日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

現在の支援総額

3,442,500

49%

目標金額は7,000,000円

支援者数

120

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

日蘭交流の記憶――川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」修復プロジェクト

現在の支援総額

3,442,500

49%達成

終了

目標金額7,000,000

支援者数120

このプロジェクトは、2026/06/28に募集を開始し、 120人の支援により 3,442,500円の資金を集め、 2026/08/31に募集を終了しました

長らく公開されることのなかった一枚の絵があります。現在、オランダ国立世界文化博物館に所蔵されている、江戸時代に出島で描かれた川原慶賀筆「ブロムホフ家族図」です。この絵は200年間未公開のまま人々の目に触れる機会がありません。私はこの作品を修復し、日本で初めて公開する文化事業に挑戦します。

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前回、染付の茶巾筒と菓子器について、「亀山焼」ではないかと書かせていただきました。そう考えた理由の一つは、出島の発掘調査から、ブロムホフの時代より少し下るものの、亀山焼の器が出土していることでした。ブロムホフが暮らした長崎と亀山焼との時間的、地理的な近さを考え、その可能性を考えたのです。 しかし、さらに調べていくと、染付菓子器の底に篆書款があり、「大清嘉慶年製」と読めることがわかりました。嘉慶年間は1796~1820年。ちょうどブロムホフが日本に滞在していた時代と重なります。もっとも、「大清嘉慶年製」という中国年号款があるからといって、直ちに中国製と断定することはできません。日本の磁器にも中国の年号款を写した例があり、有田などの日本磁器が中国磁器を写した可能性も否定できないからです。つまり、ブロムホフが暮らしていた当時の長崎には、中国から輸入された磁器、肥前の各窯で作られた磁器、そして長崎で作られた亀山焼が同時に存在していました。 では、中国・嘉慶年間の染付磁器とは、どのようなものだったのでしょうか。嘉慶年間(1796~1820)の染付磁器は、乾隆時代の様式を受け継ぎながらも、次第に簡素な方向へと変化していきます。特に特徴的なのは、大型の飾り物よりも、碗、皿、杯、蓋物、急須、茶托など、日常生活で使われる比較的小さな器が多くなることです。染付も、前期には濃く鮮やかで乾隆磁器に近いものが見られますが、後期になると淡い青や、やや黒ずんだ発色も現れ、民窯では絵付けも次第に大らかになっていきます。文様にも変化が見られます。乾隆期のように器面を文様でびっしりと埋め尽くすものから、白い磁肌を残して文様を配置し、その余白そのものを生かす構成が増えていきます。龍、鳳凰、花卉、松竹梅、瓔珞などに加え、漢詩を呉須で直接書いた「詩文器」も作られました。つまり嘉慶染付は、「乾隆の精緻で華麗な磁器から、日常性と簡潔さをもった磁器へと移っていく時代の器」と捉えると、その特徴がわかりやすいように思います。 そのような視点から改めて二つの器を見ると、染付菓子器の文様と広く取られた余白、そして染付茶巾筒の外面に杜甫の七言律詩の前半部分「五夜漏聲催曉箭 九重春色醉仙桃旌旗日暖龍蛇動 宮殿風微燕雀高」が書き巡らされ、内面には瓔珞文様が施されていることなどは、嘉慶期の染付磁器の特徴と重なる部分があるように思えます。 もちろん、これだけをもって中国・嘉慶年間の製品と断定することはできません。 しかし、この産地推定の変更によって、この茶箱について私が考えてきた本質が変わるわけではありません。むしろ、この茶箱は「国際都市・長崎」を一つの箱の中に凝縮したものだったのではないかという思いは、さらに強くなりました。 江戸時代の長崎には、中国からもたらされた磁器があり、肥前の有田、三川内、波佐見などから運ばれてくる磁器があり、さらに長崎では亀山焼が作られていました。そこには日本人、中国人、オランダ人が行き交い、それぞれ異なる文化、技術、美意識、生活習慣が交錯していました。ブロムホフの茶箱もまた、そのような長崎の文化環境の中で考える必要があります。中国で作られた染付の器が、長崎で茶巾筒や菓子器として用いられる。もともとは茶道具として作られた器ではなかったこれらの磁器が、日本人の目によって、あるいはブロムホフ自身の見立てによって、茶の湯にふさわしいものとして選ばれたのかもしれません。菓子器には木蓋を合わせ、筒形の器には茶巾筒という新たな役割を与える。そして、それらが日本の茶碗、茶器、茶杓、茶筅、帛紗、茶巾などとともに、一つの茶箱の中へ納められたのです。異なる土地で生まれた器物が長崎に集まり、そこで出会い、日本の茶の湯という一つの文化体系の中に組み直される。そして、その一式を見事にコーディネートしたのが、オランダ人のブロムホフだったのです。一つの小さな茶箱の中に、中国、日本、オランダという三つの文化が重なっている。それはまさしく、鎖国下にありながら海外に開かれ、中国とオランダを通じて世界とつながっていた、国際都市・長崎そのものの縮図といえるのではないでしょうか。 したがって、茶巾筒や菓子器が亀山焼ではなく、中国磁器であったとしても、この茶箱の意味が失われることはありません。むしろ中国磁器であるならば、この茶箱が語る物語はさらに豊かになります。中国で生まれた器が海を渡って長崎へ入る。長崎で日本の茶の湯の道具へと姿を変える。そして、それをオランダ人が携えて、再び海を渡る。一つの器物が国境を越えるたびに、新しい意味と用途を与えられていく。ブロムホフの茶箱は、文政年間の長崎に集まった人、物、文化、そして美意識を小さな箱の中に封じ込めた、「国際都市・長崎の縮図」ともいうべき茶箱なのです。


ブロムホフが日本から持ち帰った茶道具を見ていると、彼が茶の湯のさまざまな場面に深い関心を寄せていたことがわかります。 写真は、ブロムホフが持ち帰った旅箪笥に収められていた道具一式です。残念ながら旅箪笥そのものは現在所在不明となっていますが、その中には、江戸参府の折に静岡県金谷で求めたと思われる志戸呂焼の茶碗も含まれています。 ブロムホフの茶道具コレクションには、献茶のための格式ある真台子一式があり、茶碗、茶器、水指など、日常に茶を楽しむための道具があります。そして興味深いことに、茶箱二点、茶籠一点、旅箪笥一点と、旅先で茶を点てるための道具をいくつも持ち帰っています。 なぜ、これほど多くの携帯用の茶道具を必要としたのでしょうか。茶の湯において、旅先での茶や野点は決して「気軽な茶」ではありません。茶室の中であれば、炉があり、畳があり、床があり、道具を置く位置も点前の手順も定められています。しかし、一歩野に出れば、それらはありません。あるのは松陰であり、河辺であり、芝生であり、その土地の風や光、水、そして季節です。『南方録』は野点について、「定法なきがゆえに定法大法あり」と説いています。決まりがないから何をしてもよい、という意味ではありません。むしろ決まりに頼ることができないからこそ、それまで茶人が身につけてきた経験、美意識、判断力、そして心のあり方そのものが問われるのです。野点とは、自然の中でただ茶の湯を楽しむことではありません。その土地の「いさぎよき所」を見いだし、そこに一時の茶の場をつくることです。松の木も、川の流れも、風も、鳥の声も、亭主がつくることはできません。すでにそこにある自然を受け入れ、その中に自らの茶を置く。だからこそ野点には、茶人としての力量が問われます。 そのような旅や野点のために用いられたのが、茶箱、茶籠、旅箪笥といった携帯のための茶道具でした。茶室そのものを旅に持って行くことはできません。しかし、茶碗や茶器、水指など、茶を点てるために必要な道具を小さくまとめ、携えて行くことはできます。 いわば、旅箪笥や茶箱は「持ち運べる茶室」なのです。屋敷を離れても、旅の途中でも、野原でも、茶は点てられる。場所が変われば、道具の取り合わせも点前も変わります。しかし、亭主がいて、客がいて、一碗の茶を介して心を通わせるという茶の湯の本質は変わりません。むしろ茶室という完成された空間を離れたときにこそ、その人が本当に茶を身につけているかが問われるのです。 そして、この「旅する茶の湯」という日本の文化に強く惹かれた人物こそ、ブロムホフだったのではないでしょうか。考えてみれば、ブロムホフ自身の人生もまた、旅の連続でした。故国オランダを離れ、海を渡り、遠くアジアへやって来る。長崎・出島で暮らし、江戸参府という長い旅を経験し、やがて再び海を越えてヨーロッパへ帰っていく。そんな「旅する人」であったブロムホフが日本で出会ったのが、場所に縛られることなく、道具を携え、旅先でも一服の茶を点てる文化でした。 彼が持ち帰った茶道具を改めて見てみると、その全体像が見えてきます。献茶に用いる真台子は、「儀礼の茶」茶碗、茶器、水指などは、「日常の茶」そして茶箱、茶籠、旅箪笥は、「旅の茶」 ブロムホフは、最も格式ある茶から、日々の暮らしの中の茶、さらには旅先での茶まで、人生のあらゆる場面にある茶の湯を日本から持ち帰ろうとしたのではないでしょうか。 人生は旅です。 人は一つの場所にとどまり続けることはできません。場所が変わり、立場が変わり、出会う人も変わっていきます。それでも、茶人は茶を点てる。 旅先で旅箪笥や茶箱を開き、茶碗を取り出し、湯を沸かし、一碗の茶を点てる。その瞬間、見知らぬ土地にも一時の茶の場が生まれます。 そして、ブロムホフの旅箪笥に収められた志戸呂焼の茶碗もまた、彼自身の旅の途中、江戸参府の道すがらに手にしたものでした。旅の途中で出会った茶碗を、旅のための道具に収め、さらに海を越えて故国へ持ち帰る。そこには、ブロムホフ自身の旅と、茶道具の旅とが重なって見えてきます。 「人生が旅であるならば、茶もまた旅をする」 旅する人生を送ったブロムホフが日本から持ち帰った茶箱、茶籠、旅箪笥。その小さな道具の中には、単なる携帯の便利さだけではなく、場所が変わっても一碗の茶を点てるという、茶の湯の自由さと本質が詰め込まれているように思えてなりません。


ブロムホフは、野点など旅先で茶を楽しむための茶籠も持ち帰っています。 残念ながら籠そのものは失われ、現在は仕覆だけが残されていますが、その中には茶碗、茶器、茶筅筒、茶筅、茶杓、帛紗、茶巾など、茶を点てるために必要な道具一式が収められています。 なかでも私が興味深く感じたのが、折畳式の茶杓です。私自身、これは比較的新しい時代に生まれた工夫だとばかり思っていました。しかし、ブロムホフが持ち帰った茶籠に含まれているということは、少なくとも文政年間には、すでに携帯のために茶杓を折り畳むという発想が存在していたことになります。 茶碗も、茶器も、茶筅も、帛紗も、茶巾も必要である。しかし、それらをできるだけ小さな籠の中に収め、どこへでも持ち運べるようにする。そのためには、細長い茶杓さえ折り畳んでしまう。 こうした発想を見ていると、李御寧(イ・オリョン)が『「縮み」志向の日本人』で論じた、日本文化における「縮み」の美意識を思い起こします。 日本人は、単に物を小さくするのではなく、大きな世界を小さな空間の中へ凝縮することを得意としてきました。盆栽や箱庭、弁当、扇子などにも見られるように、機能を失うことなく、小さく畳み込むことによって一つの完結した世界をつくり出す。茶籠や茶箱も、まさにその一つです。 一服の茶を点てるために必要な世界を、小さな籠の中に丸ごと収めて持ち歩く。折畳式の茶杓は、その「縮み」の発想を象徴する道具の一つといえるでしょう。 そして、ブロムホフ・コレクションを調べていて、もう一つ興味深いことに気づきました。 偶然なのかもしれませんが、茶籠の籠そのものをはじめ、道具を収めていた箱、さらに後ほどご紹介する旅箪笥など、「物を入れるための器」が失われている例が少なくありません。 一方で、湊長安の書付けがある茶箱や、これも後ほどご紹介する螺鈿が施された茶箱などは、現在まで残されています。 ここで興味深いのが、当時のオランダにも「茶箱」があったということです。ただし、日本の茶箱とは役割が違います。日本の茶箱が茶碗や茶器、茶筅など、茶を点てるための道具一式を仕込むものであるのに対して、オランダの茶箱は、高価な茶葉を保存するためのものでした。 茶葉そのものが貴重品であったため、その容器にも銀や鼈甲などが用いられ、豪華な装飾が施され、なかには鍵を備えた茶箱もありました。つまり、茶を収める「箱」そのものが、家具や工芸品として鑑賞に値するものであったのです。 そうした文化の中で、日本の何の装飾もない籠や白木の箱は、オランダの人々の目にどのように映ったのでしょうか。 単なる収納や運搬のための容器と受け取られたのか。それとも、日本の茶の湯において、籠や箱もまた道具の一部であり、中に何をどのように仕込むかまで含めて意味をもつことが理解されていたのでしょうか。 もちろん、籠や箱が失われた理由を、今となって断定することはできません。ただ、ブロムホフ自身は、これらの籠や箱も含めて日本で収集し、オランダまで持ち帰っています。少なくともブロムホフの手元にあった時点では、籠や箱もまた、彼が持ち帰るべきものとして選んだ日本の茶道具の一部だったのです。 ところが、ブロムホフの手を離れ、コレクションとして王室に渡り、さらに博物館の収蔵品として整理・保存されていく過程で、装飾や書付けのある茶箱が残る一方、素朴な籠や箱、旅箪笥などの多くが失われていきました。 それが偶然や経年による紛失だったのか、あるいは日本とオランダとで「入れ物」に対する価値の見方に違いがあったためなのか、今となって確かめることはできません。 しかし、二百年後の今日、残されたものと失われたものを見比べてみると、ブロムホフの手からコレクションが離れた後、異なる文化の中で日本の茶道具の何が価値あるものとして認識され、何が残されていったのかという、もう一つの興味深い問題が見えてきます。


ブロムホフが単なる茶道具の収集家ではなく、実際に茶を嗜んでいたことを物語る茶道具の一つが、この茶箱です。 蓋裏には、「日本大老臣 青山下野守侍医 江戸 湊長安 平義胤(花押)文政癸未冬十月」と記されています。 さらに箱の底には、「Eidosche docter Minato Tsooan」というオランダ語による署名まで残されています。そして、この茶箱には湊長安自筆の添状も添えられています。そこには、「ブロムホフ商館長閣下へ進呈します。ご帰国の旅路でもご使用いただければ幸いです。今一度、貴殿の幸福と祝福を祈ります。誠意を込めて、貴殿のしもべ、そして友人とお呼びください」という趣旨の言葉が記されています。 箱書にある「文政癸未冬十月」は、文政六年(1823)十月、現在の暦では十一月頃にあたります。この時、ブロムホフはまだ出島商館長として長崎に在任していましたが、その翌月には日本を離れ、オランダへの帰途につきました。 つまり、この茶箱は、日本を去るブロムホフへの餞別として、江戸の医師・湊長安から贈られたものだったのです。 さらに注目したいのが、箱書に記された「青山下野守侍医」という肩書です。 青山下野守とは、丹波篠山藩主で、幕府老中として幕政の中枢を担った青山忠裕のことです。湊長安はその侍医でした。しかも箱書では青山忠裕を「日本大老臣」と記しています。そこには、幕府の重職にあった青山忠裕への敬意と、その侍医として仕える長安自身の自負もうかがうことができます。 この茶箱には、黒楽茶碗、茶入、象牙製茶杓、茶筅、津軽塗と思われる器、紫の帛紗、茶巾など、茶を点てるための道具が一式納められています。添状にも、はっきりと「旅路でもご使用ください」という意味の言葉が記されています。「日本を離れてからも、この茶箱を携え、茶を楽しんでほしい。」そんな友人への思いを込めて、湊長安はこの茶箱をブロムホフに贈ったのではないでしょうか。 日本を離れた船の上で、ブロムホフがこの茶箱を開き、茶碗を取り出し、茶を点てている姿を想像してみてください。そこにいるのは、自ら茶碗を手に取り、茶杓で茶をすくい、茶筅を振って一碗の茶を点てる、一人の「茶人」としてのブロムホフです。 この茶箱は、ブロムホフが茶道具をただ鑑賞し、収集していただけではなく、実際に茶を点て、茶の湯を楽しんでいたことを物語る、極めて重要な資料の一つといえるでしょう。そして、この茶箱こそ、本展覧会のタイトルである「OTEMAE ― ブロムホフ 茶道を愛した異邦人」を象徴する代表的な茶道具の一つだと考えています。


 ブロムホフ・コレクションの中でも、ひときわ注目されるのが茶道人形です。 人形には茶碗・水指・炉・釜などのミニチュア茶道具が添えられ、約二百年前の茶人の姿を立体的に再現しています。当時の記録には「右手に茶杓、腰に紫の帛紗」と記されており、現在は失われた帛紗の存在も確認することができます。 人形は元服前の少年の姿で、袴姿のまま点前を行っています。また、現在一般的な正座ではなく、割座で座っていることも興味深い点です。このことから、江戸時代には割座も点前の座法の一つとして行われていたことがうかがえます。つまり、この人形は、茶の湯の所作そのものを忠実に表現するために制作されたと考えられます。 頭部は胡粉で美しく仕上げられ、耳まで丁寧に造形されています。切れ長の目、小さく結んだ口元、そして穏やかな表情には、静かな品格が漂います。 衣装には絹織物が用いられ、裂には鳳凰と唐花と思われる吉祥文様が織り出されています。柄合わせや裁断も極めて精巧で、袴や帯に至るまで実際の装束と同じ仕立て方が施されています。人形衣装というより、本物の衣装をそのまま縮小したかのような完成度を備えています。 さらに髪には人毛が植え込まれ、一本一本を束ねて結い上げられています。頭頂部を複数に分けて結う独特の結髪は、現在確認している江戸後期の人形や風俗画には類例が見当たらず、この人形を特徴づける大きな特色となっています。 人形には烏帽子も添えられています。烏帽子は武家や公家の男子が礼装の際に着用した被り物であり、この人形も礼装した少年茶人を表現したものと考えられます。袴姿や割座の姿勢とあわせて見ると、茶の湯がたんなる喫茶ではなく、礼法を重んじる武家文化の一端であったことを伝えています。このような茶道人形は、現在確認できる限り他に類例がなく、ブロムホフの特別注文によって制作された可能性が高いと考えています。 また、頭部の造形や衣装の技法には京都系衣裳人形との共通点が多く認められることから、江戸参府の折に京都の人形師へ注文し、帰路に受け取って長崎へ持ち帰った可能性も考えられます。一方、人形に添えられたミニチュア茶道具は、長崎で制作させ、人形と組み合わせた可能性があります。その推測を裏付ける手掛かりが、人形とともに伝来した象牙製茶杓です。この茶杓だけは実寸約十八センチの象牙製で、実際の茶人が用いる茶杓とほぼ同じ大きさです。人形の右手も、この茶杓を握ることを前提として作られていたことがわかります。 このことから、ブロムホフは京都で人形を制作させる際、実物の象牙製茶杓を持たせるよう人形師へ依頼し、その後、長崎でミニチュア茶道具を揃えて完成させた可能性が考えられます。 それでは何故、ブロムホフが人形に持たせたのが、茶碗でも茶入でもなく、象牙製の茶杓だったのでしょうか。 十九世紀初頭のオランダでは、象牙は王侯貴族や富裕層の工芸品に用いられる高級素材であり、美術的価値の高い特別な素材でした。その価値を十分理解していたブロムホフは、日本の茶人を象徴する道具として、茶碗ではなく、あえて象牙製の茶杓を選んだのではないでしょうか。異国の茶道人形に象牙製茶杓を持たせることによって、人形そのものの価値を高めるとともに、日本文化を象徴する作品として位置づけようとした可能性があります。 残念ながら、この象牙製茶杓はワシントン条約(CITES)に基づく国際取引規制の対象となるため、今回の展覧会では日本へ持ち込むことができません。 しかし、この人形は本来、その象牙製茶杓を手にして初めて完成する作品でした。 どうぞ展示をご覧の際には、その「見えない茶杓」を心の中で人形の右手に戻してみてください。約二百年前、ブロムホフがヨーロッパへ伝えようとした「茶人」の姿、そして日本の茶の湯の精神が、より鮮やかに浮かび上がってくることでしょう。※写真はオランダ国立世界文化博物館(NMVW = Nationaal Museum van Wereldculturen / Wereldmuseum)蔵 茶道人形とミニチュア茶道具


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