【増上寺「光摂殿」大広間会場出展者 15】 楚里 勇己 SORI Yuki 【略歴】 1985 愛知県出身 2010 東京芸術大学美術学部絵画科日本画 卒業 現在、千葉流山市のアトリエで作家活動中 【個展】 2012、2013 「caramada」(Living roomレストランバー / 東京) 2013 オークウッドレジデンス青山(東京) jill`d`art(愛知) ギャラリーファンタジア(栃木) レクサス星ヶ丘ショールーム(愛知) 2014 伊藤忠商事アートスクエア(東京)※予定 【グループ展】 2010、2011、2012 「ARTS in Geidai x Romanian ARTS展」(椿山荘 / 東京) 2011 「NIHONGA-ZERO」(レストランアイ / 東京) 「NIHONGA-ZERO関東」(Hidari Gingaro / 東京) 「流展」(柿傳ギャラリー / 東京) 2012 銀座三越ギャラリー(東京) きてみん奥三河(愛知)※旅館展示 「SHAMROCK flower shop二人展」(広島) 「縁」(西武渋谷店 / 東京) 「でらArt@aoyama」(ギャラリーショアウッド / 東京) 「ART NAGOYA」(ウェスティン名古屋 / 愛知) 2013 「羅針盤セレクション」(羅針盤 / 東京) 「ART FOR THOUGHT 山本真衣二人展」レストランバー(東京) 「9colors」(西武渋谷店 / 東京) 「でらArt@aoyama」(ギャラリーショアウッド / 東京) 「who by art」(西武渋谷店 / 東京) 「流展」(柿傳ギャラリー / 東京) 「ART NAGOYA」(ウェスティン名古屋 / 愛知) ステートメント 画家として生きる人間は、世間一般からすれば、遠い存在になっている。 画家が今までに世間とは一線をかくし、一般の人間にはわからない、精神性、生と死、性などについて作品をつくってきたからではないだろうか。 一般の人間にはわからない=一部のコレクターやごく限られたひとが理解でき、所有できる。こうした考えは、作品に純粋に作品としての価値以上のものを与え、高貴で贅沢なものであるという固定観念を作り上げてしまった。 社会とのコンタクトをやめ、美術という世界、内輪な世界だけで作品は売買され扱われてきた。社会の流行、何が求められているかなどは美術の世界では関係のないものであった。 しかし近年、この不景気な時代、また震災を経験した今。 作家は生きていく事、そして今自分たちが属する社会が何を求めているかを考えなくてはいけない。今まで自分たちだけで作ってきた世界は今の日常の社会とはかけ離れてしまったものとなっている。 一般の人と美術の距離は離れ過ぎ、進歩した印刷技術や、インターネット、画像加工により本物の価値、またプロ、アマの境目も曖昧になっている。 そのような中で自分はどのような作品を描く事ができるか、描く必要があるか。 日常は多くの物があふれデザインされたものがある。多くの人が共感を得るものとして``花``がある。花柄のワンピース、鞄、ファブリック、なかでも北欧のデザインは色使いが日本人好みでありながらも今までの和柄とは違う。そのような花柄のファブリックをパネルに張り込み飾る女性もいる。 そこまでしなくとも、美術作品よりも花柄の何かの方が所有している人は多いのは事実だ。 言い換えれば、美術作品にくらべ、花柄は日常であり鑑賞者に近い存在だ。 そのような花柄を日本画の材料で表現することはできないだろうか。 花を描くことで、美術に興味のなかった人も興味をもってもらう事ができるのではないか。 それこそが、現在の作品にいたる観点であり、社会とのコンタクトをとる方法である。 遠目は印刷にも見れる柄のような花、しかし近くで見る事により典具帖紙を張られた金、銀箔がみられ筆で描かれた事が理解できる。一見印刷でいいような作品だが筆の動き、癖のある花のかたちなどをとることにより花の中での動きを作る。既成のデザインでは生みだせない、従来の日本画の良さ、一点ものの価値を探っている。 一方で、日常に寄り添うデザインの利点を作品に生かし、和、洋の混合した住宅に考慮し、また額縁により正面からしか作品の鑑賞ができないようにするのではなく、何かをしながらでも作品が成立するように側面まで絵を描いている。 確かにデザインと呼ばれるものに近づくことに批判もある。しかし今の時代、美術より日常にあふれている事は事実だ。デザインの良さを日本画に取り入れていく。 これは鑑賞者、所有者を満足させることにつながる。社会との関わりを持つ事はこちら側から鑑賞者に歩み寄ることであると自分は考える。 そして、それこそが画家として生きていくことで大切な姿勢である。 作品画像キャプション 「アカイハナ」




