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「話せない、つながりがない…」 来日した難民の方々に日本語学習を提供したい!

キャンプファイヤー 寄付型のバッヂ

「日本語ができないから仕事が見つからない」「スーパーや病院で会話ができない」「住んでいる地域にとけ込めない、つながりがない」そんな困りごとがあるにも関わらず、在留ステータスによって日本語学校にさえ通うことができない難民の方々に日本語を学ぶ機会を提供するための受講資金300万円を募るプロジェクトです。

現在の支援総額

3,119,192

103%

目標金額は3,000,000円

支援者数

281

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2020/06/08に募集を開始し、 281人の支援により 3,119,192円の資金を集め、 2020/08/14に募集を終了しました

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「話せない、つながりがない…」 来日した難民の方々に日本語学習を提供したい!

現在の支援総額

3,119,192

103%達成

終了

目標金額3,000,000

支援者数281

このプロジェクトは、2020/06/08に募集を開始し、 281人の支援により 3,119,192円の資金を集め、 2020/08/14に募集を終了しました

「日本語ができないから仕事が見つからない」「スーパーや病院で会話ができない」「住んでいる地域にとけ込めない、つながりがない」そんな困りごとがあるにも関わらず、在留ステータスによって日本語学校にさえ通うことができない難民の方々に日本語を学ぶ機会を提供するための受講資金300万円を募るプロジェクトです。

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こんにちは、4月よりLIPの監事となりました鈴木瞳と申します。本業では企業の広報などのお手伝いをしています。ここまでたくさんの方にクラウドファンディングへのご協力いただき、ありがとうございます。私は監事ということで団体から一歩離れた立場ではありますが、このプロジェクトは、誰かの人生を変える取り組みに、自ら選んで参加できる機会と思って寄付をしました。他人の人生を丸ごと抱えるのは普通の人たちにはできませんが、ちょっとずつ参加することができたら、多くの方にとって、それは前向きで自分を好きになれるアクションだと思います。------難民プロジェクトのM.Yです。私は自治体職員をしており、現在の業務では、様々なマイノリティの立場に触れる機会があります。 これまで知る機会の少なかった様々な立場に触れ感じることは、当たり前ですが、属性に関わらず一人ひとりがそれぞれの暮らしを生きる一人の人間であるということです。難民の方についても同じです。 難民について知るようになり、自分自身、一人ひとりの「顔」が見えない、「難民」という言葉に勝手なイメージを持っていることに気が付きました。 しかし、難民という立場に置かれてしまった方にも、当然のことながら、これまで生きてきた歴史があり、それぞれの価値観や考えがあります。決して「難民」という均一な集団がいるのではありません。 私は、少しでも難民の方々一人ひとりが生きやすい社会になることを願いながら、難民プロジェクトに関わっています。 難民の方々が日本で暮らしていくためには、言語の壁は非常に大きいものです。 このプロジェクトへ、ご無理のない範囲で、皆さまのお力添えをいただけますと幸いです。------難民プロジェクトの小林裕二です。私は本業ではメーカー向けに法人営業として勤務しており、仕事を通じて、人事の方やエンジニアの方とよくお会いします。この仕事をしていて良く思うのが、外国籍の方という理由だけで、懸念に思う企業が少なくないということです。そもそも外国籍の方の受け入れ態勢すら整っていないため、日本国籍のみの採用に限定しているのが現状で、難民なんて話をすれば、頭にはてなが浮かぶ方も多くいらっしゃいます。 ただ、その状況も仕方ないことだとも思います。私自身も日本で暮らす難民の方と偶然出会ったことで今こうして支援活動に関わっているのですが、それまでは難民問題なんて言葉しか知らないような状況でした。 「ネットカフェ難民」なんて言葉からでしょうか、難民という言葉だけが独り歩きしていますが、日本では難民問題なんて話題にも出てきません。 日本での難民問題は非常に認知度の低い問題でありますが、グローバルで見ると難民の問題は非常に大きな人道的な問題です。 認知度も低い、難民認定率も低い日本では難民問題に無関心であると捉えられてもおかしくないのが実態です。 このクラウドファンディングを通じて、最も皆さんにこの難民問題の現状を知ってもらえるのが何より力になります。 そして、その中で少しでも共感してくださった方が、些細でもお力添えして頂ければ、非常に嬉しく思います。 ------こんにちは!Living in PeaceのM.Oです。マイクロファイナンスプロジェクトの所属ですが、難民プロジェクトのファンドレイジングを成功すべく、助っ人として飛び入り参加しています!教育は誰しもがどこにいても受けられるべき基本的な「人権」であり、社会を構成する全ての人々が幸福な生活を営むために欠かせません。現代の日本で外国の人々が人間らしく生きるためには、何よりも日本語を学び、地域の人々との相互理解を深める必要があります。私たちが住む日本で、どんな人であっても、健やかに幸せになれるようになり、そして様々な達と「共に生きる」道を一緒に歩けたらなと思います。------Living in Peace(LIP)難民プロジェクトのS.Tです。本業ではコンサルタントをしております。昨年度LIP-Learning(オンライン日本語学習)をトライアルで提供した5名からいただいた受講後の声から、「ことば」を習得することは、孤独を脱し、可能性を広げることにつながることを改めて感じました。 「地域の人たちとコミュニケーションをとれるようになりました」「多くの友人ができました」「難民ではなく、祖国にいるような感覚を味わうこともあります」命の危険と隣り合わせになりながら、時には子どもを抱えてやっとの思いで逃れた地で、このように感じられるようになる方が増え、少しずつ心の平穏を取り戻しながら暮らしていけるようになることを願っています。 皆様からのご支援がそれを後押しする力となります。ご無理のない範囲で、お力添えいただければ非常に嬉しく思います。どうか、宜しくお願いします。最後にバトンをつなぐのは、代表理事の龔軼群です!


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Living in Peaceの朴日豪です。自らの意思とは無関係に祖国での生活を失い、異国で生活することになった難民や移民が、当該国で理解される言語を使えず、自らを説明できない苦しさは、私にとって他人事ではありません。2年ほど前、パスポートを持たずに海外旅行をした時のこと、現地で新幹線に乗ろうとするたびに、パスポートの提示がない以上は乗せられない、と咎められ、毎回立ち往生する経験をしました。その時は幸いにも旅行先の国出身の友人が毎回1時間近く交渉してくれたおかげで事なきを得ましたが、ただでさえ理解されづらい自分の生い立ちや、パスポート不所持の経緯を自らの言葉で説明する事ができない自分に大きな無力感を感じました。当該国で一般に理解される言語でコミュニケーションが取れない場合、ましてや苦難から逃れた先の異国における生活のあらゆる場面で生じるそれは、そこに至った経緯と相まって、生きていくための気力を簡単に奪ってしまいます。言語を学ぶことは、就職活動や試験対策の手段に留まりません。社会の中で自身を表現し、その存在を証明するための強力な手段です。彼ら彼女らが言語の壁を超えてその経験を語ってくれるとしたら、日本社会にさらなる多様性と豊かさをもたらしてくれるような気がしています。もし可能性を感じていただけたら、ご支援いただけると幸いです。明日は、監事の鈴木瞳にバトンをつなげます!


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こんにちは、LIPの有澤孝治です。私はシエラレオネという西アフリカの国の国連機関に勤務しており、本業では移民問題に取り組んでいます。難民問題に直接関わりを持ったのは、南スーダンで仕事をしていた時で、一緒に働いたスタッフも難民キャンプで育った人だったりと難民問題が身近な環境で勤務しました。その後日本に戻ってきて、日本の難民認定率を知った時には、あのアフリカの諸国があれだけの難民を受け入れているのに、これだけ豊かな日本が受け入れられないのは何故なのかと愕然としました。 私は、一人でも多くの日本にいる難民の人達に「日本に来てよかった」と思われる国にしたいと考えながら、難民プロジェクトを立ち上げました。 皆様のご支援よろしくお願いします。------<「何もしない自分」にはならない>こんにちは、難民プロジェクトのA.Iです。私は学生時代、夏休みにヨルダンに短期留学し、ボランティアで難民キャンプ/都市難民の支援をしていました。ヨルダンでは、シリアから逃れた難民のほとんどが現地コミュニティと触れ合う機会がなく「居場所」がない日々を過ごしていました。 当時学生だった私には些細なことしかできず、虚しさを痛感しました。日本に帰国後はなかなか難民に関係した活動ができず、世界には悲しんでいる人がいると知っているのに何もしない自分に腹が立った時もありました。(写真はヨルダンの都市難民の住居です。コミュニティから疎外された場所で生活しています)でも、この日本語事業に関わってからは、あの頃の虚しさや無力感はありません。LIPのチームメンバー、協力してくださる他団体のおかげで、私は悲しんでいる人のために力になれるのです。ヨルダンと違い言語の問題がある日本では、さらに「居場所」の問題は顕著になると思います。 パイロット事業で支援している難民の方々は、困難な状況下でも前向きに日本語の勉強を続けています。支援者選定のスクリーニングを行った時、様々なバックグラウンドを聞きました。不安もある中で日本を好きになり、日本で生きていく決意をした方々を心より応援したいと思いました。メンバーの朴日豪にバトンをつなぎます!


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 6月8日にスタートをしたクラウドファンディングも、残すはあと4日となりました。     ついに、寄付金額が200万円を突破いたしました! 今回は難民プロジェクトにとって初のクラウドファンディングでした。 どれだけの支援を頂けるのか時には不安を抱えながら突き進んできましたが、現時点で170名以上の方々からご支援いただきました。ここまで到達できたのも皆様から寄付を頂くだけでなく、SNSの情報発信や応援のメッセージなど、様々な形で応援いただいたおかげだと思っております。 残り4日、300万円の目標まであと95万円ほどが必要です。 ラストスパート、最後まで駆け抜けます!応援のほどよろしくお願いいたします!


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こんにちは、Living in PeaceのS.Sです。ちょうど10年前の8月頭、NGOでのインターンシップのため、私はケニア共和国のダダーブ難民キャンプに降り立ちました。今回バトンを渡されて私が書こうと思えたのは、この時に出会った一人の難民の友人Aのことです。私が彼と過ごした期間はたった2か月に過ぎず、彼の人生の一端を垣間見たに過ぎませんが、私がキャンプを離れた後も、私は彼に少なからず精神的に支えられてきました。私は、Aのことをケニアに行く前から知っていました。Aは、私が日本で関わっていたプロジェクトの支援対象候補のうちの1名だったからです。アントレプレナーの発掘のように、難民の中からアーティストを発掘するというプロジェクトで、彼は最終選考に残った3組のうちの1組のボーカルでした。プロジェクトスタッフの中でも女性人気が高かったと記憶しています。彼と最初に対面したのは、パーティーの場でした。キャンプに行ったばかりの頃、当時UNHCRの代表であり現国連事務総長のアントニオ・グテーレス氏がダダーブに来る機会があり、援助機関がそのためのウェルカムパーティーを開きました。パーティーといっても、援助機関職員のレクリエーション目的で設置されているボコボコのテニスコート一面にプラスチックの椅子を並べ、前方に台を用意した程度のもので、当然、屋根はありません。Aは、このパーティーで、アーティスト候補だったの他の2組と一緒に、聴衆である援助機関職員の面前で歌を披露しました。式次第が一通り終わった後、アーティスト発掘プロジェクトを主導していた知り合いのK氏が、私とAを引き合わせてくれました。しかし、Aが自己紹介をしてくれているのに、私は一言もしゃべれませんでした。受験科目としての英語は得意でしたが、英語環境は初めてだったので、緊張して何も話せなかったのです。二人とも私が何かしゃべるのを待っていましたが、私が一言も発しなかったので、その場は適当に切り上げて挨拶程度に終わったと思います。その後、彼と親しくなり英語にも慣れた後、Aに、「最初、英語が話せなくてこいつ大丈夫か?って思った」って笑いながら言われたのをよく覚えています。援助機関は、コンパウンドと呼ばれる地区に集住し、その中でコックや清掃員を雇って生活しています。難民や地元のケニア人をインセンティブ・ワーカーとして雇っているため、所得創出の機会にもなっており、Aは、インセンティブ・ワーカーの一人として、ショップの店員をしていました。3畳程度のショップにはパサパサのビスケットや暑さで溶けたチョコといったお菓子やハンガー等の生活用品がおいてある程度でしたが(屋根はあります。)、援助機関職員であるお客さんから話しかけられることもよくあるので、コックや清掃員と異なり英語が求められていたと思います。Aは、英語を含め4カ国語を自由に操るので、ショップ店員として十分すぎる程の能力を持っていました。私が生活していたコンパウンドから彼のショップまでは、援助機関が集住する長方形のコンパウンドの西側を縦に走る一本道を15分ほど歩いていきます。一本道にライトはポツポツとしかなく、午後6時半頃になると真っ暗になります。帰りが遅くなったときは、真っ暗闇の中を携帯の液晶で足元の砂を照らしながら、車にひかれないように道の端っこを歩いて帰っていました。コンパウンドと外界を仕切る金網フェンスに巻き付いているトゲトゲの固い草が足元の柔らかい砂の中から顔をのぞかせていることがあり、それをサンダルで踏み抜いて怪我しかけたこともありました。最初は1週間に1回程度で、店に立ち寄っても少し話す程度でしたが、そのうちほぼ毎日通うようになっていました。インセンティブ・ワーカーはコンパウンド内に住み込んで働いていましたが、難民は、家があるキャンプまで時折、帰っていました。ショップの壁は、日本でよく見かける網目のフェンスで囲まれているため、中に誰がいるか遠くからでもわかるのですが、ドアが閉まっている場合には店が閉まっておりAがいないことを意味します。ショップに向かう道からドアが閉まっているのが見えた時は、別のショップで買った20円の瓶コーラを片手に、自分のコンパウンドまでトボトボ歩いて帰っていたものでした。3畳程度の狭いショップでしたが、Aがいつも小さな椅子を出してくれたので、私はそれに腰かけて、小さなカウンター越しに彼と話していました。日本の小学校低学年の頃に内戦で祖国を追われた彼は、東アフリカの難民キャンプを家族とともに十数年転々として、ダダーブに来たと話していました。両親と兄弟で確か8人ほどの家族の中で、唯一の稼ぎ手は彼のみで、弟・妹達は学校に通うくらいの年齢だったはずですが、そうした重圧にもかかわらず、彼はいつも優しく寛大で、愛想がない私に対していつも笑顔で話しかけてくれました。長年にわたる避難生活に比べたら、雨がほとんど降らず強い日差しが照り付ける酷暑の砂漠であっても、居住する場所と収入があるだけ安定している方だったのかもしれません。援助機関側の人間である私に何かを乞うようなことも全くなく、私とほとんど年が変わらないのに(一つ上)非常にしっかりした人でした。援助する側と援助される側という所与の関係があるためお互いにどうしてもバイアスがかかってしまいますが、足繁く通っていた私と一人の友人として付き合おうとしてくれていたように思います。長年援助を受ける側として生活してきたにもかかわらず、援助慣れせずに語学も勉強しており、人間として本当に強く、心から尊敬していました。彼との話の大半は他愛もないもので、スワヒリ語を教えてもらったりしていました。彼のショップで買い物をすることはほとんどありませんでしたが、アイスがあったのでそれを買って一緒に食べたりもしました。日中40度近くにまでなる砂漠の中でたまに食べるアイスは格別で、甘いものを日常的に摂取する食文化で生きてきたAにとってもきっと同じだったのではないかなという気がします。冷凍庫の温度が高くて溶けているものもありましたが、それはそれで良い思い出です。丸々2ヶ月滞在した最後の日、平日でしたが、午前の業務時間中に彼のショップに行きました。彼に会った最初の頃から、私がいつまで滞在予定かは話しており、短い短いと散々言われ続けていたくらいなので、この日が最後になることも彼には当然話していました。もう会うことができないとわかっていたのでお互い非常に名残惜しかったですが、彼は最後に、いつも身につけていたビーズのブレスレットを記念ということで私にくれました。黄色と黄緑色のビーズが交互に斜線に並べられたきれいなもので、そのブレスレットは今でも身につけています。普段ショップを開けている間はお店を離れることはできないのですが、別れ際、彼は少しの間だけ私を見送りに来てくれました。それでもお店から10メートルもない程度ですが、その彼の気持ちが嬉しかったのを覚えています。最後に彼と抱擁して、別れました。私が覚えている彼の最後の姿は、彼がショップの方に振り返りながら私に手を振っくれた時のものです。カメラを持ち歩いていなかったので、彼との写真がそもそもあまり残っていないのですが、最後の姿は10年が経とうとしている今でも頭の中に残っています。こうしてインターンを終えて日本に帰ってきましたが、SNSで彼と繋がっていたので帰国後もそれなりにやり取りしていました。確か2013年頃だったと思いますが、彼が第三国定住することになったとの連絡がありました。特にダダーブからの第三国定住の門は狭く、その中でも彼の家族が選ばれたのは彼の語学力や能力もあると思いますが、本当に幸運だったと思います。この時、私は彼から初めて送金をお願いされました。彼からお願いされたのは、後にも先にもこの時だけだったと思います。私はかなり迷いましたが、これを断りました。お金を裨益者個人に直接送るという極めて生々しい行為に強い抵抗があったためでした。今まで、少なくとも私にとっては対等な友人として付き合うことができていたのに、この時に送金したために、彼と私を繋ぐ紐帯がお金になってしまうのも嫌でした。私と同じように難民キャンプでインターンをした先輩に相談したところ、その先輩が知り合った難民に送金したら、その後連絡が途絶えたという話も聞いていたのも響きました。ただ、彼はダダーブにいた頃から苦しい生活だったのは恐らく間違いないなく、私がキャンプに滞在していた頃から一度もお金を無心されたことはないので、この時は本当に切羽詰まっていたからお願いしてきたのかもしれないと今でも思います。結局、彼と家族は無事に第三国定住できたようですが、これを端緒に、彼から連絡があってもその内容が淡泊になったように感じています。彼とは今でも繋がっていますが、この選択が正しかったのか、わかりません。今となっては、AとSNSで若干やり取りしたり彼の投稿を見たりする中で、彼もやはり普通の人間のような側面があるのだなと感じることはあります。私が直接援助していたわけではないものの、援助する側と援助される側という関係性から、非常にデリケートで壊れやすく、難しい関係だと思います。しかし、10年前に難民キャンプで出会い、非常に優れた語学力だけでなく努力家でもあり人格者でもあったAの人間像や滞在中に築いた彼との友情は、私という人間が感じた紛れもない事実です。そんな彼の姿を、私が本当に辛い時に思い出して励まされることもあります。事後的に美化されている部分はあると思いますが、彼にはそうやって今でも精神的に支えてもらっています。今回のプロジェクトを支援することで、彼ら/彼女らを応援しながらも、その姿を見て逆に励まされるということはあるのではないでしょうか。今回のプロジェクトが、難民の就労支援に繋がることはもちろんですが、難民というバイアスを取り除き、一人の人間として支援対象者の方と向き合う一つの機会になり、難民に対する認識が変わるきっかけになれば嬉しいです。シエラレオネから活動に参加している、有澤孝治にバトンをつなぎます。※本記事は、特定を避けるため、国名や氏名等を省略しています。