発信が途絶えており、特に支援者の皆様には大変申し訳なく思っております。ともあれ、無事に全日程を終えて帰国しました。アジア圏の火山に歓迎されて……いる?さきほど(2023年4月14日午前0時過ぎ)、無事に羽田空港に到着して入国手続を終えました。今は空港内で「タクシーで帰るか、それとも始発を待つか」と迷いながら、パソコンを広げて作業しているところです。晴れ女、火山にも歓迎されたらしい私は「晴れ女」であるということにしています。少なくとも出張すると、その地域は好天に恵まれることが多いです。2019年2月、シアトルに1週間滞在していたとき、傘の必要な雨は1回しかありませんでした。雨と不安定な天気で有名なシアトルなのに。今回も、雨がちなメデジン市で私が外にいるときに雨が降ったことは2回しかなく(2023年3月26日~4月5日までの期間に2回)、ついで訪れたボストンとニューヨークでも「ピーカン」「日本晴れ」と呼びたくなる好天が続きました。いずれも、不安定な天気で知られる地域なのに。今回のコロンビア・メデジン市+米国東部の出張では、私は火山にまで歓迎されたようです。私の到着を待っていたかのように、メデジン市近郊のネバドデルルイス火山の火山活動が活発化し、数日中~数週間中の大噴火が危惧される状況となり、周辺では住民の避難が始まりました。幸い、4月5日朝のコロンビア出国まではフライトに影響するような噴火はなく、現在もまだ大噴火には至っていないようです(時事通信記事)。が、「コロンビア=火山国=太平洋岸プレートの一部」という認識は、私の中にくっきりとインプットされました。帰国しようとすると、アジア圏の火山が私を歓迎してくれたようです。カムチャッカ半島の火山爆発による火山灰の影響で、フライトが合計8時間程度遅延し、羽田空港で足止めを食っていますなう、です。タイトル写真は、雲ですなんとも禍々しい感じのタイトル写真ですが、山から突き出しているように見えるのは雲です。火山活動の何かではありません。4月3日の夕刻、たまたまメデジン市のホテルの窓から見えた風景を撮影しました。大噴火が危惧されている火山は、逆方向にあります。発信への応援を、どうぞよろしく!過去のクラウドファンディングで充分な報告が出来ていない背景には、私が皆様に資金のご支援をいただいたり発信したりすることに対する多様な圧力がありました。「面白くない」「障害者のくせに」的な社会的圧力もあれば、政治的圧力もあります。生活保護に関する歯に衣着せぬ連載を10年間(『生活保護のリアル』シリーズ1、シリーズ2)もやっていれば、そりゃ、あるに決まっています。明らかに政治的な理由のある圧力なら「このやろう! そんなものにめげてたまるか!」です。といいますか、職業上「来るに決まっている」というタイプの圧力には、ある程度の準備や対応が可能です。今回は、決して「2度あることは3度ある」にはすまい、「3度目の正直」にしようと強く決意してクラウドファンディングを開始しましたが、早くもいろいろあり過ぎ、やはり折れそうになっています。今回の「いろいろ」は、「政治的な裏はありそうだけど、個人的かつ身勝手な怨嗟が混ざっており、ご本人が私をどうしたいのか良くわからない」というタイプの圧力が多いです。私に対してグロい感情をぶつけたいということだけは良く分かるのですけどね。せっかく、博士学位を取得して「大学院生」というしんどい立場がなくなったのですから、そういう圧力から少しでも自由になりたいものです。学位を取得できたので、「博士学位の取得に2回も失敗した元大学院生」のまま終わる心配だけはなくなりましたが、だからといって何をされても平気なほどの鎧を身にまとえているわけではありません。皆様、少なくとも活動報告と報告書・報告会までこぎつけるための精神的な応援を、お願いできないでしょうか。もちろん、このクラウドファンディングに対する経済的なご支援がいただければ最もありがたいのですが、応援の一言とともにSNS等で拡散していただけるだけでも充分です。引き続き、終了と報告会まで、どうぞよろしくお願いします。
発信が途絶えてしまい、ご心配されている方もおられることと存じます。無事にメデジン滞在を終え、米国ボストンにおります。疲れ気味ですが、元気です。どうぞご心配なく。でも本日は、なるべく簡単な中間報告にとどめます。出国(2023年3月26日)まで前日の3月25日は、大学院の博士学位授与式でした。東京在住なのに京都の大学院に在学していたため、こういう時は1泊で出かけることになります。私を20歳代の時から知っている兄貴分(20歳代前半の時期にいた職場の、近くの部署の先輩)が、家族等として参加。私の指導教員に「どうも、ウチの娘がお世話になりまして。いや妹か」と挨拶してくれました。学位記を持って東京にとんぼ帰りし、出発前の一夜、東京の住まいで留守番する2匹の猫と別れを惜しみました。出国(成田空港)→メキシコシティ→メデジン成田空港からメキシコシティへ、そしてメキシコシティからメデジンへの2回のフライトのいずれにおいても、私の電動車椅子のバッテリーが行方不明になりかけました(成田でチェックインする時にも忘れられそうに←あまりにもの人員不足)。航空機に積んだのなら、少なくともその空港までは届いているはず。お手間おかけしましたが、よくよく探していただき、結果として見つかりました。メデジンのホテル(その1)に到着したのは、3月27日の午前2時過ぎでした。落ち着いた住宅地にあるホテルです。周辺散策、現地SIM調達(2023年3月27日)世界科学ジャーナリスト連盟大会(WCSJ2023)の初日ではありますが、実質的なプログラムは翌日から。というわけで、予約を必要とするプログラムに参加する予定はありませんでした。なんとかホテルの朝ごはんを食べるために起きたものの、昼まで寝倒し、時差ボケ解消のために午後は外に出て日光を浴び、近隣のスーパーを探検して若干の食材を調達。現地SIMカードを調達しました。コロンビアの旅行者向けの通信事情は極めて良好です。なにしろSIMカード(6ペソ)と追加で購入した通信容量(10日間で10GB、10ペソ)をあわせて16ペソ、日本円で1000円もしないのですから。WCSJ2023に参加(2023年3月28日~30日)実質的なパネルセッションやワークショップなどのプログラムは、5日間の会期の中3日に集中しています。車椅子にとっての交通事情には、整備されている部分と整備されていない部分が混在しており、しかも公式情報が少なく知っている人も少ないという問題がありました。2000年代の日本の地方都市にも、しばしば見られたパターンです。何ともならないわけではないのですが、何かと面倒くさくはあります。というわけで、朝イチのセッション(8時30分からの日も)には間に合わないことが多かったのですが、だいたい10時より前には会場に到着し、午前中の2番目以後のセッションと午後のセッションに参加、夜のソーシャルイベントのある日はそれも参加できたという感じです。生活保護の行財政と政治についての社会学的研究で学位取得したてほやほやの博士として、科学技術政策の財政にかかわる質問をして「それを質問してくれてありがとう!」と感謝されたり、ふだん国際人権アドボケイト活動をしているから知っている各国の事情を踏まえた質問をして「それが出てくるとは思わなかった」と(良い意味で)慌てられたり。私自身はそれなりに有意義な時間を過ごしたと思っていますし、それが科学ジャーナリズムではないわけもないと思っています。インタビューされちゃいました(2023年3月30日?)現地コロンビアの科学ジャーナリズム団体で開催に尽力されたスタッフの方々から、「ちょっといいですか?」とインタビューされ、さっそくツイッターで紹介されました。コロンビアといえばコーヒー(2023年3月31日午前中)最終日の3月31日は、WCSJ2023のプログラムの一環として企画された多様な視察見学等の中から、国立大学が行っている「平和のバリスタ」というコーヒー講座に参加しました。実質2時間程度の座学のプログラムでしたが、コーヒーという植物、人類とコーヒーのかかわり、コロンビアと各国のコーヒー産業と文化の変遷、コロンビア内戦とコーヒー生産、より好ましいコーヒーを開発するための研究開発と現実との折り合い、そして参加者が美味しいコーヒーを淹れるためのノウハウなど、ぎっしりみっちり要領よく詰め込まれており、大変有意義だったと思います。メデジン市の生活困窮者就労支援プログラムを見学(2023年3月31日午後)たいへんありがたいことに、メデジン市の生活困窮者就労支援プログラムを見学することができました。2時間足らずの滞在の間に、プログラム自体の説明や見学を通じて「目からウロコ」の連続でした。お恥ずかしい話ですが、コロンビアで「難民」という用語が使われる時、外国から保護を求めて来る「難民」と、国内の内戦から逃げてきた(まだ完全には終了していません)「難民」の2通りがあるということに、この時はじめて気づきました。ホテルを移動、2日目にして果たした図書館訪問(2023年4月1日~5日)4月1日は土曜日、コロンビアでは復活祭ウイークの始まりです。この日から、コロンビアを離れる4月5日早朝までは、市街地にあるホテル(その2)に滞在しました。道路と交通の事情に阻まれつつ行動可能な範囲を探りつつ、市街地の意外な表情(大規模書店が元気、など)と地元の人々の消費ぶりを見聞しつつ、体力回復を図りつつ、実質4日間を過ごしました。市民のための公立図書館に行こうとして、1日目は道路事情に阻まれて途中で引き返しました。滞在最終日の2日目は最初までタクシーで現地まで行ったものの帰りに大雨(ヒョウ混じり)に祟られて雨宿り。そのおかげで、地元の方々御用達の定食で夕食、地元の方々の親切のおかげで乗れるタクシーを見つけてホテルに帰るという一日でした。深夜、車椅子のタイヤのパンクに気づきましたが、もうそのまま飛ぶしかないです。ボストンへ移動、車椅子のタイヤ修理、など(2023年4月5日~7日)4月5日朝のフライトで、夜、ボストンに到着。経由便でしたが同じエアラインの便なので、車椅子の輸送はスムーズでした。このエアラインは、バッテリーは預け入れさせずキャビンに持ち込む規則(各社異なります)なので、バッテリー行方不明事件は起こりません。パンクしたタイヤを修理する、現地の知人に会う、ボストン市庁舎に行って中に入ってみる、現地SIM調達、汚れた衣服からマシなものを「選択」せずに済むように「洗濯」、図書館で現在の生活困窮者支援のようすを調べようとしたら閉館時間が早い日でいきなり閉館また明日、美術館で絵をじっくり鑑賞などなど、馴染みある先進国の大都市だからこそ出来ることの数々をしています。おうちに帰るまでが出張ですまだしばらく、この出張は続きます。自分自身の安全と健康を第一に、そのためにも車椅子を無事に帰国・帰宅させることを第二に、無理せずがんばります。メデジンで何回もタクシーやUberに乗っていたうちに、車椅子のネジが1組取れてガタの出てきたところがあったりします。走行には支障はないのですが、残っているネジがなくなってしまうと地味に不便です。いざという時のために最低限の保守工具や部品は積んであるのですが、走行にかかわらない部品は積んでないんですよね。米国ではミリネジは入手できないので、日本まで無事にもたせなきゃ。
本記事では、世界各国で精神疾患を持つ人がどう扱われているのかを駆け足で紹介します。精神疾患を持つ人の扱いには、その国の科学と人権意識の内容と程度、そしてその国の置かれてきた状況が、「隠せないホンネ」として現れやすいものです。未だに精神科病院への収容主義を止められず、25万人以上の精神科入院患者のいる日本は、世界から完璧に取り残されています。収容主義を止めたら幸せになれた国々 かつては精神障害者に対する施設収容が主流だったものの、地域生活と地域での支援が主流になってから長い時間が経過している国々は、先進諸国を中心に数多く見られます。 日本に情報が入って来やすいのは、米国・イタリア・フィンランドの3ヶ国であろうと思いますが、背景はそれぞれ異なります。 米国では、1960年前後に精神医療の専門家らから起こった施設解体への動き、医療費のコストカットを求める1960~1970年代の社会の動きなどが重なり、「病院でも施設でもなく、刑務所でもなく、地域生活を」という流れが概ね定着しました。 イタリアでは、精神科医のフランコ=バザーリアが1970年代にトリエステ市で行った「バザーリア改革」が広く知られています。多数あった精神科病院の入院病棟は閉鎖され、新規入院を認めず、病院以外に居場所がなくなっていた入院患者たちが高齢化して他界した後は入院病棟を新規に作らないようにすれば、精神疾患を持つ人の周囲にいる人々から「入院させる」という選択肢がなくなります。もちろん、他の選択肢の模索と定着が必要とされますが、既に根付き、市民社会にとって当然の存在となっています。ただしイタリアは向精神薬の使用量が多く、「閉じ込める代わりに薬でおとなしくさせているだけじゃないか」という批判もあります。 フィンランドでは、1980年代に「オープン・ダイアローグ」という試みが開始されて定着しました。フィンランドも精神科病院への収容主義が強い国でしたが、医療密度が極めて低い地域において精神疾患を持つ人が不安定な状態になった時、居住地から遠く離れた病院への入院を避ける選択肢が必要とされていました。家族や地域から切り離されてしまうと、退院後の生活が困難になります。また、収容主義を止めるのであれば地域で安心して暮らすための具体的な方法が必要でした。これらの背景から、精神疾患を持つ人本人を中心とした「開かれた対話(オープン・ダイアローグ)」が定着しました。 収容主義に走れなかった国々 「先進国」ではない国々においては、「そもそも医師が足りず、精神科医はほとんどいない」「先進国の医薬品メーカが開発している向精神薬は、高価すぎて使用を続けることが難しい」「精神疾患を持つ人のために収容施設を作るようなカネは余ってない」といった事情のあることが珍しくありません。 特に、政変や軍のクーデターなどを繰り返し経験してきた国々は、精神疾患や精神障害に特化した収容施設の政治的利用、すなわち「政治的に都合の悪い人間を精神疾患ということにして、強制的に薬で(以下略)」をはじめとする、極めておぞましい扱いの数々を経験してきました。「とにかく、収容施設は作らせちゃダメ」という認識は、多くの人々に共有されている様子があります。 「精神科医が全く足りていない」「向精神薬が買えない」「収容施設は作れない」となると、日本でいえば地域の保健所を中心として地域全体のメンタルヘルスを向上させ、その中で、精神疾患や精神障害を持つ人々にも対応できるようにするという路線が現実的ということになります。そもそも国民は政府や行政をそれほど信じていませんから、「コミュニティの中で」という方向で生存のための工夫を重ねる傾向が強く、「地域の保健所とうまく協力できればベスト」ということになります。 南米の国々は、国ごとに事情が大きく異なるため、一概に「これが南米だ」と示すことはできません。収容施設がないので「脱施設化」「地域移行」といったことを改めて考える必要がなかったというアドバンテージは、大なり小なり共通しています。まずは死なない死なせないために、食糧とエネルギーと医療 2019年冬以来のコロナ禍、そして2022年以来のウクライナ情勢は、もともと課題のあった国々の状況をより困難にしました。メンタルヘルスの悪化もさることながら、誰も飢えず渇かず凍えないようにすることが喫緊の課題である国々も数多い現状。 今回、コロンビアで開催されるWCSJ2023は、比較的近い南米やアフリカからの参加者が多そうです。そして、その方々から生々しい現実を聴く機会がありそうです。 現地からのレポートにご期待ください。
被告席の数学屋2023年3月16日、名古屋高裁で傍聴した公判のことを、前回に引き続いてもう一度書きます。この裁判は、2013年に行われた生活扶助基準(生活保護費の生活費分)引き下げの撤回を求める訴訟です(いのちのとりで裁判)。全国の生活保護受給者約1000人を原告として、全国の地裁に約30件の訴訟が提起され、2023年3月までに14件の地裁判決が示されています(うち5件は原告勝訴)。大阪高裁と名古屋高裁では、控訴審が行われています。私が傍聴したのは、名古屋高裁での控訴審でした。被告側証人として出廷したのは、2013年1月当時の厚生労働省、社会・援護局保護課の課長補佐・N氏でした。2人いる課長補佐の1人だったN氏は、数理・統計に専門性を発揮しており、2013年1月に公表されて同年8月から実施された生活扶助基準引き下げにつながる計算を実際に行いましたが、その計算には多数のデタラメが含まれていました。といいますか、自民党の「10%引き下げ」という方針に合わせる形で計算方式を組み合わせてパラメータをいじったようであるということは、その後1年間ほどで明らかにされました。明らかにするための調査をリードした白井康彦氏(フリーライター、元・中日新聞社)は、「物価偽装」「統計偽装」としています(Amazon 白井氏著書ページ)。引き下げはこの後も繰り返され、生活保護を利用して暮らしている人々の暮らしぶりは年々苦しくなっていくばかりです。ともあれ、この日の尋問は「行政の中で政策決定に携わった数学屋が、被告として責任を問われる」という、日本においては画期的かつ歴史的な出来事でした。「やりやがったな!」10時に開廷され、被告側証人尋問が始まったときの私の脳内には、「やりやがったな!」という文字列がチラチラしていました。当然のツッコミどころを突っ込まれて苦しい応答を繰り返すN氏を見ていると「今日、ポケットに腐った生卵が入っていないなんて」と思ったりしましたが、腐った生卵なんて用意できないんですよね。腐る前に食べちゃうし。というか、肢体不自由の私が投げても届きません。本当に用意して投げちゃったら傍聴を続けられなくなるから、やはりダメです。N氏が学んだ大学院には、顔見知りの数学者が何人かいます。N氏と同時に在学していたはずの人、教員としてN氏に接していたはずの人……。中には、私に暗黒面を見せたことのある人もいます。一瞬ですが「その暗黒面がN氏に現れているのかな? そうだったら、ザマア」と思ってしまったことを、正直に白状します。「つらいなあ」30分ほど経過すると、私の脳内から「やりやがったな!」が消え、「つらいなあ」に変わってきました。N氏は大学院修士課程で数学を学んで厚生労働省に入省し、数理・統計の専門家として、専門性を期待される業務の数々を経験してきました。その大学院では、日本トップレベルの専門的教育と徹底した研究倫理教育を受けているはずです。修士課程での研究のテーマはフーリエ変換。私の修士論文のテーマはフーリエ変換ホログラムの応用。因縁かも。そもそも、数学はデータや計算のごまかしというタイプの研究不正が起こりにくい分野です。研究不正が皆無というわけではないのですが、理学の中では最も研究不正が起こりにくいと言えるのではないかと思います。ということは、大学学部と大学院修士課程で、「学生実験のレポートや卒業研究や修士課程での研究で、近辺の学生や院生が何か不正をやらかしたりやらかしかけたりして、見つかって叱責されたり単位取れなかったり退学させられたり」という場面を見る機会が少なかったということかもしれません。そんなことを考えつつ、傍聴を続けました。その日の法廷での被告側弁護人からのツッコミは、内容的には「研究不正をやらかした院生や若手研究者に対し、教授陣が退学や解雇を視野に入れて審問する」という場面に似ていました。論文で同じことをしたのであれば、一発でレッドカードとなっても文句は言えません。でも、N氏は研究者ではないので、研究者の倫理が適用されるわけではありません。N氏は当時、厚生労働省の保護課の課長補佐でした。現在も、他の省庁の管理職です。当然、行政官としての倫理は適用されるでしょう。それは、研究者や専門家の倫理そのものではありません。数学という科学を学んできた専門家としての倫理と、行政官としての倫理では、後者が優先されることになるでしょう。自民党の意向を汲まざるを得なかった厚生労働省の局長から「こういう方針で」と示されたら、逆らうわけにはいかないのが課長補佐の立場です。厚生労働省の課長補佐は、国家公務員として一定の身分を保障されています。政策や上司の方針に従っている限りは、組織の中で生きていけるはず。でも、専門家として守られているわけではありません。そういう役割を果たせるのは、まずは労働組合です。しかし労働組合は、一般的には管理職をメンバーにしません(官公庁の課長「補佐」は管理職ではないはずですが、職場の労組に入れるのかどうかは存じません。すみません)。職場に、他に統計・数理の専門家がいてピアチェックできたというわけでもありません。N氏の当時の立ち位置は、よく言えば「伸び伸びと独自性を発揮できる」、悪く言えば「孤立無援で放置されていた」というものでした。厚生労働省の多様な制度には、しばしば「制度の谷間」、すなわち、どの制度にもカバーされない救われない領域があると言われます。その日、名古屋高裁でN氏を見ていると、まるでN氏の立場とN氏自身が「組織の谷間」に落ちているようでした。大学院に進学する人々の多くは、研究者になれるわけではありません。修士課程や博士過程を修了した後、大学等ではなく官公庁や自治体や私企業等に就職することは、むしろ奨励されています。世の中の現実の中で理工系のバックグラウンドを活かして妥当かつ合理的な政策や施策に反映する公務員の仕事は、本来ならば、極めて魅力的なキャリアであるはずです。私は、N氏の出身大学院で会ったことのある院生(当時)たち、その指導にあたっていた教員たちの姿を思い浮かべました。数学という分野での鍛錬を経て、知識とスキルと人間的能力を磨いた上で国家公務員となる人々が、学生実験でも許されないような計算上の操作を問題にされて被告席でこんなふうにツッコまれるということでは、あまりにも救いがありません。N氏に担当者としての一定の責任があることは事実なのですが、N氏が責任を果たすことをサポートする組織体制にはなっていません。ほんの1回2回ですが楽しい時間を共にした数学専攻の院生たちが、希望と志をもって官公庁に就職すると、そのうち若干名は、15年後や25年後に被告席でこんな尋問をされる成り行きになるのでしょうか? 「それは堪らない」という思いがこみ上げてきました。そもそも、2013年に生活保護基準を引き下げないでほしかったのですが、当時の課長補佐であったN氏は、その決定を行う立場にはありません。責任者は当時の厚生労働大臣です。でも、目の前の被告側証人はN氏です。つらいなあ。「このままじゃダメだ」大学院での専門性の高い学びが社会に還元されるためには、何が必要なのでしょうか? 生活保護基準は、他の約60の制度に波及する極めて重要な参照基準です。2~3人の統計・数理の専門家が担当者として常に関わる体制にし、データや計算は途中経過を含めて誰でも見られることが本来の姿ではないでしょうか? でも、今のこの政治状況では、とても実現可能性のない妄想です。しかも現在、国家公務員の幹部人事は、2014年に設置された内閣人事局に握られています。若い方々の官公庁でのこれからのキャリアが魅力的なものであり、人物も能力も優れた人々がこぞって官公庁を志すようでなければ、お先真っ暗です。そのために何が可能なのでしょうか? 見当がつきません。このままではダメだということは間違いありません。では、どうやって?何をどう変えれば、たとえば「生活保護基準を決定する」という超重要な業務に統計・数理など理科系の専門性を生かした官僚として関わることが、若い方々にとって将来にわたって魅力的な選択肢の1つになるのでしょうか? 今のところ、見当もつきません。が、科学者が政策決定や政治に関わり、結果に対して責任を問われ、場合によっては法廷で被告席に立つこと自体は、世界的には既に当たり前です。世界各国には、そのためのヒントがたくさんあるはず。というわけで、今回の私のWCSJ2023への参加に直接のご支援、または関心を持ってくださいそうな方々への情報提供で、どうぞご支援を!
2023年3月16日、名古屋高裁で歴史的な法廷を傍聴しました。写真は名古屋高裁です。歴史的だったのは、2013年の生活保護基準引き下げにあたって計算の責任者だった厚生労働省官僚(当時)が、被告側証人として、当時の状況や計算内容についての原告側からの証人尋問に応じたことです。その官僚は、厚生労働省の数少ない数理専門官です。大学院修士課程で数学を研究した後、厚生労働省に入省しています(修士課程での研究内容は、私自身の修士課程での研究と一部重なりがあります。ウズウズ)。数学者をはじめとする科学者が法廷に立つことは、先進諸国では珍しくありません。科学者たちが行政や政治に深く関わっていますから、問題があれば責任を問われるのは当然です。今回のクラウドファンディングの目的、WCSJ2023が開催されるコロンビアにおいても、事情は同じです。しかし日本はこの面について、南米やアフリカの国々の多くと比較しても、立ち遅れが目立ちます。既得権益との闘いや、変化を拒む社会との折り合いは、どこの国でも課題であるはず。日本は、やれば出来るのでしょうか? やる気スイッチをONにするには、どうすれば良いのでしょうか? 世界の科学や科学ジャーナリズムの祭典で当然のように話題になる、極めてナマナマしい「科学者の社会に対する責任」の多様な在り方やハードルの超え方を、しっかり学んでこなきゃ。というわけで、引き続きの応援をお願いします。