本日10月22日は即位礼正殿の儀でした。天皇陛下が即位を内外に宣言する儀式で、海外の要人も多数来日されたとのこと。 さて、山田川(志染川)に「幸座橋」という橋が架かっています。「幸せ」が「座る」橋•••?平安時代中期に鳥羽上皇が摂津国に行幸されたときのこと、丹生山田の里の豪族、栗花落(つゆり)邸を訪れ御製を賜りました。「丹生山の くるすの花は咲きにけり 湧きて流るる つゆの井にして」 橋の名前は地名にちなんだものがほとんどですが、「幸座橋」はこの行幸に由来するのでした。
1770年ごろ、徳川10代将軍家治の時代の話です。村の田畑は日照りの害が多いのにもかかわらず租税が高く、かねてから代官に訴え続けてきたのに聞き入れられなかったそうです。 このあたりの領主だった下総古河藩主土井大炊頭が、領内見回りのついでに福地に立ち寄った時のこと。当時の庄屋の子、村上新兵衛がこの石の陰から突然飛び出し、年貢の軽減を訴えました。 当時直訴は大罪です。新兵衛は直ちに捕らえられますが、15歳の少年が述べる筋が通った言い分を聞いた大炊頭は大いに感心し、少年の勇気を称して、罪を問うことなく許したうえ、年貢の軽減も聞きとげたといいます。 村人の喜びの記念として残された「新兵衛石」は、神戸市バス111系統福地バス停から無動寺へ行く途中にあります。「新兵衛石」の由来を記した石碑
9月30日の活動報告『はじめまして!』では、ここ「丹生(たんじょう)山田の里」の由来を、神功皇后が行幸されたという故事によると簡単に説明しました。なぜ「丹生」かわかりますか?今回改めて紹介させていただきます。 広辞苑で「に【土・丹】」と引くと①つち。②赤色の土。あかつち。あかに。③赤土で染めた、赤色。と出てきます。赤土が産出される土地だったのでしょうか・・・? 播磨国風土記逸文に、神功皇后が新羅出兵のとき、山田の里のある山の赤色の丹土を魔除けとして船などに塗り、無事帰国したというくだりがあります。この故事が「丹生山田の里」の由来となっており、その山は「丹生山(たんじょうさん)」と呼ばれることになりました。 上の写真は、丹生山の麓にある鳥居です。ここから山頂の丹生神社(たんじょうじんじゃ)まで参道が続きます。参道を行くと山に差し掛かるあたりに宝物殿があり、藤原鎌足の木像、明要寺曼陀羅図(平清盛贈、後述)、豊臣秀吉書状、同茶釜などが収められています。通常は年1回のみ公開しますが、ほかの史跡とあわせて内部をご案内するツアーをリターンとして準備しております。丹生神社宝物殿参道 神仏習合の地とされた丹生山には、山頂に明要寺跡があります。541年、百済国聖明王の太子童男行者の建立とされる明要寺は、神戸の福原に遷都した平清盛が参詣したと伝えられています。明要寺曼陀羅図は平清盛が福原京遷都にあたり、比叡山を背後地とする平安京になぞらえて、丹生山一帯を首都鎮護の地にとの願いを込めたものでしょう。しかし、明要寺の繁栄も戦乱の世のなかで終わりを告げます。この話は日をあらためて紹介いたします。
10月13日、六條八幡宮で流鏑馬神事が行われました。 六條八幡宮は丹生山田の里の総鎮守社で、ここで行われる流鏑馬神事は神戸市指定無形民俗文化財にも指定されています。旧13か村が毎年持ち回りで担当しており、今年は下谷上地区が担当でした。 当日はまず山田町最古と言われる東下大歳神社に参拝し、七社神社で流鏑馬を行います。七社神社では神社から外に向かって流鏑馬を行います(「駆け出し」といいます)。その後六條八幡宮で神社に向かって流鏑馬を行います(「駆け入り」)。 流鏑馬神事の起源は600年前〜300年前と様々な説があるようですが、いずれにしても中絶、再興を繰り返しながら今日まで受け継がれてきた丹生山田の里が誇る伝統行事です。みなさま是非お越しいただけたらと思います。 六條八幡宮 七社神社での流鏑馬「駆け出し」
【桜井駅跡】で地元のボランティアの方に楠公父子の別れのお話をお聞きしました。10月7日、南北朝時代、生田の森(神戸)で戦い忠臣として散っていった大楠公(楠正成)のゆかりのある史跡を訪ねて、多くの方にご参加いただいて、バス旅行を行いました。バスの中では、武庫川女子大学名誉教授野村貴郎先生(当会顧問)の楠正成のお話をお伺いしながら、桜井の駅跡(大阪府三島郡島本町)や石清水八幡宮(京都府八幡市)を訪れ南北朝時代の歴史を少し学んだ気になりました。