていた修復内容は最低限のもので、これ以上の損傷を防ぎ、像が安定して立てるようにする、というものでした。しかし、不動明王三尊像には失われてしまっている部分が多くあります。不動明王の左手先・宝剣・羂索、制多迦童子の金剛棒、矜羯羅童子の右手・左手、台座の蓮華がそうした部分です。できることならば、これらも新たに制作して補い、制作当初に少しでも近い形に近づけられればと思っています。追加の修復内容の詳細は下記です。①不動明王の左手先、その他後補箇所、宝剣、羂索、制多迦童子の金剛棒、矜羯羅童子の右手第三~五指、左手第二指、蓮華を新補。②それぞれ取付けを行い、矧ぎ目は木屎漆で充填して接合面の形を整える。③矧ぎ目に充填した木屎漆の上にサビ漆の塗布・砥ぎを繰り返して滑らかな面にする。④サビ漆に生漆をしみ込ませ、サビ固めを行う。⑤新補箇所を周囲に合わせて補彩。⑥修理後写真撮影。⑦各工程の写真を含む修理報告書作成。なお、光背については後世に作り直されて形状のそぐわない部材が多いため、それらを除去し新たに制作して補いたいところです。しかし、その修復工程を含むとさらに多くに費用が掛かるため、今回はそこまでは目指しません。改めまして、ご支援よろしくお願いいたします。
(株)文化財マネージメントの宮本です。本プロジェクトで対象としている不動明王三尊像にも関わっていたであろう豪商・前川善兵衛家について、以前にも書き下ろしのコラムを掲載しました。前川善兵衛とふかひれスープ今回は、前川善兵衛家の信仰についてのコラムです。ご執筆は同じく、岩手県立博物館・元学芸員で三日月神社文化財調査員である佐々木勝宏さんです。下記に掲載します。十一面観音信仰佐々木勝宏不動明王の修理が完成されたら安置される御社地(おしゃち)には津波前に東梅社を開設するにあたって建てた碑がありました。上部に種字(梵字)で十一面観音をあらわすキャが刻まれていました。東梅社の中には天神、弁天、毘沙門などとともに十一面観音を祀っていたであろうこともわかります。町指定文化財となった津波被害から救出された前川善兵衛家文書のなかに、持船の明神丸の船霊(ふなたま)様の方形の包紙があります。そこには円形の種字の呪文のなかに八大龍王や烏枢沙摩(うすさま)明王や住吉三神が書かれていますが、それらは墨書である一方、頂上部のキャの種字 (=十一面観音)は朱墨で書き込まれています。大念寺の本堂向かって左側に手前から不動堂、奥に観音堂があります。この観音の祭礼は九月の前日に当たる17日と当日の18日に大きくて長い立派な幟旗が翻りました。この幟は江戸で一世風靡して着物や帯にまで流行した三井親和に揮毫を依頼して、日本橋の三井越後屋と並ぶ白木屋に染めを頼んで江戸から大槌に運んだものです。同じく町指定となった文書群の一冊の竪帳にその経緯が記されていました。前川善兵衛家の分家桝屋理兵衛が先達二名を指名して金銭を持たせて旅立たせています。幟の揮毫代、染料、木綿代など細かく記しています。四流とあるので、現存が二流なのであとの二流はどこに行ったのかわからないままでしたが、なんと鵜住居観音に奉納していたのです。大念寺観音堂と鵜住居観音堂のご本尊は十一面観音なのです。キャです。前川家の持船が安渡から出港する際は、必ず、この二カ所にお初穂(当時は神仏習合)をあげて、航海の安全などを祈願していました。観音経には航海の安全を請け負う部分がありますから、その信仰の篤さをうかがい知ることが出来ます。大槌が輩出した観流庵主の兄慈泉と観旭楼柳下窓の弟祖睛はともに十一面観音菩薩と不動明王を信仰していました。東日本大震災の津波の瓦礫の中から救出されたのは、鵜住居観音とともに不動明王もあります。慈泉と祖睛が観音信仰と不動信仰を広めたことが少しずつわかってきました。
(株)文化財マネージメントの宮本です。本日、彼岸寺に今回のクラウドファンディングについての私の寄稿が掲載されました。東日本大震災で被災した「不動明王三尊像」、10年目の修復クラウドファンディング彼岸寺は、仏教関係の情報などを発信し、また共有している「インターネット上のお寺」です。以前にも、私どもが支援しておこなった仏像修復クラウドファンディングについて取り上げていただいておりました。一般的にイメージされる仏教やお寺の印象が変わるような、様々な情報やコラムが掲載されているサイトです。ぜひこの機会に色々な記事をご覧になってくださいませ。