宮古島で築50年経つ老舗の古民家ゲストハウスのリノベーション計画

宮古島で築50年の老舗の古民家ゲストハウスが、設備の老朽化で存族の危機に直面しています。水道配管のリニューアルや、観光客のトレンドに合わせたバス、トイレ付きの個室へのリノベーションをして、古き良きゲストハウスを存続していきたい。

現在の支援総額

1,190,000

79%

目標金額は1,500,000円

支援者数

54

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2024/11/01に募集を開始し、 54人の支援により 1,190,000円の資金を集め、 2025/01/15に募集を終了しました

宮古島で築50年経つ老舗の古民家ゲストハウスのリノベーション計画

現在の支援総額

1,190,000

79%達成

終了

目標金額1,500,000

支援者数54

このプロジェクトは、2024/11/01に募集を開始し、 54人の支援により 1,190,000円の資金を集め、 2025/01/15に募集を終了しました

宮古島で築50年の老舗の古民家ゲストハウスが、設備の老朽化で存族の危機に直面しています。水道配管のリニューアルや、観光客のトレンドに合わせたバス、トイレ付きの個室へのリノベーションをして、古き良きゲストハウスを存続していきたい。

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また日が空いてしまった!なかなか終わらないゲストハウス宮古島ヒストリー、2005~2006年ころから宮古島ではまだほとんど見なかったインバウンド(当時はこの言葉すらなかった)のお客さんを呼ぶために色々やってみた。まだスマホどころかネットでの検索もまだ普及してなかった時代、海外旅行の定番はこの「Ronely planet guide」という日本でいうところの「地球の歩き方」の世界版のような分厚い雑誌一つで世界中の人たちは海外旅行をしていた、今も持ってくる人いますが。この雑誌に掲載されたら一気に旅行者が殺到する絶大な威力!これに載せるためにうちではおなじみ、英語教師のティムさんに手伝ってもらい投稿をしてもらった。するとやはり、宮古島には全然いなかった外国人がちらほら来出し、うちにも止まってもらうことが多くなりました!他の宿泊施設はというと、ゲストハウスどころかリゾートホテルでもまだつたない英語のインフォメーションしか出来ておらず、このころから独学でかなり勉強し、少しは英語をしゃべれるようになったおかげで外国人観光客からはいい評判が付きはじめました!インバウンドを意識したのはこのころからではなく、実は宮古島に移住するずーっと前からの事。遡る事1992年、27歳にして初の海外旅行を世界一周という無謀な旅に出ました!当時働いていたスキー学校のイントラ仲間ともう一人は彼の友人でなんと、出発当日まであったことがないやつでした!旅行後は燃え尽きたの如く、サッパリ音信不通になってしまったけど元気にしてるかな~映っている外人さんはオージーのJoon、故郷のデンマークにシベリア鉄道乗って帰るところで出会い、デンマークでは彼の家に泊めてもらった!世界一周と言ってもメインはヨーロッパ各国巡り、どうせ行くならと乗り鉄魂炸裂でシベリア鉄道、極東のウラジオストック~モスクワを7泊8日で結ぶ特急に乗ってヨーロッパまで行きました!ロシア(前の年までソ連だった!)のウラジオストックまでも、当時起横浜港から出ていた客船「ロシア号」というのに乗り3泊4日の船旅。モスクワから北欧にわたりドイツ~オーストリー~イタリア~トルコ~フランス~イギリス、そして大陸を渡りアメリカと4か月間バックパックで旅をした!一応旅行経路を載せてみた!ま~この話しだすと超長くなるのでまたの機会にということですが、この度で出会ったのは各国のユースホステルや安宿で出会ったいろんな国から来た旅行者たち。当時はほとんど英語もしゃべれなかったが、何とかコミュニケーションを取り、一緒に飲みに行ったり、あちこち回ったり・・・見ての通り、デジカメもなくアナログな写真、電子メールもなく手紙でやり取りするい時代。もう彼らに会う手段もないですがこういった出会いが多くある宿泊施設をやりたいな~と心の中に小さく芽生えた体験でした。だいぶ脱線してしまった、きょうはここまで~!ご支援、シェアを引き続きよろしくで~す!


ゲストハウス宮古島を始めて3年目の2004年、ずっと賃貸だった宿の建物をを買い取ることしました。開業当初は商売をやっていける根拠もなく、ダメなら大阪に戻ればいいわ~ぐらいに考えて気楽に始めたのですが・・・3年やってそこそこお客さん来るし、商売のやり方も少しずつ覚えてきたので本腰を入れて始めることにした。賃貸だった物件は大幅に改装する事は出来なかったので、購入してからはかなり大掛かりなリフォームを毎年繰り返しました。現在も当時リフォームした内装のままの客室やバスルーム。雑な造りのまま。もう20年経ったのか・・・といっても建築の仕事なんか一切したことないし、今みたいに検索してすぐにやり方を探せる時代でもない。島の建築の仕事してる友人に色々聞きながら内装にブロック積み、配管に左官、もう何でもやった!やっていくうちに上手になっていくもので、最初はめちゃ下手くそな工事だったのも繰り返しやってるうちに上手くなるものですね。前年に台風でエライことになったからとにかく外装はコンクリートとアルミサッシを使う事だけは絶対に決めてました。その後も2003年ほどではないが、宮古島はさすが「台風銀座」と呼ばれているだけあって、大きい台風は毎年のようにやって来てその度自然の脅威を思い知らされてます。いつも「台風さえなきゃいい島なのにな~」と思いながら暮らしてました。ちょうどこのころからカイトボードも本格的に始め、いまも事業の一つである「カイトボードショップ エムエアー」はこのころに立ち上げました。懐かしい道具やな~宿はというと相変わらず連日の宴会!このころから名物のスタッフやゲスト、長期滞在者などが多くいて毎日飽きることなく事件が起こり続けてました(笑)懐かしい顔ぶれがいっぱい!このまま宮古島に居ついた人も多数でした。今日はここまで~クラウドファウンデーション終了まであと一か月余り・・・まだまだ皆様のご支援お待ちしています、シェアもよろしくです!!


こんにちは、しゅうさんです。開業して2年が経ち、お客さんもそこそこに来てこれから本格的にやっていこうかと考えていた2003の9月、忘れもしない大事件が・・・9/10~12の2昼夜、宮古島を暴風域に巻き込んだ台風第14号(マエミー)平成15年台風第14号 - Wikipedia勢力は915hpaに発達した超大型で猛烈な台風は宮古島近海で速度を緩め、丸々2日間宮古島を暴風雨に巻き込み、最大瞬間風速は74.1ⅿにも達した!9/10の夕方頃に停電が始まりゲストハウスでは5日間停電が続いた。被害の大きい地域では2週間復旧しなかったところもある・・・最盛期に近づくにつれて暴風が建物に吹き付け、窓を覆っていた木製の雨戸はほとんど吹っ飛び、風で窓が破られるのも時間の問題かと思った・・・しかもちょうどシルバーウィークで宿は満室、たくさんのお客さんと停電でろうそくの灯りだけの真っ暗なゲストハウスの中でおびえながら酒盛りをしていました(笑)台風が去った後の被害状況の記事を見ると本当に威力はすごくて、実際多くの家屋や、頑丈なガラスを入れているホテルの窓が破壊され、最強に強い2重ガラスで覆われた宮古空港の管制塔の窓ガラスさえも吹き飛ばされた!台風が過ぎた13日の朝から周りの様子を見に外出するも行く場所行く場所で目にする光景は、この世の物とは思えない破壊されつくした街の景色・・・建物の屋根は飛ばされ、街路樹どころかものすごい本数の電柱までもが根こそぎ倒壊、西平安名崎の風車も5本倒れ、車はおもちゃの様にあちこちに飛ばされて散乱、木の上にひっ掛かっている車まであった・・・港では係留中どころか上架された船までぐちゃぐちゃに倒れ、沈没し地獄絵図そのものです。もちろんゲストハウスも被害が多大にあり、離れの駐車小屋の間口に扉を作ってスタッフルームとして寝泊まりしていた部屋の扉は飛ばされ、中はドロドロに水没!母屋も窓のサッシの隙間からものすごい量の雨水が浸水し大変なことになりました。車もワゴン車が冠水してどこが道路で畑か見境が付かない場所で溝に突っ込み故障するしもう大変・・・自分は阪神淡路大震災の時にちょうど神戸に住んでたのですが、その時の大被害に次ぐ衝撃です!しかし人生で2回も大災害に合うか~このあとちょっとこの島に住んでいく自信がなくなりました。毎年来る台風、「台風銀座」と呼ばれている宮古島は強い勢力の物も珍しくないし。この台風が去ってしばらくの間はへこみながら後片付けをしました・・・まあ何が一番ショックだったかというと、この年、台風が去った2日後の9/15、我が阪神タイガースが18年ぶりの優勝を決めたのに停電で胴上げの瞬間が見れなかった事かなww次回、借りていた家を買い取り、ついに本格的にリノベーション開始!ヒストリーはまだまだ続く・・・


こんにちは、しゅうさんです。2001年8月にゲストハウス宮古島を開業後は、夏場はチラシ配りと宿一覧に無料で掲載してくれる沖縄の情報誌「沖縄離島情報」に掲載してもらうなどして、ちょうどNHKの連続ドラマ「ちゅらさん」で沖縄ブームが到来した時期だったのでそこそこお客さんが来ました。沖縄離島情報 今も販売されている沖縄旅行のバイブルです!みんなこれを片手に沖縄中を旅をした。開業してからというものの連日ヘルパーやお客さんと海遊びに行き・・・夜はみんなで宴会!いや~若かった!!しかし冬が近づくにつれてどんどんお客さんは減っていき、年が明けるころには全く来なくなりました・・・そうなんです、宮古島に限らず沖縄の観光は冬をどう凌ぐかが問題!多くのリゾートホテルなどもやはりお客さんが減るので値段を下げて売り出し、少ない観光客はお得感のあるいいホテルに泊まるのでその分うちのような安宿は全然お客さんが来なくなります。なので冬場は若干の長期滞在客にお部屋を貸し、自分はこの頃もずーっと続けていたスキー学校のインストラクターの仕事をしに冬の3ヶ月雪山に籠る2重生活です。北近畿や信州のスキー場に冬場は滞在。もっぱら修学旅行生や小中学生の団体スキーレッスンに明け暮れてました。その間ゲストハウスはというと・・・うちの母親が京都からやって来て宿の女将として仕切ってました!若かりし頃のオカン、90歳になった今も元気ですよ~そんなこんなで1~2年目も終え3回目の夏、大事件が・・・続きはまた次回に~!


2001年7月に約2週間の帰阪後、大阪の京橋のマンションを引き払い再び宮古へ!引っ越し荷物は大阪のカーオークションで購入したデリカワゴンと軽トラックに目いっぱい詰め込んで、あとは同居していたKくんに任せて、車を大阪南港へ2往復してフェリーに積んだ。宿泊営業許可証が交付されたのは2001年8月13日すなわちこの日が営業開始日です。と言っても、そもそも自営業もしたこのがなかったのでどうやってお客さんを呼ぶか・・・まずはプリンターでつたないチラシを作り、わずかな知り合いのレンタカー屋さんや飲食店などに置いてもらう。当時はインターネットもまだまだ普及していない時代、登録できる旅行サイトもなく、広告料が高額な紙媒体の旅行誌のが主体でした。仕方がないのでこの時代に那覇から週に3回やってくる旅客船(飛龍)が平良港に到着する朝4:15分にタラップの下でお客さんを待ちチラシ配り!まだ薄暗い明け方に、船のタラップの下に看板立てて営業!このチラシ作戦が案外功を奏して、もらってすぐに来てくれる人や、あとから電話して予約する人など割とお客さんが呼べた!フェリーで来る旅人(おきなわ中を旅行して回るバックパッカーなど)とリーズナブルな価格のゲストハウスの相性が良かったのでしょう。当時は家を借りたままの間取りで大した設備もなく営業開始したので価格も1泊2000円(素泊まり)と安くで提供。ちなみに開業当初の間取りはこんな感じ畳の和室ばっかりです。そんなこんなで一年目が始まったのでした。開業おめでと~(後ろにはオカンが・・・)


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