皆さん、こんばんは!監督の古新です。早いもので今年も残すところあとわずかとなりましたね。皆さんは如何お過ごしでしょうか。一年振り返ると、さまざまな出来事があったことと思います。小生は昨年の年越しの際には、今年は何が何でも映画の撮影を行うぞという気持ちで年を迎えました。脚本の執筆を連日行いながら、2022年の春あたりに撮影ができるように出張を繰り返しながら、スポンサー様との交渉を行ってきました。実はコロナの関係もあり、2020年〜2021年は、小生の方で受けていた講演のご依頼が軒並みキャンセルになり、会社の売り上げが激減の中、なんとか映画の撮影にこぎつけようと、連日、この作品のことで駆け回っていました。企画者の松野さんは、パーキンソン病を抱えている当事者で、ご高齢でもあることから、松野さんにできるだけ負担をかけてはいけないと、必死に様々な会社さんに訪問しては、この映画の使命をお伝えしていました。そして、なんとかギリギリ撮影ができる予算が集まった今年の3月。協力プロデューサーの小川さんから突然、電話があり、松野さんが急逝したとのご連絡をいただきました。今年の1月あたりから体調が芳しくない松野さんの様子を見ていて、小生はうっすら死期を感じ取っていたので、その時は、松野さんに対して、自分の人生に本当によく向き合ったよ、という労いの気持ちでいっぱいでした。松野さんのご家族様の心情に寄り添いながら、葬儀にも列席させていただき、それから、小生がこの作品に向き合っている意味は何なのかを連日考えるようになりました。難病というのは、誰もなりたくてなっている人はいないはずです。そんな想定外の出来事をどう向き合いながら人間は生きていくのか。その命題を、松野さんは、自身の死をもって小生に投げかけてくださったのだと考えました。人は必ず亡くなります。仕事人間だった松野さんは、現役当時は職場と家庭だけしか居場所がなく、笑顔が全くなかったと息子さんは仰られました。そんな松野さんが映画製作をするようになって、「自分はいま、映画を創っているんだ」と誇り高く仰られて、このような映画を見せられるようになったのです。思い返せば、自分の父親も松野さんと同じような仕事人間。だから深夜帰ってくる父親の形相は鬼のように怖く、小さい頃の小生はものすごく彼に怯えていたのでした。ただ、映画を観ている時の父親の表情はとても柔和で温かったのです。「これが素の父親なんだ」そう思うと、映画には素の自分を取り戻る浄化の力があるのではないかと思ったのです。そして、それを思い返した時、自分が小さい頃に怯え恐れていた父親像を今回の主人公に当てようと考えて、今まで書いていた脚本の不動産会社の総務部の社員という設定を変えて、建設会社の一級建築士という小生の父親の職業とほぼ同じ設定で脚本を書き直したのでした。脚本は、この2年間で15名近くのパーキンソン病の方々を取材し、その方々の生の声や実体験を物語に組み入れました。ですので、この脚本はある種、パーキンソン病当事者の方々の代弁ができているものだと考えています。そして、松野さんから託された「新しいことを挑戦するのには年齢は関係ないこと」「職場や家庭以外にも仲間を見つけて、思い切り人生を愉しむこと」「悩みは一人で抱えるものではなく、その仲間たちと共有してみんなで乗り越えていくこと」を物語の中にたくさん吹き込みました。そして、そこから、この企画に共鳴をしてくれると思ったスタッフさん、キャストさんたちと連日この映画の意義を伝え、語り合い、チームが編成されていきました。社会的にはコロナの状況が少し落ち着いた5、6月でしたので、他の映画の撮影も急に再開されていて、スタッフ編成にはとても苦労を要しましたが、最後には素晴らしい仲間たちが多数集ってくださり、夏野撮影を敢行することができました。今回主演を担う樋口了一さんは、パーキンソン病を抱えながら、演技初挑戦に挑まれました。小生が樋口さんを起用した理由は、松野さんが映画にチャレンジした勇気とパーキンソン病当事者だからこそ知りうる苦悩や葛藤をダイレクトに表現できると考えたからです。ラストシーンは、大円団のダンスシーンがあり、樋口さんはダンスの練習も3週間みっちり向き合われていて、表には見えなお影の努力は凄まじいものだったと思います。樋口さんのこうした行動は、きっと松野さんの想いや関わる関係者の熱力によって生み出されたものなのかもしれません。そして、その樋口さんの熱心な活動に、スタッフもキャストも絆されて、言葉にできない連帯感が現場には生まれました。撮影現場でも当然さまざまなトラブルは多々押し寄せました。そのトラブルが訪れるたびに自分は、これは自分が乗り込めるために訪れている大切な試練なんだ、と如何に他人に責任転嫁せず、自分の人生の学びであるかと考え向き合ってきました。言葉にできない過酷な状況を引き受けたのは、自分の運命であり、試練を乗り越えた先に必ず、何か見えるものがある。現場では、小生もまだまだ至らなく、時として抑えていた感情が溢れ出して癇癪を起こしたり、何でこんなふうになるんだと陰で泣き喚いたりもしました。その度に、支えてくれる仲間たちや、親身になってこの状況を考えてくれる愛方に対して、感謝を忘れずに気持ちを保ってきました。樋口さんやスタッフがコロナに罹り、撮影の一部た一ヶ月延期となり、資金も一千万円近くの追加を余儀なくされました。ですが、これで自分が死ぬわけではない。自分にはこんなにも素晴らしい仲間たちが支えてくれているんだと、ないものではなくて、あるものに目を向けることを意識してまいりました。結果として、最後はなんとかギリギリ撮影を終えることができ、現在は、音楽を制作したり、整音やVFX(視覚効果)の作業をしております。大晦日、一年を振り返って、小生はこの映画を通じてさらに成長させていただきました。それは、「訪れる問題とは、決して問題ではないということ」です。自分が正しいと思い込んでしまうと、自分の考えていることと違うことが起きたときに、そのことを否定してしまったり、ネガティブなイメージを浮かべてしまうのだと思います。すると、それがさらにネガティブな結果を生み出してしまうのだと思いました。自分が今向き合っていることに対して、思いがけないことが起きたときに、それを否定したり、恨むのではなくて、「大丈夫。限られた人生を愉しむ授かりものなんだ」というふうにポジティブなイメージを持つことが大切なんだと感じています。小さな世界で捉えてしまうと、どうしても自分の見ている世界が全てであると思いがちですが、私たちは宇宙という広大な空間の中に存在する小さな存在なのです。だからこそ、目に見ているものだけで物事を考えるのではなく、さまざまな人たちがこの作品に関わってくれて、想いを届けてくれて、今の活動が存在するんだと想像するようにしています。そんな祈りや感謝の気持ちが、一見すると動かせないような大きな出来事を見事に推し進めてくれるきっかけになるんだと感じています。それが今日現在の気持ちであり、そしてこの気持ちは映画「いまダンスをするのは誰だ?」にもふんだんに込めています。そして、この映画のフィロソフィでもある「諦めることを諦めた」は、樋口さんから拝借した言葉でもあり、この映画の魂を見事に言い表しているのだと感じています。どんな状況が訪れても、最後には必ず光がやってくる。だからこそ、結果ではなくてそのプロセスを大切に、自分の心赴くままに人生を進んで行きたい、そして、そんな人が増えてもらいたい。一度きりの人生、そして他人とは一緒にならない人生だからこそ、自分の心が歓ぶ選択をしてもらえるように、この映画は必ず来年完成して、公開できるように活動していきます。今日の小生がいるのは、クラウドファンディング並びに日頃から応援してくださる多くの方々のお陰です!クラウドファンディングのリターンは、来年必ずお届けしますので、もう少しだけお時間を賜りたく存じます。来年も皆さんお一人おひとりが笑顔と感謝に包まれながら、益々ご活躍されていきますことを心より祈っております。映画「いまダンスをするのは誰だ?」監督・古新 舜




