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貴重な戦前の近代建築の資料として 写真集「満洲国の近代建築遺産」を出版したい!

2016年から私は現在の中国東北部に残存する戦前に建てられた建築物を約400ヶ所訪れ、写真に収めてきました。この地域はかつて「満洲国」と呼ばれその成立には日本が大きく関与していた場所です。残存する往時の建築物は歴史研究の上で貴重な資料となるため、写真集としてまとめ後世に伝えていきたいと考えています。

現在の支援総額

3,145,000

157%

目標金額は2,000,000円

支援者数

258

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/08/05に募集を開始し、 258人の支援により 3,145,000円の資金を集め、 2022/09/20に募集を終了しました

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貴重な戦前の近代建築の資料として 写真集「満洲国の近代建築遺産」を出版したい!

現在の支援総額

3,145,000

157%達成

終了

目標金額2,000,000

支援者数258

このプロジェクトは、2022/08/05に募集を開始し、 258人の支援により 3,145,000円の資金を集め、 2022/09/20に募集を終了しました

2016年から私は現在の中国東北部に残存する戦前に建てられた建築物を約400ヶ所訪れ、写真に収めてきました。この地域はかつて「満洲国」と呼ばれその成立には日本が大きく関与していた場所です。残存する往時の建築物は歴史研究の上で貴重な資料となるため、写真集としてまとめ後世に伝えていきたいと考えています。

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ハルビンという街は、古い建物好きにはたまらない街です。いわゆる近代建築というものがそこらじゅうにゴロゴロ転がるように建っているのですから。この街は満洲国時代には日本人が主体となって統治しましたが、もともとはロシアが開発した街です。地図を見れば一目瞭然ですが、ロシア国境はすぐ近くですから、日本が満洲の覇権を押さえる前はロシアが実権を握っていましたから、そうなるのは当然の成り行きです。ヨーロッパではアールヌーヴォーという建築様式が持てはやされていました。ですから世界の趨勢に乗り遅れまいとロシアも頑張ったわけです。当時、この写真のあたりはキタイスカヤと呼ばれる通りでした。この通りが作られて100年以上がたちますが、雰囲気はほとんど変わっていないと思われます。道路は当時の石畳のままで、現在は観光のために歩行者天国となっています。このハルビンは、ロシア人だけではなく、各国のヨーロッパ人、アメリカ人、日本人、朝鮮人、そして中国人らの人種のるつぼで、各民族がわりとうまく融合していたといわれています。写真の中央のビルは日本人が商店を開くためロシアの建築家に依頼して建てたといわれています。このプロジェクトが無事に終わり、コロナ騒動も収まってまた自由に往来できるようになったら、ハルビンの街を隅から隅まで歩きながら古い建築物を心ゆくまで撮影したいなあ、というのが目下のささやかな夢です。あ、そうだ、このプロジェクトのリターンに、「写真家・船尾修と一緒にハルビンの近代建築を訪ね歩く旅ツアーへの参加」というのを加えようかなあ? そういうのあったら、皆さん参加します?


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満洲国には各宗派の寺院や神社なども多数進出しました。満洲に暮らす日本人は約200万人にものぼりましたから、彼らの精神的な安定のためにはこうした宗教をつかさどる機関は必要不可欠だったからです。首都の新京(今の長春)に東本願寺が寺院を建てたのは1937年(昭和12年)。写真を見てもわかる通り、完全な日本式の建築でした。満洲国が日本の敗戦によって消滅した後もこの東本願寺新京別院の建物はそのまま残りました。中学校の校舎などに転用されて使用されていたようです。しかし2014年、土地使用権をもつ開発業者がここにビルを建てるために突然ブルドーザーで整地を始めました。そのことに不信感を抱いた住民が当局に通報。なぜならこの建物は市が文化財として保存していたからです。驚いた市は開発業者に対して工事中止命令を出しました。許可なく工事しようとしていましたからそれは当然のことです。しかし市当局の理由が振るっています。「これは日本が中国大陸を侵略した証拠としてそのまま保存しなくてはいけないもの」というのが理由です。いずれにせよ工事はストップし、私が訪れた2016年の段階でも、建物の周囲の土地をならしただけで放置されたままでした。国や市がいくら条例で文化財として保存に努めようとしていても、何かのはずみで壊されてしまう可能性はいくらでもあります。ましてや文化財に指定されていない民間の建物などは、今後どうなってしまうのかまったくわかりません。私が焦りながら撮影を続けてきたのは、そういうことがありうるからでした。


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瀋陽駅(かつての奉天駅)から歩いて15分ぐらいのところに、満洲時代に千代田公園と呼ばれていた公園があります。今も公園として市民の憩いの場になっているところですが、その一角に巨大な塔が残存しています。給水塔です。現在は使われてはいないようで、ただ単にそこに「ある」という感じで立っていました。こうした給水塔は日本が満洲の街づくりの過程でつくったもので、駅舎の近くにときおり残存しているのを見ることができます。すぐ隣にホテルが建っていますが、その大きさがわかるかと。このぐらいの給水塔で何人ぐらいの人々の生活が賄われたのでしょうか。長春駅(かつての新京駅)からやはり歩いて10分ほどの広場にも巨大な給水塔が残されていますが、塔のデザインはまったく異なります。こういうのもやはり設計者がきちんと設計して建てたのでしょうかね? いろいろ調べてみたのですが、設計者や竣工年などはわかりませんでした。写真集が刊行されたら、ぜひ建築に詳しい人にいろいろご教示いただきたいなと思っています。


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1945年8月9日にソ連軍が満洲に侵攻し、8月15日には日本がポツダム宣言を受諾して戦争は終わったわけですが、満洲ではその後も混乱が続いていました。8月10日に首都・新京の放棄を決めた後、皇帝である溥儀は朝鮮国境に近い通化という街に滞在していましたが、8月18日未明に皇位を退位する儀式を行い、ここに満洲国が正式に崩壊したわけです。写真は、仮皇宮のなかにあった玉座。皇帝しかここに座ることは許されていません。この場所は現在、博物館として中国政府が管理していますので、入場料を支払えばだれでも見学することができます。仮皇宮内にはいくつかの建物がそのまま残存しており、それらも写真集の中では収録される予定です。その後、日本が溥儀の亡命を受け入れることになり、空路で日本を目指す途中、乗り換えの奉天の飛行場でソ連軍に逮捕されてしまいます。そしてその後はしばらくソ連で拘留されました。やがて中国共産党政府に引き渡された後は、撫順にある戦犯管理所で再教育を受け、1959年に出所。北京植物園で庭師としての職を得ました。清国の皇帝として生を受けた溥儀は、その後、清国の崩壊、そして満洲国の皇帝として再び帝位につき、ソ連による交流、中国共産党政府による再教育と、実に波乱に満ちた人生を送りました。


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現在の長春という街は、満洲国時代には「新京」と名付けられ、首都と定められました。この街には関東軍司令部の他、満洲国の官庁が置かれ、それにふさわしい開発計画が立案され、実行されました。官庁の建物はどれもが巨大で威圧感があり、独特のデザインが施されています。当時はまだ自家用車がほとんどなかったにもかかわらず、道路幅は広く、街路樹が整備されていました。一国の首都にふさわしい整然とした街づくりが行われていたのでしょう。私は取材時には基本的には徒歩でした。街の表通りやその裏道などをくまなく歩きまわりながら、これはと思う建物を古地図と照合していくため、車だと見過ごしてしまうからです。ときどき市バスも使いましたが、こちらは料金が格安で(一元。約17円)行先表示が漢字のため日本人には利用しやすかったです。あるとき、繁華街をぶらぶら歩いていました。中国というのはなんでも大きいのですが、歩道も広いのです。人口が多いためですかね。そのとき、私の目があるものに釘付けになりました。マンホールです。実はマンホールにも満洲時代のものが残存しているのです。中央部分に「M」と「I」が結合したデザインの文字があれば、それは「満鉄」を意味します。「M」は満鉄の頭文字、「I」は鉄道のレールの断面がそういう形だからです。ときどきそのようなマンホールを見かけることがありました。しかし、このとき私の目に映ったのは、「新京」という文字でした。はやる気持ちを押さえながらマンホールに近づくと、右から左へたしかに「新京」という文字が浮かび上がっていました。中央には「下」という文字。これはおそらく「下水」の意味でしょう。大収穫です。私はマンホールの近くに三脚をセットして、大きなカメラを取り付け、そのマンホールに向かって何枚もシャッターを切りました。通行人たちは「いったいこいつは何を撮っているのか?」と怪訝な顔をしながら通り過ぎていきます。だいぶ怪しい奴に思われていたに違いありません。満洲国が崩壊したとき、それは同時に日本が戦争に負けたときなのですが、中国の人たちはたぶん忌々しい日本語の看板などを破壊したに違いありません。実際、日本の神様や精神を祀ってある神社などは真っ先に放火されたり引き倒されたりしたと聞きました。そのため、現在の中国東北部を歩いても、当時の日本語はまったくと言ってよいほど残存していません。戦後70年以上、このマンホールは人々に踏まれながらも、文字を消されることなく生き続けてきたのです。