『なぎのえき』癒しと郷愁の物語

孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

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孤独に戦い、感情を麻痺させている人へ。 「立派な大人」を演じ続けるのはもう終わりにしませんか。 そこは夕暮れの無人駅。佐賀県唐津市を舞台にした写真とオーディオドラマによる没入型アートです。都会のスピードに疲弊した大人が、いつでも日常から「途中下車」できる癒しのツールをお届けします。

親しい人の死というものに直面するのは、これが初めてではなかった。

最初は、母の自死だった。 あの時、僕も、僕を取り巻く世界も、まだ子供だった。

子供特有のむき出しの純粋さは、時にひどく鋭利な刃物になる。級友たちは遠巻きにひそひそと噂話に花を咲かせ、新聞の三面記事を読んだという無邪気な少年は、僕の顔を見るなり

「お前のかぁちゃん、自殺だってー?」

と放った。驚くほどストレートで、痛覚を麻痺させるほどの残酷さだった。

それに比べれば、今回は僕も、周りも、すっかり分別のある大人になっていた。 

だが、大人という生き物は、時として子供よりずっと薄気味悪い。

巧妙な距離感と、「気遣い」という名の分厚い包装紙で包まれた野次馬根性。彼らは遠回しな言葉を使い、僕の「今の気持ち」の裏側を覗き込もうとした。

他人の悲劇というものは、安全な対岸から眺めるにはうってつけの、極上のエンターテインメントなのだろう。

そういえば、かつて僕の習作をまとめて出版したいと言ってくれた雑誌社の編集者が、原稿を持ち込んだ席で口を滑らせたことがあった。

「例の彼女の死について、少しエッセイ風の記事を書いてみませんか」と。

人の死は、これほどまでに手軽に消費され、喜ばれるコンテンツになるのか。

僕が実感の湧かない頭でぼんやりとそう思った瞬間、奥で話を聞いていた栞の空気が氷のように冷たくなった。 彼女は文字通り、鬼のような形相で編集者を睨みつけた。

あの静かな怒りの圧力は凄まじく、話は即座に白紙になった。美人が本気で怒ると、周囲の酸素が奪われるほど怖いのだと、その時初めて知った。編集者の男は、完全に震え上がっていた。

それからというもの、静まり返ったアパートの部屋での栞の献身は、徹底していた。

 彼女は僕を無菌室に閉じ込めるように、周囲のあらゆる悪意やノイズを遮断した。

過保護なほどに僕を守り抜いた。

かつて栞自身が深く傷ついていた時、僕は果たしてここまで彼女を守れていただろうかと、不安になるほどの強さだった。 だからこそ、今回の彼女の「送る会」についても、栞はひどく躊躇していた。僕がまた倒れてしまうのではないか。また、狂ったように深酒をするのではないか。「また」という言葉が何度もこびりつくほど、僕は荒れ、そして壊れていた。

その度ごとに、栞は自分の身を削って僕を庇い続けた。


当時の僕は、果てしなく続く鏡張りの迷宮の底にうずくまっていた。

それは物理的な空間というより、僕の精神が造り出した冷たく、そして完璧に無機質な牢獄だった。上下左右、視界のすべてが歪みのない巨大な鏡で覆い尽くされている。

自分の足音すら無限の彼方まで乱反射し、どこまでが現実で、どこからが狂気なのか、その境界線はとうに消失していた。

どこを向いても、そこにいるのは僕だった。

ただの僕ではない。

虚ろに濁ったビー玉のような目玉を持ち、頬が削げ落ちた、ひどく醜く惨めな自分だ。

それはまるで、透明なホルマリンの海に沈められた、出来の悪い剥製標本のようだった。

何千、何万という「死んだ僕」の顔が、合わせ鏡の奥の奥、視力の限界を超えた暗闇の果てまで、冷たい幾何学模様のように連なっている。

恐ろしいことに、鏡の中に並ぶ無数の僕は一つ一つ、わずかに違う絶望の形をしていた。力なく泣き崩れる僕、無表情に虚空を見つめる僕、声にならない叫びをあげる僕。

それらが一斉に、瞬きひとつせずに、合わせ鏡の中心にうずくまる現実の僕を、氷のような温度でじっと見下ろしているのだ。

迷宮の空気は、長いあいだ放置された水槽のように重く停滞し、呼吸をするたびに、肺の奥底が細かいガラスの破片で満たされていくような痛みが伴った。

そんな絶対的な静寂と淀みの中で、丸一年という時間が、音もなくどろりと溶けていった。

 外の世界では太陽が燃え、幾度も雨が降り、新しい季節がめぐっていたはずなのに、僕の迷宮には光の粒ひとつ届かない。

僕はただ、無数の自分自身の死骸に囲まれたまま、時間の概念すら失い、永遠に等しい一秒一秒をやり過ごしていた。

——その時だ。 突然、甲高い音を立てて、目の前の巨大なガラスが頭上から一枚、粉々に打ち破られた。 鋭い銀色の破片がスローモーションのように宙を舞う中、そのまばゆい向こう側から、見慣れた顔がひょっこりと姿を見せた。

「バーン!」

ああ……なぎだ。

彼女は、夏の太陽をそのまま固めたような、あのあっけらかんとした笑顔で僕を見下ろしていた。 

「ちょっとせんせー、何その大正時代の文豪みたいな暗さ。全然似合ってないよ」

 「え……?」 「せんせー、書いてよ。私のこと。書いてよ、早く」

 彼女は悪戯っぽく目を細め、胸を張った。 

「私は素敵なんだって。世界で一番、最高の可愛いヒロインなんだって」

 「……可愛い、か」

僕は乾いた喉から声を絞り出した。「悪いけど、僕はSFはあまり得意じゃないんだ」

 「か・わ・い・い。なぎは最高に可愛いヒロインって書くの。せんせーが、そうするの」

はははっ、と鈴を転がすような彼女の笑い声が響き、そして、ふっと風のように消えた。

 気がつくと、僕は再びひとりだった。 けれど、もう立ち上がれない「ひとり」ではなかった。重たい泥のようだった足に、不思議と力が宿っているのがわかった。

突然、まぶしい光が顔を刺した。 なぎがガラスを割った光の残滓かと思ったが、違った。

その方向を見ると、栞が部屋の重たい遮光カーテンを、勢いよく左右に引き開けたところだった。 一年分の埃が、窓から差し込む強烈な光の帯の中で、黄金色に乱反射してキラキラと踊っている。

映画のワンシーンのように、空気の粒までが見えるような透明で圧倒的な光だった。

「ああ……」僕は目を細めた。

「いい天気なんだな」 

「うん……」

栞は振り返り、僕を見た。その目は泣き腫らしたように赤かったが、どこまでも柔らかく、深い優しさに満ちていた。

ずっとこの暗闇に閉じこもっていた僕を、ただの一度も責めることなく守り抜いた瞳だった。

 彼女はゆっくりと歩み寄り、立ち上がった僕の身体を、ぎゅっと強く抱きしめた。

「今……ね」

栞は僕の胸に顔を埋めたまま、ぽつりと言った。

「すごく変な話なんだけど、私、なぎと喧嘩したの。大喧嘩」 

「なぎと?」 

「うん。言いたいこと怒鳴って、責めて、責められて。持っているボキャブラリーを総動員して悪口を言い合って、責任転嫁して。ほんと、女の喧嘩の最低な手を全部盛りにしたようなやり方で」

栞は、ふふっ、と小さな声で笑った。

「……でね、すっきりしたの。私、なんだかずっと、なぎに負い目があったから。あの子から、あなたを奪った卑怯者だって思っていたから。あなたが壊れていくのもバツなんだって。これでなぎは永遠のものになって、私からあなたを完全に奪ってしまう。ずっとそう思って怯えてた」

窓から吹き込む初秋の風が、栞の髪を柔らかく揺らした。

「そうしたら、頭の中で声が聞こえてきたのね。なぎの声で『しおりんの根暗ブス』って」 「……ブス」 

「そう。もうカチーンってきたわ。メッチャ腹が立って。だから言い返してやったの、『この、わがまま小娘』って。『私は彼に抱かれたのよ』って」

 「えっ」 

「そうしたらあの子、『身体で誑し込んだ淫乱眼鏡!』って」

栞は顔を上げ、少しだけむくれたような、でもどこか晴れやかな顔で僕を見た。

「『淫乱眼鏡』って言葉には流石に腹が立ったけど、でも、図星だって気もして。それからもう、大バトルよ。ずっと痛いところから目を逸らしていたから。でも、言いたいことを全部ぶつけ合ったら、本当にすっきりしたの」

栞の言葉とともに、僕の中に残っていた最後の重苦しい空気が、開け放たれた窓から青空へと吸い込まれていくのがわかった。

 「根暗ブス」と「淫乱眼鏡」の罵倒合戦。

なぎなら、間違いなくそうやって栞の堅苦しい殻をハンマーでぶっ叩いて壊すだろう。

僕はたまらなくなって、声を出して笑った。栞も一緒になって笑った。

「命日、現地に行ってみようと思う」 栞は真っ直ぐに僕の目を見て言った。

「私も行くわ。『淫乱眼鏡』は事実だからしかたないとして、『根暗ブス』だけはまだ許せてないの。ちゃんとお花を手向けて、しっかり文句言ってやらなきゃ」

見上げた窓の向こうには、どこまでも高く、澄み切った青空が広がっていた。

 迷宮のガラスはもう存在しない

。僕たちはようやく、同じ風の吹く場所で、新しい季節の光を吸い込んでいた。

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