日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。 現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

1,180,500

16%

目標金額は7,000,000円

支援者数

35

募集終了まで残り

50

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

1,180,500

16%達成

あと 50

目標金額7,000,000

支援者数35

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。 現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

【オランダで語られるティティア・ベルフスマ④】ティティア・ベルフスマを描いた肖像には、いくつか共通する特徴があります。多くの場合、彼女は左向きに描かれています。また、日傘を持ち、耳飾り、髪飾り、西洋風のドレス、赤い珊瑚の首飾りを身につけています。これらは、日本人画家たちが考えた「西洋女性らしさ」の象徴だったのでしょう。一方で、とても興味深いことに、ティティアの目は多くの作品で日本画的なアーモンド形に描かれています。ここで筆者がいう『アーモンド形』とは、日本画によく見られる様式化された人物表現を指していると考えられます。切れ長の両端が細く中央が少しふくらんでいるような目をアーモンド形(almond-shaped eyes)と表現したのでしょう。 つまり、画家たちは西洋女性を写実的にそのまま描いたというよりも、日本の絵画表現の中で「異国」を描こうとしていたのです。幼いヨハネスも、子どもというより小さな大人のように描かれることがあります。ここにも、当時の日本絵画における人物表現の特徴が見て取れます。 ティティアは結局、1817年12月に日本を去ることになります。滞在はわずか三か月ほどでした。しかし、その姿は忘れられることがありませんでした。川原慶賀や石崎融思らが描いたティティア像は、その後何度も模写され、小さな絵画、磁器、土産物などにも写されていきました。二百年を経た今もなお、ティティアの姿は日本の肖像文化の中に残っています。 今回紹介したオランダの論文は、ティティアを「日本で大きな印象を残した最初の西洋女性」として描いています。 ただ、私自身はブロムホフ家族図を見るとき、ティティアだけでなく、ブロムホフ、乳母ペトロネラ、幼いヨハネス、そしてジャワ人召使マラティを含めた、より大きな物語を感じます。そこに描かれているのは、一人の西洋女性の珍しさだけではありません。 鎖国下の日本が、出島という小さな窓を通して初めて見た「世界」の姿です。そしてまた、日本人がその異国を、自らの絵画表現の中に取り込み、理解しようとした痕跡でもあります。 11月からハウステンボス美術館で開催される「OTEMAE ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」展では、こうした日蘭交流の物語も、ぜひ感じていただければと思っています。


【オランダで語られるティティア・ベルフスマ②】出島に滞在したティティア・ベルフスマは、まもなく長崎の絵師たちの関心を集める存在となりました。当時の長崎には、異国の人々や風俗を記録する絵師たちがいました。出島のオランダ人、唐人屋敷の中国人、珍しい器物や風俗などを描き留めることは、彼らの大切な役割でもありました。 その中で、ティティアほど人々の好奇心を誘った人物はいなかったのかもしれません。なぜなら、長崎の人々は自由に出島へ入ることができず、自分の目で彼女を見ることができなかったからです。 だからこそ、彼女の肖像には大きな需要が生まれました。川原慶賀や石崎融思をはじめ、多くの日本人画家がティティアを描きました。画家たちは彼女をさまざまな姿で描き、多くの場合、夫ブロムホフ、幼いヨハネス、乳母ペトロネラ、召使マラティらとともに表現しました。 興味深いのは、日本人画家たちがティティア個人を描こうとしただけではなく、彼女を通して「オランダらしさ」そのものを描こうとしていた点です。 たとえば、ティティアがピアノを弾き、夫ブロムホフがパイプをくゆらせ、ペトロネラが幼いヨハネスの世話をし、ジャワ人の召使が飲み物を運ぶ場面があります。これは単なる家族の肖像ではありません。当時の日本人にとって未知であった「西洋の暮らし」を、絵画として見える形にしたものだったのでしょう。 一方で、これらの作品には日本絵画らしい特徴も見られます。背景や室内空間はあまり細かく描かれず、奥行きも強調されません。その結果、見る人の視線は自然と人物へ向かいます。異国の服を着たティティア、乳母、幼子、召使。それぞれの姿が、当時の日本人にとっていかに珍しく、驚きに満ちたものであったかが伝わってきます。 私は、ここに日本人の「異国を見る眼差し」と同時に、「異国を日本の絵画様式の中で理解しようとする試み」を感じます。また、江戸時代の日本絵画には、背景や室内空間を簡略化し、人物や物語を主役として表現する様式的な特徴があります。しかし、出島やオランダ商館を描いた作品については、それだけでなく、幕府による情報管理のもとで、「描いてよいもの」と「描きすぎてはならないもの」が存在した可能性も考えられます。特にブロムホフ家族図のような作品では、画家が空間を描けなかったのではなく、人物像を中心に据え、背景をあえて抑制したと見ることもできるでしょう。そのことは、川原慶賀が描いた風俗図や植物図を見れば明らかです。写真は慶賀が描いた日本狼です。慶賀は動植物の細部や衣服の質感、建築や風俗までも驚くほど緻密に描き分ける卓越した描写力を備えていました。その類まれな筆致を知れば、ブロムホフ家族図の背景が簡略なのは、作品の目的や当時の社会的・政治的背景を踏まえた意図的な表現であった可能性をも考えたくなります。(つづく)


【予告】誰もが入れる場所ではありません!現在進行中の「ブロムホフ家族図修復プロジェクト」のクラウドファンディング。新たなリターンとして、オランダ国立世界文化博物館の「ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー」を準備しました。実は、オランダ国立世界文化博物館の日本コレクションのうち展示されているのは、わずか約5~6%。残りの約95%は一般公開されることなく収蔵庫で大切に保管されています。つまり、普段私たちが目にしている展示は、ほんの氷山の一角なのです。収蔵庫には、日本の貴重な文化財だけではなく、世界各地から集められた驚くようなコレクションが眠っています。今回掲載した写真は、その一つである「人魚のミイラ」こんな不思議な資料も、普段は一般の方が目にすることはありません。今回、オランダ国立世界文化博物館の全面的なご協力により、5万円以上ご支援くださった方への特別なリターンとして、この収蔵庫を見学できる「ビハインド・ザ・シーンズ・ツアー」をご用意する予定です。実際にオランダまで行かれる方は多くないかもしれません。それでも、「いつかライデンを訪れ、世界有数の博物館の舞台裏を見てみたい。」そんな夢を叶えることができる、クラウドファンディングならではの特別なリターンです。詳細は近日発表いたします。どうぞご期待ください。


前回ご紹介したように、1817年、ティティア・ベルフスマは夫ヤン・コック・ブロムホフ、幼いヨハネス、乳母ペトロネラ・ムンスとともに長崎・出島へやって来ました。しかし、当時の日本では西洋女性が日本の地を踏むことは許されていませんでした。もちろん、出島も例外ではありません。ブロムホフは、1809年から1813年まで一度出島に滞在していた人物ですから、この規則を知らなかったはずはありません。それでも、今度は自分が出島のオランダ商館長という重要な立場であることから、特別に認められるのではないかと考えたのでしょう。長崎奉行は迷いながらも、一家の滞在を許可します。しかし、江戸の将軍徳川家斉はこれを認めませんでした。出島到着からおよそ五週間後、ティティア、乳母ペトロネラ、そして幼いヨハネスは出島を退去するよう命じられます。この命令は覆りませんでした。ティティアは滞在を願って嘆願しましたが、その願いが聞き届けられることはありませんでした。短い滞在でした。しかし、その短さとは反対に、ティティアが長崎の人々に与えた印象は非常に大きなものでした。赤みを帯びた髪、丸い目、西洋風の衣服、香水、そして夫と並んで歩く姿。日本人にとって、それはまさに見たことのない「異国」そのものだったのでしょう。とりわけ、夫と手をつないで歩く姿は、当時の日本人には大きな驚きだったといいます。この論文では、ティティアを「日本人に強烈な印象を残した最初の西洋女性」として紹介しています。ただし、私が興味深く感じるのは、彼女ひとりだけでなく、乳母ペトロネラや、ジャワ人の召使マラティもまた、日本人にとっては同じく異国を感じさせる存在だったという点です。ブロムホフ家族図を見ると、それは単なる夫人の肖像ではなく、当時の日本人が初めて目にした「西洋の家族」「異国の生活」「世界の広がり」を描いたもののようにも見えてきます。(つづく)


11月からハウステンボス美術館で開催される「OTEMAE ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」展に向け、オランダの資料を読み進めています。先日、2021年にオランダ・フリースラント州の歴史専門誌『Historisch Tijdschrift Fryslân』に掲載された「ティティア・ベルフスマ―日本で大きな印象を残した最初の西洋女性」という論文を読みました。この論文は、「日本人はティティアという西洋女性をどのように受け止めたのか」という視点から書かれた、とても興味深い内容です。私自身、ブロムホフや茶道具を中心に研究を進めていますが、オランダ側ではこのような切り口でティティアが語られていることも、大変勉強になりました。これから4回に分けて、この論文の内容をご紹介したいと思います。 江戸時代、日本と西洋世界を結ぶ唯一の窓口だった長崎・出島。 その広さは、オランダ・アムステルダムのダム広場ほどしかない小さな人工島でした。1641年以来、この島で暮らすことを許されていたのは十数人ほどのオランダ商人だけ。それも男性に限られていました。 ところが1817年、その歴史に初めて例外が生まれます。フリースラント出身の女性、ティティア・ベルフスマが出島へやって来たのです。ティティアは法律家の家に生まれ、後にヤン・コック・ブロムホフと結婚します。1816年、長男ヨハネスが誕生。同じ年、ブロムホフはバタヴィアへ赴任し、その後、長崎出島のオランダ商館長に任命されます。1817年、一家は乳母ペトロネラ・ムンスとともに「フラウエ・アガタ号」に乗り、日本へ向けて旅立ちました。 しかし、この旅が日本美術史に思いもよらぬ足跡を残すことになるとは、誰も想像していなかったでしょう。(つづく)


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