「どうして落さんは、鳥公園について書く時に、演出家の私のことばかり書くんですか。もっと俳優のことを見てほしいのに」というように、西尾佳織さんに不服を申し立てられたことがある。「え、それは」と言葉につまって、だって、当時の鳥公園の作風が「西尾佳織の考えたことを世に表出する場」であった色が強かった(気がしたのです)として、そして私も西尾さんも相対的に今より若かったとして、まあいろんなことを差し引いてですよ、とにかくそれ以降、演劇について書く時には、彼女のその指摘を、私はずっと御守りのように胸の奥に持ってきた。私が演劇を観てものを書く際のくせ……劇作家の書く戯曲への偏重傾向があり、俳優や場に施された演出について深く洞察できなかった状態を、彼女にするどく見抜かれた気がしたのだった。そういう意味では西尾さんは、私の「劇評」スタイルをディレクションしてくれた一種の恩人になる。 過去に私が鳥公園について書いた劇評は今でもこのアーカイブで読める。(https://www.wonderlands.jp/archives/category/a/ochi-makiko/)『蒸発』(2013年)、『緑子の部屋』(2014年)について鼎談をしたし、劇評と戯曲の雑誌「紙背」創刊号(2017年)では『ヨブ呼んでるよ』の劇評を執筆した。そして私が主宰した演劇人によるメールマガジン「ガーデン・パーティー(https://www.mag2.com/archives/0001678567/)でも連載を持ってもらい、彼女の深い思想の一端に触れて、なんとまあ生涯かけても味わいつくせず語りつくせぬ深い湖をたたえた書き手であることよ、と毎回惚れ惚れしていた。そういう「生涯」みたいなものを頭の中に想定はしているけど「想定」は同時に「仮定」だから、もっと先のことを常に考えよう、途中で死ぬかもしれないけど、というビジョンが彼女の中にあることもわかってきた。 そんな2019年のある日。西尾佳織が、和田ながら、蜂巣もも、三浦雨林との共同演出体制を発表した日のことは忘れない。集団をサステナブルに運営していくために、人生のある局面で選択された形。これしかないよ、さすがだよ、西尾さん、その手があったか! と膝を打った。 主にあいちトリエンナーレの騒動をめぐって、公的な「助成金」の意義が大きく揺らいだ2019年。彼女たちは、作り手と支え手で相互的に見つめあおう、ともに時代を走ろう、と提案してきたのだと私は理解した。「伴走」とは、今回のクラウドファウンディングのキーワードであると思う。リターンであると同時に、彼女たち自身がもっとも求めているものなのである。 鳥公園は、一人でいて、それでいて人と一緒にいられるための場所です。 出入り自由です。 西尾さんが書いた、かつての鳥公園の団体紹介の一部だ。それによると、彼女は三人以上の集団は苦手で、二人はぎりぎり好きらしい。でも私は思う。彼女は、ひとりでは絶対に演劇をしなかったはずだ。絶対に誰かが見ていてくれると信じているから、できること、踏み出せる場所が、ある。 世界が終わる時も、作家たちが死ぬ時も、俳優たちが死んだあとのことも、いつも必ず見ていてくれる観客が、演劇には必要だ。人が長い歴史の中で繰り返してきたこと。それは、上演と観賞、創作と伴走。劇作家ひとりの視野でなく、批評家ひとりの視野でもなく、ともに目をひらきあって、私は鳥公園のことを見ていると約束したい。
この何年間か、鳥公園について、というか西尾さんについて考えていたことは『終わらせる一人と一人が丘』を控えたタイミングで実施したこのインタビュー(https://www.engekisaikyoron.net/bird-park-kaori/)でそれなりに書いたり質問したりしたので、内容が被ってしまうけれど、西尾佳織の皮膚感覚を私はとても信頼している。多くの人が「まぁ、世の中、大体こんな感じだから」と前提にしているもの、意識的な人でも「次から直していきましょう」とすることを、「それはわかるんですけれども……」と立ち止まり、考え、言葉にし、行動に移す。彼女のそうした一連は息の長い問いとなり、水紋のように広がる。その中心にあるのが今回は、劇団という集団の存在の仕方、創作のプロセスの見直しであり、公共の資金を芸術が使うことの再考なのだろう。 でも私が期待したいのは、実はその広がりの先で、具体的に言うと俳優の意識の変化だ。鳥公園の体制変更のアナウンスにもあった、ある俳優の「演出家はみんなのお父さんみたいな存在だから」という発言は決して特別なものではなく、多くの稽古場に流れている空気だと思う。最近は「自立した俳優」という言葉も聞かれるようになり、俳優同士でユニットをつくったり、戯曲を書いたり、自分達で演出もする俳優が増えている(念の為に書いておくと、戯曲を書いたり演出したりするようになることが俳優の自立という意味ではない)が、それにしても日本の俳優の多くは、戯曲を読む力があまりに足りない。戯曲や演出について語る言葉をあまりに持っていない。せりふの意味や物語の背景といった説明から、動きや声のトーンなどの具体的な指示まで、親鳥が運んでくる餌を口を開けて待つ雛鳥のように、当然の姿勢として受け身でいる人がとても多い。演出家に言われた通りにまずやってみる、という態度は俳優にとって大事だし、私自身、自意識が消えて、何か大きな対象への捧げものの器になったような俳優が好きだが、戯曲について考え、疑い、試し、それを言葉にできる俳優が今よりずっと増えたら、上演作品は飛躍的におもしろくなるだろうと夢想することは、よくある。 クラウドファンディングの本文にも書かれているが、先のインタビューで西尾さんは、俳優と話している過程で「私と劇団員の間の問題だけではなくて、客演の俳優さんやスタッフさんまで含めた私達の乗っている土台自体が腐っているのかもという考えがよぎったんです。でもそれを劇団員と話すしかないから根本的には解決しなくて」と語っている。今回のクラウドファンディングはそこを出発点にしているのだから、まずメスを入れたのが主宰&劇作家の自分と演出家を切り離し、複数の演出家を同時に迎えたことでも、治療としては俳優の意識の持ち方にまで効果が及ぶはずだ。時代感覚の鋭い劇作家が書き、知的な演出家が手掛けた舞台はそこそこたくさん観ているので、知識と感性の豊かな俳優がそこに加わる作品が増えていくのを願っている。
「鳥公園の新体制についてのコメント」 演劇は、上演にいたるまでの行程を含めて、ある運動をつくりだすことだと思います。その運動体をどのように組織するのかということが鳥公園の新体制についての声明では問われており、現行の演劇においてはその組織のありようが自明のものとなっていることへの問題提起であり、その自明さが権力構造を固定化していることへの抵抗でもあると私は理解しました。それは主体集団をつくりだすことであり、主体化のプロセスそのものです。そのプロセスによって、私たちの世界の現状における「見ること」と「言うこと」の強固なつながりが分解され、そのつながりの基準を失ったうえで、いま、私たちは何をどう見ることができるのか、何をどう語ることができるのかという問題を表明することができるようになるのかもしれません。それはつまり、いま・ここの光と音声の体制をつくりなおすことであり、可視性と言表可能性をそれぞれに力強く推し進めることだと思われます。運動はさまざまな行動(アクション)によって構成され、そのことによってカタチづくられます。しかし、主体集団による運動体は形態をつくりつつも、常に変容し続ける行程自体でもあるわけで、そこでの運動を構成するのは行動にうつる前の行為(アクト)や徴候(シンプトム)との関係なのではないでしょうか。運動体とは、そのような名づけられない行為や徴候でできた信号(サイン)を取り扱う集団なのかもしれません。複数性によって構成されている新体制というのは、人物による複合体というだけではなく、このような行為(アクト)の集まりではないかと思います。「行動」が既にカタチづくられた主体に関係づけられるのに対して、「行為」は主体が誰なのかが判別できないままに、未だ主体として形成されえない分子的な集合体によってなされるものです。いや、なされるというよりも、上演にいたる過程でいくつもの「行為」が生じてくると言うほうがいいのかもしれません。この世界はおぞましく耐えがたい出来事に満ちています。それを前にして、すぐに行動にうつれる状況もあります。押されたら押し返すように。何か言われたら何かを言い返すように。そのように現実へのアクションをうまくカタチづくれる場合もあって、それが表現になっていたりしています。社会にはびこる空気をモチーフとしたフィクションのつくりかたがうまい人たちもいます。けれども、私はあまりそのような創作現場を信用していません。私はすぐに行動にうつれないからです。おそらく、既にある価値観によってなされる行動では動けないからだと思います。おぞましく耐えがたいものを前にして、それをただただ呆気にとられて見ることしかできない。それらの出来事はおそらく、既にある人間の経験によってつくられた基準からは大きくはみ出しているように感じます。そうでありながらも、私たちは人間の経験のレベルにうまくおさまるようにそれらを認識しようとタカを括っています。おぞましく耐えがたいものに対しては愚直な態度で臨むというのでもない気がします。素直で不器用な表現なんてものが、それ自体で価値づけられるわけがありません。率直さや素朴さも、耐えがたさへのステレオタイプな反応にすぎないからです。西欧的な個人重視の主体よりもアジア的な主客の曖昧な価値観のほうへというのも同様のクリシェの反復です。戦略が必要だと思います。私たちの行動を細かく微分していき、それらの行為を変数として書き込むような戯曲を書くこと。権力に結びついてしまう主体による行動を解体し、再度、それを微弱な身ぶりに変換するような上演のために。この行為には誰からも顧みられない弱さ(マイナー性)しかありませんが、そこには表現としての強度があります。強度とは、未だ到来することのない物事へと開かれる力です。私たちの時間は「既に」と「未だ」の間の現在にあって「既に」を基準に進みますが、新しい体制のもとにある時間は、その「既に」のうちに「未だ」を見だすためにこそ動きだすのです。
昨日藤原ちからさんにいただいたメッセージの中に、いくつか問いかけがあったので、お返事したいと思います。(藤原さんのメッセージの中から、問いかけの部分のみを抜粋しています) * * *藤原:まず今回のCFの文章を読みながら気になったのは、「呼びかけている対象は誰なのだろう?」ということでした。「鳥公園のファン」+「東京を基盤にしている舞台芸術関係者」でしょうか。Google翻訳も難しそうな複雑な日本語で書かれている以上、例えば海外で舞台芸術の状況を憂いている人たちの存在は(あえて?)対象には入れていないように映りました。→西尾:呼びかけている対象は、日本の舞台芸術界の創作環境についての問題が、自分にとって切実なものである人。日本の舞台芸術の、関係者+観客層です。今この段階で話しかけたい人の中に、海外の人は入っていません。海外の人と/海外でのプロジェクトも鳥公園の活動に入ってくると思いますが、今回のステートメントおよびCFによる問題提起は、あくまで日本の人への呼びかけです。(高嶺格さんがあいちトリエンナーレについて書かれたこちらの記事が、鳥公園の今回の呼びかけの対象について理解していただく助けになるかもしれません。)藤原:また、メンバーの和田ながらさんは京都を拠点に活動されていますが、にもかかわらず今回のCFのリターン(闇鍋や読書会など)を享受できる場所がほぼ「都内」か「横浜」になっているのは、主な対象として関東在住の人が想定されているのかなという印象を受けます。例えば京都の舞台芸術関係者や観客が、このCFを自分たちに関わるものとして受け止めることができるのかどうか。→西尾:これについては、ご指摘いただいて、確かにそうだな!と思いました。ということで急いで「西尾・和田のクリエイションに伴走 in 京都」コースをリターンに追加する申請をしました。週明けには追加されるはずです。藤原:「連帯」や「関係」を考える上ではフィジカルな(直接対面できる)場は重要です。もちろんある特定の場を選択するのはやむをえないことですが、関東という場を選択しているという事実について自覚しているのか、無意識なのか……。文面からは後者に思えてしまい、関東から遠い場所にいる人たちが参加できるような「かかわりしろ」はあまり感じられませんでした。「観客育成」と言う時、それは関東在住(特に東京?)の観客のことを想定されているのでしょうか。→西尾:今回CFを初めてやってみて知ったのですが、CFは「商品の売買契約」なんだそうです。なので、リターンとして設定するからには確実に実行できる内容でないといけません。「クリエイションのプロセスに伴走してもらう」という提案をしたいと思ったら、大体であってもいつ頃・どこでそのクリエイションが実施されるのかを明示する必要がありました。今の時点で提示できる活動内容が関東(東京)に偏っているのは、まずそういう事情も大きいです。 それからこれは私個人の考えですが、「観客育成」のために最も有効で面白いのは、「お客さんのために何が出来るか?」を考えることではなく、「アーティストが今一番やりたいことをやって、そこにお客さんも立ち会ってもらえるようにする」ことだと思っています。なので、ながらさん、蜂巣さん、三浦さん、私のうちの誰かが「○○に行って××をしたい」と言ったら○○に行くことになり、それがリターンに反映されますが、「お客さんのために」が先に立ってクリエイションが各地で行われる、というアタマは私には全くありませんでした。(余談ですが、東日本大震災の後に「今、アーティストとして出来ること」というフレーズを伴って社会貢献的なアートプロジェクトがたくさん出てきたので、びっくらこいちゃいました!という菊地成孔さんのブログに、大きくうなずいた覚えがあります。アーティストなんか、いつでも自分の作品をつくることしか出来ないのであって、地震が起こる前と後とでやれることが変わるわけではない。アーティストとして、東日本大震災直後に何かやれることがあるとしたら、募金か復興ボランティア、といった旨が書かれていて、真っ当な方だなと思いました。) でも、私たちが話しかけたいと思っているのは「関東の(東京の)観客」ではなくて、「日本の舞台芸術の観客」です。「すでにある舞台芸術界の観客」だけでなく、「舞台芸術の潜在的な観客」にもリーチしていきたいと思っています。 まだ具体的な活動計画として提示できるところまでいっていないのでCFには現れてきていませんが、3人の演出家とは「あそこに行きたい」「ここでこれをやりたい」という話をたくさんしているので、今後色々なところへ出かけていく企画も生まれてくるでしょう。 また、「西尾・三浦のクリエイションに伴走」コースは、リサーチから生まれてくる戯曲手前のテクストの断片や、「ヨブ呼んでるよ」戯曲のリライトについて西尾・三浦が往復書簡的に交わすやり取り、劇作家合宿の成果戯曲をお届けする内容なので、どこにいてもクリエイションのプロセスを受け取ることができます。藤原:日本の助成金のシステムには確かに問題があり、問題はより深刻化しつつあると感じます。だからこそ、芸術や文化行政に関わる人たちがそのあるべき姿について議論していくことも重要なのでしょう。ただその時に、その多くの議論が、どうしても「日本」の「舞台芸術」の枠内だけで考えて問題解決を図ろうとしがちに見えるのですが、そのやり方には限界があるのではないかとわたしは感じています。日本の行政組織の問題、人々のアートフォビアの問題、モデルとなりやすい西欧との「公共性」意識の違い、それらの結果として現れてくる「税金=公共性=検閲=自主規制」という連鎖的なロジック……等々、突破しないといけない壁があまりにも巨大すぎ、「日本」の「舞台芸術」に対する正面突破ではその固い壁を崩すのは困難にも思えます。日本という国家が一度解体されるくらいの変化が必要なのかもしれません。壁に杭を打ち続けていくことは必要でしょうが、一方で、例えばジャパンマネーに依存しすぎないで活動する方法を模索する、といったことも新しいエコシステムの構築に繋がるかもしれません。金は天下の回りものと言いますが、日本円だけでなく、この地球上に出回っていたりストックされたりしているいろんなお金をどう循環させていくのか。お金の問題にかぎらず、「日本」だけではないフィールドで変えられるところから変えていく、という戦略も必要ではないでしょうか。 また、日本国内においても地方都市を拠点(のひとつ)にする人にとっては、「日本」という国単位だけでなく、その地域や周辺地域でその土地に発生しているグラヴィティ(重力)と向き合いながらどうやってエコシステムをつくっていくかという課題もあります(グラヴィティについてはこちらを参照 https://www.engekisaikyoron.net/korekara_3/)。その場合、他地域の事例を参考にしたり時には連携したりしつつ、かなり具体性のある活動を地道にやっていく、ということになるはずです。例えばその人たちにとって鳥公園の「実験」が、有効な参考事例として映るのか、それとも前衛的だけど無関係なものとして映るのか。例えばフィジカルな場として東京・横浜をメインとする場合、それらの都市に特有のグラヴィティとどう向き合うのか、鳥公園なりの解像度(分析・ヴィジョン)がもっと具体的に見える必要があるのではないでしょうか。現状では、わたしの目にはその解像度がまだ粗いものとして映っています。→西尾:これについては、全体的に同意します。が、私にとって今重要なのは「どこで」よりもまず「誰と」をつくることです。これまでの鳥公園の活動で、私ひとりなら、あるいは一個の作品をつくる座組みのメンバーという形なら、行こうと思えばけっこうどこにでも行けるもんだなと思ってきました。でも、上手く言えないのですが、もうちょっと他者と(?)一緒に行けるようにならないとダメなんだと思っています。今の状況ではつまり、ながらさん、蜂巣さん、三浦さんと。あるいは彼女たちが具体的な作品を一緒につくるメンバーたちと一緒に、「ここに行きたい」という場所に行けるようになることが、大事だと思っています。 まだ上手く説明できないので、今後の展開をお待ちください!藤原:「創作のことだけを考えて過ごせる時間」とは? 提言の中で書かれていたこの言葉の意味を考えています。例えばわたし自身にとっても、考えごとをしたり創作に集中するための時間は必要不可欠なので、それが「当たり前に必要」という言葉には同意します。ただ、提言の文面からは、それがどのような種類の時間を意味しているのか理解しきれなかったので、もう少し、どういう意味なのかお聞きしたいと思います。 例として挙げられていた城崎国際アートセンターでの滞在制作は、わたしも経験していて、確かに理想的な環境だとは思いますが、その城崎にしても、あの環境を創造して支えてきた人たちの努力があり、地域コミュニティとの関係構築や、政治との距離等、いろいろ簡単ではないこともあるはずです。個々の滞在アーティストにもよるでしょうけども、あの場所にひとりひとりが滞在して町の人たちを魅了してきたということ自体が、あの理想的な環境を少しずつ育ててきた、という言い方もできると思います。もし、「つくり続けるための場所と方法」として、城崎のような環境をいろんなところにもっとつくりたい、と考えるのであれば、誰かがそのために尽力しなければなりませんし、時間もかかります。 最近、ある村で活動するアーティストに会ったのですが、彼女は地域おこし協力隊としてその村に入り、公費を使ってアートプロジェクトやレジデンス施設を創造しようとしています。その村においては、アートにまつわる場をつくること自体が一大ミッションで、膨大な交渉や説得が必要なことは想像に難くありませんが、では彼女にとって「創作のことだけを考えて過ごせる時間」とは、そのようなやりとりのプロセスも含むのか、それとも誰かがつくってくれた「自分だけの部屋」やアトリエや稽古場に籠もって創作に打ち込む時間のことだけを指すのでしょうか。→西尾:誰かに用意してもらった環境を一方的にいただくだけではなくて、みんなが環境そのものからつくっていく必要があると思っています。私の場合でいうと、新所沢でアーティストインレジデンスを始めたいことと、鳥公園を物理的な場ではなく概念としての〈場〉にしていくことがそれに当たります。 その、地域おこし協力隊としてある村に入って頑張っているという方は、すごいですね。尊敬するし、どうか倒れないで、と思います。 個人が負える分量には限界があるので、結果が出ない時期も耐えながら生き続ける方法、みんなで生きていく方法を考えたい。 具体的な話になりますが、地域おこし協力隊でも、色々なスタートアップの助成金でも、スタートを支援する仕組みは3年が多い気がします。が、実際には3年で結果を出すのはとても難しいことなんじゃないか。(……と、私はそういう取り組みを自分でしたことがないのに書いてしまっていますが、ここからまず3年新体制でやってみようとしている者としての想像です。)結果って、「出す」より「自ずと出る」しかないもののような気がするので、個人でも3年は頑張れるけど、その後もその頑張りを続けるためには3年という時間を、個々の頑張りをネットワークでつなぐことにも使わないといけないんだろうと思います。 今回のメッセージを色々な方にお願いしたのも、そういう意図があります。「鳥公園が頑張る」のではなくて、鳥公園がこれまでお世話になってきた方だけでも色々な場所で、色々な思想をもって、様々な取り組みをされている方々がいらっしゃるので、まずはそこを可視化してつなげるようなプラットフォームとして、今回のCFを機能させられないか?と思ったわけです。藤原:最後に、コレクティブの形についてですが、作・演出をできる人たちが集まっている中で、戯曲は西尾さんが書く、のだとしたら、鳥公園はやはり主宰と劇作を務める西尾さんを軸にして回っていくのではないかと思います。そのような中心的な構造(役割分担)を保持することが果たして理想的な「公園」なのかどうかはやや疑問です。今後様々な役割分担の可能性を提案できるようになれば、もっと「公園」らしくなるのかもしれません。鳥公園が必ずしも「公園」を目指す必要はないと思いますが、集団内における権力や意思決定のあり方については最近いろいろ考えているところでもあり、コメントとして触れておきます。→西尾:コレクティブ、という名前で何人かの方からご紹介いただいているのですが、実は私自身は、この形態を果たしてコレクティブと言っていいのかな?とちょっと迷っています。知っている既存の名前だとコレクティブが一番近そうですが。 自分で書いた説明としては、ステートメントの中の 「複数演出家制というのは何かというと、鳥公園は所属する人を抱える集団ではなく、建物のない劇場のようなもので、そこのアソシエイトアーティストとして複数の演出家がいるイメージです。プラットフォームとして、戯曲があります」 という部分が、私+3人の演出家の集まり方についてです。つまり、役割はハッキリ分けたいということです。対等でありたい。でもそれは、なんという言葉で言うのが適切か分からないのですが、例えば「平等」とは違うんだと思います。 優等生的に生きてきたので、「悪しき平等主義」のようなものに苦しめられてきました。人はみんな違っていることを、体感として私はものすごくよく理解している。でも頭の方に、「人は平等であるべき」と染み込んでいます。作・演出を兼ねている状態では、自分に権力が集中することを恐れ、平等さを崩すことを恐れるあまり、自分の言葉やふるまいを矯めている部分がありました。その解決法として、今回の新体制を思いつきました。 人が複数いれば、権力は必ず生じます。権力を拒否することは暴力を生む、と、自分自身が権力を引き受けることを恐れて宙に浮かしてきた時間の中で、思うようになりました。このことについては、きっとキックオフミーティングでお話しします。(ちなみに、劇作もやるのは三浦さんだけで、ながらさんと蜂巣さんは演出専門です。)
今回の鳥公園の創作体制変更に始まる問題提起に対して、様々な方から応援や応答のメッセージをいただきました。ご紹介していきます! * * * 鳥公園の新体制に向けた試みは、重要な「実験」のひとつだと捉えています。9月に発表した文章(https://artscape.jp/focus/10156996_1635.html)でもわたしはこの新体制移行について少し触れましたが、流動性を増すアジアの舞台芸術において、「持続可能なエコシステムの構築」は大きな課題になっていると認識しています。鳥公園の「実験」は今後の舞台芸術の共有資産となりうるものでしょうし、今回のクラウドファンディング(以下CF)も建設的な議論を呼び起こす試みとしてぜひ機能してほしいと思います。ただ、提言文が「支援」を検討する側にとっては長くて複雑であり、舞台芸術の未来を変えようするためのものなのか、鳥公園という個別の団体を応援するためのものなのか、混乱してしまうというのが正直な印象です。 ともあれ、「応援のメッセージ」でなくてもいいので鳥公園の今回の問題提起に対してコメントを、とご依頼いただいたので、何かしらの対話に繋がることを願って、以下に思うところを書きます。▼呼びかけている対象は誰なのか? まず今回のCFの文章を読みながら気になったのは、「呼びかけている対象は誰なのだろう?」ということでした。「鳥公園のファン」+「東京を基盤にしている舞台芸術関係者」でしょうか。Google翻訳も難しそうな複雑な日本語で書かれている以上、例えば海外で舞台芸術の状況を憂いている人たちの存在は(あえて?)対象には入れていないように映りました。 また、メンバーの和田ながらさんは京都を拠点に活動されていますが、にもかかわらず今回のCFのリターン(闇鍋や読書会など)を享受できる場所がほぼ「都内」か「横浜」になっているのは、主な対象として関東在住の人が想定されているのかなという印象を受けます。 例えば京都の舞台芸術関係者や観客が、このCFを自分たちに関わるものとして受け止めることができるのかどうか。「連帯」や「関係」を考える上ではフィジカルな(直接対面できる)場は重要です。もちろんある特定の場を選択するのはやむをえないことですが、関東という場を選択しているという事実について自覚しているのか、無意識なのか……。文面からは後者に思えてしまい、関東から遠い場所にいる人たちが参加できるような「かかわりしろ」はあまり感じられませんでした。「観客育成」と言う時、それは関東在住(特に東京?)の観客のことを想定されているのでしょうか。▼助成金とジャパンマネー 日本の助成金のシステムには確かに問題があり、問題はより深刻化しつつあると感じます。だからこそ、芸術や文化行政に関わる人たちがそのあるべき姿について議論していくことも重要なのでしょう。ただその時に、その多くの議論が、どうしても「日本」の「舞台芸術」の枠内だけで考えて問題解決を図ろうとしがちに見えるのですが、そのやり方には限界があるのではないかとわたしは感じています。日本の行政組織の問題、人々のアートフォビアの問題、モデルとなりやすい西欧との「公共性」意識の違い、それらの結果として現れてくる「税金=公共性=検閲=自主規制」という連鎖的なロジック……等々、突破しないといけない壁があまりにも巨大すぎ、「日本」の「舞台芸術」に対する正面突破ではその固い壁を崩すのは困難にも思えます。日本という国家が一度解体されるくらいの変化が必要なのかもしれません。壁に杭を打ち続けていくことは必要でしょうが、一方で、例えばジャパンマネーに依存しすぎないで活動する方法を模索する、といったことも新しいエコシステムの構築に繋がるかもしれません。金は天下の回りものと言いますが、日本円だけでなく、この地球上に出回っていたりストックされたりしているいろんなお金をどう循環させていくのか。お金の問題にかぎらず、「日本」だけではないフィールドで変えられるところから変えていく、という戦略も必要ではないでしょうか。 また、日本国内においても地方都市を拠点(のひとつ)にする人にとっては、「日本」という国単位だけでなく、その地域や周辺地域でその土地に発生しているグラヴィティ(重力)と向き合いながらどうやってエコシステムをつくっていくかという課題もあります(グラヴィティについてはこちらを参照 https://www.engekisaikyoron.net/korekara_3/)。その場合、他地域の事例を参考にしたり時には連携したりしつつ、かなり具体性のある活動を地道にやっていく、ということになるはずです。例えばその人たちにとって鳥公園の「実験」が、有効な参考事例として映るのか、それとも前衛的だけど無関係なものとして映るのか。例えばフィジカルな場として東京・横浜をメインとする場合、それらの都市に特有のグラヴィティとどう向き合うのか、鳥公園なりの解像度(分析・ヴィジョン)がもっと具体的に見える必要があるのではないでしょうか。現状では、わたしの目にはその解像度がまだ粗いものとして映っています。▼「創作のことだけを考えて過ごせる時間」とは? 提言の中で書かれていたこの言葉の意味を考えています。例えばわたし自身にとっても、考えごとをしたり創作に集中するための時間は必要不可欠なので、それが「当たり前に必要」という言葉には同意します。ただ、提言の文面からは、それがどのような種類の時間を意味しているのか理解しきれなかったので、もう少し、どういう意味なのかお聞きしたいと思います。 例として挙げられていた城崎国際アートセンターでの滞在制作は、わたしも経験していて、確かに理想的な環境だとは思いますが、その城崎にしても、あの環境を創造して支えてきた人たちの努力があり、地域コミュニティとの関係構築や、政治との距離等、いろいろ簡単ではないこともあるはずです。個々の滞在アーティストにもよるでしょうけども、あの場所にひとりひとりが滞在して町の人たちを魅了してきたということ自体が、あの理想的な環境を少しずつ育ててきた、という言い方もできると思います。もし、「つくり続けるための場所と方法」として、城崎のような環境をいろんなところにもっとつくりたい、と考えるのであれば、誰かがそのために尽力しなければなりませんし、時間もかかります。 最近、ある村で活動するアーティストに会ったのですが、彼女は地域おこし協力隊としてその村に入り、公費を使ってアートプロジェクトやレジデンス施設を創造しようとしています。その村においては、アートにまつわる場をつくること自体が一大ミッションで、膨大な交渉や説得が必要なことは想像に難くありませんが、では彼女にとって「創作のことだけを考えて過ごせる時間」とは、そのようなやりとりのプロセスも含むのか、それとも誰かがつくってくれた「自分だけの部屋」やアトリエや稽古場に籠もって創作に打ち込む時間のことだけを指すのでしょうか。▼コレクティブの形態 最後に、コレクティブの形についてですが、作・演出をできる人たちが集まっている中で、戯曲は西尾さんが書く、のだとしたら、鳥公園はやはり主宰と劇作を務める西尾さんを軸にして回っていくのではないかと思います。そのような中心的な構造(役割分担)を保持することが果たして理想的な「公園」なのかどうかはやや疑問です。今後様々な役割分担の可能性を提案できるようになれば、もっと「公園」らしくなるのかもしれません。鳥公園が必ずしも「公園」を目指す必要はないと思いますが、集団内における権力や意思決定のあり方については最近いろいろ考えているところでもあり、コメントとして触れておきます。 藤原ちから(orangcosong、アーティスト/批評家)