悲しいニュースがつづく
平和的なデモをする若者に国軍の車が突っ込み、轢き殺した事件で、若者の命がまた失われた。撮影していた人も連行されたと聞く。家族のもとに、無事に帰ってこれることを心から願う。
多くの日本人にとって、信じられない非道な行為かもしれない。上層部の指示なのか、末端の暴走なのか。同じミャンマー人同士なのに、道徳心はないのか。普通はそう考える。
久しぶりにニュースになったけれど、2月下旬以降、いつもどこかで起きている。もっともっと酷いこともたくさん起きている。目の前に目障りなデモ隊がいた。だから突っ込んだ。その程度の気持ちなんじゃないか、と正直思う。
私にはわからないこと
私もクーデター当初は、信じられなかった。良心があるなら、誰もが間違いに気付くはずだと思っていた。ある人から、「兵士の中には、誘拐され、教育をまったく受けず育ち、「打て」と「待て」しかわからないような人もいる。彼らは国軍の世界しか知らず、それ以外をすべて敵だと思っている。彼らにとってそこは食事が提供され生きられる場所。だから自分の行為が間違いだと思っていない」と聞いたとき、先進国で当たり前に教育を受け、生きてきた自分には、見えないことがたくさんあると知った。
私はミャンマーに住んでいたけれど、ミャンマー語も話せないし、歴史も知らない。ミャンマーの文化や民族問題もよくわからない。だから本当は、あまり語るべきじゃないと思っている。
クーデターの記憶
クーデター後は、買い物に出る時も、下を向いて歩いた。平和だった街にバリケードがはられ、兵士が銃を持って立っている。誰かと目が合って、万が一日本人の私が撃たれたり、連行されたりすれば、国際問題に発展してしまう。3月に入り弾圧が激しくなってからは、ほとんど外出しなかった。オンライン授業を受けながら「近くで銃声が聞こえる」と怯えるクラスメイトを見て胸が苦しくなったり、いつも買い物している場所で人が殺されたとSNSを見て驚いたりすることはあっても、私はいつも安全な場所にいた。だから、クーデターを経験したと言っても、それほど多くを知っているわけではない。
でも、コロナの中でも粛々と過ごし感染者が減り、新年を待っていた人々の暮らしが、一変したあの日。理不尽に通信を制限され、平和的なデモに武力による制裁が始まり、恐怖と怒りと悲しみと焦り、言葉にできない感情がミャンマー中に広がっていった感覚を、間違いなく知っていると思う。
日本に帰国して、強く感じた違和感を、忘れたくないのに、その記憶はどんどん失われていく。
だからいつも思い出す。
外で遊ぶ子供が銃で撃たれて死んだこと。
父親や息子が国軍に連行され、翌日、遺体が返された家族のこと。
村が焼かれ、山奥に逃げる人々。
家族を殺され、武器をもち、防衛隊になると決めた若者。
学校での学びを奪われた子供たち。
進学や留学を諦めた若者。
コロナや病気でほとんど医療も受けられず亡くなった人々。
民主主義を求めて殺された人々のこと。
ただ歩いていて殺された人々のこと。
選挙に不正があったかどうかなんて知らない。
原因は国民じゃなく政治にある。
わかるのは、2月1日のクーデター以後、多くの人の命が奪われたという事実。
その首謀者を世界中が知っているはずなのに。
(野中優那)