皆さん、おはようございます。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。今からちょうど1カ月前の4月8日、伊豆新聞の3面「伊豆総合版」に拙著の記事が掲載されました。活動報告していなかったことに気付き、今さらですが報告しますね。伊豆新聞とは伊豆半島全域を対象とする地方紙。創業75年の歴史ある株式会社伊豆新聞本社が発行、現在の名称になってからでも60年を超えています。伊豆を4地域に分けていて、総発行部数は4万超。伊豆新聞(下田・賀茂版)は11,510部。半数以上の世帯で読まれているのでは、と思うほど、伊豆新聞に掲載されると、下田市や賀茂郡の人たちにすぐ知られます。今回掲載にできたのは、安藤広和さんのおかげでです。現在、南伊豆町の町議会議員。下賀茂熱帯植物園の支配人としても地元で活躍しています。私と安藤さんとの出会いは今から4年前。安藤さんが推進するプロジェクトの詳細を私のコラムにつづっています。以下でご確認ください。#5 特別編 桜をシンボルとした復興の語り部(1)#6 特別編 桜をシンボルとした復興の語り部(2)下田市の記者クラブに投函する方法もありましたが、安藤さんは伊豆新聞とは長い期間にわたり、信頼関係を築き、たびたび報道されてきた実績があります。1面を飾ったことは両手で足りないかもしれません。著者である私の手元には書店やAmazonより早く書籍が届きました。1月下旬か2月上旬、伊豆下田に帰省。久しぶりに会食した際に、安藤さんに拙著を直接手渡し。忙しい中、伊豆新聞の記者を継続的にフォローしてくれました。そのおかげで4月5日、電話取材。その後、ショートメッセージでやり取りをした後、再度前日の7日に電話でいくつか確認事項があり、8日の掲載となったわけです。中学時代の同級生が掲載記事の部分を撮影して、メッセンジャーで送ってくれたり、中高の親友がわが事のように喜んで電話してきてくれたりしました。母もたいそう喜んでくれました。相当迷惑をかけたし、心配もさせてきたので、ほんの少し親孝行できたかもしれません。
皆さん、おはようございます。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。きのうは沼津で高校のプチ同窓会。28人が集まり、旧交を温めました。企画した同級生(当クラウドファンディング応援者)の配慮で開会の乾杯のあいさつをおおせつかり、クラファンのことも宣伝させてもらいました。ありがとうございます。昨日の活動報告(5月5日)では、西川寿美礼さんが受けた「個別オンライン相談」の感想を紹介。同じ第4回のFacebookライブでは私自身のストーリー(舞台裏)にも触れたのです。4月26日の段階で、次週のFacebookライブをどんな内容にするのかを西川さんと決め、まず、われわれ自身が自らのストーリーを語ろう、ということに。そこで過去の記憶を思い起こすために、一つ一つのエピソードを書き出して事前に整理。その内容を今回は転載しますね。――――――――――――――――――――――――――小さい頃、今の姿(身長183cm、体重86kg)からは想像できないほど身体が弱く、運動神経も鈍かった。確か小学校1、2年生の時の通信簿。体育の成績は5段階で「2」。小学4年生までは毎年高熱を出して、1週間前後学校を休んでいた。近所の広場で一つ下の従妹と競走。ちょっとぶつかり足がもつれて私一人が転んで、膝をケガしたりした。◆4年連続の徒競走クラス最下位からリレー選手へ小学校の運動会。一つの見せ場が徒競走。当時、同程度の足の速さの生徒たちが5人1組となって、競う。(同じクラスの中だったのか、学年全体だったのかは記憶はあいまいだが)私は1年生の時、最も足の遅いグループで最下位、「ビリ」だった。2年生も3年生も同じ結果。4年生では汚名返上とばかりに気合いを入れて走った。確か4位くらいで後半を迎え、「やった! ビリから脱出だ」と思い、勢いよく前のめりにゴールした。つもりだった。だが、そこはまだゴールではなく、一区切り前のラインだった。こうして4年連続「ビリ」という悔しい結果となった。◆毎日「ルームランナー」で走り続ける私の足の遅さを両親が憂いてか、その頃「ルームランナー」というランニング器具が家に届いた。ジムにあるようなマシンではなく、床に置いた器具の上で腿上げを繰り返すだけ。確か時間が計測できるタイプだったと記憶している。父の提案で毎日10~20分程度、「ルームランナー」で走ることにした。夕食後、全身が映る大きな窓の前で黙々と走り続けた。成長期と重なっただけかもしれない。あるいは交通事故の後遺症みたいなものから脱却できたのかもしれない。約1年続けた結果、なんと5年生の時は運動会でクラスのリレー選手に選ばれたのだ。◆6歳の時、交通事故で右大腿骨を複雑骨折実は幼稚園(6歳)の時、家の目の前の狭い道路で交通事故に遭った。両親が開業医で自宅の1階が診療所、2、3階が自宅だった。私は幼稚園から帰宅し、外に遊びに出かけるため、2階にある住宅の玄関から階段を降りて、そのまま一直線に道路に飛び出た。すると、右手方向から自動車がこちらに向かって走ってくるのが見えた。国道136号線から職業安定所に向かう狭い路地を入って2軒目が診療所兼自宅だった。おそらくそのまま走り抜ければ何事も起こらなかったと思う。何を思ったのか、私は車に驚き慌てて階段方向に引き返そうとした。身体を捻り、戻ろうとした瞬間、転んでしまったのだ。私は運動神経がすこぶる悪い。従妹と走っても、足がもつれて転ぶくらいの鈍さだ。左膝を曲げた状態で前のめり(膝を抱え込むような姿勢)で転んだ。右足は後方に伸ばした状態だった。右足が左前輪にひかれ、そのまま7m引き摺られた。子どもの悲鳴と急ブレーキに驚いた父が診療所から駆け出て、車の下敷きになっていた私を抱き上げてくれた。父は息子の右の太腿が不自然に曲がり揺れているのをみて、「これは骨折している」と声を漏らした。◆遠方の横浜で長期の入院生活故郷の伊豆下田とその近辺には大病院はない。近所にあった割と設備の整った外科病院に運ばれたが、複雑骨折のため、医師は手術を断念。応急措置にとどめ、翌日父の運転する車で、横浜にある子ども専門病院へと向かい、結局4~5カ月ほど入院した。リハビリも大変だった。右膝は真っ直ぐ伸ばすことができないし、段差の低い所に腰掛けた状態から立ち上がることができなかった。右足に思うように力が入らないからだ。退院後もしばらく自宅でリハビリを続けていたことを鮮明に覚えている。おそらくその後遺症のようなものもあり、両足を交互にバランスよく蹴り上げることができなかったのかもしれない。それがルームランナーを毎日続けることで改善され、結果としてリレー選手の道が開けたかもしれない。◆腕立て伏せもできない非力リレー選手になった5年生のころ、もう一つ発覚したことがある。筋力が弱いということだ。腕立て伏せがまともにできなかった。これまた一つ下の従妹が確か10回前後、年子の兄はもっとできた。これも確か父か母の提案だった。床ギリギリまで下げなくてもいいから、少しでも肘を曲げれば、1回とカウントし、とにかく1日1回ずつ腕立て伏せの回数を増やしていくことにした。これもひたすら黙々と続けた。確か小学校6年生の時、100回まで到達した。すると次は胸を床面すれすれのところまでしっかりと下げた正式な腕立て伏せ30回に挑戦することとなった。30回できるようになったら、次は1回でも多くできるように毎日挑戦した。これは中学3年間、ほぼ毎日続け、3年生の頃には300回できるようになっていた。高校に入ると柔道部に入った。腕立て伏せの延長線で、部活終了後、体育館1階の筋トレルームに一人で向かい、ベンチプレスに挑戦した。部活がある日は欠かさず毎日続けた。高校2年生の冬、確か2月の始め頃、110kgを挙げられるまでになっていた。同級生はもちろんのこと、当時の3年生にも100kgを挙げられる人はいなかったので、学校で1番だった。―――――――――――――――――――――――――――次回のFacebookライブ(第5回)は5月10日(金)15時過ぎより40分前後の予定で開催します。西川さんのFacebookのタイムラインで流れます。ぜひリアルタイムで、あるいはアーカイブでご視聴ください。
皆さん、おはようございます。きょうも快晴(下田から沼津に向かっています)! 気持ちがいいゴールデンウィークが過ごせますね。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。ゴールデンウィーク後半戦の初日である3日(金)11時過ぎ。西川寿美礼さんとの4回目のFacebookライブを行いました。内容は・「オンライン相談」(広報コンサルティング)感想・私の過去のエピソード(「舞台裏」=ストーリー)実は前日(2日)に一足先に「荒木に個別オンライン相談」をリターンとして提供しました。お相手は西川さんです。西川さんは「学びの芽育」が4年目に入り、直近の成果やこれからの新しい取り組みをプレスリリースすることを考えていました。約半年間、私が西川さんに指導される立場が毎週続いていたので、立場が入れ替わったわけです。西川さんがオンライン相談を受けて感じたことをFacebookでつづっていました。その表現が何気に心に刺さり、そこで語られていることが、当社主催の朝会「みんなのHome Room」のコンセプトが間違っていなかったことを証明している、そんな思いを抱いたのでここで紹介しますね(以下の括弧内)。「今、一番感じているのは、サービスを購入・利用するときにはそこには必ず『人』『歴史(物語)』があるということ。それを前提とした『安心』があるということみんなのホームルームや日々のやり取りで積み重ねてきた『人』との関係性と、その人と紡いできた歴史(物語)が信頼関係をつくり、安心につながる。それらが最善のかたちで織りなしているから、今回の個別相談でも等身大で相談できたのだと感じました」。「みんなのHome Room」参加メンバーの皆さんからの「個別オンライン相談」、待っていますね。また、当日のアーカイブもぜひご視聴してみてください。私自身の「舞台裏」として、ほのぼのエピソードに触れることができます。学びの芽育誕生月(3周年)&私の誕生月企画【みんなのホームルーム番外編ー担任の先生呼び出しちゃった♪ー】(5月3日)過去3回のアーカイブは以下より視聴できます。・第1回:4月12日配信・第2回:4月19日配信・第3回:4月26日配信次回のFacebookライブ(第5回)は5月10日(金)15時過ぎより40分前後の予定で開催します。西川さんのFacebookのタイムラインで流れます。ぜひリアルタイムで、あるいはアーカイブでご視聴ください。(これから沼津で高校のプチ同窓会に参加です。高校の同級生たちもクラファンで応援してくれています。ありがとうございます。)
皆さん、こんばんは。夜分にすみません。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。・教育サービス「寺子屋広報人」・教育サービス「寺子屋広報人」その2「本来の広報を当たり前にする」ために人材育成は欠かせません。現在、「寺子屋広報人」は、eラーニング講座として入門編17講座(約5時間)を無償で公開しています。初級編70講座(約15時間)は月額22,000円のモニター価格での募集も始めました。今夏には中級編(70~80講座)も始まる予定です。実は教育サービスを主軸にはしていませんでしたが、起業して間もない頃から手掛けてはいたのです。「本来の広報とは何か」を探究し続け、体系化することに努めていました。一度目は2008年、全国の中小不動産経営者を対象に15時間(5時間×3回)の講座を開きました。二度目は2016年、大阪の中小・ベンチャー企業経営者を対象に約20時間(5時間×4回)の講座。そして、三度目は2019年、中堅企業の広報部スタッフが対象です。こちらも20時間(2時間×10回)。ただ、内容は2016年と重複している部分がありながらも、基礎知識や理論だけでなく、実務に関する講座も盛り込み、かなり拡充しています。スキル向上につながる内容です。この三度目の内容をもとに(記憶が定かではありませんが)2019年夏以降、eラーニング講座の開発に着手。初級講座と中級講座に分類。各講座とも理論・基礎知識編と実務編で構成し、全部で245講座(約34時間)あります。資金の関係もあり、デザインは全く凝っていません。レジュメはモノクロのパワーポイントで作成しています。音声は私がスタジオにこもり、スライド1ページごとに録音。これを全ページ分繰り返します。そして、スライドを全て画像にして音声に合わせて編集しただけのものです。編集は外注しないで、相棒のじんちゃん(当社スタッフ・大久保仁)が担当。彼は器用でITリテラシーも高いので一人でやり切りました。コロナ禍に入る頃、完成しました。「寺子屋広報人」は多少構成を変えているものの、講座テキスト(レジュメ)は同じくモノクロです。「寺子屋広報人」入門編ただ、今回は受講者が気楽に楽しく学べるように、私が寺子屋の「先生」となり、架空の生徒「じんちゃん」を教えていく、掛け合いのコンテンツとして構成。「じんちゃん」の声もボイスチェンジャーで変えています。受講生たちは「じんちゃん」が教わっている様子を、第三者目線で視聴しながら(時に笑いながら)学ぶことができます。このたび、「寺子屋広報人」を当クラウドファンディングの新しいリターンとして追加します。来週には公開する予定です。初級編70講座を3カ月間、学び放題でオンラインのワークショップ講座も提供します。学生の皆さん、広報担当になってまもない人たち、起業家などに選んでほしいと思っています。
皆さん、こんばんは。温かいメッセージやご支援に心から感謝しています。ありがとうございます。一昨日(5月1日)の活動報告からの続きです。中小・中堅企業やスタートアップは大企業と違います。毎月何本もプレスリリースを発信できません。しかも大企業以外はほぼ広報担当者がいません。そんな企業たちは新しい顧客獲得、採用のため、つまりマーケティングのための情報以外はほとんど発信していません。認知を獲得するための情報だけしか発信していません。ブランディングのため、つまり選ばれるための情報を発信していません。社内報や広報誌(顧客向け情報誌)など、広報媒体(総称してニュースレター)も作っていません。個人に任せきりの属人的なコミュニケーションに終始しています。企業にとって大切なステークホルダーたちに何の情報も発信できていないのが実情でした。ですからクライアントに対して、当社から積極的に社内報、顧客体験(導入事例)などを提案する機会を増やしていたのです。ファクトブック(報道関係者向け基礎資料)も提案しました。すると、クライアントの経営陣の中でその大切さ、経営全体に対する影響を理解した会社はすぐに採用してくれました。相棒のじんちゃん(大久保仁)だけでなく、いつしか当社の名刺を持って動いてくれるスタッフたち数人とチームを組んで対応。多い時でクライアントは同時期に20社へと増大。業績は企業規模からして、決して悪くありませんでした。ただ、ビジョンと照らし合わせたとき、重大な課題が明らかにもなったのです。では課題とは何か。ざっと挙げてみます。・労働集約型(役務提供)のビジネスモデルのため、対応できるクライアント数に限りがある。・当社に関わる(専門能力が高い)スタッフにも限りがある。・クライアント企業の予算にも限りがあるため、広報全般に取り組めない。・クライアント企業に広報人材が育たない。「本来の広報を当たり前にする」にはほど遠い現実に向き合わざるを得ませんでした。そこで確か2017年の夏頃だったと記憶しています。「ビジョンを本気で実現するためのビジネスモデルへと事業の柱を変革する」。じんちゃんとそう決断し、変革に着手し始めました。そこから広報・ブランディングの内製化を支援する「広報人倶楽部」(現在提供しているサービス)、さらに「寺子屋広報人」へとつながるのです。