「参加」と「ケア」。これからはこの2つがキーワードになってくると思うのです。「場のチカラ」を高めるために、個人が思っていることを話す。そういう環境をつくることはとても大切です。それは「ケア」であると同時に「参加」になっています。実は最大のケアは「参加」なのではないか、と思います。それは決して、「役割がある」ということではない、と思います。「役を演じる」というか、即興演劇に近いような、そういう感じ。生きづらさの源泉は「個人」という考え方にあるのではないかと思う今日この頃。学校は、「集団生活」を学ぶといいながら、「個人戦」を強いる。「他者と比べること」で、アイデンティティを確立しようとする。結果、いじめが起こる。アウトプットを出すのは、場のチカラであって、個人やチームの力ではない。だから、そこにいるひとりひとりが「参加」すること。「ケア」されること。「ひとりひとり」と「個人」っていう概念は違うのではないか。そう思っています。場の構成員としての「ひとりひとり」であり、それは一個の「個人」ではない。決して切り離すことはできない。それがたぶん「場」という考え方だろうと思います。「参加」と「ケア」のある場をデザインすること。多くの大学生がアイデンティティの不安を抱えています。自分が何者であるか、わからない。それはコミュニティが希薄化したことが大きな要因であるといえるでしょう。また、学校社会が「夢」や「目標」をアイデンティティの要素として聞いてくることも大きいような気がします。「夢」がなければ人に非ず。そんなことないんです。常に場に溶け出していけばいいと思います。「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)を読むと、「意志」とか「未来」とか「個人」とか、幻想のような気がしてきます。そんなあいまいな世界を生きる僕たちに、「参加」と「ケア」のある場をデザインしていきたいなあと思います。 その方法論としても、「かえるライブラリー」はあるように思います。
こんにちは。「暗やみ本屋ハックツ」の宮本明里です。 「10代限定の古本屋」をコンセプトに、地域の大人から寄贈していただいた本を”真っ暗やみ”の中で探すという、少し変わった古本屋を運営しています。 またここ1年では、「YONDAY BOOK ピクニック」という、岐阜県多治見市の野外広場で月に一度、ピクニックのような気分でくつろいで本を楽しむことのできるイベントも企画しています。「『バンド組もうぜ』みたいに、『本屋やろうぜ』と言おう」というかえるライブラリーのキャッチコピーを拝見したとき、 「気軽に本屋を始めるきっかけを作りたい!」という想いが伝わってきて、良い言葉だな、と思いました。 と同時に、最近解散した大好きなロックバンドのことを思い出しました。「始まったら、続けなきゃいけない」と、無意識のうちに思っていたのかもしれません。 「もう彼らの音楽を聞けなくなる」という悲しみ以上に、「バンドって、こんな簡単に解散するんだ」という当たり前な事実に、ショックを受けたのでした。しかしそんなショックからわたしを立ち直らせてくれたのが、ボーカルの人が言っていた「他のことを始めたくなってしまったからバンドを辞めます」という一言でした。これにわたしはまたもや衝撃を受けます。笑 わたしは「バンドの人」として彼らと向き合っていたのですが、それは、社会との接点を作るために演じていた彼らの「一部」で、 本当は彼らは、「何者でもない、彼ら自身」だったのです。 バンドを辞めても、新しい別のことを始めても、彼らは「彼ら自身」なのです。 きっと彼らもそれに気づいているからこそ、「辞める」と「始める」いう選択ができたのだと思います。これは、わたしが自己表現の一つとして本の活動を続けている理由にも繋がります。本には、「何者でもないわたし」を許してくれる寛容さがあると思っています。 大学生が視野を広げるためにいろんな本を読んだっていいし、逆に建築家の人が医療の本を読んでも、誰にも咎められることはありません。 しかし現実を見ると、特に10代の若者は、「何者かにならないといけない」という呪縛と戦っている子が多いように感じます。「何者かになるための戦い」を続けるのではなく、自分の感覚を大切に、「何者でもないわたし」を受け入れる。 そんな空間を「本屋」でなら実現できるのではないか。 そんな「本屋」で出会った「何者でもないわたし」と一緒に、新しいことを始めてみよう。きっと「本屋」は、そんな「何者でもないわたし」と出会うための交差点。「かえるライブラリー」も、そんな場所になったら良いなあ。
西田卓司です。新年最初の読書報告です。「本を贈る」(三輪舎)1月1日、新年最初の1冊はこの本にする、と決めていました。本への愛が詰まった1冊。「本を贈る」を読むと、じわじわとあったかい気持ちになってきます。「本」がどのようなリレーを経て、いま目の前にあるのか、そんなことに思いを馳せるようになります。サンクチュアリ出版で営業をしていたとき、僕は駅伝の第3走者を走っていると感じながら営業していました。著者→編集者→営業→書店員→読者。僕は本を届ける第3走者を走っているんだ、って思っていました。ところが、その編集者と営業のあいだに、つまり本が原稿から本というカタチあるものになるまで、何人ものリレーを通ってきているということがこの本を読むとじわじわと感じられてきます。2017年に長野県・木崎湖の「アルプスブックキャンプ」で藤原印刷・弟こと藤原章次さんに出会い、その後東京のオフィスにお邪魔をし、一言に衝撃を受けました。「それって作品って言えるのかな」「本を贈る」では、藤原印刷・兄こと藤原隆充さんが語っています。章のテーマは、心を刷る「心刷」。創業者である藤原さんの祖母、輝さんは、タイプライターを習い、タイピストとして独立。タイプライターで原稿を打ちこむ。著者の原稿がタイピストの介在によって熱量を失ってしまうことに違和感を持った輝さんは、「一文字一文字に心を込めて打つ」ことの大切さに気がつく。ここから「心刷」というコンセプトが始まった。そして、やはり印象に残ったのはこの部分です。「情報を伝えるためだけの紙メディアがインターネットの普及で激減するのは当然のことです。一方で残っていくものとはなにか。それは、作品としての本だと思うのです。」そうそう。それが藤原印刷が支持される理由なのだろうなと思いました。印刷物を刷っているのではなく、「作品」を刷っているのだ。と。「本を贈る」はこんな風に、1冊の本がどのようにできていくのかを本になったつもりで旅をするように読むこともできるし、本を手渡す一人のランナーとして、本の流れに身を委ねることもできる、そんなあったかい気持ちになれる1冊。こんな本を僕は仕入れて届けたい本だなと思いました。「かえるライブラリー」に並んでいるのは、そんな風に、誰かが「届けたい」と思った本。その本たちは、それより前に、たくさんの「届けたい」をリレーしているんだ。そんな本が、思いが、並んだ本棚がつくる空間を、僕は見てみたい。
西田卓司です。ツルハシブックス劇団員あらため、かえるライブラリー楽団員です。2018年3月まで、とある大学の「中の人」をやっていました。ミッションは、地域志向系授業の構築・運営のサポートと授業外の大学生の地域活動のサポートでした。新潟市西区にあったツルハシブックスには、たくさんの人がやってきました、特に、新潟大学が近くにあったので、大学生が多くやってきました。大学生の悩みを聞く機会も多くなりました。その時の二大悩みが「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」でした。どうして、こんなに悩める大学生がいるのに、大学は何もしていないんだ。大学生のうちはもちろん、もっと小さいころから、地域でいろいろ実践できるようになったら、地域も元気になるし、大学生も悩まなくなるのに。ということで、大学の「中の人」になってみることにして、どんな大学を、プログラムを、つくっていけるのか、3年間、模索しました。しかし、その方法は、僕にとって、大きな失敗だったのです。それに気づいたのが、今年読んだ1冊「創造的脱力」(若新雄純 光文社新書)でした。福井県鯖江市役所内にある女子高校生だけの「JK課」やニートだけを集めた「NEET株式会社」などの攻めた企画で知られる著者のコンセプトが「創造的脱力」です。「創造的破壊」は、反発を生むので、「創造的脱力」から入る。正面からぶつからない。「うまくいったらいいな」くらいで始めてみることが大切だということでした。それか!と思いました。僕自身が大学の「中の人」になるっていうのは、まさにその「創造的破壊」のほうを志向していたのではないか?と思いました。僕は、見事に返り討ちにあいました。(笑)そもそも僕は本屋さんでした。本屋さんは、脱力系の代表みたいなものです。何か面白いことないかな、と本屋に行き、そこに本や人との偶然の出会いがあって、昨日と違う今日が始まっていく。それが本屋さんでした。「目的と目標を決めて、そのために最適化しよう。」というものではないのです。今回の「かえるライブラリー」も同じです。「この課題を解決するために、どうしてもこの企画が必要なんです」というものではありません。面白そうだな、やってみようかな、という軽い感じで人が各地で本屋を始めていくこと。そこから始まっていく「何か」。今はまだ見えない何かを期待して、脱力して「かえるライブラリー」を始めたいと思います。