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貴重な戦前の近代建築の資料として 写真集「満洲国の近代建築遺産」を出版したい!

2016年から私は現在の中国東北部に残存する戦前に建てられた建築物を約400ヶ所訪れ、写真に収めてきました。この地域はかつて「満洲国」と呼ばれその成立には日本が大きく関与していた場所です。残存する往時の建築物は歴史研究の上で貴重な資料となるため、写真集としてまとめ後世に伝えていきたいと考えています。

現在の支援総額

3,145,000

157%

目標金額は2,000,000円

支援者数

258

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2022/08/05に募集を開始し、 258人の支援により 3,145,000円の資金を集め、 2022/09/20に募集を終了しました

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貴重な戦前の近代建築の資料として 写真集「満洲国の近代建築遺産」を出版したい!

現在の支援総額

3,145,000

157%達成

終了

目標金額2,000,000

支援者数258

このプロジェクトは、2022/08/05に募集を開始し、 258人の支援により 3,145,000円の資金を集め、 2022/09/20に募集を終了しました

2016年から私は現在の中国東北部に残存する戦前に建てられた建築物を約400ヶ所訪れ、写真に収めてきました。この地域はかつて「満洲国」と呼ばれその成立には日本が大きく関与していた場所です。残存する往時の建築物は歴史研究の上で貴重な資料となるため、写真集としてまとめ後世に伝えていきたいと考えています。

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日本の租借地であった関東州の大連にはたくさんの日本人が移り住んだこともあり、日露戦争から3年後の1907年には早くも神社が創建されました。大連神社です。旅順に関東神宮が創建されるまでは、外地に居住する日本人の心のよりどころでした。しかし1945年8月にソ連軍が満洲に侵攻し、満洲国が崩壊してからは、日本人の精神的な支えであった神社はことごとく中国人によって引き倒されました。しかしこの大連神社はしばらく無事でした。なぜなら機転を利かせた宮司がソ連の進駐軍を相手に、ここで雅楽などを見せて歓心を買うことによって破壊を免れたからです。宮司は日本への引き揚げの際に、1947年こっそりご神体とご神宝を隠し持って乗船したということです。その後、宮司は山口県下関市の赤間神宮に奉職することになったため、その境内にあった社にご神体を収めて大連神社として再興することになったのです。魂はここに生き続けるということでしょうか。大分県から車を走らせてその大連神社を参拝に行きましたが、高台の上にあり、なかなか気持ちの良い場所でした。大連にあった魂がこうして日本で再び祀られていることがなんだか不思議でした。大連にあった神社は戦後いつのまにか壊されてしまったそうです。私はその場所も探し当てて訪れたのですが、小学校になっていました。門が締まっていたため中には入れませんでしたが、門の付近に古い石段が埋もれるようにして残存していました。おそらく神社の参道だったと思われます。しかし校庭にはそれらしき残存物はありませんでした。建物にはいろいろな物語が埋め込まれているんです。写真集ができた暁には、どうぞそのような物語を想像しながら建物の写真を眺めていただけたらと思います。クラウドファンディングも残すところ1週間ほどとなりました。これまでたくさんの方々からのご支援をいただくことができ、本当に感謝しております。あと1週間、最後までがんばって発信を続けたいと思いますので、記事のシェアなどよろしくお願いいたします。


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先日、集広舎の川端さんと新聞記者の方が大分の片田舎にあるうちまでわざわざ足を運んでくださりました。今回のクラファンの取り組みに関する取材がメインだったのですが、新聞記者氏は中国での駐在が長い方で、また川端さんも福岡で中国書店を長年経営されるなど、中国に関してはふたりとも知識、経験共にすごいものがあり、見識については私などにはとうてい及ばないものがあります。その後、別府の温泉にご案内し(建物がなんと戦前に建てられたもの)、軽くいっぱいやりながら地鶏料理を楽しみました。話がおもしろすぎて尽きず、場をそのまま私のアトリエに移し、結局夜中まで中国のこと、戦争のこと、国防のことといった男連中が大好きな話題で盛り上がり、それだけではなく田舎の可能性やら、私のアフリカ経験やら、ずっと話が尽きることはありませんでした。写真は、私のアトリエ内のミニギャラリーに展示してあるアフリカの狩猟採集民ピグミーの写真パネルに見入っているおふたりです。狩猟採集民の世界観にもおふたりは興味津々の様子でした。翌日は、隣町にある「人間魚雷」を製造していた海軍基地跡をご案内しました。私はかつての満洲に残存する戦前の建築物を撮影しましたが、日本国内にもたくさんの戦前のものが残されているんですよね。その多くは戦争に関連したもの。この仕事がまとまったら、次はのんびり車中泊でもしながら日本中のそうした遺構をまわって写真を撮ってみたいなあと思っています。


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街を歩いていると、「あ、この建物は戦前に建てられたものだな」と一目でわかることも結構あります。近代建築のことをいろいろ勉強しましたから。でも、何の建物だったのかを判別するのはこれがけっこう難しい。はっきりと描かれた地図があればかなり助かりますが、地方都市などではそのような地図が存在しないか、存在してもすごく簡易なものしかなかったりします。さらに難しいのが、戦後になって改築されたり、増築されたり、塗装が変えられたりしたもの。手元に当時の資料があったとしても、何となく似ているけれども、違うともいえる、う~んということがあります。特に民間の建築などはもともとの資料自体があまり残っていなかったりして、頭を抱えることになってしまいます。帰国して、国会図書館にこもって、書籍や資料を漁ったりするのですが、やっぱりよくわからない。そういう建築物についても、わりと原型に近いようなものはできるだけ写真集に収録するつもりです。無責任なんじゃないかと、お叱りを受けるかもしれないのですが、おそらくこうした建物は数年、数十年以内に間違いなく取り壊されてしまうことでしょう。老朽化で、再開発で。だから写真だけでもとりあえず資料として残しておきたい、というのが私の考えです。写真集ができてから、どなたかがこの本を見て、「あ、この建物のことを知っている。でも著者は間違ったキャプションを付けている」と、報告していただくことを実は今から楽しみにしているんです。そしてもし再版する機会があれば、訂正後の正しい解説を加えたいなと。と同時に、その建物のことを知っているその方と、満洲とはいったい何だったのでしょうかね?と議論してみたいなあ。


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本日、9月5日付の西日本新聞の朝刊で、今回のクラウドファンディング取り組みについて大きく紹介していただきました。私がこの写真集を制作しようと思う理由は2点あります。ひとつは、表題にもありますように、戦前の日本人が関与した貴重な近代建築を写真記録という形で残したいこと。もうひとつは、満洲国と言うのは日本がその成立や運営に深く関わった国なのですが、世界史あるいは日本史の中でどのように位置づけられ、また日本が戦争へと傾いていく中で満洲国はどのようなどころだったのか、という歴史を検証するための資料になりえると考えたことです。歴史というのはただ一つあるのみではなく、立場や考え方、暮らし方によって人それぞれの歴史があるのだと思います。建築というのは、官公庁であれ、病院であれ、ビジネスであれ、学校であれ、さまざまなカテゴリーに所属する人たちがそこで仕事したり暮らしたりする場所です。ですから建築を調べることによって、人々がどのような仕事をそこでしていたのか、何を考えていたのかを類推する資料になりえると思うのです。そのような後世に残る資料になればいいなという想いで、私は撮影を続けておりました。おかげさまでいろいろな人からご支援、ご協力をいただき、目標額にかなり近づいてきました。本当に感謝、感謝です。最後まで引き続きこのプロジェクトを見守っていただきたいと思います。


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私は神戸生まれ、神戸育ちの都会もんですが、現在ではお米を作っています。東京から大分県へ移住してきたのは2001年ですから、大分暮らしはもう22年になるのですが、その最初の年からお米作りを始めました。ですからこれでもキャリアは20年以上になるわけです。私はアフリカやアジアを頻繁に訪れて、昔からの伝統的な暮らしをする人たちの撮影をしてきました。彼らの多くはいわゆる自給自足的な暮らしというやつで、自分で育てた野菜や狩猟で得た肉や魚を食べる生活です。そういう暮らしを見てきて、いずれは自分で食べるものを、特に主食であるお米をつくってみたいとずっと思っていました。さらに、日本のスーパーなどで売られている農薬まみれの野菜や添加物・保存料だらけの食品というものに違和感を感じていました。こんなものを食べていたらいつかは身体を壊し、健康を損ねてしまうと思いました。それで思い切って大分県の中山間地である田舎に移住したわけです。さっそくお米作りに携わったのは当然のことです。自分で作るからには無農薬、有機栽培しか考えられませんでした。それでそういう栽培に取り組んでおられた方を探し、一年間修行させていただきました。そして二年目から自分で水田を借りてつくり始めたのです。結論から言うと、そんなど素人の私でも、収穫することはできました。しかも驚くほどたくさん。そして、超おいしい。しかし安定した収穫があるまではやはりコツというものが必要です。そのコツをつかむのに何年もかかったことは確かです。いずれ無農薬でのコメ作りに関しては本を書こうと思っているのですが、とにもかくにも今年もまた稲の花が咲いてくれました。小さくて可憐な花は数日間だけ見られます。お米の一粒一粒に花が咲いて受粉して、そうしてお米になるのです。この瞬間を見てしまうと、お米を無駄にすることなどできません。一粒一粒が「命」であることを実感できるからです。今回のクラウドファンディングでご支援いただいた方々へは、一生懸命に育てたお米(黒米)をお礼でお送りさせていただきます。*ただし、天敵のイノシシの侵入と、台風被害がなければ、の話ですが(笑)。