
脳の髄までどろりと溶けてしまいそうな、暴力的なまでの暑さだった。
それがその日の、世界に対する僕の唯一の感想だった。
逃げ込むように入ったコンビニエンスストアの、ひやりとした人工的な冷気に、僕たちはささやかな、しかし確かな幸福を感じていた。
アイスクリームの並ぶ冷凍庫の前に立つ。ガラスのショーケースの表面には、外気との温度差が生み出した無数の水滴が、まるで精緻な抽象画のような美しい結露の模様を描いていた。
「私、これ」
と栞は言った。
「もう、これしかない」
彼女の手に握られていたのは、王道のバニラアイスだった。
思えば、栞の好みはいつだって一貫している。揺るぎない。
僕はといえば、少しでも体温を下げたくて、涼しげなシャーベットを手に取った。
そういえば、なぎがいつも選ぶのは決まって鮮やかなブルーのソーダ味だったな、とふと思い出した。
店を出て、再び白茶けた猛暑の中へと突進する。買ったばかりのアイスは暴力的な太陽の光を浴びて、急いで食べないと指を伝ってべたべたと垂れてくる。
「ああっ、溶けるー」と栞は笑いながら、慌ててバニラアイスを口に運んだ。
「べたべただな」僕も呆れたように笑う。
タクシーに乗って、例の事故現場へと向かった。
窓の外を流れる夏のまばゆい景色とは裏腹に、僕の心臓の鼓動は次第に速度を増し、耳の奥でうるさいくらいに鳴り響き始めていた。
指定された場所で降り立ち、辺りを見回す。
強烈な夏の光と、アスファルトの熱気、そして濃すぎる緑の匂い。
どこにでもあるような、僕には何の縁もゆかりもないただの風景だ。
だから、特別な感慨のようなものは湧いてこなかった。
栞は道路の脇にひざまずき、静かに花を手向けて手を合わせた。
僕は少し離れた場所から、そんな栞の華奢な背中をただ見つめていた。
『こんな時に、他の女の人のこと見ないでよ』
不意に、なぎの声がした。 振り返らなくてもわかる。
彼女はひどくふくれっ面をしているはずだ。
「なぎ、いるね」
と、目を閉じたまま栞がぽつりと言った。
「さっきから、ずっと私のこと叩いてくる」
死んで達観するとか、高次な存在になるとか、そういうのはなぎには一切関係ないらしい。
生きていた頃と寸分違わず、彼女はやきもちを焼き、拗ねている。
というか、こっちが悪者なのか?
『だって、だってー』
なぎの怒りの矛先は、どうやら僕に向いたらしい。
『ねぇねぇ』 「ん?」僕は心の中で返事をする。
『私が死んで、悲しい?』
「もちろん」
『他の男の人とデートして、やきもち焼いた?』
「やきもちなんてもんじゃないよ。狂いそうだった」
『じゃあさ、そんな顔してみてよ』
「どんな顔だよ」
『「俺のなぎに手を出すなっ!」みたいな、すっごく必死なやつ』
「……できないよ」 『なんでー!』
だって、もう君は、この世界にはいないじゃないか。 どれほど強く手を伸ばしても、その指先は夏の空気を掴むだけなのだから。
『……しおりんと、付き合うの?』
その問いに僕が答えるより早く、なぎの気配はふっと消え去った。
あとにはただ、強い海風に煽られてざわめく樹々の音と、アスファルトに落ちる木漏れ日の眩しさだけが残されていた。
随分と長く手を合わせていた栞が、ゆっくりと立ち上がり、僕の方へ歩いてきた。
「長かったね」
「うん。ちゃんと拝んでおかないと、あの子、絶対に祟ってきそうだから」
「そうだね。間違いない」
僕は歩き出そうとする栞に、ごく自然に手を差し伸べた。
栞もまた、ごく自然にその手を取った。汗ばんだ掌を通して伝わる熱。
そんな些細なしぐさの中に、僕たちが共にくぐり抜けてきた年月と、確かな重力のようなものを感じていた。
これでいいんだ。
こうして僕は、栞と共にこの世界を生きていくんだ。
それは揺るぎない、確定された未来のはずだった。
だが——。
夕暮れの海辺。 僕たちは波打ち際の砂浜をゆっくりと散歩していた。
日が陰り、日中のあの刺すような暑さが嘘のように、あたりは群青とオレンジ色が混ざり合う、息を呑むほど美しいグラデーションに包まれていた。
寄せては返す波の音を聞きながら、ふたりで歩く砂浜。
振り返れば、そこには当然のようにふたり分の足跡が続いているはずだった。
ふと、何気なく僕たちの歩いてきた軌跡に目を落とす。
そこには、「一人分」の足跡しか存在していなかった。
栞の足跡だけが、どこにもない。波に消されたわけでも、風に攫われたわけでもない。
最初から彼女の質量などこの世界に存在していなかったかのように、ぽっかりと欠落していた。
僕はハッとして立ち止まり、弾かれたように栞を振り返った。
「どうかしたの?」
栞は目を丸くして、不思議そうに僕を見つめている。
夕日に照らされた彼女の横顔は、完璧なまでに美しく、そして生気を帯びていた。
「い、いや……」
僕は無言のまま、栞の手を強く、痛いほどに握りしめた。
決してこの世界から離さないと念じるように。
僕の感じている名状しがたい恐怖とは裏腹に、栞は少し照れたように頬を染め、嬉しそうに僕の手を握り返してきた。
日が落ちて過ごしやすくなったとはいえ、真夏の街を歩き回ったのだ。
ホテルに戻ったときには、僕たちはすっかり汗だくになっていた。 どちらが先にシャワーを浴びるかという、他愛のない短い議論の末、僕が先にバスルームを使うことになった。
熱いシャワーを浴び、髪を洗い始めたちょうどその時だった。
——バーン!
勢いよくドアが開く音がして、弾かれたように栞が入ってきた。
「バーン……? そんなキャラだったか?」
僕は目を白黒させた。栞はそんな擬音を口にするようなタイプの女性ではないはずだ。
「シャンプー、どこ?」
栞は有無を言わせず僕の背中に回り込み、濡れた肌をまさぐるように手を這わせた。
「あったー」と彼女は言い、そのまま濡れた僕の背中越しに、深く、貪るようなキスをしてきた。
一体、どうしたというんだ? 栞はそのまま、熱を帯びた身体を僕に強く押し付けてくる。
耳元で、彼女の荒い息遣いと、熱い吐息を感じた。
「このまま、して……」
栞は甘えたような、それでいてどこか切羽詰まったような声で囁いた。
激しく身体を重ね合ったあと、すっかりのぼせ上がった僕たちは、転がるようにしてベッドルームへと戻り、そのままシーツの上で行為を続けた。
それは、今までの栞との静かで確かめ合うような繋がりとは決定的に違う、もっと本能的で、焦燥感に駆られたような交わりだった。
「熱いー……」
ひとしきり行為を終え、僕たちはそのまま乱れたベッドに倒れ込んだ。
エアコンの乾いた風が、火照った身体を撫でていく。
栞は砂漠でオアシスを見つけた遭難者のようにふらふらと立ち上がり、部屋の冷蔵庫へと向かった。
「アイス、買ってたよね」
カチャリと扉を開ける音。そして、彼女が僕の元へ持ってきたものを見て、僕は息を呑んだ。
それは、鮮やかなブルーの色をした、ソーダ味のアイスキャンディーだった。
栞はそれを両手で持ち、真ん中からパキリと半分に折った。
そして、その片方を無邪気な笑顔で僕に差し出した。
「はい、これが仲良し」
その瞬間、部屋の空気が凍りついたように感じた。
それはかつて、なぎがいつも口にしていた言葉。なぎの絶対的なルール。
バニラしか選ばないはずの栞が、なぜソーダ味を? どうして、なぎの言葉を?
僕は差し出された冷たいアイスを受け取りながら、目の前にいる「彼女」の顔を、穴の開くほど見つめた。
「……栞?」
部屋の奥で、低いモーター音が静かに鳴り続けていた。



