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カンボジアにものづくりの精鋭集団を!職人を育成する実務型職業訓練校を作りたい!

カンボジアのやんちゃ小僧を職人集団に。学力、スキル、お金など、何も持っていない人でも技術とチャンスを手にできる実務経験型の職人育成職業訓練校を作り、誰もが挑戦・再挑戦できる社会を作る!

現在の支援総額

1,606,500

95%

目標金額は1,690,000円

支援者数

127

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2018/11/02に募集を開始し、 127人の支援により 1,606,500円の資金を集め、 2018/11/30に募集を終了しました

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現在の支援総額

1,606,500

95%達成

終了

目標金額1,690,000

支援者数127

このプロジェクトは、2018/11/02に募集を開始し、 127人の支援により 1,606,500円の資金を集め、 2018/11/30に募集を終了しました

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周りで働くカンボジア人(その中でもあまり仕事や生活がうまくいっていない人達)と話している時によく言われる言葉で印象に残っている言葉があります。“Because you are Japanese.”「だって、日本人だもんね」ぼくはこの言葉に「羨望」と「嫉妬」2つのニュアンスを感じ取っています。「君は日本人だからお金もあるし、ちゃんとした教育も受てるもんね。私達とは違うもの。自分達は貧乏だし、シンが持ってるような物も到底買えない。君は日本に生まれてラッキーだよ。」こんな事を言われたことが、何度もあります。 いつも答えに戸惑っていたのですが、その時に、「いやでもおれ中卒やで。君と一緒。学校行ってへんで〜」と言うと、「え、日本人なのに!?」とみんな結構びっくりします。日本にそんな人いるの?みたいな顔で、目をまん丸にして驚きます(笑)でもその後くらいから、普段の何気ない話でも明らかに今までとは違う目、違う雰囲気でしっかり話を聞いてくれるようになった、という経験が今まで何度もありました。思い過ごしではないと思います。「この人も自分と同じ」どっかでそんな風に思ってくれたから、見方が変わったんじゃないかなと思うんです。ぼくがこのプロジェクトでやりたいのは、そういうことなんです。そもそも自分自身に劣等感を持っている人は、上からだろうが同じ目線に立ってくれようが、まともな人にまともな事を言われても入ってこない。自分とは違う人たちだから。でも、同じ感覚を持った人の言葉だったらスッと入ってくる場合がある。 社会には一定数、必ず落ちこぼれがいる。本気でやれば、何だってできるし、何にだってなれる。そういうことを落ちこぼれの自分が身をもって示したい。ぼくだって、わたしだってやれる!って思って欲しい。カンボジアにもエリートはいるから、そういう人たちはどんどん良い教育を受けて欲しい。でも、社会からこぼれた人間の行き場所がなくなったらダメだと思うんです。これはカンボジアだけじゃなく、ここまで多様化した世界、学校や会社に居場所がなくたって、馴染めなくたって、きっと、いや絶対どこかに居場所はある。ちゃんとした学校や会社が100個あるとしたら、そのうちの1個くらい僕たちみたいな奴らがいてもいいと思う。学校でもない、工場でもない、そんな居場所があってもいいはず。カンボジアには体系的に学べる素晴らしい学校や職場がたくさんあります。それをわざわざ僕達が新しく作る必要もなければ、作る能力もありません。でも自分達だからこそできる事をはっきり見つけました。しかも、自分達の得意な事で。だからやってみたいんです。 カンボジアは戦後何十年経って、沢山の人が学校を建ててくれたり、教育や産業に力を注いできてくれたおかげで次のフェーズに来ていると思います。僕たちは自分たちの持っているものとしてたまたま「ものづくり」というものだったけど、パソコンや経理の学校があってもいいし、メイクやネイルなど美容の専門学校があってもいい。ダンスやアートやスポーツの学校があってもいいし、メカニックや漫画家育成の学校があったっていい。 世界はもっと豊かであるべきだ。どこにどんな才能が眠っているかわからない。好きなことを見つけて、誰もがそれに挑戦できる社会を作るべきだ。貧しい家庭に生まれたからって、選べないなんておかしい。持っている才能に気づかないまま死ぬなんてもったいない。生きる為だけに仕事をするような状況から、這い上がって何かを掴む。厳しい状況にいる人間ほどハングリーだし、学ぶ意欲はいつだって「え、なんで?」の純粋な好奇心と、「あ、そうか!」の知的興奮からくると思う。10代の頃、脳みそがシビれるくらいに影響を受けた音楽やアート。時代を揺るがすようなカルチャーは、いつだってそんな状況下から生まれていたし、そういう奴らが作ってきた。何もない何もないって言われているカンボジアから出てきたっておかしくはない。金持ちだろうが貧乏だろうが中卒だろうが一流大卒だろうがストリートチルドレンだろうがボンボンだろうが平等にある「時間」というものをBETすれば手にできるチャンス。どこで生まれたとか、なに人とか、右も左も白いも黒いも関係ないよ。いつだって世界を変えるのは「絶対にできる」って信じてる奴らだけだから。


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<未だにアジア最貧国のひとつ>2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、国民の半数を超える828万人が1日2ドル未満(地方では人口の9割が1日1ドル以下)で暮らす貧困層と推定されており、後発開発途上国に位置づけられています。 カンボジアと言ってもプノンペンなど都市部にいるとなかなか実感しづらい部分ではありますが、こういった事実が現実としてあります。 また、大きな問題のひとつに地雷や不発弾の問題があり、400-600万発残っているとされ、死傷者は大幅に減った現在でも年間100人前後(老人や小さな子供も含まれます)このままのペースだと完全撤去に100年かかると言われています。こういった見える問題以外に、貧困や教育問題がなぜ起こるのかを辿っていくと、目に見えにくい問題があります。そのような問題点は私たちの住むシェムリアップでも頻繁に見受けられます。 <学校は確かに必要>カンボジア=貧困・内戦・ボランティア・学校建設等のイメージは未だにあると思います。それらは確かに必要ですが「建てた後が肝心」と言われており、小学校だけでなく、その後を大切にする段階にきています。観光ガイドは人気でこぞって語学を学びますが、語学を習得しただけでは仕事はありません。 手に職をつけやすい料理の学校(職業訓練型レストラン)も沢山できましたが、パソコン、経理、デザイン、車の整備工等専門性が高いものがもっとあって良いと思いますし、職人を育てるものづくりの学校がほとんどない事も不思議です。 この先のカンボジアの発展は、専門性の高い分野のスペシャリストが増えることがひとつのキーになってくると考えています。   <一度死んだものづくり>カンボジアのものづくりは内戦で一度死んだと言われています。建造物を見てもカンボジアのものづくりがいかに凄いかがわかりますが、内戦後は自国オリジナルのものが極端に少なく、多くのものを輸入に頼っている事が様々な問題の原因の1つになっています。 <ボランティアでは何も変わらない>寄付に頼らざるを得ない、永遠にどこかから何かをもらい続けないと回らない既存のモデルでは状況を変える事は難しい事に多くの人が気づき、沢山の企業や団体が持続可能なサイクルを生み出す為挑戦しています。 <貧困=飢餓ではない>世界最貧国、1日2ドル以下で暮らす貧困層が多い等と言われていますが、多くの人が持つカンボジアのイメージとは異なり、農家が多いこともあり飢餓に瀕する程の人は実は少なく、普通に働けばご飯は食べられるという状況があります。 <ご飯は食べられるが現金収入が少ない>それなりに働けばご飯は食べていけるが、現金収入が少ないというのが問題点の一つです。ミシンが買えない、農業の機械が買えない、仕事に行く為のバイクが買えない、病気になったが医者に行けない、教育にかかる費用が賄えない、等の問題です。 →現金収入を得るための知識・スキル・実業が必要→正しい知識や情報さえあれば飛躍的に良くなる環境はある <専門職が少ない>カンボジア・タイで何百という業者と関わり感じた事ですが、近隣諸国と違いカンボジアにはコピペした様に同じ業種のお店が並んでいます。首都プノンペン以外の地域では顕著です。 新しいものが増えてきたとはいえ、ユニークなものは海外企業の一人勝ちが多く、原材料等も中国・タイ・ベトナム等からの輸入がほとんどです。 輸入に頼る結果原価も上がり、収入に反して物が高いという現象が起こります。 また、内戦中はメガネをかけていただけで殺されたという有名な話があります。密告制度により、知識人や目立つ人は皆殺しにされました。 これらは今も潜在的に人々の意識に残っているのではないかと感じたひとつの経験があります。 2年前、カンボジアになかったとあるものを仕立てる為テイラーを回った際、60件以上のテイラーに断られたことがありました。その理由のほとんどが「やったことがないものだから」「失敗したら怖いから」「まわりのお店はやっていないから」というものでした。 これはそれらを体感して立てた私のひとつの仮説です。 →目立てば殺された歴史→人と違う事をしたがらない・挑戦しない→街には同じ業種が溢れる・ユニークなものがない→競争が生まれない→品質が上がらない、価格が下がらない(逆に価格競争だけになる)→産業が育たない→雇用・現金収入が少ない→教育を受けさせる余裕がない こういったものが負のスパイラルを作っている一つの要因になっています。 <足りないものが多い=伸び代が多い>ただ、足りないものが多いという事は、伸び代も多い、ということです。それはカンボジアの大きな希望でもあります。私たちはそこにひとつのモデルを作ることでその流れを変えようとしています。 <プロジェクトページに戻る>


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弱小チームが強豪古豪を倒したりチビがデカイガキ大将やっつけたり三流が一流負かしたり無名の咬ませ犬がチャンピオンKOしたり幕下が横綱ブン投げたり  絶対負けるだろって舐められてる奴らが周りの予想全部をひっくり返して大逆転してしまう様なことに強烈な手ごたえを感じてしまいます。  カンボジアの決して綺麗とは言えない砂ぼこりまみれの工房で、ウチの職人や縫い手のおばちゃん達が一生懸命作ってくれたカバンが、神戸の1着7万も8万もするブティックに堂々と並んでいる光景を見た時は正直こみ上げてくるものがありました。  最初に一緒に作った幼稚園児のままごとみたいなカバンの事を考えると感慨深くて、凄く嬉しかったんです。  この脳がシビれる感じを口で説明するのは難しいけど、もっと仲間が増えて、まだ見たことない世界の人に認めて貰えたら凄く嬉しい。  ファストファッションも問題ないし、安いものを捨てて買い換えるのもスタイルのひとつではある。どれもいい。問題はそのしわ寄せが全部社会的に弱い者に来てる事。  「勝つ為に強くなればいい」でも選べない奴っているんです。  「途上国の人間はただの作業員」なんでしょうか。少なくともウチは違います。  機会や選択肢がなかったり、環境が原因で力が発揮できなかった奴って沢山いる。  今は恵まれてなくても、機会さえあれば「俺だって、私だっていつかは」「絶対何者かになってやる」そんな気持ちを持っている奴は沢山いる。  そういう奴ほど、好きな事に取り組める環境さえできれば、どれだけ力を発揮するか。  大好きな昔の漫画、ドヤ街のドブ川、涙橋の小汚いボクシングジムから世界チャンピオンを目指す「あしたのジョー」みたいに、カンボジアのゴミまみれの埃っぽいボロボロの工房から、世界に通用するものを目指している。  技術だったりサービスだったり料理だったり、形は違っても周りには同じように世界を目指して戦っている人が沢山いる。  今回のクラウドファンディングは「恵まれない人達に良い事をするから代わりにお金を預けてくれませんか」ではなく  「こういう奴らと世界目指したいので、BETしてくれませんか?」というのに近いのかもしれません。  (「誰かの為に」は続かないhttps://camp-fire.jp/projects/98666/activities/65985)  みんなまだカンボジアの事を舐めてる。僕たちの事を弱いと思っている。かわいそうだね、って手を差し伸べてくる。  そんな状況をひっくり返したいと思っている。やりたい事は全部繋がっている。  時間もお金も労力も沢山使って最初の一番しんどい所はなんとか自力で土台を作りました。  筋も通すし責任も全部自分が持ちます。  普段言いたくない事、言わなくてもいい事も沢山書いたりするかもしれません。でもたったの29日です。付き合って下さい。  どうかシェアだけでもお願いできませんか。よろしくお願いします!   CAMPFIREhttps://camp-fire.jp/projects/view/98666 Facebookhttps://www.facebook.com/1219212271/posts/10218664895873098/ Twitterhttps://twitter.com/koshin0919/status/1058335750696001536?s=21


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手段が目的になる 社会課題解決型のビジネスやボランティアは、目的が手段になってしまい「何のためにやっているのか」を忘れていきがちです。 事業ドメインや最終受益者と呼ばれるもので「本来の目的は何か」「誰にとって良いのか」という部分です。 問題を解決するために手段として生まれたはずのビジネスが、ビジネスを回すことが目的になり、問題を解決する気なんてさらさらないような団体も世界には沢山あります。「誰かのために」 そんなん嘘です。もしそれだけなら。 語弊を恐れずに宣言すると、ぼく達は「誰かのため」だけにやっているわけではありません。   好きだから、楽しいからやっているんです。 その上で、その結果として誰かのためになったり、社会のためになればそれに越したことはない。 クラウドファンディングで、君達の好きなこと楽しいことにお金を出すのか?   もっともだと思います。 でも。 この考え方の強みは「好きなことだから全力でコミットできる」という所にあります。   「誰かのために」が嘘でなくても、自分を犠牲にして誰かのために何かをするのには限界があります。 時間、お金、労力、限られた資源を、自分や誰かから得続けないといけないからです。     資源には限りがあります。いつか尽きます。 でも、湧き上がってくる気持ちは、尽きることがありません。   「好きだから」「楽しいから」という強烈にポジティブな理由に裏付けされているからです。   「誰かのために」が機能する唯一のケースは、 「誰かのために何かをすることが、自分の喜びと100%イコールで直結している場合」だと思います。   「自分の喜び」と「誰かの幸せ」がイコールになる状態。 「好きなこと」が「誰かのため」にもなる。 好きなことだから続けられる。   だから自分たちには 「寄付がなくなったので継続が不可能になりました。」 「資金が尽きたので撤退します。」   こんなことはあり得ないんです。   今まで何度も訪れた危機を自力で乗り越えてきたおかげで、ノウハウと地力が付きました。売り物にならないものを何十個も何百個も作って、直して。もしも何もない最初からクラウドファンディングなんてやっていたとしても、痛みは少なかった分、すぐに資金が尽きて終わりだったと思います。   一番辛い最初の時期を乗り切った今だからこそ意味があることなんです。 声をかけてくれる会社などができ、産業としてのアウトプットができました。「可哀想な人達を助けるので代わりにお金をくれませんか?」ではなく、「大好きな事楽しい事を一緒にすることで未来ができるヤツらが沢山増える。そこにBETしてくれませんか?死ぬほどコミットします」ということです。ちょっと偉そうに聞こえるかもしれない言い方ですが、全部本当のことです。最初から全部本音で書いていこうと思います。ぼくは自分が社会からドロップアウトした人間で、誇れるものは何もありません。でも、同じような人間には少しだけ言えることがあるんです。カンボジアで行っているものづくりを通して、社会からドロップアウトした人間にも希望を与えたい。 道端で昼間からシンナー吸ってひっくり返ってるガキンチョにも、お前にだって未来があるよって言うことを伝えたい。運が悪くても、環境が悪くても、失敗しても、生きられる場所はある。あいつみたいなバカでもできるんだから、俺だってできるはず!って思って欲しい。一度失敗した人間でも再挑戦していいんだということを知って欲しい。 ぼくの夢は「失敗しても、何か大きなことを諦めても、再挑戦する人が増える社会を作ること」です。 それをする時に、できれば自己犠牲だけではなく、自分たちや対象の人間が最高に楽しい!と思える方法でやっていきたいんです。どうかご協力いただけませんでしょうか。よろしくお願いします。