
僕は海にいた。
旅行代理店のパンフレットに載っているような、人工的なまでに青く透き通った海じゃない。
潮の匂いが少しばかり強くて、波打ち際にはいつも細かい海藻が打ち上げられているような、見飽きるほどに見慣れた海だ。
でも、そのときの僕が心から求めていたのは、まさにそういう海だった。
いつも、この海沿いの道を歩いていた。
登校のときも、下校のときも、ちょっとした用事で出かけるときも。
ある時期から、僕と海の間にひとりの女の子が入り込むようになった。
なぎだ。
彼女はいつも僕の右側を歩き、太陽の光を反射してキラキラと揺れる海への視界を、鮮やかに遮ってきた。 そう、ちょうどこんなふうに。
僕たちはいつものように並んで歩いていた。
真夏の太陽が、容赦なくアスファルトを焼き付けていた。そういう圧倒的な午後の熱気の中を歩くには、アイスキャンディーというアイテムがどうしても必要になる。
真ん中で二つに割ってシェアする、あの安いソーダ味のアイスキャンディーだ。 僕が自分の分を食べようとした瞬間、彼女はひょいと顔を出して、僕のアイスにガブリと噛みついた。
「さっき、半分あげたじゃないか」
と僕は言った。 ソーダ味なのかどうかも怪しいブルーの氷をガリガリと噛み砕きながら、なぎはいたずらっぽく笑った。
「半分食べて、残ったその半分の半分をもらうのが『仲良し』のルールなの」
「なんだよ、仲良しって」
「私たちみたいな関係のこと」
となぎは言った。
「世間の人たちはさ、すぐに彼氏とか彼女とか、そういう型に嵌めたがるじゃない? でも、私とセンセーはもっと違うところにあるような気がするんだよね」
「違うところ?」
「もっとこう……なんていうか、心と心が直接触れ合ってるみたいな」
そこまで言ってから、彼女は耳の裏まで真っ赤になった。
「言わせないでよ、もう」
もしそこに医者がいたら、重度の熱中症と診断して迷わず救急車を呼んでいただろう。
それくらい彼女は赤面していた。
「とにかく、私たちは仲良しなの」
「まあ、そうかもしれないな」
と僕は適当に相槌を打った。
「あっさりしすぎ。もっと気の利いたリアクションしてよ、思春期男子」
「気の利いたリアクションって、たとえば?」
「もしかして、もう経験済みだったりするわけ? しおりんと」 「何を言ってるんだよ」
なぎは素早く腕を伸ばし、僕の首に巻きついた。夏の熱気をはらんだ彼女の柔らかい唇が、僕の唇にやや乱暴に押し当てられた。 ソーダアイスのひんやりとした甘さと、彼女の体温。
「……もーらい」と彼女は言った。
暑い。輪郭が白く飛んでしまうような暑さだ。
意識が遠のき、ふと気がつくと、僕は黒い喪服を着ていた。
手にはひんやりとした数珠が握られている。
葬式? いったい誰の?
祭壇を見上げると、そこにはなぎの写真が飾られていた。
見事なまでに作り物めいた笑顔だった。
いや、彼女はもっとくしゃくしゃにして笑うはずだ。こんな風にお行儀よくは笑わない。
これはいったい誰なんだ? 強烈な違和感があった。
足元がひどくフワフワしている。
さっきの暑さで熱中症になって、どこかに倒れ込んだ僕が見ている質の悪い夢だ。
そうに決まっている。
なぎの葬式に出るなんて、僕の潜在意識もずいぶんと悪趣味なものを引っぱり出してきたものだ。
目が覚めたら、ちゃんとした医者に診てもらおう。
そう考えた途端、目の前に白衣を着たなぎが現れた。
「さーっそく、手術ねっ」
と彼女はウインクをした。
「危ないな、それメスじゃないか」
「大丈夫、前にマンガで読んだことがあるから」
「いやいや、そういう問題じゃないだろ」
「スパーって切って、ちょいちょいって悪いところを取って、縫いぬいしたら終わり。楽勝でしょ?」
彼女の論理の中で、安心できる要素はひとつも見当たらなかった。
「とりあえず、麻酔するねっ
」 寝ている間に何をされるか分かったものじゃない。そう抗議しようとした僕の口を塞ぐように、なぎが口づけてきた。
「麻酔?」
彼女はまるで熟練した手品師のような鮮やかな手つきで、僕の服を脱がせていった。いつの間にか彼女自身も一糸まとわぬ姿になり、僕の上にまたがっていた。
「……これで、おあいこ」
なぎは細い腕で、僕の身体を強く、とても強く抱きしめた。 僕は何も言わず、目を閉じた。
次に目を開けたとき、僕の視界を埋めていたのは、ひび割れたアパートの天井と、泣きじゃくる栞の顔だった。 栞は何かを大声で言いながら、しゃくりあげていた。まるで言葉の破片をまき散らしているみたいで、僕にはその意味をうまくつなぎ合わせることができなかった。
ゆっくりと身体を起こす。
自分が今どんな状況に置かれているのか、うまく理解できない。
少しずつ、栞の言葉の端々が意味を持ち始め、それが僕を「いま」という現実に引き戻していった。 僕はずっと気を失っていたらしい。
そして。
なぎは死んだ。
それが、どれほど否定しようとも動かしがたい、僕の現実だった。



