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貴重な戦前の近代建築の資料として 写真集「満洲国の近代建築遺産」を出版したい!

2016年から私は現在の中国東北部に残存する戦前に建てられた建築物を約400ヶ所訪れ、写真に収めてきました。この地域はかつて「満洲国」と呼ばれその成立には日本が大きく関与していた場所です。残存する往時の建築物は歴史研究の上で貴重な資料となるため、写真集としてまとめ後世に伝えていきたいと考えています。

現在の支援総額

3,145,000

157%

目標金額は2,000,000円

支援者数

258

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/08/05に募集を開始し、 258人の支援により 3,145,000円の資金を集め、 2022/09/20に募集を終了しました

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貴重な戦前の近代建築の資料として 写真集「満洲国の近代建築遺産」を出版したい!

現在の支援総額

3,145,000

157%達成

終了

目標金額2,000,000

支援者数258

このプロジェクトは、2022/08/05に募集を開始し、 258人の支援により 3,145,000円の資金を集め、 2022/09/20に募集を終了しました

2016年から私は現在の中国東北部に残存する戦前に建てられた建築物を約400ヶ所訪れ、写真に収めてきました。この地域はかつて「満洲国」と呼ばれその成立には日本が大きく関与していた場所です。残存する往時の建築物は歴史研究の上で貴重な資料となるため、写真集としてまとめ後世に伝えていきたいと考えています。

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久しぶりの投稿となります。11月上旬に稲刈り、掛け干し、脱穀の一連の作業が終了し、ようやくお米を収穫することができました。今年は九州地方は台風14号の直撃を受けて減収のところが少なくありませんでしたが、我が家の田んぼはぎりぎり持ちこたえた感じです。しかしイノシシに侵入されて一部収穫できない箇所もありました。リターンとしてお送りする約束の黒米は順次発送いたしております。1週間以内に届いていない場合はご面倒ですが連絡をいただきたいです。さて、写真集のほうですが、先日ようやくすべての編集作業が終わり、印刷所へ制作の場が移りました。出版社の編集者、制作会社の担当者と一緒に福岡市内にある印刷所を訪ね、最初の刷り見本をチェックしました。1枚の紙に、表に8枚、裏に8枚というように写真を印刷していくのです。この最初の濃度のチェックなどが重要で、いろいろと設定を変えては刷り見本を出していただきます。そしてすべての調整がOKとなってから、初めて印刷がスタートとするのです。その後は印刷所にお任せし、刷り上がったら数週間乾燥させてから(インクがまだ乾いていないので)製本に作業が移ることになります。そのため本として完成するのは今から1か月後ぐらいになる予定です。当初は11月中に完成とご案内していましたが、完成が少し遅れることどうかご了承ください。年内には皆様へ発送できたらいいなあとは思っていますが、今しばらくお待ちくださるようお願い申し上げます。あと一息です。


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今朝の朝日新聞「天声人語」で今回の私の取り組みについて紹介していただきました。記者の古谷浩一さんは論説委員の要職にある方です。写真集出版プロジェクトのことを耳にし、東京からわざわざ大分の片田舎まで足を運んでくださいました。古谷さんはこれまで北京や上海など、中国でかなりの期間を特派員として過ごされており、新聞社のなかでも中国通としてよく知られた方です。日本と中国は政治体制は異なるけど、中国の方は人間的に魅力ある人たちと感じておられたそうで、その点は私と話が合いました。長い目で見て、日本と中国はうまくやっていけるはずだし、そうならなくてはならない、という考え方も私と同じでした。ただそのためには、相手を知ることが大切です。と同時に自分(つまり日本)についても知る必要があります。戦前に日本が主導して満洲国を打ち立てたことは事実であり、それを感情論を排して歴史は歴史として受け止めていくことが大切なのだと思います。古谷さんは私の今回のプロジェクトを、建築物を通じて歴史を客観的に学ぶひとつの入り口だと捉えてくださっており、私が写真集を通じて読者に感じていただきたかったことを見事に言い当てられていることに驚きました。結局、取材から話は多岐にわたって展開して、その日はアトリエのゲストルームにお泊りいただいた次第です。そして今日、古谷さんの書いた記事を拝見したのですが、この短い文章の中に私の想いも見事に表現してくださっており、思わず感心しました。ありがとうございました。


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明日、9月18日は、中国の人にとって大きな意味を持つ日です。「無忘国恥之日」は、「国の恥を忘れることなかれ」という意味の日です。「国の恥」とは、中国大陸が日本によって侵略されたことを指します。歴史に疎い私などは、日露戦争後に遼東半島が日本に租借(つまり実質的には植民地)されたとき、つまり1905年を指すのかと思っていましたが、中国の人にとっては1931年が大きな意味を持っているようなのです。1931年9月18日、柳条湖事件が起こりました。柳条湖というのは、奉天(今の瀋陽)の北側すぐのところです。そこで鉄道の線路が何者かによって爆破されたのです。これは後になって明らかになりましたが、関東軍の仕業でした。いわゆる自作自演というやつです。日本では満州事変と呼ばれています。関東軍はアヘン患者の中国人を殺害し、その遺体を線路の脇に投げ、「中国人がやったのだ」と宣伝しました。そして日本人の保護を名目に軍隊を北上させます。当時の満洲は張学良という軍閥の支配下にありましたが、提携している国民党から抵抗するなと言われていたため、関東軍はさして大きな戦闘を経ることなく、やすやすと軍隊を進めることに成功するのです。そして満洲全域を制圧してしまいました。満洲国が建国されたのは、その翌年、1932年3月のことでした。遼東半島の租借はいわば国際機関の取り決めに従ったものですが、関東軍による満洲の制圧は軍事力に拠るものでした。中国当局がこの日を「無忘国恥之日」とするのはそういうことです。この爆破現場には現在、写真のような巨大な碑が建てられています。そして「九・一八歴史博物館」がその脇に建てられており、そこでは日本が中国に対して行ってきたことが写真やジオラマを使って説明されています。反日教育装置といってもよいかもしれません。私は何度かこの施設を見学しましたが、いつも自分が日本人であることがバレたらどうしようかと、ビクビクしていたものです。日本がこの地に兵を進めたのは事実ですが、ひとつだけ断っておきたいのは、当時は中国大陸を統一する中央政府がなく、内乱状態にあったということです。つまり国と戦って満洲を制圧したわけではなく、権力の空白部に日本がするすると入り込んだという表現のほうが正しいかと思います。歴史というのは必ず俯瞰しながら全体を見なければ本質はわからないものですが、満洲はまさにそういう混沌とした状況だったことは理解しておくべきかと思います。そういうことも含めて、日本人と中国人が素直に歴史を学び、意見交換できる日が来たらいいなあと私は思うのです。


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いま手元には、写真集に収録される予定の写真のレイアウトが上がってきていまして、その画像とキャプションの照合を進めています。この校正作業はかなりの集中力が必要で、ここをさぼってしまうと後で間違いが出てきたりして大変です。人によってはこういう作業が得意な方もおられるようですが、私は決して嫌いではないものの、「やろう」と気合を入れないとできないタイプ。「まあ、そのうちに」と、どんどん先のばしにしてしまう口です。原稿を書くのも実はそう。私が一番好きなのは、やっぱり何かにのめり込んで撮影しているときですかね。対象となる被写体を見つけ出し、あるいは向こうから現れるのを待ち、その瞬間が来たら全身全霊を傾けて撮影する。この瞬間が好きなんです。好きなことをやっているときは疲れなんてまったく感じないもの。あとで、どっと疲れがやってきますが。だから撮影しているときと、その結果をまとめているときとでは、異なったモチベーションが必要になってくるんです。今はとにかく、これらの写真や原稿が本になったときのことを想像しながら、ニヤニヤしながら作業を進めています。なんとなく素晴らしい写真集ができるような気がしてきました。皆さんのお手元に届くまで今しばらくお待ちくださいね。


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皆さんよくご存じかと思いますが、日露戦争は1904年(明治37年)に始まり、最初は劣勢だった日本ですが最終的には多大な犠牲を払いながらも勝利しました。その結果、ロシアが握っていた利権をもらい受けることになり、中国大陸の一部である遼東半島を租借することになりました。租借と言うとなんだかピンときませんが、要は占領するということです。この写真は、激戦地であった旅順の東鶏冠北堡塁というロシアの築いた堅牢な要塞にある「日本側の戦勝記念碑」ですが、その礎の部分に当時はめ込まれた石碑があります。それを読みますと、はっきり「占領」と書かれています。遼東半島には旅順の他、大連も含みます。その後、日本はここを関東州と名付けて直接統治に乗り出しました。「満洲国」というのは満州事変後の1932年(昭和7年)から敗戦の1945年(昭和20年)までのたった13年半存在したのですが、私たちが何気なく使う「満洲」というとき、実際には日露戦争に勝利して関東州が置かれてからを指しますから、日本の統治は約40年以上にも及んだわけです。旅順にはこの他、戦勝を記念した二〇三高地の記念碑や、表忠塔という戦死した日本軍兵士を祀った巨大な塔など、日露戦争にまつわる戦跡がたくさん残されています。旅順は現在も中国海軍の基地があることから、外国人旅行者の自由な訪問は制限されていましたが、最近はだいぶ緩和されて、私が訪れたときはほぼ自由に歩いて回ることができました。このコロナ禍でまた中国では旅行が大変になったと聞きますので、どうなるのでしょうかね。旅順が日本の植民地となり、日本からの定期船が大連に就航すると、日本人観光客がおおぜい関東州を訪れるようになったそうです。今でいうインバウンド需要ってやつですかね。そして旅順ではみんなこうした戦跡をまわったそうです。誇らしい気持ちでいっぱいだったと想像できます。写真集ではそうした戦跡だけではなく、旅順に設置された優秀な学生が集まったという旅順工科大学や、溥儀が新京に乗り込む前に潜伏していたヤマトホテルなどの建物も収録する予定です。