京都大学教授・細見和之さんより応援メッセージをいただきました。細身教授は『永山則夫 ある表現者の使命』(2010年、河出書房)の著者でいらっしゃいます。命の大切さを分からせるために、殺人犯は死刑に処するという、訳の分からない理屈がまかり通るなか、永山則夫の生涯の記録を風化させないことがいま問われています。永山の詩、小説、批評に触れてきた者として、そのことをふたたび強く実感しています。(細見和之)細見和之京都大学教授。1962年兵庫県丹波篠山市生まれ、同市在住。大阪文学学校長。


現在の支援総額
2,526,500円
目標金額は2,500,000円
支援者数
129人
募集終了まで残り
終了
このプロジェクトは、2025/10/04に募集を開始し、 129人の支援により 2,526,500円の資金を集め、 2025/12/22に募集を終了しました
京都大学教授・細見和之さんより応援メッセージをいただきました。細身教授は『永山則夫 ある表現者の使命』(2010年、河出書房)の著者でいらっしゃいます。命の大切さを分からせるために、殺人犯は死刑に処するという、訳の分からない理屈がまかり通るなか、永山則夫の生涯の記録を風化させないことがいま問われています。永山の詩、小説、批評に触れてきた者として、そのことをふたたび強く実感しています。(細見和之)細見和之京都大学教授。1962年兵庫県丹波篠山市生まれ、同市在住。大阪文学学校長。
梨の木舎・代表の羽田ゆみ子さんより応援メッセージをもらいました!戦後の農村で貧しかったけれど、母や祖母の愛情に守られ育った私は、ほぼ育児放棄さらに親の虐待のなかで幼少期を過ごした永山則夫さんに衝撃をうけました。監獄の中で学び、生き続けることによってこの社会のゆがみを伝えようとした永山さんを抹殺した有無を言わせぬ国家暴力。彼の遺品を伝えることによって、理不尽な暴力に抗していく人たちに連なりたいと思います。(羽田ゆみ子)羽田ゆみ子1947年 長野県布施村生まれ。1983年 出版社「梨の木舎」設立2019年 東京・水道橋にて「あめにてぃcafe梨の木舎」併設2020年『永山則夫入門』/ 2025年10月『永山則夫の再審請求』冊子を発売*写真は『永山則夫の再審請求』と最新刊
月刊ミニコミ新聞「お好み書き」記者・門田耕作さんより応援メッセージをもらいました!近年、「死刑になりたかった」といって見ず知らずの人を殺める人がいる。4件の殺人 事件を起こした永山則夫は著書「無知の涙」(1971年、合同出版)の中で、「死刑 というものがなかったら、後の二件は阻止できたのではなかったろうか!」と述懐して いる。勝手な言い分と思う人もいるだろうが、要は「死刑」という刑罰の存在のなんと 罪深いことか。獄中で自分が無知であったことを思い知り、「私はもっと世界を知りた い、否、歴史を知りたい。すべてを知って死んで逝けるのであるなら、それは素敵な一 人生だと思うな」とも綴り、自らを「亜人」と称した永山の希望はついえたが、彼がや っと、「連続射殺魔」から人間の端くれにたどり着いた軌跡を、アーカイブとして残し ておく価値は決して小さくない。(門田耕作)門田耕作(もんだ こうさく)1957年兵庫県生まれで、大阪大学卒。朝日新聞在職中の1990年3月、在阪の若手新聞記 者らと月刊ミニコミ新聞「お好み書き」創刊。以来、休刊なしは「ほめてあげたい」が 、1号先は闇が実態。「小さなミニ」を発信し続け、「たくさんのミニ」を守り続けたい。*写真について永山則夫を知るイベントを報じた「お好み書き」2020年11月号(左)。「社会的養護」を欠いた死刑判決が今日的課題になっていることが示された。右は、入管収容事情をよんだ詩集発刊を取り上げた「お好み書き」最新号(2025年12月)
特定非営利活動法人市民ひろばなら小草・理事長の田村隆幸さんより応援メッセージをもらいました!奈良の夜間中学が生まれるころ、草の根の市民運動に力がありました。夜間中学運動も その一つでしたが、タカノマサオさんはさらに「作ろう俺たち劣等生の学校を!永山則 夫施設夜間中学」と声を挙げたほど、永山則夫という一人の人間の尊厳が貧困や社会の 波によって踏みにじられました。 今も形も見え方も変えて、さまざまなしんどさを抱えた人が、すぐ近くにいるのかもし れません。 そういう意味で草の根の市民の遺産として永山則夫アーカイブズの保存と彼の人生の研 究は、非常に意義深いと思います。(田村隆幸)田村隆幸1960年奈良県生まれ。 公立中学校の社会科教員として38年間勤務。2001年から夜間中学で勤務する中で、中 国残留邦人の家族との出会いから、地域の外国人子育てコミュニティーづくり、子ども の貧困問題に関わって無料の学習塾をはじめ、現在はこれらの活動に加えて奈良市歌姫 町に無料フリースクール、通信制高校のサポート校、生きづらさを抱えた成人の居場所 や学び場を併設した「小草学園」を運営するNPO法人の活動をする。 不登校形式卒業などの問題は夜間中学で出合い、永山則夫さんと夜間中学のつながりを 知る。
作家の吉岡忍さんより応援メッセージをいただきました!===ある日、知り合いの編集者から電話があった。ノートに書いた原稿があるのだが、印刷所に入れるため、原稿用紙に書き写さなければならない、そのアルバイトをやらないか、というのだった。1970年の秋である。私は反戦運動に明け暮れたあげくの、落ちこぼれ大学生。わけもわからず、神田神保町の古いビルにあった出版社を訪ねた。そこで手にしたのが、のちに『無知の涙』(合同出版刊)として刊行された永山則夫の自筆ノート10冊だった。にぎやかで、騒々しい時代だった。ベトナム戦争、全共闘、アンポ闘争、3億円事件、大阪万博、ハイジャック事件、そして、何より高度経済成長のまっさかりである。日本は世界第2の経済大国、国民の9割が自分は中流だと思っていた。都会は高層のオフィスビルやホテルやマンションが続々建って上へ上へと延びる一方、地上ではミニスカート、ジーンズ、Tシャツ、ハンバーガーショップが流行って、どんどん軽くなっていく。そんな世の中の景色に慣れ親しんだ目に、永山則夫が書きつけた文字群はクサビのように突き刺さってきた。貧困、家庭崩壊、集団就職で上京してからの転職と孤立と焦燥。私が書き写したのはノート2冊分程度だが、1行書くたびに、この景色の裏側にあるものをしっかり凝視しろ、といわれているような気がして、何度も鉛筆を放りだした(このとき同じ作業をした一人に、のちに『三国志』『論語』の翻訳と解釈で活躍した中国古典文学者、故・井波律子がいた。私のとなりで、彼女もくり返しため息をついていた)。永山は4人を射殺した事件の弁明はいっさいしていなかった。犯行を悔い、なぜこんな事件を起こす人間になってしまったのかを必死で自問し、膨大な本を読んで学び、「私が自己を完全に理解する」ことをめざした。自分を客観的に分析しようとする苦しい自問自答から、「(この事件は)私が在っての事件だ。私がなければ事件は無い、事件が在る故に私が在る。私はなければならないのである」という認識に達した。しかし、「なければならない私」がどんな家庭と家族関係のなかで生まれ育ったのか、その折々に何があり、「私」は何を感じ、思い、考えてきたのかについては、ノートからは十分に伝わってこなかった。永山がそれらを書き綴ったのはさらに10数年後、みずからの幼少年期を描いた小説『木橋』でだった(この小説が新日本文学会の文学賞を受賞したとき、私は同会文芸誌編集委員の末席にいた)。『無知の涙』で自分を客観視しようとした彼は、『木橋』にいたって主観に立ちもどり、無垢な主体を獲得した。思えば、彼が一連の事件を起こしたのは、私が私であって、私でないような浮き足立った時代だった。彼ばかりか、世の中全部がそんな雰囲気に染まっていた。そして、その気配はいまも濃厚に立ちこめている。いま、この日本という捉えどころのない、しかし、どうにも窮屈な世の中は永山事件のころにはじまっていたのだ。永山則夫のすべての記録は、だからこそだいじだ、と私は思う。別段、彼のためではない。私たちが歩んできた軌跡をふり返り、いま足踏みしている現実の意味を考えるための、それは最良のテキストであり、なまなましい宝物だからである。(吉岡忍)===吉岡忍作家。1948年、長野県生まれ。早稲田大学在学中にベトナム反戦運動に参加。ノンフィクション『墜落の夏』(講談社ノンフィクション賞)『日本人ごっこ』『鏡の国のクーデター』『M/世界の、憂鬱な先端』、小説『月のナイフ』などの著作のほか、テレビ番組でアフガン戦争や阪神・淡路、東日本等の災害を報道。第17代日本ペンクラブ会長。