毎年3.11周辺で開催されている江古田映画祭にて、もやい展主催中筋の動画作品「コンセントの向こう側」「fine 2-2-A 219」が一挙上映されました。会場は満員御礼。上映後のトークには詩人宮尾節子さんも登壇され、震災後の「言葉」について熱いトークが繰り広げられました。その模様をNHK首都圏情報番組「ひるまえほっと」の松尾レポーターが密着撮影!前日からのもやい展準備シーンの撮影分も含め3月10日の午前11時30分からの放映時間枠内で15分番組として放映されます。みなさん、もやい展がどう出来上がっていくのか?? 事務局の奔走ぶりをご覧くださいませ。
一枝さんはいつも福島にいる。今日は飯坂の集会所、明日は南相馬の仮設住宅。あの人のこの人の話を聞きたい、前に話を伺った方は今どうしてるだろう、、。福島県内を東奔西走。菩薩のような語り口で被災者の話を聞き取ってそれを自らの言葉で記す。「聞き書き」をこの10年続けていらっしゃる。聞き書き 南相馬(新日本出版社)南相馬を「定点」に、「3・11」以降足繁く通い続け、“汚されたフクシマ"から再び立ち上がる一人ひとりの物語なぜ福島なのか、、。それは30年前からライフワークとして続けていらっしゃるチベット問題への取り組み、そしてもっと前の自らの出自、満州からの引き揚げにあるのかも知れない。「弱者がいつも不条理にさらされる社会」時は流れても不条理はなくなるどころか一層色濃く人々の背後に迫る。福島原発事故から10年が経とうとしているが、復興色が強いニュースの中で取り残されている弱者たちがいる。その弱者たちの口から発せられるもの中にこそ、起こったことの真実が隠されているのではないか、、。一枝さんは今日も福島にいる。そして人の話を熱心に聞き、それを記録し続ける。ふくしま 人のものがたり(新日本出版社)原発事故で生活が一変した、ふくしまの五人の人生に丁寧に向き合い、それぞれの感情の襞奥に分け入って綴られた物語。2月28日発売作家の渡辺一枝さん。応援メッセージありがとうございます。******************************************今、ここからは海は見えない。以前は家の一部の土台が残っていて、かつてそこには人が暮らしていたと分かる場所だった。今そこは真新しいアスファルト道路を挟んで芝生の原と植栽の広場になり、南に目をやると、コンクリートの高い防波堤が見えるだけ。海は見えない。 初めて訪ねた10年前の夏以来何度も通い、仮設住宅で被災者の方達から話を聞かせてもらった。話を聞いて自宅が在ったという辺りに行ってみれば、そこには暮らしの跡が何も残っていなくても、例え草茫茫の荒れ野でも、聞いた話から被災前のそこでの日々を想い浮かべることはできた。私の想像が実際とは似て非なるものであったとしても、そこには人の暮らしが存在したということが、確かに窺えた。草茫茫の向こうには、海原が光っていたから。 今、ここに立っても、かつてここに人の暮らしが在ったことは窺い知れない。暮らしの残骸は片づけられ、それらを覆っていた草はすっかり刈り取られ、砂礫の広場になった。そこに立っても被災前のそこがどんなだったか、想像すらできない。かつてそこに住んでいた人でさえも、前がどんなだったか思い出せないのだから。こうして記憶も消されていった。やがてそこには工事車両が行き交い、真新しいコンクリートの建物が出来上がった。こうして記憶はベリッと剥がされて、全く別物がそこに嵌め込まれていった。初めてここを訪ねる人には、嵌め込まれた別物が以前からのこの地の姿だと意識付けられるだろう。こうして地図は塗り替えられ、歴史は消されていく。2021年4月。抗う者たち、記憶を消し、歴史を消す力に抗う者たちが、それぞれの船を舫い合い、大きな船団を組んでタワーホール船堀にやって来る。彼らは物語を紡いでいく者たちだ。そこに在った暮らしを、そこに生きた人々の思いを未来に繋いでいく者たちだ。彼らの集う場に立つあなたもまた、物語を紡ぐ一人になる。伝えていこう!消されぬ歴史を!来たれよ!もやい展へ!!渡辺一枝(わたなべいちえ)1945年、ハルビン生まれ。89年に18年間の保母生活に終止符をうち作家活動に入る。チベット、中国、モンゴルへ旅を続けている。著書に『時計のない保育園』(集英社文庫)、『チベットを馬で行く』(文春文庫)、『わたしのチベット紀行』(集英社文庫)、『風の馬 ルンタ』(本の雑誌社)など多数。『マガジン9条』発起人の一人。ご主人は作家の椎名誠さん。******************************************「もやい」それは、荒縄の強固な結び。3.11から10年、福島原発事故と向き合ってきたアーチスト達の個々の表現が東京都江戸川区タワーホール船堀で結ばれます。絵画、彫刻、写真、造形、詩、歌、舞……福島の現実と命の輝きがあなたを包みます。未来へ語り紡ぐメッセージ発信の場を、皆さんと創造したいと願っています。一人でも多くの方にこのプロジェクトを知っていただくために、引き続きのご支援・そして周りの方への拡散を、何卒よろしくお願いいたします。クラウドファンディングページ https://camp-fire.jp/projects/view/338425Twitter https://twitter.com/2019moyaiInstagram https://www.instagram.com/2019moyai/Facebook https://www.facebook.com/2019moyaiもやい展HP http://suzyj1966.wixsite.com/moyai★もやい展2021東京スケジュール★場所:江戸川区 タワーホール船堀 1F展示ホール・5F大ホール (東京都江戸川区船堀4-1-1)日時:2021年4月1日(木)〜8日(木) 1-6日/10時~20時 7日/10時〜21時 8日/10時〜17時入場料:展示ホール入場無料!!
「もやい展2021東京」の目玉の一つは白崎映美さん率いる「白崎映美&東北6県ロ〜ルショー」ライブです。あつく煮えたぎる東北の魂が乗り移ったかのような楽曲は果たしてもやい展アート作品とどのような化学反応を起こすのでしょうか! とっても楽しみです。ライブは期間中4月7日(水)18時より開催! 展示を見た後には白崎映美さんの歌声に酔い、自分の中の熱いエネルギーをたぎらせてみてくださいね。ライブプロモーション動画はこちら↓ごまめの歯ぎしりで、東北さいいこと来い、福島さいいことどんと来い! と歌ってるけど、誰に届いてるのか心許なくて途方に暮れることがある。 人間は忘れる生き物で、忘れなければ生きていけないのもほんとだけど、人間が人間の悲しみを、重く、辛く、とても長く続く悲しみを、つくったことは忘れちゃだめだ。 蝦夷と呼ばれたおらがだ東北人、中央から攻められて“まつろわぬ民”(支配されない、迎合しない、抗う、いうこと聞かない)と呼ばれた東北人。 東北人はもっとでっけえ声出していんでねが!小説「イサの氾濫」を読んで血が沸きたってオラ、東北6県ろ〜るショー‼というバンドをつぐりました。世の中いろんなことが起こりすぎて日々起こることに流されそうになるけど、「もやい展」中筋純さんを中心に、忘れないぞ!と仲間が集っている。東北6県ろ〜るショー‼を呼んでくれてありがとう!みんなと生きていきたい。気がつけば、声の小さい人、力の弱い人がまた隅に追いやられている。力とお金でうりゃあ、と持っていかれる世界に笑って手を振って、あったかい世界に、みんなで行きたい。白崎映美(歌手)皆さんは白崎映美さんをご存知ですか?日本を代表する女性歌手のひとりで、「愛より青い海」や「いつでも誰かが」(スタジオジブリ「平成狸合戦ぽんぽこ」主題歌)などのヒット曲で知られる上々颱風(しゃんしゃんたいふーん)の“歌姫”として、日本中の面白い場所でお祭りライブを続けてきました。日本の芸能がアジアや世界各地の音楽と融合したかのようなポップス、ツインボーカルの魅力的なハモリは、日本発のワールドミュージックともいわれ、多くのファンを魅了しました。転機は東日本大震災です。そこで、社会もさることながら30年も続いたバンドの内部で何かが変わったのでしょう。上々颱風は2013年に活動を休止しました。山形県酒田市出身の映美さんは、中3のとき、酒田大火で町そのものが焼かれ一家が被災者となった経験があります。映美さんの心の奥にそんな原点があるからこそ、福島や東北の惨状に人一倍心を痛め、苦悩し、居ても立ってもいられなくなったのだと思います。八戸出身の木村友祐さんの小説「イサの氾濫」に東北人魂を鼓舞されて、東北6県ろ〜るショー‼というバンドを結成、被災地はじめ各所で活動を開始しました。未来社 (2016/3/7) 1980円 抑えきれないこの衝動は / たしがに あなた方の末裔だ 山漕ぎ野漕いで 自由に生ぎる / オラ方の先祖は まづろわぬ民だ そごを越えでゆげ 越えで越えで越えで 代表曲「まづろわぬ民」は、古代から東北の民が抱えてきたマグマを一気に噴出させるかのような土着的ロックです。ときの権力に不条理や原発を押し付けられたら、哀しみや怒りを忍耐づよく堪えるのではなく、「イヤだ!」と叫んでいいんだと。ロック、ジャズ、歌謡、民謡などが混淆し、東北の土着感がうねりを上げるサウンド。巨大な神様や東北の芸能によるコラボで祝祭的でありながら、権力への反骨心と立場の弱い人びとへの共感に満ちたステージは、自身のルーツにまっすぐに降りてゆく勇気と圧倒的な生命エネルギーで私たちに困難を生きぬく力と喜びを放ちつづけています。ふかい祈りや太陽のような慈愛とともに。東北出身の“歌姫”から、東北をうたう“東北歌姫”へ———。映美さんは大胆な変貌によって、社会的に多くの人の関心を惹きつけるようになりました。近年は、「風のおはなし」や「夜ノ森月ノ下」など、福島の帰還困難区域の人びとに想いを寄せ、切々と歌ったうたが感動的で胸にしみ入ります。そして今、それは福島の人に限らず、コロナ禍で人と人が分断される状況において、「行きたいけど行けない」「会いたいのに会えない」世界中の人にとって、共通の切実さをもつようになりました。今回、もやい展において中筋さんや関係アーティストとともに東京で久々に行う東北6県ろ〜るショー‼は、あれから10年経っても「この先もずっと忘れないよ〜!」と渾身のメッセージを送るコンサートになることでしょう。すぐれた芸能の民は、電気はつくらないけど元気をつくり、鬱屈した気持ちを解放する力をもっています。(斎藤)「夜ノ森月の下」の舞台、富岡町の夜の森桜並木(2021年2月)双葉町の東日本大震災原子力災害伝承館で浪江町の今野寿美雄さんにレクチャーを受ける今野さんのご実家、浪江町赤宇木地区を訪問。防護服を着て鍵を開けてもらって帰るご実家。集落の歴史は平安末期に始まったそうです今野さんのご実家の内部。猿の住処となって荒れ果てたまま白崎映美山形県酒田市出身。1990年、上々颱風でエピックソニーよりデビュー。JAL沖縄キャンペーンCM、スタジオジブリ「平成狸合戦ぽんぽこ」映画音楽、海外ツアー等、多岐に渡る活動で支持を集める。(上々颱風は2013年初頭より活動休止)。東日本大震災を経て、「白崎映美&東北6県ろ~るショー!!」を結成し、アルバム『まづろわぬ民』(2014年)を発表。2019年には、2ndアルバム『あほんだら』と白崎映美&白ばらボーイズとして初のCD『群衆 La Foule』をリリース。大所帯のバンドから流しスタイル、ソロまで、ロック、歌謡、民謡と形にとらわれず自由なスタンスで精力的にライブ展開中。近年は舞台主演、映画やTV出演、執筆など活動の場を広げている。酒田観光大使。2017年秋、平成29年度酒田ふるさと栄誉賞を拝受。http://www.emishirasaki.com/
震災後、詩や短歌を読んでは震えることが多くなった。そしてその震えはやがて繋がりへと変化していく。震災や原発事故は分断を生んだと言われるが、物理の法則に従えば必ず反作用が現れる。震災後たくさんの人と繋がった。その繋がりには必ずまことの言葉があった。言霊が反作用を生み人々を繋げたのだ。宮尾節子さんの詩に出会ったのは、あの忌まわしき安保関連法案が力づくで決められようとし、世の中が騒然とした時だった。「明日戦争が始まる」はツイッターで瞬く間に拡散され、僕の目にも届いた。戦争は軍靴の音でやってくるのではなく人の心がじわじわと作っていく世界に頷いた。今の時代も同じ。covid19そのものより恐ろしいのは人の心とそれが作り出す「現象」だ。そしてその陰にはいつもまやかしの言葉があってその現象を支えているのだ。宮尾さんとはその後、ご縁があって知り合うこととなった。福島被災地へ一緒に旅もした。目に飛び込む花鳥風月に言霊を与えようとする。まるで荒野に放たれた妖精のような振る舞いが印象的だった。そんな彼女に詩作や朗読を勧められ、恥ずかしながらも試してみるとこれがまた心地よいことに初めて気づいた。詩歌は言語の初期形態。人が言葉にできない風景に出会った時に思わず口にする、嗚咽、嘆息、そして歓喜、、、。それを文字に乗せて記号化した初期の初期の形なんだと思うようになった。そんな形だからこそ、声を出して朗読することで完結する。詩歌とはそんな存在なのかもしれない。もやい展は言葉の展示も一つの特徴だと考えています。出展作家が記したステイトメントも、作品を見る前でも後でも構いません、ぜひ熟読してみてください。そして宮尾さん、素敵な応援メッセージありがとうございました。(中筋)浪波、という詩を書いて浪江町の歌人の三原さんと出会った交流が深まって初めて 福島も訪ねた何度か 足を運んだそれからわたしのパソコンのキーボードは「なみ」と打つと「浪」が先に出るようになった浪が出ると涙が出るようになった帰らなくなったわたしの土佐のふるさとと帰れなくなった三原さんの福島のふるさとを思い「帰らないのと帰れないのは違う」と言った三原さんのことばを思い出し *三原さん:三原由起子さん福島とわたしの出会いは、東北大震災からである。爆発事故を起こした福島第一原発のそばの海岸に打ち寄せる、波を見てからと言ってもいいかもしれない。原発が爆発するという未曾有の大事故が起きて、いったい日本はどうなるのかと皆が不安になって釘付けになったテレビの画面で、いつもと変わらず海岸に打ち寄せる白い波の姿が印象に残った。それは何も知らずに、いつものように遊ぼうとやってくる近所の子供たちの姿のようだった。「遊べない」と断られて帰っていっては、それでもまた「遊ぼうよ」とやって来る。大変な事故を起こした原発建屋のそばで、波はそんな無邪気な姿を見せていた。これから、日本で今まで起きたことのないことが起きる。そうしたら、きっとこの波のように、草や木や山や川や海たちの自然、虫や小鳥や魚やそのほか、自然のなかで生きとし生ける無垢な生き物たちが、取り残され、置いてきぼりになるのだろう。理由も分からず犠牲になるのだろう。その始まりの波を見ているようで胸が痛んだ。そんな思いで「波」という詩を書いて、その詩を読んでくれたのが浪江町(なみえちょう、と読むと。なみえまち、だよと教えてくれたのも彼女)の歌人・三原由起子さんだった。詩を読んで、「福島のひとかと思った」と言ってくれたのもおどろきだった。震災の時、震災の詩を書くのは詩人たちには敬遠された。当事者でもない者が、感情だけで同調するのは軽はずみだとの警戒、警告もあるのだろう。人としても表現としても、吟味せよとの。よくわかる。私も手の動くままに、書いてしまったあとで、でもどうだろうと、思わないわけではなかった。ただ、福島はわたしの知らない場所だが。ふるさとは、わたしも知っている場所だ。ふるさとを、思う気持ちは誰も同じだろう。「ふるさと」として福島を見るとき、きっと気持ちはひとつになれる。そう思った。なので、福島の人かと思ったと、三原さんに言われたときは、書いてよかったとうれしかった。部外者がものを語るとき「当事者でない」という躊躇がある。そのことについて「誰が世界を語るのか」という詩も書いた。悲惨な経験に向き合うことがつらいという理由で、当事者が黙り、関係ない者は黙れという非難や躊躇に、当事者でないものが黙ってしまえば…わたしは、本当に思ったのです。じゃあ、いったい「世界は誰が語るのか。世界は誰が変えるのか」と――。そして、どうでしょう。今、この時が来ました。新型コロナウイルス感染症の感染拡大が、国境を超え世界中に広まった。世界中の誰もが、当事者になってしまったのです。さあ。わたしたちはもう逃げも隠れもできない当事者として黙るのでしょうか。それとも、声をあげるのでしょうか。アクションを起こすのでしょうか。答えを探すのに、もう誰に気兼ねも要りません。そこに、私たちは着いたのです。つまり、答えを自分の手のひらに握っているのです。表現はもどかしく、無力です。詩も写真も絵も音楽も芝居もあらゆる表現、芸術活動はそれ本体では生きられません。手に取ったり、足を運んだりしてくれる読者や観客がいなければ、なりたちません。震災から10年が経ちました。もやい展に集まった表現者たちの見せる世界を、こんどは、自分たちの身に降りかかったこととして眺めてみてください。感じてみてください。そこに、わたしたちの答えの手がかりが怖いほど見つかるはずです。状況は瓜二つです。見えない敵、防護服、外出自粛、接触禁止、閉店した店、人の居ない町、風評、失職――中筋さんが撮り続けている景色、みなさんがそれぞれに表現で訴え続けている作品たちは、今、ひと事ではなく、わたくしの事として迫ることでしょう。最後に、私の好きな詩を置いて「もやい展」の応援とさせてください。***ひとりで、ひとつの島全部である人はいない。だれもが、大陸のひとかけ。全体の部分をなす。土くれひとつでも海に流されたなら、ヨーロッパは、それだけ小さくなる。岬が流されたり、自分や友達の土地が流されたと同じように。わたしも人類の一部であれば、だれが死んでも、わが身がそがれたのと同じ。だから、弔いの鐘は、だれのために鳴っているのかと、たずねに行かせることはない。鐘はあなたのために鳴っているのだ。ジョン・ダン「危機に瀕しての祈り/誰がために鐘が鳴る」***もやい展はあなたの展覧会です。なので、あなたに応援を頼みます。宮尾節子宮尾節子プロフィール高知県に生まれる。第10回現代詩ラ・メール新人賞受賞(1993年)既刊詩集に『くじらの日』(沖積舎・1990年)、『かぐや姫の開封』(思潮社・1994年)、『妖精戦争』(微風通信・2001年)、『ドストエフスキーの青空』(文游社/影書房・2005年)、『恋文病』(微風通信/精巧堂出版・2011年)がある。最新刊は「女に聞け」2014年初頭。突然、ネット上で一篇の詩「明日戦争がはじまる」が爆発的に拡散し、詩の検索ヒット数は1200万件を弾き出した。この詩で一世を風靡した宮尾節子は、その後も普段着のままで、「明日の詩集」を模索。このほど、クラウドファンディングの応援を得て、新刊詩集、『女に聞け』をここに出版。女、戦争、暮らし、宮尾節子の明日の詩53篇!
2019年3月金沢21世紀美術館で開催されたもやい展。そのブースの一つに、震災後の福島に関する詩歌表現を集めたコーナーがあった。そこで上映されていた動画作品中で、今春の解体が決まった浪江町の浪江小学校校歌が流れるワンシーン。アコーディオンのイントロが流れるや否や起立し人目もはばからずに校歌を歌い出した一人の女性がいた。井上美和子さん。肩書きは文筆朗読家。でもその肩書きは震災以降に生まれた。本職はギター職人の奥様、自らはギター屋の嫁と名乗る。浪江で生まれ震災当時は南相馬市に家族四人で暮らしていた。崩れゆく原発の姿を見て移住を決意。今は京都府の北部で暮らす。言葉にできない震災の惨状は却って人の心にしまわれた言霊の眠りを覚ますのか?ある出来事がきっかけで、「喪失の先に浮かび上がるぬくもり」「失望と無念の中で去来してくる想い出のふるさと」をテーマに避難後の関西での出逢いや気づき等をモチーフに書き留めてきた。それらは「ほんじもよぉ語り」という朗読作品となって、2019年秋から朗読公演が行われている。もやい展20201東京展では4月3日の正午より展示ホール内の特設ステージで開催!震災後10年の悲喜こもごもの人間ドラマと四季折々の小さな暮らしのスケッチが浪江弁で語られる。 乞うご期待!!井上美和子さん、応援メッセージありあとうございます。『節目の解ける刻・2021』 井上美和子朝ぁ目ぇ覚めっと。あぁ。今日だな。今日になっちまったなぁ。て思うのな。布団さ入ったまま壁のカレンダーの方さ、頭だげグルーンて回して目ぇ凝らす。やーっぱなあ。わがってっけっちょよぉ。ため息ついだり。無駄に一回、布団ズリ上げて潜ってみだりよ。なんちゃねぇわい。今日さえ過ぎっちまえばよ。だのって、我あごど何回かなだめだぐれにして。毎年設定のアラーム鳴る14:46。祈った。故郷の方角向いて。まーた足先さぽたぽた涙落としっちまー自分はよ。張ってねえつもりが気ぃ張っちまってだんだなぁ。ほうでもねーどいらんにぇがんだべな。そんじもほのうぢなんぼか肩の力抜げでくる。3月11日の日ぃ暮れっ頃。まる一年が暮れる2012年のとっきがらまる二年が暮れる2013年、まる三年が暮れる2014年、毎年そうだ。ほぼほぼ今日1日をやり過ごさっちゃ安堵が、ちんとずつ自信になるみでな。夕方6時は、そんな、ほどげでくる時間なんだよね。ほして開けたほの次の朝。カレンダーの12日を、じーっくど見でよ。昨日が足跡になってぐ、私らの新年度を、迎えんだよね。よーぐ落っこんねーで来らっちゃなぁ、私。みんなで真っ直ぐ、前の方、見据えでよ。そんな事を、書いておく、311から10年の夕方だ。2009年8月の盆の入りの頃。地元の夏祭りに浴衣を着せて行くはずが、娘達が爆睡で大誤算。夜になってから目覚めたところ。後ろの洗濯物の部屋干しが滝の様。今は笑える。懐かしい。2017年の大晦日前日。秋口、隣(と言っても徒歩3分)のポニー牧場の場長さんが、井上家が埋もれる程の雑草を見かねて草刈りを申し出てくれた。おかげで冬枯れの景色として収まっている。感謝してもしきれない。手前の立入禁止の看板は、除染完了後まもなく、粗大ゴミの不法投棄に見舞われたのを受け、夫が急いで南相馬へ帰宅、私の父(浪江の避難者)と片付けた後に設置したもの。敷地は除染建設作業員との事前打ち合わせ通り、花壇や畑も剥ぎ取られ、運び去られて無くなっていた。『文筆朗読家への導き』2017年10月、京都で上演された、中村敦夫さんの一人朗読劇「線量計が鳴る」を最前列で観賞し、感動と共感で大いに高揚した私は、その帰り道で、「原発避難した母親版があったらいいのにな」と考えていた。あの夜、中村敦夫さんの舞台から与えられた、私たち福島人の可能性。私は嬉しくなってその気になって作品を書き始めた。それが、私の小さくて大きな一歩だったと思う。原発立地自治体・周辺自治体に暮らし、東電構内に仕事があったり、東電を顧客として生計を立てていた地元住民の人達。私は自分も含めて「原発により近かった人々」と表す。事故発生から10年の間に生じた、数々の見解や偏見。事故発生直後の、より近かった住民達の避難報道の記憶は、「事故の検証」という言葉を機に急速に薄れていった。一人一人の記憶から既に消えかけている、原発により近い住民達の、避難の実態や変遷を、どうしたら残せるのだろうか、、、と考え続ける10年だ。不安と恐怖の発信源となった東電福島第一原発。あの絶望的な原子炉建屋の緊迫映像。「一巻の終わり」という言葉が頭をよぎっていた。飲み水から。農作物から。地面から。側溝から。計り知れない放射能汚染の実態が次々と明らかにされ、多くの人が自分の身を守る為にニュースに釘付けだった日々。その頃。原発からより近い場所から避難した人々が、何を思い、どうしていたのか。どうしているのか。あきらめと喪失と共に飲みこんだ言葉。飲みこんだ言葉はため息に代わり。お酒に代わり。鬱に代わり。生きる事そのものの苦しみに代わる事を、私たちは目の当たりにしてきた。腹の底に蓄えた想いや叫びを聴き合えない閉塞感。私たちが共感できる何かを探し続けて来た。中村敦夫さんの公演後に抱いた、「避難の母親版」への想いを温め始め、一年半が過ぎた2019年5月。決断。「一人朗読劇を始めます!」とSNSで宣言、だらしない自分の退路を絶って(笑)作品を書き、準備を進め、2019年9月、京都府のみとき屋さんで『ほんじもよぉ語り』の初演を無事に迎え、翌週には京都市内で公演、そして次の公演、次、次、と繋がり、イベント出演に朗読でとお誘いが来たり、文筆朗読家・井上美和子がスタートしたんだと思う。それからも口コミとご紹介の糸は結ばれて結ばれて、コロナ禍でもオンライン公演により結び目は作られて。この度、もやい展で出演させて頂けるご縁はまさに、もやいの結び目に繋がった。そう私は感じています。2021年の今回のもやい展は東京会場という事で、どうしても聴いて欲しい方がいます。もちろん!中村敦夫さんです。あの日、京都でうずくまっていた私に、大きな橋をかけて下さった中村さん。間違ってでもいいから私の朗読『ほんじもよぉ語り』を、聴きにいらしてくれますように!!(笑)この先もずっと掴まえていたい記憶のあれもこれもを、心を込めて。朗読でお届けします。避難先で迎えた5度目の早春。2016年1月の味噌づくり。早朝暗いうちに起き出し炉に火を入れる。大豆を薪ストーブで煮ている。「豆を煮る」が生まれた朝。帰還困難区域内にある父方の先祖の眠る墓地。2019年8月、私は事故後初めて立ち入った。イノシシが掘り返した土を父がクワで均す。すると私が首から下げていた線量計の数値はみるみる上昇。最大で2.8μSv/hに。ここで溢れた想いを書いたのが「墓参り」だ。2020年2月中旬。フォトグラファーの中筋純さんが私の「紅梅の木」を読んだ後、作品の主役である浪江の実家の木の撮影に急行下さった時の一枚。「今は更地となったこの季節の紅梅」を、中筋さんの写真で震災後初めて見る事が出来た。「もやい展と私」もやい展との出会いは最近。2019年3月。金沢21世紀美術館。彫刻家・安藤栄作さんの作品を観に行った。そこが、もやい展だった。思うがままを許された展示。常識破りの祭典。もやい展は超芸術祭だった。中筋純さんとの出会いはその1年前。2018年3月の御殿場。部屋を取り巻くような帯状の写真。そこは浪江町の新町通り。見慣れた看板の文字。建物の配列。年毎に同じ地点で撮影されている。私の生まれ育った町。嬉しくて2011年3月までの記憶と照合。年を追うごとに増す写真への違和感。自分の無力さを突き付けられている。頭の中に写真から消えた風景を探しても私の残像は存外に頼りなかった。長い時間が過ぎてしまったのだ。現実の景色が消えるのは切ない。その上まさか自分の記憶の景色まで消えかけているなんて情けない。浪江町の中心街(上:2014年 下:2018年))写真にビンタされた。私は。そして写真に諭された。私は。それは絶望の直後に湧く希望。中筋純さんの写真が故郷だ。故郷に帰りたくなったなら、純さんの写真に。飛び込めばいいんだ。井上美和子プロフィール福島県浪江町生まれ。文筆朗読家。詩人。ギター屋の嫁。原発賠償関西訴訟一次原告。2011年3月12日、ギター職人の夫・子供2人と共に南相馬市から避難。家族4人で京都府綾部市に暮らす。「喪失の先に浮かび上がるぬくもり」失望と無念の中で去来してくる想い出のふるさと。避難後の関西での出逢いや気づき等をモチーフに書き留めてきた。2019年秋それらを台本として『ほんじもよぉ語り』朗読公演(井上美和子)を始動。理不尽な現実を泣き笑いの記憶に溶かし込んだ作風が持ち味。2020年のコロナ禍はWEB開催の朗読会実施。9月からリアル公演を再開。文筆朗読を通じ、聴く人の胸に福島県人の風を送り続ける。作品には浪江町津島のばあちゃんの味噌作りの記憶「豆を煮る」や原発事故避難当初置き去り余儀なくされた飼い犬ぺぺの奇跡「告白」等私の母校。2020年12月、浪江中学校の解体は既に決まっている。事故後最初で最後の訪問は、校舎との別れの時間。「学校と放送」に書いた校舎だ。