皆さん、こんにちは。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。当クラウドファンディングも残すところ、4日! がんばります。24日(金)15時過ぎ、西川寿美礼さんとの第7回Facebookライブを行いました。今回は趣向を変えて、スペシャルゲストを迎えて3人でのライブ。ゲストでお呼びしたのは名前の専門家「Let's meimei.」活動をされているmeimei.ちゃんこと西森千珠さん。西森さんは、西川さんと同じく当社主催朝会「みんなのHome Room」の常連さんです。親が子どもの名前を考え名付けする。つまり命名には人生最初のストーリーがあります。そこで名前の専門家であるmeimei.ちゃんに登場してもらったわけです。それぞれの名前にまつわるストーリーを披露。meimei.ちゃんからは、名付けの場面で多い名付けにまつわるストーリー。西川さんからは名前の「すみれ」が人生に与えている影響、「学びの芽育」の由来など。私は当社サービス総称「広報人倶楽部」にも使っている「広報人」、そして社名の「AGENCY ONE」の由来を語りました。昨日の活動報告(5月26日)でも触れた、社名の意味とは何か。企業理念の副題「調和による安心な社会を創る主体たれ」はまさしく社名の由来です。アマルティア・センさんの著書を読み、そこから着想しています。彼はインドの経済学者であり、ノーベル経済学賞も受賞。著書『人間の安全保障』(集英社新書、2006年刊)の中で、エージェンシーの別の意味として「主体」と説明していました。広報とはさまざまな関係に対し調和をもたらすもの。そして調和が安心を生み出す。ということで語呂合わせで「和」と「安」で「わん=ONE」となったわけです。調和を生み出すためには主体として動くことが欠かせない。それで「AGENCY ONE」です。広報PR業界では近年、「PRパーソン」という呼び方をよく聞きます。カタカナや横文字よりも日本語が当社の方針(?)。そこで相棒のじんちゃん(大久保 仁)がそのまま日本語にして「広報人」としました。この言葉をどんな場面でも掲げていこう! という提案があり、7、8年前から好んで使っています。ただ、ライブで述べたとおり、いずれ社名は「広報人」に変えます。事業内容が分かりやすい方がいいですから。過去6回のアーカイブは以下より視聴できます。・第1回:4月12日配信・第2回:4月19日配信・第3回:4月26日配信・第4回:5月 3日配信・第5回:5月10日配信・第6回:5月17日配信次回のFacebookライブ(第8回=最終回!)は今週の金曜日。クラファン最終日31日(金)15時過ぎより40分前後の予定で開催します。西川さんのFacebookのタイムラインで流れます。ぜひリアルタイムで、あるいはアーカイブでご視聴ください。
皆さん、おはようございます。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。昨日の活動報告(5月25日)に続き、前半はRMCA(日本リスクマネジャー&コンサルタント協会)での歩みを振り返ります。■存続を脅かす危機に直面RMCAでは多くの仲間に恵まれ、今も付き合いが続いている人も少なくありません。直接的なビジネスの取引ではなく、「リスクマネジメント」という共通項で年齢、業種、職種の異なる人たちが集っていました。彼らとの交流は実に刺激に満ちていました。現在のRMCA役員構成(事務局長以外はボランティアで参画)ただ、2006年8月の起業を前後して、リスクマネジメントの探求を深めつつも本業の広報業により注力できるよう動きます。事務局スタッフとしてパートを入れ、さらにはパートではなく専任スタッフを2007年4月に雇用し、事務局が2人体制となります。2009年1月に理事兼事務局長、2011年副理事長、2013年理事長に就任し、現在に至ります。振り返るとRMCAでも何度か存続を脅かす危機に直面します。運営方針を巡り、創業者との対立から(私の)解任動議。和解するも結局分裂(創業者離脱)し、その後現れた新たな企業から支援を受けるも、最終的にNPO単体として独立。昨年12月に何とか設立30周年をシンポジウム開催で飾ることができました。■企業理念 〜それは「企業の人格」リスクマネジメントの奥深さに魅せられることで、広報・PR(パブリック・リレーションズ)の本質が見えてきた頃、今も二人三脚で歩む大久保仁(相棒のじんちゃん)と合流します。じんちゃんとのことは拙著の「おわりに」で詳細をつづっています。当クラウドファンディングの本文でも触れています。企業理念は名刺の裏にも記載拙著や本文でも触れていないことがあります。当社の企業理念はじんちゃんとの最初の協同作業から生まれました。会社には、経営には理念が不可欠であることはじんちゃんから教わりました。理念を定める過程で、真摯に真正面から「広報=パブリック・リレーションズ」と向き合います。向き合ったからこそ生まれた企業理念が「それは『企業の人格』」なのです。副題としての「調和による安心な社会を創る主体たれ」は会社名を決める際、社名「AGENCY ONE」に込めたメッセージです。広報こそが私の生きる道である、と心底覚悟を決めたのも、じんちゃんとの対話があったからです。意味のない固定観念、過去の囚われから解放されました。活動報告を毎日続けるなか、改めて原点回帰できる機会が与えられました。クラファンも残り5日、最後まで諦めず挑戦します。
皆さん、こんにちは。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。きょうの活動報告で「2度目の起業を機に『広報』と向き合う」は完結させたいところですが、明日までかかりそうです。2回目の起業は、一昨日の活動報告(5月23日)でも述べたとおり、2006年8月のことです。実はその約2年前、2004年4月にRMCAの事務局長に就任します。RMCA(日本リスクマネジャー&コンサルタント協会)とは(何度も当活動報告で登場していますが)リスクマネジメントの専門人材を育成する団体です。当時はまだ任意団体で日本リスクコンサルタント協会の名称でした。当社ロゴ1997年に入社したPR会社は映画制作のトラブルが原因で退職。業務委託の立場での関わりに変わっていました。映画のトラブルを前後して、元広告代理店の営業部長を務めた経験のある人が社長になっていました。彼の配慮のおかげで、業務委託として残ることができたのです。そのことは今でも感謝しています。しかし、その後、起業するまでの間、彼とともに会社を3社渡り歩くことになります。自己破産できずにいた時期でしたし、自己破産後、免責されなければ、会社の代表にはなれないからです。ただ、会社は変わっていますが、もちろん主要業務は広報、パブリシティです。パブリシティには自信もありましたし、何よりこの仕事が好きでしたので、その間、変わってはいません。そんな中、PR会社での最初の上司(入社当時、取締役/実質的な責任者)から声が掛かり、RMCAの事務局長に就任。PR会社(渡り鳥の2社目)の役員と兼務する生活が始まりました。RMCAで働く魅力は他社の広報ではなく、自らが所属する組織の広報に携われることです。PR会社はどこまでいっても他社のPRを請け負うのが仕事です。弱小団体だったがゆえに事務局長が1人で全ての業務を担います。その重要な実務の一つが広報です。会報誌は広報誌そのもの。会報誌の制作は広報ど真ん中の業務です。大企業のリスクマネジメントに対する取り組みを取材したり、セミナーリポートを書いたりしながら、毎月発行しました。熱心な会員たちの力を借りながら就任後、精力的に動きました。10周年記念シンポジウム開催(2004年10月)、NPO法人化(2005年9月)、NPO設立記念シンポジウム開催(2006年2月)と二足の草鞋ながら、着実に歩みを進めたのです。リスクマネジメントに出合うことで、広報と根底でつながる概念を学び、今に続く思考、理論の土台を形づくっていた時期でもありました。明日に続きます。
皆さん、こんばんは。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。当クラウドファンディングも残すところあと1週間です。改めて個別にお声掛けさせていただきますね。きょうの活動報告はきのうの続き。ちなみに詳細には触れていませんが、今から約1年前、渋谷クロスFMのラジオ番組「#ロスファウ LOST&FOUND」(2023年5月7日放送)でも「ロスト話」としてちょっとだけ披露しています。以下ご視聴ください。きのう触れた「裁判」について、もう少しだけ詳しく述べます。映画制作会社といっても劇場用映画の企画を主導する立場であり、スポンサー的な立場(要は映画制作費用をかき集める)でした。プロデューサーや制作会社は割と有名(特に制作会社は)。この制作会社が曲者で、資金不足の事実を知りながら積極的(強引?)に制作を進めていました。にもかかわらず、ある段階から自分たちが束ねる事業者たち(美術、映像、小道具、キャスティングなどなど)にお金が払えない状況を全てこちらの責任と言い始める始末。そして、これら事業者をそれこそ束ねて未払いに関する裁判を起こしたのです。さらに、です。裁判の前に映画の資金を調達できると豪語する人物が現れます。自分の子飼いの部下らしき人物を私の会社の共同代表として就任させ、絡んできます。彼らは会社ごと乗っ取りを計画しているのでは、と思う振る舞いも多々見受けられる。味方のようでいて、敵のような立場で暗躍。そして、制作会社も手のひらを返し、訴えてくる。一連の騒動をどこからか聞いたのか、ゴシップ雑誌(都市伝説雑誌に近いかも?)『噂の真相』が22時過ぎに自宅を訪ねてくる。私が不在で妻が機転を効かしつつ毅然と追い払う。家族や友人に多大な迷惑をかけながら生きていた日々でした。1億円を超える借金を抱えたまま会社が倒産するまでの間、他人事のような感覚で、ある面自分自身が置かれた立場を俯瞰しつつ「借金を抱えて自殺する社長たちの気持ちが今なら分かるな」と思ったことを鮮明に覚えています。自己破産するまでの間、ある時、映画監督に同行し、「事件屋」といわれる人物に会ったこともありました。訪ねた事務所は渋谷にある雑居ビルの一室。映画監督が電話か何かで席を外した際、「君が関わってはいけない業界だ。この件からは一切手を引いた方がいい、もがくのはやめて自己破産したらいい」と謎の助言(笑)もされました。タイトルにある「向き合う」の話に全然入りませんね。書きながら当時を思い出し、ついつい長くなりました。きょうの活動報告はここまでです。
皆さん、こんばんは。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。私が広報・PR業界に飛び込んだのは1997年4月。クライアントがデジタル領域専門のPR会社に知人の紹介で入社。つまり、この4月から広報・PR歴28年目に入りました。現在の株式会社AGENCY ONEを1人で起業したのが2006年8月。まもなく18年を迎えます。実は入社から起業までの間に、映画制作会社を起業しています。今の会社は2度目の起業なんです。もともと私を先述のPR会社に紹介したくれた人が映画監督でして、その縁からPR会社の上司に承認を得て、今でいう副業として立ち上げました。さまざまな事情が重なり、私が代表として立ったのです。当時のPR会社での仕事(パブリシティ)は、とにかく毎日がおもしろくて仕方ありませんでした。全てが新鮮、新しい知識を得られ、スキルが着実に磨かれ、身に付いていることも実感できる日々。ただ、PR会社に入社する以前、地に足がついていない大風呂敷を広げたような活動に従事していた影響もあったのか、何か大きなことを成し遂げてみたい、という思いが残っていたのだと思います。「映画制作」の言葉に魅せられ、映画監督がいるから大丈夫だろうという甘えも加わり、無謀な挑戦を始めたのです。当たり前のことですが、PR会社の仕事に一切支障が出ないようにして、映画制作の仕事にも奔走する日々を送ることになります。かつて経験のない重圧やストレスを抱え、権謀術数渦巻くビジネスに翻弄され、最後はあえなく撃沈。裁判も起こされ、負けるし、1億円を超える借財を抱え、返せるあてなどなく、最後は会社は倒産。破産手続きを依頼していた弁護士事務所担当者が病で倒れる。約2年近く宙ぶらりん、塩漬けのような生活が続きます。住まいも横浜市青葉区に引っ越しせざるを得なくなる。ようやく自己破産の手続きを終え、免責されたのが2006年春。そこで前回の反省を踏まえ、覚悟を決めて2回目の起業。今の会社を立ち上げたのです。ここから本気で「広報」に向き合う日々が始まったのでした。